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あの町で
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何も知らず、一人で生きていく事もでもなかったあの頃――
いつも何かを知った時には、世界はセピア色に褪せている――
もう戻れないと分かっていても、何度も色があった頃の世界に戻りたくなる――
そう思うからこそ、酒に頼るのかもしれない――
どうしても確かめなければならない事がある――
そう思い、時間を進める扉に手をかけた。
「お好きな席へ」
ある夕暮れ時、潮風の匂いがドアを開ける音と共に吹き込んできた。
銀色の顎髭が似合う中年のマスターが、客さえ見ずにアイスピックで丸氷を砕きながら呟く。
ドアを開けた瞬間、差し込む夕日で染まった店内は、セピア色の一枚の写真のようだった。
オーセンティックな雰囲気の一枚板のカウンター席に、男は躊躇わず座った。
潮の香りと共に、どこからかゆっくりとした風がその空間に流れ込む。
まるでここだけ取り残されてしまったような空間だ。
何もない時間が過ぎる日曜日、この静寂な空間に男は入ってきた。
「ラフロイグ17年(ウィスキー)を」
眼鏡をかけ、灰色の帽子を深々とかぶったジャケット姿の男は、座るなり怒鳴ったような注文をした。
「かしこまりました」
マスターは表情を少し硬くし、ラフロイグのボトルを棚からとり、琥珀色のウィスキーをグラスへ注ぐ。
重い扉の真ん中。丸く空いたガラス窓から、夕焼けというどこにでもあるノスタルジーな照明が、琥珀色のグラスに差し込む。そこに映る光は、美しくも、どこか錆びているようだった。
その反射した光を遠くに見ながら、何かを考えるようにマスターは眉間にしわを寄せて、男に視線を向けた。
使い古したようなカーキ色のジャケットに、度が入っていないような丸い眼鏡に、深くかぶった帽子――まるで人の目線を避けるような格好だ。
どこかでこの男を見た事がある……
「チェイサーはどういたしましょうか?」
「……ソーダと水で」
「かしこまりました」
マスターはこの男をしばらく観察した後に、聞き覚えのある声だと思った。
まさか、いや、ありえない。
「その頼み方は、もしかしてアダンじゃないか?」
そんな気がしたので男に尋ねてみた。
男は、その言葉を待っていたように、ゆっくり帽子と眼鏡をとり、マスターに顔を見せる。
どこかあどけなさが残る青年の顔がそこに現れた。
「覚えてくれていましたか」
「久しぶりだな」
二人は軽く会釈をする。
思いがけない来客はよくある。だが、死んだはずの人間が帰ってくるはずがない。
マスターが琥珀色のグラスを男の前へ置く。
「……」
久しぶりに顔を合わせた二人は、何を話すか考えて沈黙した。
「今何してるんだ?」
しばらくたって、マスターが口を開く。
「警察になりましたよ」
「お前がか?」
マスターは少し驚いた表情を見せた後、透き通ったコップに透明な水を注ぐ。
「ここより治安が悪い町ですからね、毎日大変ですよ」
グラスに口を付けると、ラフロイグの独特なスモーキーな香りが口に広がる。
「あの後、いろいろ大変だったよ、君はどこを探してもいないし」
「すみません。ご迷惑おかけしてしまって」
そういい、アダンは席を座りなおし、姿勢を正した。
「そういえば、この町を離れて何年になる?」
「3年ですね、マスターはまったくお変わりないようで」
「ああ、変わりたくても変われないだけさ」
慣れた手つきでマスターは、炭酸をグラスに注ぎ、水と一緒に男の前に出す。
目の前で炭酸が優しく弾ける音が聞こえる。
「そういえばそろそろ娘も帰ってくるよ、ゆっくりしていきな」
「……ええ、そうさせていただきます」
また少しの沈黙の後、どう話せばいいか分からず、空白の時間が続く。
何もないその空白さえも、酒さえあれば、この静かな場所ではかけがえのない時間になるように思えた。
「いろいろ大変でしたよ。いろんな意味で……」
「そうか」
「そういえば最近釣りはしていますか?」
「いや、釣った魚にやる餌代はない」
マスターが表情を変えず呟く
「餌じゃないんですね、変わらないですねマスターは」
アダンは笑いながら、ジャケットの外ポケットからおもむろにタバコとマッチを取り出し、火をつけた。
