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第2章『私、捨てられたら幸せになりました』
しおりを挟むディーン公爵に捨てられ、公爵家を追われて数日後、私は王都から遠く離れた辺境の小さな村に到着した。村の入口には古い石造りの門があり、そこを抜けると広がる緑豊かな丘と花畑の美しさに、思わず目を見張った。
「まあ……素敵なところ」
それが、この村に到着した私の第一印象だった。
公爵家が所有する別邸というその屋敷は、こじんまりとしているが、清潔で愛らしい造りだった。私は馬車を降りると、屋敷を案内してくれるという老齢の執事アルフレッドと、その娘である中年の侍女マルタに出迎えられた。
「ようこそ、エリシア様。このような小さな屋敷で申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします」
アルフレッドは申し訳なさそうに頭を下げたが、私は微笑んで応えた。
「いいえ、とても素敵なところですね。むしろ私にはこれくらいがちょうど良いのです」
私の言葉に二人は安心したように顔を綻ばせた。
屋敷の裏には小さな庭園があり、雑草が生い茂っていたが、私はそれを見てむしろ心が躍った。
(ああ、自由にできる庭があるなんて!)
公爵家の豪奢な庭園では勝手に手入れすることなど許されなかったから、私にとってはむしろ嬉しい状況だったのだ。
翌朝、私は早速庭に出て、スコップや剪定ばさみを手に取り、草花の世話を始めた。数時間作業をしていると、額には汗が浮かび、腰も少し痛くなったけれど、身体を動かす充実感がそれを上回った。
「エリシア様、ご自身で作業なさるのですか?」
マルタが心配そうに声をかけてきた。
「ええ、こうして土に触れるのが好きなのよ。とても落ち着くわ」
「まあ……お貴族様であるあなたが、こんなことをお好きだなんて意外ですわ」
彼女は感心したように目を丸くしていた。
私が草花の世話やハーブ作りに勤しんでいると、村人たちが徐々に屋敷に興味を示し始め、私のもとを訪れるようになった。
ある日、小さな女の子が屋敷の門の前で泣いていたのを見つけ、声をかけた。
「どうしたの?」
「お母さんが病気で……」
「それはいけないわ。私にできることはあるかしら?」
私は急いで庭から薬草を摘み取り、ハーブティーを作り、娘と共に村の家を訪ねた。幸いそのお母さんの病状は深刻ではなく、薬草がよく効いてすぐに回復した。すると、その話があっという間に村中に広まってしまった。
「あの新しく来たエリシア様は、病気を治す奇跡の力をお持ちらしい」
「そういえば、エリシア様がいらしてから、村の花々がいつもより美しく咲くようになった気がする……」
そんな噂が広まり、私はいつしか『癒しの聖女』という呼び名までいただくようになった。
ある日、私の作った菓子を村人に配ったところ、それが大評判となり、いつの間にか屋敷の前に行列ができるようになっていた。
私は困惑したが、村人たちの笑顔が嬉しく、毎日少しずつ菓子を作り、分け与えるようになった。そのうち私の屋敷は村人たちの憩いの場になり、気がつけば村人たちと深く交流を持つようになっていた。
そんな穏やかな日々の中、ある日、屋敷に珍しい客人が訪れた。
第二王子のジェラール・オルタシア殿下――彼は端正な顔立ちに優しげな微笑みを浮かべ、柔らかな銀髪を靡かせていた。彼がなぜここに?と私は戸惑いながらも、礼儀正しく迎え入れた。
「突然失礼します、エリシア殿。私はジェラール・オルタシアと申します」
「殿下がお見えになるとは、何かご用でしょうか?」
ジェラールは少し困ったように頬を掻いた。
「実は、私の妹が長く病を患っておりまして……あなたが病を癒す力をお持ちだと聞き、頼って参りました」
妹とは、王宮でも病弱で知られるリリアナ王女のことだろう。私はその真剣な眼差しに心を打たれ、すぐに王宮に向かうことにした。
王宮に赴くと、そこにはベッドで弱々しく横たわる幼い王女の姿があった。私は彼女のために自分の作った特別なハーブティーと菓子を献上した。
数日後、驚くことに王女の病状は劇的に回復を見せた。
「エリシア様は本当に奇跡の方ですわ!」
宮廷内でも私の評価は急上昇し、その噂は瞬く間に広がった。そしてジェラール王子は私に改めて感謝を伝えに来てくれた。
「あなたのおかげで妹が救われました。何かお礼をしたいのですが……」
「いえ、お礼など不要です。お役に立てて嬉しい限りですから」
その言葉にジェラールは微笑むと、思いがけない提案を口にした。
「ではエリシア殿、もし差し支えなければ、私と結婚していただけませんか?」
彼の言葉に、私は驚きのあまり声を失った。
突然のジェラール殿下の言葉に、私は戸惑いを隠せなかった。
「結婚……ですか?」
戸惑いながら尋ね返すと、ジェラール殿下は真剣な表情のまま深く頷いた。
「ええ、エリシア殿。実は私には、家同士の政略のために結婚を強要されております。しかし、私は自分が愛する相手としか人生を共にしたくないのです。とはいえ、いきなり相手を探せと言われても難しい……」
殿下はそこで言葉を切り、困ったように眉根を寄せて私を見つめる。
