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第5話:嫉妬は統計外
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週末、佐久間の歓迎会が開かれた。
店に向かう途中、僕の脳内では、歓迎会の座席配置に関する、無数のシミュレーションが繰り返されていた。
(最適解は、美咲の隣。最低でも、斜め前。最悪のケースは、佐久間と美咲が隣で、俺が対角線上……)
会場の洒落たダイニングバーに足を踏み入れた瞬間、僕のシミュレーションは、最悪のケースが現実になったことを告げた。
「よう、相葉くん! こっちこっち!」
主役であるはずの佐久間が、店の入り口で幹事のように振る舞い、僕を手招きする。そして、ごく自然に、僕をテーブルの最も端の席へと誘導した。
「悪いな、そこしか空いてなくて」
そんなはずはない。まだ席は半分も埋まっていない。そして、佐久間が座ったのは、テーブルの中央。その隣には、すでに美咲が座っていた。完全に、計算された配置だ。
(……やられた)
僕は、孤立した席で、ただビールグラスを傾けることしかできなかった。陽気なパーティーポップが流れる中、佐久間は完璧な主役を演じている。
第一ラウンド。佐久間は、過去のエピソードで場を支配した。
「美咲は大学の頃からすごかったよな。プレゼンさせたら、教授も黙らせるくらい」
「やめてくださいよ、先輩。昔の話は」
「はは、照れるなって。でも、相変わらず仕事に夢中なんだな。少しは息抜きも覚えないと」
その会話が、僕の心をじわじわと蝕んでいく。僕の知らない、美咲の過去。僕の入り込めない、二人の空気。
第二ラウンド。同僚たちが、僕をいじり始めた。
「相葉くんは、趣味とかないの? いつもデータばっか見てるイメージだけど」
「……別に。強いて言うなら、アルゴリズムの最適化、とかですかね」
「うわ、つまんねー!」
同僚たちの笑い声。佐久間が、僕に同情するような視線を向ける。その全てが、僕のプライドを削り取っていく。
第三ラウンド。僕は、自分の感情をデータに変換することで、現実から逃避しようとしていた。
(アルコール摂取量と心拍数の相関グラフを作成中。変数:佐久間の発言。トリガー:美咲の笑顔。結果:俺の心の乱れ。結論:この飲み会は、俺の感情システムにとって、最大級の負荷テストだ)
宴もたけなわの頃、誰かがカラオケをしようと言い出した。二次会の会場へ移動する人の波。僕は、このまま帰ってしまおうか、と立ち上がった。
グラスの底に、逆さまの自分の顔が揺れていた。泡が弾けるたび、理性がひとつ消えていく。
「……どこ行くのよ」
不意に、腕を掴まれた。振り返ると、頬を上気させ、少し潤んだ瞳の美咲が立っていた。
「……別に。少し、空気を吸ってくるだけだ」
「ふーん……」
美咲は、僕の腕を掴んだまま、離さない。それどころか、彼女の身体が、ふらり、と僕の方へ傾いてきた。
「わっ……!」
支える。香りが理性溶かす。心拍、爆発寸前。
甘いアルコールの香りと、彼女のシャンプーの香りが、混じり合って僕の思考を停止させる。
「……ねえ」
僕の肩に、美咲がこてん、と頭を乗せてきた。その温もりが、シャツ越しに直接、心臓に伝わってくる。
「……あの夜のこと、後悔してる?」
耳元で、吐息と共に囁かれた言葉。
(聞いちゃった。陽太に、聞いちゃった。怖い。でも、聞きたかった。あんたの、本当の気持ち……)
美咲は、自分の心臓の音が、陽太に聞こえてしまうのではないかと、それだけを恐れていた。
あの夜。出張先の、新幹線でのキス。僕が「バグだ」と切り捨て、彼女が「なかったこと」にした、あの瞬間。
「……さあな」
僕は、笑って誤魔化そうとした。だが、声が震えているのが、自分でも分かった。
後悔してる?馬鹿な。するはずがない。あれは、ただの事故で、エラーで……。
なのに、あの時の唇の感触を、データで封印したはずの元カノの記憶が、なぜ今、蘇ってくるんだ。痛みが、蘇る。
「……後悔してたら」
僕の口から、勝手に言葉がこぼれ落ちていた。
「こんなに、息、乱れてない」
美咲の顔が、ゆっくりと上がる。至近距離で、僕たちの視線が絡み合う。彼女の瞳が、何かを求めて、潤んでいる。この乱れ、恋の閾値。データじゃ測れない熱量だ。
(陽太の息の乱れ、酔いのせいじゃない。本気、なの……?)
