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第4話:そのバグ(失敗)は、どんなアルゴリズムよりも愛おしかった
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彼女(ミナミ)の完璧な「愛のアルゴリズム」に、俺の精神は限界寸前だった。
すべてが予測済み。すべてが最適解。
それはまるで、攻略本を見ながらプレイされているRPGの主人公になった気分だ。
だから今日、俺は彼女を「攻略本(マニュアル)の圏外」へ連れ出すことにした。
「ここに入ろう」
俺が足を止めたのは、駅前の路地裏にある中華料理屋『昇竜軒』。
看板は油で黒ずみ、換気扇からは茶色い煙が吐き出されている。
俺の過去の行動データ(おしゃれカフェ巡り)からは絶対に予測できない、汚くて美味い店だ。
さあ、どうする?
「生理的に無理です」と拒否するか?
それとも「こういう店も風情がありますね」と嘘をついて適応するか?
彼女は看板を見上げて、フリーズした。
瞬きが止まる。瞳孔が開く。
『エラー。該当データなし。推奨アクション不明』
そんなログが見えるようだ。
「……えっと、中華、ですか?」
「ああ。嫌か?」
「い、いえ! 篠崎さんが選んだお店なら、きっと素敵です!」
引きつった笑顔。
白いワンピースで来るんじゃなかったな。
俺たちは暖簾をくぐった。
店内は期待通りの惨状だった。
床は油でヌルヌルし、歩くたびに「ネチャ」と音がする。
隣の席では赤ら顔のオヤジたちが競馬新聞を広げている。
彼女の完璧な所作が、音を立てて崩壊し始めた。
まず、着席。
丸椅子にハンカチを敷こうとして、手が滑ってハンカチを床(ネチャ)に落とす。
「あ」
拾おうとして屈み、テーブルの裏のガムに髪が引っかかる。
「いっ」
次に、注文。
壁のメニューを見るが、漢字が読めないらしい。
『木耳卵』『雲白肉』
お洒落なカフェのメニューには存在しない、荒々しい単語の羅列。
「……じゃあ、同じもので」
思考停止したAIの最終手段、「同調(ミラーリング)」。
そして、ラーメンと餃子が運ばれてきた時、決定的な「バグ」が発生した。
彼女は「取り分けなきゃ」というマニュアルに従い、餃子のタレを作ろうとした。
だが、この店の醤油差しは、蓋が緩いことで有名だ。
彼女が傾けた瞬間。
ボトッ。
蓋が外れ、大量の醤油が小皿から溢れ出し、跳ねて、彼女の純白のワンピースに黒いシミを作った。
時が止まった。
「……あ」
彼女の顔から、血の気が引いていく。
「どうしよ……」
彼女の手が震える。
「シミ……取れない……クリーニング……時間外……」
ブツブツと呟き始め、やがてその大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ出した。
「ごめんなさい……! 私、ドジで……こんなの、予習してなくて……! 『初デート服は白が最強』って本に書いてあったのに……汚い……嫌われちゃう……」
彼女は顔を覆って泣きじゃくった。
鼻水が出て、完璧だった前髪は汗で張り付いている。
そこには、「理想の彼女」の面影は微塵もなかった。
ただの、パニックになった女の子だ。
――なんだ。
俺の胸の奥から、温かいものが込み上げてくる。
AIなら、醤油で泣かない。
詐欺師なら、こんなミスは「笑い話」に変えてリカバリーする。
彼女は、ただ必死だったのだ。
俺に好かれたくて、分厚いマニュアルを丸暗記して、慣れないヒールで武装して。
そして今、そのメッキが剥がれて、一番見られたくない「素の自分」を晒している。
「……はは」
俺の口から、乾いた笑いではない、本当の笑いが漏れた。
「……え?」
「いや、ごめん。……なんか、安心した」
俺は自分のハンカチを取り出し、彼女の服のシミを拭いた。
「AIじゃなかったんだな、お前」
「へ? えーあい?」
「なんでもない。……ほら、食おうぜ。餃子、冷める」
彼女は泣きはらした目で俺を見つめ、それから「……うん」と鼻をすすった。
化粧は崩れ、服は醤油臭い。
だが、今の彼女は、今まで見たどの瞬間よりも「実在」していた。
俺はこの瞬間、彼女の「完璧さ」ではなく「不完全さ」に、落ちてしまったのかもしれない。
それは、どんな高度なアルゴリズムも計算できない、人間特有のバグ(恋)だった。
(つづく)
すべてが予測済み。すべてが最適解。
それはまるで、攻略本を見ながらプレイされているRPGの主人公になった気分だ。
だから今日、俺は彼女を「攻略本(マニュアル)の圏外」へ連れ出すことにした。
「ここに入ろう」
俺が足を止めたのは、駅前の路地裏にある中華料理屋『昇竜軒』。
看板は油で黒ずみ、換気扇からは茶色い煙が吐き出されている。
俺の過去の行動データ(おしゃれカフェ巡り)からは絶対に予測できない、汚くて美味い店だ。
さあ、どうする?
