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第7章/紅き胡蝶 第6話『赤獅団の追放劇』

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   一

 硬玉ジェダイトで作られた玉杯は、ヴィリヤーの額に当たって砕け、その額から血が滴る。
 次の瞬間、興奮状態が限界まで達し、完全に常識を逸した太守の狂気が爆発した。
「庇いだてするなら、うぬも同罪じゃ! おお同罪じゃあ〰〰っ!」
「それが一国を率いる者のお言葉か? 太守はこの国が滅んでも構わぬとそう言われるのかっ!」
 太守の狂乱が伝染したかのように、今度はヴィリヤーが怒声を上げた。
 だが、興奮するヴィリヤーの肩を叩き、次の言葉を制したのは───

 他ならぬアサド自身であった。
「ヴィリヤー殿、わたくしは太守の命に従います。……衛兵よ、牢まで案内を頼む」
 つかの間、アサドの碧い眼とヴィリヤーの茶色の眼が交錯する。
 その静かな碧眼に見つめられ、ヴィリヤーのたかぶった感情が、すっと鎮まった。
 アサドは眼帯を外していたのだ。
 その意味するところは……。

 ゆっくりと踵を返し、広間の大扉へと歩いていくアサドの広い背中を、衛兵達が慌てて追う。
 太守に意見しようと、一歩前に進み出た重臣の一人を、ヴィリヤーが制した。
「お待ちを、アサド殿が自ら身を引いた以上、これ以上の意見は無用」
「し…しかし……このままではウルクルは」
 反論しかけた重臣は、ヴィリヤー軍師の目配せに、気づいたのだった。
 私に考えがある、ここは穏便に──そう彼の眼が語っていた。
「貴公が…そう仰るならば……」

 ヴィリヤー軍師は太守に向き直ると、軽く頭を下げて退出の意を示した。
「太守、しばらく御休息が必要かと。御一人になられて、よくよくお考えくださいませ」
 軍師に促されて、重臣達も静かに広間から退出し……
 やがて、太守一人を残して広間から誰もいなくなった。
 重々しい音を立てて大広間の扉が閉じられた瞬間、ヴィリヤーの背後から、太守の嗚咽が漏れてきた。
「おおお……ファラシャト……わしの…わしのファラシャト……おおおお……」
 最愛の者への妄執だけが、この貧相な老人の胸を満たしていた。


   二

 つかの間、唇を噛みしめうつむいていた、ヴィリヤー軍師だったが。
 耳の奥にこびりつく声を振り払うと、タタと足早に歩き出し、やがて走り出した。
 何事かを思い詰めたような表情で、足音を響かせて王宮の廊下を走り、牢へ向かうアサドに追いつく。
「アサド殿、お待ちください!」
 とっに、軍師を制そうと、衛兵が二人の間に入ろうとする。
「ええ、はずせ! 邪魔だ。おまえ達もバカではあるまい? この国の行く末を案じるならば、太守ではなく私の言葉に従え──そうだ、それで良い」

 ヴィリヤー軍師は有無を言わさず衛兵を追い払うと、アサドに向き合った。
「太守は御自分を失っておられる。一時の感情で貴公を解任されては、ウルクルの未来はない。…しばし身を隠してくださらぬか? 私に考えがある」
「別に、俺は牢に入ってもかまわんよ。あそこは考え事をするには、結構いい場所だからな」
「ご冗談を。太守がこのまま無事に、あなたを牢から出すはずがありません。逃げるが勝ちでございます」
「……サウドとは打ち合わせ済みなのだろう?」
 この聡明な軍師は、小さく頷いた。

「ひとまずは、瀝青の丘近くに行かれよ」
 ファラシャトとアサドが、初めてであった場所。
 
「あそこならウルクルからの狼煙が、見やすいのです…アサド・殿
 ヴィリヤー軍師は最後の一節いっせつに、力を込めて語りかけた。
「あなたの身体はもはや、あなた一人の物ではないのです。ファラシャト殿の命懸けの想いを、無駄にしないでくださいませさい! どうか…どうか」

 己の感情を何とか押さえようと、固い口調で言うヴィリヤーの眼に、チラリと光るものがあった。
 一瞬、アサドが軍師の茶色の眼を凝視する。
「……わかった」
 アサドはゆっくりと頷いた。