美咲は、答えが嬉しいのに、怖かった。
(ああ、ダメだ。これ以上は……)
僕の理性が、最後の抵抗を試みた、その時。
「おーい、美咲! 相葉くん! 何してんだ、置いてくぞ!」
佐久間の、明るい声。彼は、カラオケのパンフレットを片手に、僕たちを見ていた。その笑顔は、いつも通り爽やかだったが、その目の奥には、またあの、冷たい光が宿っていた。
「デュエットしようぜ、美咲。俺たちの十八番、覚えてるだろ?」
「あ……はい」
美咲は、はっと我に返ると、名残惜しそうに僕から身体を離した。
(心は、陽太の震え声に残ってるのに……)
彼女は心の中で呟きながら、佐久間の方へ歩いて行ってしまう。
二次会のカラオケボックス。派手な照明が回る中、佐久間と美咲が歌うデュエットが始まった。甘いラブソング。僕の知らない、二人の「十八番」。
《すれ違うほどに、惹かれていくなんて》
歌詞が、俺の呼吸を奪った。
歌詞の断片が、僕の胸に突き刺さる。佐久間が、歌いながら一瞬だけ、美咲の視線が僕の方に逸れるのに気づき、その完璧な笑顔を、僅かに強張らせたのを、僕は見逃さなかった。
一人、その場に残された僕の胸に、ずしりとした重い感情がのしかかる。
(嫉妬は、副作用なんかじゃない。主作用だ。この感情こそが、俺の心を動かす、メインエンジンだ)
僕は、ポケットの中で、固く拳を握りしめた。データじゃない。理屈でもない。
ただ、守りたい。
あの笑顔を、あの温もりを、他の誰にも、渡したくない。
その時、ポケットのスマホが震えた。ディスプレイには、緊急度の高い赤文字の通知。
【件名:緊急アラート:『リンクス』感情相関データに異常検知。重大なバグが発生しました】
酔いが、一気に醒めていく。甘い恋の沸騰点から、冷たい現実へと、一瞬で引き戻された。
(感情相関データ……? まさか、俺たちの……)
(第五話 終)
店に向かう途中、僕の脳内では、歓迎会の座席配置に関する、無数のシミュレーションが繰り返されていた。
(最適解は、美咲の隣。最低でも、斜め前。最悪のケースは、佐久間と美咲が隣で、俺が対角線上……)
会場の洒落たダイニングバーに足を踏み入れた瞬間、僕のシミュレーションは、最悪のケースが現実になったことを告げた。
「よう、相葉くん! こっちこっち!」
主役であるはずの佐久間が、店の入り口で幹事のように振る舞い、僕を手招きする。そして、ごく自然に、僕をテーブルの最も端の席へと誘導した。
「悪いな、そこしか空いてなくて」
そんなはずはない。まだ席は半分も埋まっていない。そして、佐久間が座ったのは、テーブルの中央。その隣には、すでに美咲が座っていた。完全に、計算された配置だ。
(……やられた)
僕は、孤立した席で、ただビールグラスを傾けることしかできなかった。陽気なパーティーポップが流れる中、佐久間は完璧な主役を演じている。
第一ラウンド。佐久間は、過去のエピソードで場を支配した。
「美咲は大学の頃からすごかったよな。プレゼンさせたら、教授も黙らせるくらい」
「やめてくださいよ、先輩。昔の話は」
「はは、照れるなって。でも、相変わらず仕事に夢中なんだな。少しは息抜きも覚えないと」
その会話が、僕の心をじわじわと蝕んでいく。僕の知らない、美咲の過去。僕の入り込めない、二人の空気。
第二ラウンド。同僚たちが、僕をいじり始めた。
「相葉くんは、趣味とかないの? いつもデータばっか見てるイメージだけど」
「……別に。強いて言うなら、アルゴリズムの最適化、とかですかね」
「うわ、つまんねー!」
同僚たちの笑い声。佐久間が、僕に同情するような視線を向ける。その全てが、僕のプライドを削り取っていく。
第三ラウンド。僕は、自分の感情をデータに変換することで、現実から逃避しようとしていた。
(アルコール摂取量と心拍数の相関グラフを作成中。変数:佐久間の発言。トリガー:美咲の笑顔。結果:俺の心の乱れ。結論:この飲み会は、俺の感情システムにとって、最大級の負荷テストだ)