「生理的に無理です」と拒否するか?
それとも「こういう店も風情がありますね」と嘘をついて適応するか?
彼女は看板を見上げて、フリーズした。
瞬きが止まる。瞳孔が開く。
『エラー。該当データなし。推奨アクション不明』
そんなログが見えるようだ。
「……えっと、中華、ですか?」
「ああ。嫌か?」
「い、いえ! 篠崎さんが選んだお店なら、きっと素敵です!」
引きつった笑顔。
白いワンピースで来るんじゃなかったな。
俺たちは暖簾をくぐった。
店内は期待通りの惨状だった。
床は油でヌルヌルし、歩くたびに「ネチャ」と音がする。
隣の席では赤ら顔のオヤジたちが競馬新聞を広げている。
彼女の完璧な所作が、音を立てて崩壊し始めた。
まず、着席。
丸椅子にハンカチを敷こうとして、手が滑ってハンカチを床(ネチャ)に落とす。
「あ」
拾おうとして屈み、テーブルの裏のガムに髪が引っかかる。
「いっ」
次に、注文。
壁のメニューを見るが、漢字が読めないらしい。
『木耳卵』『雲白肉』
お洒落なカフェのメニューには存在しない、荒々しい単語の羅列。
「……じゃあ、同じもので」
思考停止したAIの最終手段、「同調(ミラーリング)」。
そして、ラーメンと餃子が運ばれてきた時、決定的な「バグ」が発生した。
彼女は「取り分けなきゃ」というマニュアルに従い、餃子のタレを作ろうとした。
だが、この店の醤油差しは、蓋が緩いことで有名だ。
彼女が傾けた瞬間。
ボトッ。
蓋が外れ、大量の醤油が小皿から溢れ出し、跳ねて、彼女の純白のワンピースに黒いシミを作った。
時が止まった。
「……あ」
彼女の顔から、血の気が引いていく。
「どうしよ……」
彼女の手が震える。
「シミ……取れない……クリーニング……時間外……」
ブツブツと呟き始め、やがてその大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ出した。
「ごめんなさい……! 私、ドジで……こんなの、予習してなくて……! 『初デート服は白が最強』って本に書いてあったのに……汚い……嫌われちゃう……」
彼女は顔を覆って泣きじゃくった。
鼻水が出て、完璧だった前髪は汗で張り付いている。
そこには、「理想の彼女」の面影は微塵もなかった。
ただの、パニックになった女の子だ。
――なんだ。
俺の胸の奥から、温かいものが込み上げてくる。
AIなら、醤油で泣かない。
詐欺師なら、こんなミスは「笑い話」に変えてリカバリーする。
彼女は、ただ必死だったのだ。
俺に好かれたくて、分厚いマニュアルを丸暗記して、慣れないヒールで武装して。
そして今、そのメッキが剥がれて、一番見られたくない「素の自分」を晒している。
「……はは」
俺の口から、乾いた笑いではない、本当の笑いが漏れた。
「……え?」
「いや、ごめん。……なんか、安心した」
俺は自分のハンカチを取り出し、彼女の服のシミを拭いた。
「AIじゃなかったんだな、お前」
「へ? えーあい?」
「なんでもない。……ほら、食おうぜ。餃子、冷める」
彼女は泣きはらした目で俺を見つめ、それから「……うん」と鼻をすすった。
化粧は崩れ、服は醤油臭い。
だが、今の彼女は、今まで見たどの瞬間よりも「実在」していた。
俺はこの瞬間、彼女の「完璧さ」ではなく「不完全さ」に、落ちてしまったのかもしれない。
それは、どんな高度なアルゴリズムも計算できない、人間特有のバグ(恋)だった。
(つづく)
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