   三

 傭兵達の旅支度は早い。
 赤獅団の面々は黙々と、だが手際よくテントを畳み、必要最低限の荷物をまとめては、馬の背に担ってゆく。
 いち早く自分の荷をまとめたアサドは、傍らに長剣を置き、焚き火の横に片膝を立て。頬杖をついて座っていた。
 火に照らされたその端正な横顔には、いつもように感情が顕れてはいない。
「──大将、こっちも準備が出来たよ。あと半刻もあれば……」
 走り寄ってきたミアトが、はっとして言葉を切った。
「どうした、ミアト?」
 ミアトの呆然とした視線が、アサドの顔に貼り付いている。
 アサドの左の義眼から、細い銀の筋が流れ出していた

 ミアトの視線の先にあるものに気づいたアサド自身も、軽い驚きを覚えていた。
「まだ……俺の身体に残っていたのか。こんな物、母の身体を切り刻んだあの日、すべて捨てたはずなのにな」
 アサドは自分の頬に一筋伝った涙を右手の指先ですくい、一瞬見つめると、傍らで燃える焚き火の中に、濡れた指をゆっくりと、だが躊躇することなく突き入れた。
「な…何すんだよ?!」
 ミアトが慌ててアサドの腕にしがみついて、指を焚き火から抜こうとするが、その腕は微動だにしない。

 火にあぶられて、ジリジリと肉が焦げる臭いが周囲に漂う。
「大将! あああああ…………」
 炎に焼かれるその指を、ミアトはただ見つめるしかなかった。
 怒り
 悲しみ
 自責
 憤慨
 諦念
 そして───
 様々な感情が、アサドの体内を駆けめぐっている。
 だがその顔にも碧眼にも、それはあらわれない。

「………………乾いたか」
 確認するように呟くと、アサドはゆっくりと指を炎から引き抜いた。
 己の中の悲しみを振り切るために、激痛に身を晒す。
 それが、彼の生き方なのか?
 ミアトは痛ましいものを見るように、アサドの姿を見つめている。
 長剣を持って立ち上がったアサドが、闇の中に黒々とうずくまる王宮を見やる。
 だがそれもつかの間、彼は踵を返した。
「馬を引け! 今夜中に城邑ウルクルを出るぞ」


   四

 瀝青の丘。
 アサドとファラシャトが、初めて出会ったのが、ここだった。
 丘と呼ぶには高い、遠目には台形の小山とも見えるこの丘は、砂漠を旅する者には恰好の目印となる。
 過酷な荒野と砂漠の旅を続けてきた者がこの丘を眼にする時、ウルクルまであと数刻の道のりであると知って、ホッと一息つけるのだ。
 ユフラテとチグルの両大河の堆積物で作られたこの平原は、高低差がほとんど無い。

 ユフラテ大河は、鈍い銀の光を放つ帯のように這い、ほとんど動いていないように見える。
 それがこの地の平坦さを物語っていた。
 だがその平坦な地にあって、瀝青の丘周辺の地形はひどく変化に富んでいる。
 太古、もうその名も忘れ去られた神の神殿が、存在したという伝説が伝わっているが、それ以外にも城邑でも存在したのであろうか? 人工的な規則性すら感じさせる地形であった。
 この丘の周辺に古い時代の瀝青天然アスファルトが散在することから、この名があるという。

 丘の背後には、地平線の彼方に蒼天が溶けこむ大地がどこまでも続いている。
 その開放的な印象とは裏腹に、何故かこの地に立つ人間はここを閉じられた空間と感じる。
 どこまで行っても尽きることのない地平は、逆に人間からその彼方へ行く必然性を奪う。
 希に地平の彼方に挑む者も、その地平線がさらに遥かな水平線に溶けこむ風景を目の当たりにしたときに、海の向こうへと旅立つことを止める。
 商隊とはしょせん閉じられた、それでいて無限の空間を、永遠に巡回する旅人にすぎない……。

「サグの犬部隊への連絡は?」
「既に伝令が出ております。瀝青の丘で直接落ち合うよう、伝えてあります」
 アサドの問いに、サウド副官が即答する。
 草原に潜んでいたサルークの部隊は、遊撃部隊として十分な働きをしてくれた。
 赤獅団にとっても、頼りになる存在であり、アル・シャルクとの決戦に備えて、可能な限り温存していた部隊である。ウルクル軍がアサドを追討するならば、一撃を加えることも可能である。
「……ここウルクルも、大将が安住できる地じゃなかったのかなぁ?」
 ふいにミアトが呟いた。



■第7章/紅き胡蝶 第6話『赤獅団の追放劇』/終■
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