「そこで思ったのです。あなたならば私の置かれた状況を理解し、お互い干渉しない『白い結婚』を承諾してくださるのではないか、と」
また『白い結婚』という言葉が出てきてしまった。正直に言えば、私はもう一度政略結婚に巻き込まれるのはごめんだった。せっかく公爵家から追放され、自由になれたと思っていたのに、再び同じ状況になるなど考えたくもなかった。
「申し訳ありませんが、私はもう結婚はこりごりなのです。ましてや、再び干渉しない結婚など……」
私の言葉を聞き、殿下は苦笑いを浮かべながらも穏やかに頷いた。
「ええ、お気持ちはよく分かります。しかし、エリシア殿。これはあなたにとっても利益のある提案だと思うのです」
「利益……と仰いますと?」
「私はあなたの自由を完全に保証します。互いに干渉せず、別々に生活するという形でも構いません。その代わり、あなたには私の妻として形式的に籍を置いていただくだけで良いのです」
殿下のその言葉は、私の心を揺らした。
確かに今の私は、公爵家を追われた身。貴族社会から見れば『離縁された元公爵夫人』として肩身の狭い立場に置かれている。だが、もし殿下の提案を受け入れれば、王族の一員として再び安定した地位が与えられることになるだろう。もちろん世間的には名ばかりの関係でも、生活に不自由なく、そして何より私自身の自由を完全に確保できる。
(これは……案外、悪くない話かもしれない)
考えれば考えるほど、私にとっても非常に好都合な話だった。私は再び殿下の方を見上げると、真剣な表情で問いかけた。
「本当に私の自由を認めてくださるのですか?」
「もちろんです。あなたの自由を私が奪うことはありません。むしろあなたの才能や趣味を生かして、存分に暮らしていただきたいと願っています」
その言葉に嘘偽りは感じられなかった。私は意を決し、殿下の提案を受けることにした。
「分かりました。そのお話、お受けいたします」
すると殿下は安堵したように優しく微笑み、深々と頭を下げた。
「感謝します、エリシア。あなたのおかげで救われました」
こうして私は再び『白い結婚』をすることになったのだが、この時の私はまだ、自分がこれから再び巻き込まれる騒動を知る由もなかった。
――そして数日後、私は正式にジェラール殿下の別邸に移った。別邸といっても、公爵家の屋敷よりは小規模で、派手さもない穏やかな屋敷だった。そこで私の新しい生活が始まった。
ある日、私が庭園でいつものようにハーブを摘んでいると、庭の入口から不安そうな顔をした一人の少女が入ってくるのが見えた。
「……エリシア様、でしょうか?」
私が振り返ると、彼女は深く頭を下げた。
「はじめまして、私はリリィと申します。突然申し訳ありません」
リリィ――その名を聞いた瞬間、私はあることに気づいた。彼女は確か、ジェラール殿下の想い人である平民の娘の名前だったはずだ。なぜ彼女が私のもとを訪ねてきたのか、私はすぐには理解できなかった。
「はじめまして、リリィさん。今日はどうなさったの?」
「あの……実は、私は殿下と長い間、お互いに想い合っていたのですが、身分が違いすぎて結婚が叶わないのです。エリシア様には大変失礼なのですが……」
リリィは涙ぐみながら言葉を続けた。
「殿下とあなたの婚姻は形式的なものだと伺いましたが、本当でしょうか?」
彼女の真剣な表情に、私はゆっくりと頷いた。
「ええ、その通りですわ。殿下との間には約束があります。私は殿下の愛情を求めませんし、殿下も私に干渉なさいません。ご安心なさって」
それを聞いて、リリィは深く安堵したように息を吐いた。
「良かった……私の存在が、あなたを傷つけているのではないかと心配だったのです」
私は彼女の優しさに感心した。普通ならば夫の愛人が妻の元を訪れるなど、修羅場になるはずだ。しかし私にはもともと愛情がない結婚であるため、不思議と嫌な感情は湧かなかった。
「安心してください、リリィさん。むしろ殿下のお相手があなたのような素敵な方で良かったわ。お二人の愛を応援します」
「エリシア様……!ありがとうございます!」
その日以来、私とリリィは不思議な友情で結ばれるようになった。彼女は時折、私の屋敷を訪ねてきては、楽しく会話をして帰っていった。時には、私が作ったお菓子を一緒に楽しんだり、村を散策したりと、まるで親しい友人のような関係になってしまった。
そんな様子を見たジェラール殿下は困惑気味に私に問いかける。
「エリシア、君は本当にリリィと親しいんだね……。これは予想外だったよ」
「殿下、私がリリィさんと仲良くするのは自由でしょう? 殿下も干渉しない約束ですわよ?」
「それはもちろんだが……君たちがこれほど仲良くなるとは想定外だったよ」
困惑しながらも殿下は苦笑する。私は彼のそんな表情を見ているうちに、この状況がどこか楽しくなってしまった。
私たちはまるで不思議な三角関係――夫と妻、そして夫の愛人――を築きつつあったが、不思議と誰も傷つくことがなかった。
私は自分の立場がどうあれ、今のこの奇妙で平和な暮らしに満足していた。しかし、この小さな幸福の日々は、やがて思いもよらぬ形で崩れることになるのだった。
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