「タバコなんか吸い始めたのか?」
マスターが銀色の灰皿を差し出す。
「いい店でタバコをふかすと女にもてるようですよ。」
そういいアダンはタバコをふかす。あたりに煙草の煙の臭いが広がる。
「火をつけるならジッポみたいなオイルライターとかが相場だろ」
「時々火が付かなくなるようなものは信頼できないですよ」
アダンは棚の端に置いてあった銀色のジッポライターを指刺す。表面に埃が少しかかっていて、しばらく使ってないようだ。
マスターは表情も無く首をかしげる。
「タバコやめたんですか?」
「顔に似合わないものは、俺はやらないのがポリシーだ。それに俺の店は、いい店じゃなくて最高にいかした店だ」
そういい、マスターは表情を少し緩めたように見えた。
その表情に従うように、アダンも表情を緩める。
「……」
また、少しの沈黙が流れた。
ゆっくりとだが、昔の止まっていた時間と、今の時間が縮まっていくようだ。
「だが、なぜ生きている?」
急にマスターがグラスを拭く手を止めて、アダンを睨みつけた。
さっきまでの緩い表情とはまるで違う顔だ。
「三年前、お前はガソリンで焼かれて死んだって話だが、本当なのか?あの後俺も警察も散々探したのに死体さえ見つからなかったのに」
アダンはロックグラスの底をマスターのいるカウンターに傾ける。
「ええ、今日はそのことをお話ししに来ました」
懐かしそうに、バーカウンターを見渡し、広いカウンターに傾けたグラスをそっと置く。
アルコール度数40度のウィスキーが入っていたそのグラスには、粗削りのいびつな丸氷が残り、オールドファッショングラスの中の小さな世界の全てを映すように存在していた。
「グラスが空だぞ」
マスターが勧める。
「同じものを」
目の前でラフロイグの琥珀色が、氷の表面を綺麗に流れていく。再びグラスの中の世界は染まっていった。
まるであの日と同じような世界だ。土砂のように雨に打たれたガラス窓と氷が重なる。
そのグラスと氷を見ていると、思い出したくない記憶が蘇ってきた。
「懐かしいですね、あの頃が……」
そう言って、息を吸うとブビンガの落ち着いた雰囲気と、夕日の香りが合わさり、懐かしい匂いがどこからか漂ってきた気がした。
いつも何かを知った時には、世界はセピア色に褪せている――
もう戻れないと分かっていても、何度も色があった頃の世界に戻りたくなる――
そう思うからこそ、酒に頼るのかもしれない――
どうしても確かめなければならない事がある――
そう思い、時間を進める扉に手をかけた。
「お好きな席へ」
ある夕暮れ時、潮風の匂いがドアを開ける音と共に吹き込んできた。
銀色の顎髭が似合う中年のマスターが、客さえ見ずにアイスピックで丸氷を砕きながら呟く。
ドアを開けた瞬間、差し込む夕日で染まった店内は、セピア色の一枚の写真のようだった。
オーセンティックな雰囲気の一枚板のカウンター席に、男は躊躇わず座った。
潮の香りと共に、どこからかゆっくりとした風がその空間に流れ込む。
まるでここだけ取り残されてしまったような空間だ。
何もない時間が過ぎる日曜日、この静寂な空間に男は入ってきた。
「ラフロイグ17年(ウィスキー)を」
眼鏡をかけ、灰色の帽子を深々とかぶったジャケット姿の男は、座るなり怒鳴ったような注文をした。
「かしこまりました」
マスターは表情を少し硬くし、ラフロイグのボトルを棚からとり、琥珀色のウィスキーをグラスへ注ぐ。
重い扉の真ん中。丸く空いたガラス窓から、夕焼けというどこにでもあるノスタルジーな照明が、琥珀色のグラスに差し込む。そこに映る光は、美しくも、どこか錆びているようだった。
その反射した光を遠くに見ながら、何かを考えるようにマスターは眉間にしわを寄せて、男に視線を向けた。
使い古したようなカーキ色のジャケットに、度が入っていないような丸い眼鏡に、深くかぶった帽子――まるで人の目線を避けるような格好だ。
どこかでこの男を見た事がある……
「チェイサーはどういたしましょうか?」
「……ソーダと水で」
「かしこまりました」
マスターはこの男をしばらく観察した後に、聞き覚えのある声だと思った。
まさか、いや、ありえない。
「その頼み方は、もしかしてアダンじゃないか?」
そんな気がしたので男に尋ねてみた。
