黒い神様と死神さん

優戸

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第二夜の弍

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 鴉だろうか、不気味な嗄れ声を響かせているのは。

 鬱蒼と茂る木々とシダ植物。苔むした地面から隆起している、剥き出しの木の根。
 男はその股に腰をかけて、昼間でも薄暗い森の中、何をするでもなくぼんやりと時間を過ごしていた。

 ここに来てから、どれだけの時間が経っただろうか。
 もう必要ないと覚悟して、時計も携帯電話も、自宅のマンションに置いてきてしまった。だから男には今、己の立たされた刻を知る術がない。葉を透かして届くほんの僅かな光も、時刻を示すには役立たずだった。
 勤めていた会社が倒産し、生活が貧窮してきたとき、男は決意したのだ。
 それは、世に言う口減らしというやつなのだろう。残してきた家族は、自分の部屋に置いた遺書を読んでくれただろうか。倒木でこしらえた足場と、道すがらホームセンターで購入したロープは、もう準備万端だと言わんばかりの体で、そこに気味悪く佇んでいる。
 鴉が急かすかのように、忙しなく鳴き始めた。もういいか、今更死ぬのが怖いわけでもない。男は立ち上がり、尻に付いた土を手で払う。のっそりと背中を曲げて、足場を上ると、生気を無くした顔をロープの輪にくぐらせた。
 あとは、この足を軽く蹴ってやりさえすれば、すべてが終わる。
 流石に生唾を飲み込んだ。
 だが、もう後には引き返せないのだ。
 意を決して、男が倒木を蹴ろうとした、その時だった。

「愚かなことよ。そのまま死んだとて、利が生まれるわけもなし」

 驚いて、一歩進もうとしていた足が止まった。
 見るといつの間にやら、全身黒い成りをした少年が独り、男の眼前に立っていた。
 前触れのなさに、開いた口が塞がらない。
 眼を丸くしたまま固まってしまった男を余所に、少年は淡々と言葉を続けた。
「死とは、誰しも平等に与えられるという。それは確かに安息だろう。だが、そうして自ら命を絶つことで、安息以外に其方が手に出来るものは何だ?」
「な、にとは……」
 問い掛けの意味を図りあぐねて、男は眼をしばたたかせた。
 光もろくに届かない、苔むした薄暗い森。そんな中、少年の存在感は妙にこの空間に馴染んでいた。ここは国内でも名の知れた、自殺の名所だ。この黒装束の少年も、おそらく生きた人間ではないだろうと、男は直感で悟る。
 少年は、ゆっくりとした歩調で男に近付いてくる。
 幽霊の類なら、もう少し不気味だろうに、やけに人間染みていることに、内心首を傾げた。

「だが、其方の場合、『死』は必ずしも安息ではない」

 男の肩がビクリと震える。
 少年は、その陶器のような白く細身な手を伸ばし、己を凝視する男の頬へと触れた。
 やけに冷たい。
 男の背筋が粟立った。

「実のところ、『死』とは決して平等ではない。本懐を遂げた安らかな死もあれば、志半ばで訪れる死もある。眠るように死ねる者ばかりではなく、もがき苦しみ、絶望でこの世を呪い、陰惨な死を迎える者が殆どだ。そして、後者の死に様は、途轍もなく苦痛だぞ。それこそ、死してすらなお、その苦しみを忘れられぬ程に……。そして其方のような者が死する時、魂に焼き付いた記憶は、筆舌に尽くし難いものとなる」

 男の喉が鳴る。
 頬を撫でる手もそのままに、少年はその底知れぬ瞳の奥から、男を蔦のように絡め取った。

「自ら命を絶とうとする者にとって、『死』とは『安息』ではない。己の死に際を、永久に繰り返す──この世の『地獄』だ」

 男は、少年の瞳から眼を離せなかった。
 何故そのようなことが分かるのだと問い質したくもあったが、少年の放つ、此の世ならざる雰囲気が、無意識の内にそれを納得させる。
「今死んだとて、其方の家族を悲しませるだけで得るものはない。なれば、為すべき事は何か、もう明白だろう?」
「……キミは、一体……」
 男が戸惑いがちに尋ねるも、少年は何も答えずにただ、その人形のように整った顔を微笑ませた。
 しばし少年を見詰めていた男は、やがてふっと顔をほころばせ瞑目する。
「そうだな。こんな時だからこそ、俺が支えてやらなけりゃ……」
 少年が、男の言葉に頷こうとした。

