三流調剤師、エルフを拾う

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三流調剤師と森の落し物

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べちゃり、ぬちゃ
 粘着質な水音を立てながら灰熊獣がその巨躯を現す。
 全身の毛は血に濡れ、歩を進めるとその後ろには赤い跡が残る。
 息をするたび腹を大きく膨らませ、荒い呼気がここまで届くような気さえした。その目は爛爛とした狂気を灯し私たちを見据えている。正しく手負いの獣だった。
 ――頭部に生えた角は二本。

「くそっ、二角だ」

 ウォーレスが舌打ちをする。
 灰熊獣にはなぜだか角が一本しかないものと二本あるものが存在する。
 一説では歳を経た灰熊獣は一旦、一本角が抜け落ち、二本に生え変わるらしい。しかし諸説あり本当のところは未だ解明されていない。
 間違い無いのは二角の灰熊獣は一角のものより、体が大きく、力が強く、狡いということだ。

「ルツ、二人を守れ。ウォーレス、ノア、ここに近づかせるな。行くぞ!」

 キーランの指示でウォーレスとノアが駆け出した。ルツはワンドを構え、術を構築する。もちろん印術ではない。

「障壁」

 ルツの声とともに、私たちと灰熊獣との間に、半透明の壁が築かれる。
 壁が出現した頃には、三人は灰熊獣との距離を詰め、切りかかっていた。
 正面からキーランが直剣を振り下ろす。その刃を爪で弾いた灰熊獣めがけて右サイドからウォーレスが水平に剣を薙いだ。
 私の目にはその刃は灰熊獣の腹を裂いたように見えた。ところがその巨体に見合わぬ俊敏さでもって、間一髪避けていたらしい。
 さっと後ろに飛び退った灰熊獣。その頭上から炎の球が降り注ぐ。ノアだ。
 鮮やかな三連撃。
 しかし灰熊獣は、大蛇のような長い尾で火球を撃ち落とした。
 グゥウウウワァアアア
 撃ち落としはしたものの、尾へのダメージはあったようだ。
 灰熊獣が咆哮をあげる。空気がびりびりと振動し、耳が痛くなるほどの叫声だ。
 弾かれた火炎を避けてキーランが再度剣を振り下ろす。灰熊獣は立ち上がり、前肢の爪で弾こうとするが、キーランはその長い爪に沿って刃を滑らせ灰熊獣の懐に飛び込んだ。
 ――あの巨体の懐に飛び込むなんてよくやる
 ぞっとするような捨て身の戦法に思えるが、そこはウォーレスがカバーする。キーラン目掛けて、振り上げられた腕に切り掛かり……
 ――惜しいっ
 またしても爪に防がれてしまった。
 ノアはスタッフを掲げ、次の術の準備を終えているようだが、二人と灰熊獣の距離が近すぎて撃てないのだろう。

「開けているのはいいのですが足場が悪いですね」

 ルツがウォールを維持しながら呟いた。
 彼らの足元に転がるのは大小様々な石と岩。歩くだけでも足を取られるのだ。重い剣を持っての戦闘など、さぞ動きづらいに違いない。
 私とラグナルがおらずルツが加わっていたら、きっともう少し楽だったのだろうが……

「あのルツさん。私とラグナルは向こうの茂みに隠れていますから」

 背後を指差してそう言うとルツは静かに首を横に振った。

「それはできません。貴方達を守るようにとキーランに指示されています」

 一見、上下関係を感じさせない仲の良いパーティに見えるが、少なくとも戦闘時においては指揮系統が確立されているらしい。恐らくキーランをリーダーに、ウォーレス、ノア、ルツの順に。

「大丈夫ですよ。あの二角、左右の前肢の爪が一本ずつ足りません。少し時間がかかるかもしれませんが、彼らが負けることはありませんよ」

 ルツの言葉にほっとする。
 しかしそんな風に言葉を交わしていたのが悪かったのか、それともこちらに来させまいとするキーラン達の動きに気づいたのか、灰熊獣の視線が、私たちを捉えた。

「お前の相手は俺たちだ」

 灰熊獣の視線の先を見て取ったウォーレスが剣を払い、注意を引きつけようとする。が、大きく振り回された尾で狙われ、横に飛んで避ける。狙いを外した尾は河原に叩きつけられ、石が弾け飛んだ。その石飛礫が運悪くウォーレスが避けた先に向かった。
 ――危ないっ
 私は思わずあげそうになった声をこらえる。
 ウォーレスはなんとか剣で石飛礫を防いでいた。無理な態勢で剣を構えたせいか、その体がぐらりと傾ぐ。よく見れば彼が足場にした岩には赤黒い汚れが。魔獣の血に滑ったのだ。
 好機を察知した灰熊獣がウォーレスに迫る。
 しかしその巨体がウォーレスにたどり着く前にキーランが間に体を滑り込ませた。
 灰熊獣はキーランに向かって突進する。と思いきや、さっと方向を変えた、向かう先は……

「えぇぇ、こっち?」

 ウォーレスを狙うと見せかけたのは、フェイントだったのだ。

「ノア」
「分かってるって」

 キーランの声は冷静さを欠いてはいなかった。
 キーランとウォーレスから距離をとった灰熊獣にノアの術が放たれる。

「いけぇー! 爆炎」

 先ほどのものとは比べものにならない威力を持った炎が灰熊獣を包んだ。
 ……って森の中で火炎系統の術ばかりってどうなの? 水辺だからいいのかもしれないけど。
 灰獣熊は、呻き、もんどり打ちながら川に向かい、水の中に巨体を伏せようとした。しかしその行動が命取りだった。
 ノアがにんまりと笑って新たに練り上げていた術を放つ。

「雷撃」

 灰熊獣の体は大きく一度痙攣し、動かなくなった。

「やった」
「まだです。確実に仕留めたと確認するまで動かないでください」

 歓声をあげた私をルツが制する。
 キーランが警戒を解かぬままその巨体に近づき、首に剣を入れる。
 ぴくりと爪の先が動いた気がしたが、それだけだった。
 ルツがワンドを振り、障壁を消した。
 終わったんだ。
 見ていただけだったのに、いつの間にか全身に力が入っていた。ゆっくりと息を吐き、力を逃す。
 あの爪と角、剥いで持って帰るのかな? そんなことを考えた時だった。

「イーリスお姉ちゃん。黒魔法使ってもいい?」

 ラグナルがそんな不穏な一言を発したのは。
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