男は、その言葉を待っていたように、ゆっくり帽子と眼鏡をとり、マスターに顔を見せる。
どこかあどけなさが残る青年の顔がそこに現れた。
「覚えてくれていましたか」
「久しぶりだな」
二人は軽く会釈をする。
思いがけない来客はよくある。だが、死んだはずの人間が帰ってくるはずがない。
マスターが琥珀色のグラスを男の前へ置く。
「……」
久しぶりに顔を合わせた二人は、何を話すか考えて沈黙した。
「今何してるんだ?」
しばらくたって、マスターが口を開く。
「警察になりましたよ」
「お前がか?」
マスターは少し驚いた表情を見せた後、透き通ったコップに透明な水を注ぐ。
「ここより治安が悪い町ですからね、毎日大変ですよ」
グラスに口を付けると、ラフロイグの独特なスモーキーな香りが口に広がる。
「あの後、いろいろ大変だったよ、君はどこを探してもいないし」
「すみません。ご迷惑おかけしてしまって」
そういい、アダンは席を座りなおし、姿勢を正した。
「そういえば、この町を離れて何年になる?」
「3年ですね、マスターはまったくお変わりないようで」
「ああ、変わりたくても変われないだけさ」
慣れた手つきでマスターは、炭酸をグラスに注ぎ、水と一緒に男の前に出す。
目の前で炭酸が優しく弾ける音が聞こえる。
「そういえばそろそろ娘も帰ってくるよ、ゆっくりしていきな」
「……ええ、そうさせていただきます」
また少しの沈黙の後、どう話せばいいか分からず、空白の時間が続く。
何もないその空白さえも、酒さえあれば、この静かな場所ではかけがえのない時間になるように思えた。
「いろいろ大変でしたよ。いろんな意味で……」
「そうか」
「そういえば最近釣りはしていますか?」
「いや、釣った魚にやる餌代はない」
マスターが表情を変えず呟く
「餌じゃないんですね、変わらないですねマスターは」
アダンは笑いながら、ジャケットの外ポケットからおもむろにタバコとマッチを取り出し、火をつけた。
「タバコなんか吸い始めたのか?」
マスターが銀色の灰皿を差し出す。
「いい店でタバコをふかすと女にもてるようですよ。」
そういいアダンはタバコをふかす。あたりに煙草の煙の臭いが広がる。
「火をつけるならジッポみたいなオイルライターとかが相場だろ」
「時々火が付かなくなるようなものは信頼できないですよ」
アダンは棚の端に置いてあった銀色のジッポライターを指刺す。表面に埃が少しかかっていて、しばらく使ってないようだ。
マスターは表情も無く首をかしげる。
「タバコやめたんですか?」
「顔に似合わないものは、俺はやらないのがポリシーだ。それに俺の店は、いい店じゃなくて最高にいかした店だ」
そういい、マスターは表情を少し緩めたように見えた。
その表情に従うように、アダンも表情を緩める。
「……」
また、少しの沈黙が流れた。
ゆっくりとだが、昔の止まっていた時間と、今の時間が縮まっていくようだ。
「だが、なぜ生きている?」
急にマスターがグラスを拭く手を止めて、アダンを睨みつけた。
さっきまでの緩い表情とはまるで違う顔だ。
「三年前、お前はガソリンで焼かれて死んだって話だが、本当なのか?あの後俺も警察も散々探したのに死体さえ見つからなかったのに」
アダンはロックグラスの底をマスターのいるカウンターに傾ける。
「ええ、今日はそのことをお話ししに来ました」
懐かしそうに、バーカウンターを見渡し、広いカウンターに傾けたグラスをそっと置く。
アルコール度数40度のウィスキーが入っていたそのグラスには、粗削りのいびつな丸氷が残り、オールドファッショングラスの中の小さな世界の全てを映すように存在していた。
「グラスが空だぞ」
マスターが勧める。
「同じものを」
目の前でラフロイグの琥珀色が、氷の表面を綺麗に流れていく。再びグラスの中の世界は染まっていった。
まるであの日と同じような世界だ。土砂のように雨に打たれたガラス窓と氷が重なる。
そのグラスと氷を見ていると、思い出したくない記憶が蘇ってきた。
「懐かしいですね、あの頃が……」
そう言って、息を吸うとブビンガの落ち着いた雰囲気と、夕日の香りが合わさり、懐かしい匂いがどこからか漂ってきた気がした。
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