5 / 69
5話 家族
屋敷の扉を開けると、ひやりとした空気がハリエルを迎えた。
今日のささやかな幸運で温まっていた心が、瞬時に現実に引き戻される。食堂から漏れる光と、食器の触れ合う音。両親が夕食の席に着いているらしかった。
「お帰りなさい、お嬢様」
出迎えたマーサが、ハリエルの手にある市場の紙袋を見て、心配そうに眉をひそめる。
「……旦那様と奥様は、もうお食事を」
「そう。私は後でいただくわ」
ハリエルが自室へ向かおうとした、その時だった。食堂の扉が開き、継母が鋭い声で呼び止めた。
「ハリエル。どこへ行っていたの?そのみすぼらしい袋は何です?」
父親であるエヴァンス子爵も、不機嫌そうに顔をしかめている。かつての栄華を忘れられず、プライドだけが高い父。家の財産を湯水のように使い、贅沢をやめられない継母。
二人にとって、娘が市場へ出向くことなど、家の恥をさらす行為でしかない。
「ご覧の通り、市場で必要なものを。使用人も減りましたし、誰かがやらなければ、生活もままならないですから」
ハリエルの冷静な言葉に、継母は扇子で口元を隠し、侮蔑の視線を投げかける。
「まあ、はしたない。ファーガソン伯爵との婚約が破談になった途端、まるで平民のような真似を……。だからあなたは嫁にも行けないのよ」
「……原因は私の素行ではなく、この家の財政状況でしょう。それに、あちらの不貞が原因だということもお忘れなく」
継母が扇子をぱちんと閉じ、語気を強めて叫ぶ。
「口答えをするものではありません!」
その言葉とほぼ同時に、父親がいらだち混じりにテーブルを拳で叩いた。
「我々がどれだけお前のために心を砕いてきたか!それなのに、お前は家の名誉を汚すことばかり……。そうだ、お前がいつも身につけていた祖母のブローチはどうした?あれさえあれば、当座の金にはなるはずだ。どこへやった?」
父親の目が、金策のことしか考えていないギラついた光を放つ。
継母も「そうですわ、あれを売れば少しはマシなドレスも買えましょうに」と追い打ちをかける。
まさかそれが一度手元を離れ、見ず知らずの獣人の手によって戻ってきたなど、口が裂けても言えるはずがない。
ハリエルはコートのポケットに隠したブローチの硬質な感触を確かめながら、ゆっくりと顔を上げた。
その藍色の瞳には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。ただ、氷のように冷たい決意だけが宿っている。
「人のものを売ろうとする前に自分のものを売ってくださいませ。わたくしは、わたくし自身のやり方で、この家と、わたくしの人生を立て直します。お二人のように、過去の幻影にすがって、現実から目を逸らすつもりは毛頭ございませんから」
それは、事実上の決別宣言だった。
「――失礼いたします」
静かに一礼し、ハリエルは踵を返す。背後で継母が何か叫んでいるのが聞こえたが、もう彼女の耳には届いていなかった。
自室に戻り、扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、ハリエルはその場に崩れるように座り込んだ。
涙は出なかった。ただ、どうしようもないほどの孤独と、それでも消えない反骨心が、胸の中で渦巻いていた。
(……私は、一人で生きていかなければならない)
ポケットの中で、硬質なブローチの感触が確かにある。そして、あの獣人の不器用な優しさが、ふと心をよぎる。
(あの人もまた、孤独なのだろうか)
冷たい部屋の中で、ハリエルは膝を抱え、来るべき朝を待った。それは、これまでの人生に別れを告げ、新たな運命へと歩き出すための、長い長い夜の始まりだった。
自室の扉を静かに閉めると、外の怒声も、食堂のざわめきも、一枚の木の板越しに遠ざかっていく。
ハリエルはそっと窓辺に歩み寄り、重いカーテンを少しだけ開けた。王都の夜は静かで、遠くの街灯がぼんやりと霞んでいた。
コートのポケットからサファイアのブローチを取り出す。その青い光を指先で確かめると、ふと、昼間の出来事が鮮明に蘇る。
「君の瞳と同じ色だ」――
ガイウスの言葉、灰色の瞳の印象が、妙に胸に残る。
(誰かに「似合う」と言われるのはこんなにも…ドキドキして私、馬鹿みたい…)
物思いに耽るうち、廊下からマーサの足音が近づいてきた。