 その時。

 突如男の躯がガクンと揺れた。
 未だロープに掛けたままだった首が、踏み台を失った体重に引かれて激しく喰い込む。
 苦しさに、男が狂ったように脚をバタつかせる。爪で首を絞めるロープを掻き毟るが、当然の如くそれは外れない。

「──?!」
 何が起こったのか、理解出来ずに少年は瞠目した。やがて、緩やかに男の動きが停止する。
 名残でゆらゆら揺れる躯を、呆然と見詰めていた。
 すると男の成れの果て、その後ろから声が聞こえてきた。
「呆気ないもんだな……。この男、口減らしだなんだのと尤もらしいことを言って、責任から逃れたかっただけじゃねーか。こんな卑怯者を救済して何になるよ、解せない奴だな」
 少年が視線を遣ると、声の人物らしき者が闇に紛れ、足場だった丸太を足蹴にして立っていた。紺色の髪を高くひとつに縛っている、甘い顔を、憮然としかめて。
 少年はそれを認めた瞬間、頭に血を昇らせると、足早に駆け寄り相手の胸倉を掴んだ。背後の苔た樹に背中を強打して、軽く咳き込む。
「何て事をしてくれる! それでも神か!」
 その激昂を意外に思いながらも、ディアは眼を半眼にして少年を睨んだ。
「なりたくて、神なんぞになった訳じゃない。お前こそ何のつもりだ。死神はただ、死せる魂を迎えて送り届けるのが仕事だ。救ってやるのは、チカラを持った同じ人間の仕事だぞ」
「そのようなこと、他者にとやかく言われる筋合いは無い! 此方こなたの為すことに口を挟まないで頂きたい!」
 怒りに彩られた瞳が、熱を孕みディアを睨み付ける。その有無を言わさぬ意思の強さに唖然として、神はその場に縫い付けられた。
(こいつは、死神だろう。なのに人を慈しんでいるのか?)
 やがて俯いた少年は、そっと手を放すと、悄然と呟いた。
「せめて……家族に別れを告げさせてから連れて行きたかったのに」
 そうして、少年がぶら下がった男の亡骸に手を翳すと、亡骸の輪郭が曖昧になり、ふっと淡い燐光を放つ球体に変化する。そのまま空中を漂い、引き寄せられるように少年の手の平に納まった。後にはただ、時を経て風化したロープが遺されるのみ。
 草むらには、白骨と化した亡骸が寂しげに転がっている。
 それを暫し見詰めた後、死神の少年は身を翻し、ディアに背を向けた。
「見付けたからには、この男をこのまま天界への扉まで連れて行きます。だが神よ、此方は貴方の行いを許しませぬ。いたずらに、人の命を弄ぶものではない」
「ま、待てっ」
 そのまま去ろうとする背中を、何故か呼び止めていた。
「俺はマリスだ……お前の、名は」
 訊きたいことは、他にも山程あった。だが、次も会いたい、そんな想いが過ぎった時に、手掛かりは少しでも多い方がいいと思ったのだ。
 そんなもの知らなくとも、見付けることなど出来るのに。
 少年が肩越しに振り返る。先程の熱が嘘のように、冷え切った瞳を覗かせた。


「──アライブ」


 それだけ告げると、漆黒の背中は掻き消えた。風が巻き起こることもなく、ただ森のざわめきだけが辺りに響く。
 残されたディアは、そのまま樹にもたれ掛かりながら、胸を掻き毟られる想いで天を仰いだ。少年の残した言葉を胸中で反芻する。
(『Alive』……、死神が?)
 人間を愛すべき自分よりも、死に寄り添う死神が、「生」を愛しているというのか。
 咄嗟に訊ねなければならないと思ったのはこの為か。
(何故だ。何故、あんなにも醜いものを愛せるんだ。何故──……)

 胸に到来する感情を理解し切れずに、両手で顔を覆った。

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