宴もたけなわの頃、誰かがカラオケをしようと言い出した。二次会の会場へ移動する人の波。僕は、このまま帰ってしまおうか、と立ち上がった。
グラスの底に、逆さまの自分の顔が揺れていた。泡が弾けるたび、理性がひとつ消えていく。
「……どこ行くのよ」
不意に、腕を掴まれた。振り返ると、頬を上気させ、少し潤んだ瞳の美咲が立っていた。
「……別に。少し、空気を吸ってくるだけだ」
「ふーん……」
美咲は、僕の腕を掴んだまま、離さない。それどころか、彼女の身体が、ふらり、と僕の方へ傾いてきた。
「わっ……!」
支える。香りが理性溶かす。心拍、爆発寸前。
甘いアルコールの香りと、彼女のシャンプーの香りが、混じり合って僕の思考を停止させる。
「……ねえ」
僕の肩に、美咲がこてん、と頭を乗せてきた。その温もりが、シャツ越しに直接、心臓に伝わってくる。
「……あの夜のこと、後悔してる?」
耳元で、吐息と共に囁かれた言葉。
(聞いちゃった。陽太に、聞いちゃった。怖い。でも、聞きたかった。あんたの、本当の気持ち……)
美咲は、自分の心臓の音が、陽太に聞こえてしまうのではないかと、それだけを恐れていた。
あの夜。出張先の、新幹線でのキス。僕が「バグだ」と切り捨て、彼女が「なかったこと」にした、あの瞬間。
「……さあな」
僕は、笑って誤魔化そうとした。だが、声が震えているのが、自分でも分かった。
後悔してる?馬鹿な。するはずがない。あれは、ただの事故で、エラーで……。
なのに、あの時の唇の感触を、データで封印したはずの元カノの記憶が、なぜ今、蘇ってくるんだ。痛みが、蘇る。
「……後悔してたら」
僕の口から、勝手に言葉がこぼれ落ちていた。
「こんなに、息、乱れてない」
美咲の顔が、ゆっくりと上がる。至近距離で、僕たちの視線が絡み合う。彼女の瞳が、何かを求めて、潤んでいる。この乱れ、恋の閾値。データじゃ測れない熱量だ。
(陽太の息の乱れ、酔いのせいじゃない。本気、なの……?)
美咲は、答えが嬉しいのに、怖かった。
(ああ、ダメだ。これ以上は……)
僕の理性が、最後の抵抗を試みた、その時。
「おーい、美咲! 相葉くん! 何してんだ、置いてくぞ!」
佐久間の、明るい声。彼は、カラオケのパンフレットを片手に、僕たちを見ていた。その笑顔は、いつも通り爽やかだったが、その目の奥には、またあの、冷たい光が宿っていた。
「デュエットしようぜ、美咲。俺たちの十八番、覚えてるだろ?」
「あ……はい」
美咲は、はっと我に返ると、名残惜しそうに僕から身体を離した。
(心は、陽太の震え声に残ってるのに……)
彼女は心の中で呟きながら、佐久間の方へ歩いて行ってしまう。
二次会のカラオケボックス。派手な照明が回る中、佐久間と美咲が歌うデュエットが始まった。甘いラブソング。僕の知らない、二人の「十八番」。
《すれ違うほどに、惹かれていくなんて》
歌詞が、俺の呼吸を奪った。
歌詞の断片が、僕の胸に突き刺さる。佐久間が、歌いながら一瞬だけ、美咲の視線が僕の方に逸れるのに気づき、その完璧な笑顔を、僅かに強張らせたのを、僕は見逃さなかった。
一人、その場に残された僕の胸に、ずしりとした重い感情がのしかかる。
(嫉妬は、副作用なんかじゃない。主作用だ。この感情こそが、俺の心を動かす、メインエンジンだ)
僕は、ポケットの中で、固く拳を握りしめた。データじゃない。理屈でもない。
ただ、守りたい。
あの笑顔を、あの温もりを、他の誰にも、渡したくない。
その時、ポケットのスマホが震えた。ディスプレイには、緊急度の高い赤文字の通知。
【件名:緊急アラート:『リンクス』感情相関データに異常検知。重大なバグが発生しました】
酔いが、一気に醒めていく。甘い恋の沸騰点から、冷たい現実へと、一瞬で引き戻された。
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