「お嬢様……お湯を淹れてきました」
「ありがとう、マーサ。少しだけ落ち着いたわ」
ハリエルは微笑み、マーサの前でブローチを手のひらに乗せる。
マーサは小声でささやいた。
「その…質屋の話、もう少し詳しく聞かせていただけませんか?その、獣人に目をつけられているんじゃありませんか?お嬢様はお美しいですし、マーサは心配です」
「大丈夫よ。ただ手助けしてくれただけだし、確かに失礼なことをしたからって普通こんな高価なもの贈らないわよね。高位の冒険者みたいだったし稼いではいそうだけど……」
マーサはそれを聞いて余計不安げな顔を浮かべる。ハリエルは彼女の親心にじんわり感謝しながら、マグカップを持ち上げた。
「また会うかどうかもわからないし、問題が起きたらその時考えましょう。」
その晩はなかなか眠れずにいた。
外から、物音。細かな石畳を歩く足音。誰かが夜中に屋敷の門を確かめているような、不安な気配。
ハリエルはベッドに横たわりながら、サファイアの硬い感触を胸元で感じた。
今日のささやかな幸運で温まっていた心が、瞬時に現実に引き戻される。食堂から漏れる光と、食器の触れ合う音。両親が夕食の席に着いているらしかった。
「お帰りなさい、お嬢様」
出迎えたマーサが、ハリエルの手にある市場の紙袋を見て、心配そうに眉をひそめる。
「……旦那様と奥様は、もうお食事を」
「そう。私は後でいただくわ」
ハリエルが自室へ向かおうとした、その時だった。食堂の扉が開き、継母が鋭い声で呼び止めた。
「ハリエル。どこへ行っていたの?そのみすぼらしい袋は何です?」
父親であるエヴァンス子爵も、不機嫌そうに顔をしかめている。かつての栄華を忘れられず、プライドだけが高い父。家の財産を湯水のように使い、贅沢をやめられない継母。
二人にとって、娘が市場へ出向くことなど、家の恥をさらす行為でしかない。
「ご覧の通り、市場で必要なものを。使用人も減りましたし、誰かがやらなければ、生活もままならないですから」
ハリエルの冷静な言葉に、継母は扇子で口元を隠し、侮蔑の視線を投げかける。
「まあ、はしたない。ファーガソン伯爵との婚約が破談になった途端、まるで平民のような真似を……。だからあなたは嫁にも行けないのよ」
「……原因は私の素行ではなく、この家の財政状況でしょう。それに、あちらの不貞が原因だということもお忘れなく」
継母が扇子をぱちんと閉じ、語気を強めて叫ぶ。
「口答えをするものではありません!」
その言葉とほぼ同時に、父親がいらだち混じりにテーブルを拳で叩いた。
「我々がどれだけお前のために心を砕いてきたか!それなのに、お前は家の名誉を汚すことばかり……。そうだ、お前がいつも身につけていた祖母のブローチはどうした?あれさえあれば、当座の金にはなるはずだ。どこへやった?」
父親の目が、金策のことしか考えていないギラついた光を放つ。
継母も「そうですわ、あれを売れば少しはマシなドレスも買えましょうに」と追い打ちをかける。
まさかそれが一度手元を離れ、見ず知らずの獣人の手によって戻ってきたなど、口が裂けても言えるはずがない。
ハリエルはコートのポケットに隠したブローチの硬質な感触を確かめながら、ゆっくりと顔を上げた。
その藍色の瞳には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。ただ、氷のように冷たい決意だけが宿っている。
「人のものを売ろうとする前に自分のものを売ってくださいませ。わたくしは、わたくし自身のやり方で、この家と、わたくしの人生を立て直します。お二人のように、過去の幻影にすがって、現実から目を逸らすつもりは毛頭ございませんから」
それは、事実上の決別宣言だった。
「――失礼いたします」
静かに一礼し、ハリエルは踵を返す。背後で継母が何か叫んでいるのが聞こえたが、もう彼女の耳には届いていなかった。
自室に戻り、扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、ハリエルはその場に崩れるように座り込んだ。
涙は出なかった。ただ、どうしようもないほどの孤独と、それでも消えない反骨心が、胸の中で渦巻いていた。
(……私は、一人で生きていかなければならない)
