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第6章/碧き烈母 第3話『関所破りの奇策』

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   一

 「あの夜、カマル・アル・アザン王子は妾と共に、ユフラテを泳いで逃げた。そこに捕らえられているはずがないであろう、ディフィディ殿」
 母は優雅に、捕らわれの赤毛の少年を指さすと、言い放った。
「ええい、その女が正妃のはずが無い! その痴れ者を殺せぃ!」
 額にどす黒い血管を浮かばせて、ディフィディは絶叫し、その声に押されるように衛兵達が母に迫る。 
 母はゆっくりと腰帯から短剣ジャンビアを抜くと、それを高く掲げ持った。

 母の華奢な身体にアル・シャルク王妃の誇りが溢れ。
 その眼は衛兵達を通り越し、王座に座るディフィディを見据えていた。
「寄るでない! 誇り高きアティルガン王家の人間の、死に様を見せてやろうぞ」
 微笑みながら、いっそ楽しげにそう叫ぶと、母は一気に短剣で自分の心臓を突いた。
 ほとばしる血潮は母の白い服を赤く染め、民は声を失って見つめている。
 最後の力を振り絞って、母が短剣を少年の顔に向かって投げた。

 短剣は少年の眉間を掠め、目隠しの布をハラリと落とす。
 恐怖に大きく見開かれた少年のその眼は……薄茶色だった。
「おおっ!」
 民衆の声が一斉に起こる。
 衛兵が咄嗟に隠そうとしたが、遅かった。
「偽物だっ!」
「あの王子は偽物だあっ!」
「カマル・アル・アザン王子は生きているぞ~ッ」

 民衆の怒号とアーバスの私兵達のわめき声が交差して、広場は大混乱になった。
 その瞬間を待っていたように、広場に陶器の壺が数個投げ込まれた。
 壺は地面に叩きつけられて割れ、猛火を吹き上げた。
 さらに壺が次々と投げ込まれ、あっという間に広場に炎と黒煙が充満する。民衆は恐怖に駆け回り、悲鳴が悲鳴を混乱が混乱を産んだ。
 ディフィディ・アーバスはいつの間にか姿を消していた。
その混乱の中、俺は母の遺体を抱いてその場を脱出した……。


   二

「昨夜ラビンにお渡しになられたのは、その時の王妃様の短刀でございますな? アティルガン王家の正妃の宝剣……」
 アサドの話し終えると、カジム将軍は、静かに涙を拭った。
 妻が死んだときも、娘が死んだときも、けして濡れることのなかった老将軍の頬を、数十年ぶりに涙が濡らす。
 あの王家の宝剣が、本物であると知った瞬間、カジム将軍は王家の誰かが生きているのを悟った。
 …もしや、死んだはずの王子が、生きている。
 アル・シャルク北方方面軍の混乱は必至であった。
 だからこそカジム将軍は反対するラビンら側近を、テントの外に残したのだ。

 何か、期するところがあるのか?
「それで、その後は……?」
「母の遺体を抱えた俺達は、バルバロ族の暮らす西のミフターハを目指した。せめて母を故郷の地に葬ってやりたかったのだ。だが───」
「だが?」
 ファラシャトが、思わず問いかける。
 聞きづらいことだが、この男の今までの人生に対する興味がつい言葉を促してしまう。
 それは傍らのヴィリヤー軍師も同様であった。

「都からミフターハに行くには、タファスの関所を通らねばなりませんな。母上の亡骸を持っては、とても堅牢強固な関所を突破することは叶いますまいが……」
「将軍の言うとおりだ。猜疑心の強いディフィディは、母が死んでいることさえ疑い、関所を通る女は、たとえ幼女であろうと絶対に通行を許可しないように、ふれを出していた」
「では、海から迂回してミフターハへ?」
「俺には舟を手配する余裕も、伝手もなかった」
「それでは間道を通って?」
「それこそ、ディフィディの思うつぼだな。間道は一見警備が緩そうに見えたが、多数の伏兵が配備されていたのだから」

