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Day 3:さよなら、「彼の痕跡」に縋っていた私
朝。というには少し遅い時間。
窓の外では、雲が重く垂れ込めていた。灰色の空が、部屋の中まで色を奪っていく。
胃が空っぽのまま、キッチンに立った。何かを口にしなければ、と思った。身体が、生きることを諦めてしまいそうだったから。
冷蔵庫のドアに手をかける。
重たい扉を開けると、庫内の白いLEDライトが、薄暗い部屋の中でぱっと世界を照らし出した。
その人工的な光の中に、彼がいた。
◇
正確には、彼の痕跡が、そこら中に散らばっていた。
彼が好きだったクラフトビールの缶。週末の夜に二人で飲むはずだったもの。
彼が必ず買ってくる、少し高いクリームチーズ。
そして、彼の作った手作り味噌の瓶。
ガラス瓶のラベルに、彼の字で書かれた日付が見える。賞味期限は、明日。
私たちの関係のように。
それは、つい数日前までここに彼がいたという、動かぬ証拠。まるで、小さなタイムカプセルのようだ。
私たちの「昨日」が、この冷たい箱の中に閉じ込められている。
◇
味噌瓶を手に取る。ずっしりとした重み。
食べるか、捨てるか。
その二択が、まるで人生の重大な岐路のように思えた。
食べることは、彼の記憶を私の一部として消化すること。
捨てることは、彼の存在を私の日常から完全に消去すること。
どちらも、今の私にはあまりに残酷な選択だった。
冷蔵庫から漏れる冷気に肌が粟立つのも構わず、私はただ、その光の中に立ち尽くしていた。
何分そうしていただろう。モーターの唸りが、胸の鼓動を数える。
やがて、私は味噌瓶を冷蔵庫に戻した。
捨てる勇気が、なかった。
◇
小さな土鍋に水を張り、昆布を入れる。
彼は、出汁の味にだけは妙にこだわりがあった。
彼の作った味噌を溶く。わかめと油揚げを入れる。彼が好きだった味噌汁。
コンロの青い炎が、鍋の底を静かになめている。
湯気が立ち上り、味噌の香りがふわりと部屋に広がった。それは、いつもと何も変わらない、懐かしい匂いだった。
食卓に、お椀を一つだけ置く。
一口、すする。
味は、同じだった。昨日までと同じ、優しい味。
でも、だからこそ、胸が締め付けられた。
美味しい、と感じるほどに、隣の空席が際立って見えた。
食卓に彼がいないという事実だけが、宇宙のように広大で、静かで、冷たい。
◇
食べ終わった後、シンクでお椀を洗いながら、堪えきれずに涙がこぼれた。
蛇口から流れる水の音に紛れて、嗚咽が漏れる。
温かいはずの味噌汁が、身体の芯をこんなにも冷やしてしまうなんて。
冷蔵庫をもう一度開ける。ビールとチーズは、まだそこにいる。
でも、今日はもう、これ以上は無理だった。彼の記憶に、これ以上は触れられない。
そっとドアを閉めると、庫内の光が消え、彼の痕跡は再び静かな闇に包まれた。
捨てるには、まだ少しだけ、早い気がした。
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