ポケットの中で、硬質なブローチの感触が確かにある。そして、あの獣人の不器用な優しさが、ふと心をよぎる。
(あの人もまた、孤独なのだろうか)
冷たい部屋の中で、ハリエルは膝を抱え、来るべき朝を待った。それは、これまでの人生に別れを告げ、新たな運命へと歩き出すための、長い長い夜の始まりだった。
自室の扉を静かに閉めると、外の怒声も、食堂のざわめきも、一枚の木の板越しに遠ざかっていく。
ハリエルはそっと窓辺に歩み寄り、重いカーテンを少しだけ開けた。王都の夜は静かで、遠くの街灯がぼんやりと霞んでいた。
コートのポケットからサファイアのブローチを取り出す。その青い光を指先で確かめると、ふと、昼間の出来事が鮮明に蘇る。
「君の瞳と同じ色だ」――
ガイウスの言葉、灰色の瞳の印象が、妙に胸に残る。
(誰かに「似合う」と言われるのはこんなにも…ドキドキして私、馬鹿みたい…)
物思いに耽るうち、廊下からマーサの足音が近づいてきた。
「お嬢様……お湯を淹れてきました」
「ありがとう、マーサ。少しだけ落ち着いたわ」
ハリエルは微笑み、マーサの前でブローチを手のひらに乗せる。
マーサは小声でささやいた。
「その…質屋の話、もう少し詳しく聞かせていただけませんか?その、獣人に目をつけられているんじゃありませんか?お嬢様はお美しいですし、マーサは心配です」
「大丈夫よ。ただ手助けしてくれただけだし、確かに失礼なことをしたからって普通こんな高価なもの贈らないわよね。高位の冒険者みたいだったし稼いではいそうだけど……」
マーサはそれを聞いて余計不安げな顔を浮かべる。ハリエルは彼女の親心にじんわり感謝しながら、マグカップを持ち上げた。
「また会うかどうかもわからないし、問題が起きたらその時考えましょう。」
その晩はなかなか眠れずにいた。
外から、物音。細かな石畳を歩く足音。誰かが夜中に屋敷の門を確かめているような、不安な気配。
ハリエルはベッドに横たわりながら、サファイアの硬い感触を胸元で感じた。
あなたにおすすめの小説
【完】麗しの桃は攫われる〜狼獣人の番は甘い溺愛に翻弄される〜
こころ ゆい
恋愛
※完結しました!皆様のおかげです!ありがとうございました!
※既に完結しておりますが、番外編②加筆しました!(2025/10/17)
狼獣人、リードネストの番(つがい)として隣国から攫われてきたモモネリア。
突然知らない場所に連れてこられた彼女は、ある事情で生きる気力も失っていた。
だが、リードネストの献身的な愛が、傷付いたモモネリアを包み込み、徐々に二人は心を通わせていく。
そんなとき、二人で訪れた旅先で小さなドワーフ、ローネルに出会う。
共に行くことになったローネルだが、何か秘密があるようで?
自分に向けられる、獣人の深い愛情に翻弄される番を描いた、とろ甘溺愛ラブストーリー。
「偽聖女」と追放された令嬢は、冷酷な獣人王に溺愛されました~私を捨てた祖国が魔物で滅亡寸前?今更言われても、もう遅い
腐ったバナナ
恋愛
伯爵令嬢フィーア・エメラインは、地味で効果が現れるのに時間がかかる「大地の浄化」の力を持っていたため、派手な治癒魔法を使う異母妹リシアンの嫉妬により、「偽聖女」として断罪され、魔物汚染が深刻な獣人族の国へ追放される。
絶望的な状況の中、フィーアは「冷酷な牙」と恐れられる最強の獣人王ガゼルと出会い、「国の安寧のために力を提供する」という愛のない契約結婚を結ぶ。
【完結】 「運命の番」探し中の狼皇帝がなぜか、男装中の私をそばに置きたがります
廻り
恋愛
羊獣人の伯爵令嬢リーゼル18歳には、双子の兄がいた。
二人が成人を迎えた誕生日の翌日、その兄が突如、行方不明に。
リーゼルはやむを得ず兄のふりをして、皇宮の官吏となる。
叙任式をきっかけに、リーゼルは皇帝陛下の目にとまり、彼の侍従となるが。
皇帝ディートリヒは、リーゼルに対する重大な悩みを抱えているようで。
不仲な婚約者と一夜の関係で終わるはずだった
アマイ
恋愛
セシルには大嫌いな婚約者がいる。そして婚約者フレデリックもまたセシルを嫌い、社交界で浮名を流しては婚約破棄を迫っていた。
そんな歪な関係を続けること十年、セシルはとある事情からワンナイトを条件に婚約破棄に応じることにした。
しかし、ことに及んでからフレデリックの様子が何だかおかしい。あの……話が違うんですけど!?