 沈黙が流れた。
 首を傾げながら、カジム将軍が問うた。
「……分かりませぬな。いったいどうやってミフターハへ?」
「俺達は正面から、タファスの関所を通り抜けた」
 アサドの意外な言葉にカジム将軍の眼が大きく見開かれた。
 最もあり得ない方法で、この男は検問を突破したというのだ。
 当時のタファスを知るカジム将軍にとっては、とても信じられない話だった。
 だが、アサドは現にこうして、自分の眼の前にいるではないか。
 その言葉に、嘘偽りはない。


   三

「して、いかなる手段をもって?」
「俺の従僕が奴隷商人に扮し俺は売られる奴隷の子として、両手両足に鎖を巻いて鞭打たれながら、関所を通ったのだ」
 ファラシャトの眼にかつて見た、アサドの背中に残った2本の深い条痕が、浮かんだ。
「では、背中のあの傷は……」
「浅い傷では役人の目はごまかせなかった」
 今度は、カジム将軍が言葉を呑んだ。

 その時、アサドはまだ十三歳の少年だったはずである。
 それが、一生消えない深い傷を自分の背に刻み、生きるために砂漠を越えたのだ。
 なんという精神力であろう!
「しかし、母上の亡骸は? 関所では荷物も徹底的に検査していたはずですが…」
 カジム将軍が不思議そうな眼をして、アサドに問いかけた。
 奴隷に身をやつしたアサドを見逃すことはありえたであろう。
 だが、王妃の亡骸を見逃すほど、タファスの役人は無能ではないはずである。

「俺の傍らには一頭の驢馬がいた。その背には水を入れた革袋がたくさん積まれていた。あのあたりを行く旅人には当たり前の支度だ。その中に母の亡骸を隠したのだ。これが…その革袋だ」
 アサドは、人の頭ほどの大きさの、羊の皮で作った革袋を懐から取り出すと、カジム将軍に手渡した。
 それは所々すり切れ、黒く変色している。常にアサドの傍らにあったのであろうか。
 革袋をしげしげと見ながら、しかしカジム将軍は困惑している。
「はて? 王妃様は華奢なお方でしたが、このように小さな革袋では、どうやってもその御遺体を隠せるはずもございませぬ……」

「だが、俺はタファスの関所を無事に突破したのだよ」
「役人に賄賂を?」
「俺の首に懸けられた懸賞金の額は知っているだろう?僅かな賄賂に役人がつられるはずがない。それに、俺には金目の物などほとんどなかった」
「では……アハマル家の親派の者が手引きしてくれたと?」
「タファスはアーバス家の本拠地だ。助成は期待できん」
「…? ますますわかりませぬな。いったいどうやって関所を……」
 この経験豊かな老将軍をしてさえも、アサドの策は図りかねた。


   四

 静寂がその場を支配した。
「───どうやらファラシャトは気づいたようだな」
 こわばったファラシャトの顔に気づいたアサドが、声をかけた。
 彼女は凍り付いたまま、眼だけをアサドに向けた。
 アサドの革袋を見たときによぎった、ある想像。

 だがそれはあまりにも凄惨であったが故に、咄嗟に否定した可能性。
 しかし、この男はそれを暗に肯定しているではないか!
「嘘……でしょう?」
 その問いに、ゆっくりと首を左右に振るとアサドは革袋の黒いシミを指差した。
「もうだいぶ薄れてはきたが……これは母の血のあとだ」
 アサドのその言葉に、今度はカジム将軍が眼をカッと見開く。
 まさか……!?

「俺はこの手で母の身体を小さく刻み、革袋に少しづつ詰めて関所を突破した」
 カジム将軍は言葉を失った。
 ファラシャトも。
 そしてヴィリヤー軍師も。 
 サウド副官は眼を伏せた。
 アサドは……
 アサドはその濃紺の瞳を少しも潤ますことなく、淡々と言葉を続けた。

「俺にはそれしか方法がなかった。役人もまさか母の亡骸がそこにあるとは、疑いもしなかった」
 アサドは蒼い柄の王妃の宝剣を、鞘から抜き払った。
 彼の母が、自らの命を絶った短剣である。
「母の身体を、アティルガン家の宝剣で斬り刻みながら、俺は誓った……」
 アサドの淡々とした語調は変わらない。
 だが、その中に圧倒的な何かが膨れ上がっていくのをその場にいる誰もが感じていた。

「復讐を! ディフィディ・アーバスに、神官シダットに!」



■第6章/碧き烈母 第3話『関所破りの奇策』/終■
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