完璧な政略結婚のはずでしたが、宰相閣下の“私の妻”扱いが甘すぎます
星乃和花
恋愛
政略結婚のはずでした。
家同士の利も、立場の釣り合いも、全部きちんと整った、完璧に合理的な結婚。
……なのに、夫となった冷徹宰相は、なぜか人前で私を「最高の妻」と紹介し、暮らしを完璧に整え、他人に近づかれると不機嫌になってしまいます。
“天使”と噂される穏やかな令嬢フィオナもまた、
そんな不器用な優しさに少しずつ心をほどかれて――。
これは、条件で選ばれたはずの夫婦が、
いつの間にかお互いを“ただ一人”として欲しくなるまでの、甘くてやさしい政略結婚物語。
(毎日21:50更新ー全8話)
【完結】たれ耳うさぎの伯爵令嬢は、王宮魔術師様のお気に入り
楠結衣
恋愛
華やかな卒業パーティーのホール、一人ため息を飲み込むソフィア。
たれ耳うさぎ獣人であり、伯爵家令嬢のソフィアは、学園の噂に悩まされていた。
婚約者のアレックスは、聖女と呼ばれる美少女と婚約をするという。そんな中、見せつけるように、揃いの色のドレスを身につけた聖女がアレックスにエスコートされてやってくる。
しかし、ソフィアがアレックスに対して不満を言うことはなかった。
なぜなら、アレックスが聖女と結婚を誓う魔術を使っているのを偶然見てしまったから。
せめて、婚約破棄される瞬間は、アレックスのお気に入りだったたれ耳が、可愛く見えるように願うソフィア。
「ソフィーの耳は、ふわふわで気持ちいいね」
「ソフィーはどれだけ僕を夢中にさせたいのかな……」
かつて掛けられた甘い言葉の数々が、ソフィアの胸を締め付ける。
執着していたアレックスの真意とは?ソフィアの初恋の行方は?!
見た目に自信のない伯爵令嬢と、伯爵令嬢のたれ耳をこよなく愛する見た目は余裕のある大人、中身はちょっぴり変態な先生兼、王宮魔術師の溺愛ハッピーエンドストーリーです。
*全16話+番外編の予定です
*あまあです(ざまあはありません)
*2023.2.9ホットランキング4位 ありがとうございます♪
最強の騎士団長に嫁いだ偽りの公爵令嬢は、溺愛から逃げられない
花瀬ゆらぎ
恋愛
囚われた弟を救うため、貧民育ちのリーゼは公爵令嬢になりすまし、騎士団長シルヴィオに嫁いだ。
彼女に与えられた任務は、夫を監視すること。
結婚後、新居で待っていたのは、「氷の騎士」と恐れられる無口な夫。
しかし──戦地から帰還した彼は、別人のようにリーゼを溺愛し始めて……!?
「あなたのことを考えない日は一日たりともなかった」
次第にシルヴィオに惹かれていくリーゼ。けれど彼女は知らない。この結婚には、さらなる罠が仕掛けられていることを。
守り守られ真の夫婦を目指す恋愛ファンタジー!
※ヒロインが実家で虐げられるシリアスな展開がありますが、ヒーローによる救済・溺愛へと繋がります。
混血の私が純血主義の竜人王子の番なわけない
三国つかさ
恋愛
竜人たちが通う学園で、竜人の王子であるレクスをひと目見た瞬間から恋に落ちてしまった混血の少女エステル。好き過ぎて狂ってしまいそうだけど、分不相応なので必死に隠すことにした。一方のレクスは涼しい顔をしているが、純血なので実は番に対する感情は混血のエステルより何倍も深いのだった。