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第3話

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 ナパージャ大陸の北の方にあるガウコの夏の朝は早い。山の端から光が盆地の方へと差し込むころ、農場に一つの人影が伸びた。その陰の主は目を眠そうにこすりながら井戸の方へ向かい水を汲みに行く。井戸まで来ると、慣れた手つきで井戸から水を汲みだし、まずは小さなたらい一杯に入れ、たらいごと頭上に掲げてひっくり返した。ひんやりと冷えた水がバシャン、と少年に降り注ぐ。濡れて目の上にかかった髪を首を振ってよけると、そのぱっちりとした目を見開、かなかった。
 彼のドラゴンの眠そうな目が移ってしまったかのように、細い目をしていた。
 念のためにもう一杯水を浴びた。が、鬱々とした気分は晴れない。もう一杯、また一杯と浴びること五杯目にして桶を持つ手が震える。桶を地面にたたきつけようと振りかぶった。

「あぁ、くそっ!なんで僕があんなレッドドラゴンを…!」

 そう言いかけて手も口も止まった。

(あのレッドドラゴンだって自分の好きだったはずのドラゴンじゃないか…)

 そう思い直して、冷静になるといつの間にかばっちり目が覚めていた。
 それから朝の仕事を淡々とこなした。
 掃除中にレッドドラゴンの前を通りかかったが、案の定まだ夢の中だったようで、完全に油断しきったように仰向けで四肢を広げて寝ていた。

(まったくいいご身分だよな。)

 近くにあった藁で鼻の頭をつついてみたがくすぐったそうに鼻息を吹きだしただけで少し体勢を変えてまたすやすやといびきをかき始めた。
 
 朝食を済ませると台所の方から父と母の話し声が聞こえてきた。普段なら特に耳をそば立てることはないのだが、ヒューゴその声のトーンから何か不穏なものを感じていた。

「…また、反帝国の集団が農場焼きをしたそうよ。しかも、今度はドラゴンの農場にも手を出したとか。」
「そうか。だが、心配には及ばないだろう。なんせガウコの騎士は帝国のものよりはるかに長けているからな。きっとここには手出しはできないさ。」
「でも…」
「子供たちがまだ家にいるんだ。それ以上はまたあとにしてくれ」

 感づかれたか、と一瞬ヒヤッとしたが、父はヒューゴの方には見向きもせず、郵便物を持って二階へとあがって行った。普段と違う点があったとすれば、純白の封筒に赤い蝋で封をされた手紙が一通来ていた、というくらいだった。
 母がまだ洗い物をしている間に昼ごはんの入った弁当箱を手に取ると、ヒューゴは赤の小屋へ重い足取りで向かった。家の前の道を進み、3つ目の小屋の角で曲がりさらに少し高くなった丘を上った、見晴らしのいいところに赤の小屋はあった。

 小屋の中に入って、自分のドラゴンのところへ行くと、うつぶせに両前足の上に顎を乗せ半眼の状態で寝転がっていた。目の前にヒューゴ来ても左目だけ開けてちらと、自分の飼い主になった少年を見ると鼻息を吐いて目を閉じ、寝ようとしていた。

「こいつ、昨日は言うこと聞くと思っていたら、品定めしやがってたなぁ。オイ、朝だぞ、とっとと起きないか!」

 口に付けた手綱を強引に引っ張るが、子供とは言えドラゴンである、そうそう動くものではない。何度か顔を軽く叩いたり、揺さぶってみたりしたが一向に起きる気配はない。それどころかどんどん重くなっていくように思えた。
 しびれを切らし、ポケットから黒い粉が入った瓶を取り出し、ドラゴンの鼻の前でふたを外した。
 しばらくすると、ドラゴンは目をぱっと開き、うめき声とともに悶え始めた。
 瓶に入っていたのはドラゴンたちの嫌う、ジャイアントラクーンの糞をさらに粉末状にしたもので、ドラゴンには効果てきめんな目覚ましであった。

「いくらお前でもこんなことはしたくなかったんだ、すまない」

 そうニヤニヤしながら瓶にふたをすると、鼻を抑えているドラゴンの前でちらつかせ、ついてくるように促した。
 散歩や呼吸法の練習、羽の根元の筋肉を柔らかくする運動などを一通り終えて、小屋へ戻りドラゴンが餌を食べているのを見ながら、ヒューゴも昼ご飯の弁当をかきこんだ。
 肉を丁寧に皮と骨、身に分けてちまちまと食べる様子をぼぉっと眺めていた。

(こいつ意外と細かいこと気にする性格だったりするのかなぁ)

口の中のものを咀嚼しながら想像していると無意識に愛着がわいてきていた。

(こいつに名前を付けるとしたら、やっぱ強くなってほしいから…なんだろう。…レオ、とかかな。昔読んだ話の英雄の名前そのままだけど…)

 本来、愛着がわきすぎると騎士団に渡すことに抵抗を感じたり、渡したとしても鬱状態になることが多いため、名前付けはしないことになっていた。
 それでも、ヒューゴはそうでもしないと、必要最低限の愛着すらわかないだろうと考えて、レオとこっそり名付けることに決めた。

 ガウコを囲う山も雪化粧をし始めた冬のある日、楽しそうに空を飛ぶレッドドラゴンと育成師がいた。
 ヒューゴとレオだ。
 この二人は、最初のぎこちなさからは想像できないほどに親密な関係を築きあげていた。まだ火こそ吹けないものの飛翔に関してはヒューゴの熱心な訓練のおかげで騎士団のドラゴンにも負けないくらいの技術と速さを身に付けていた。
 その様子をヒューゴの父は書斎の窓から、じっと眺めていた。グッと机の上に置いていた拳を握った
 その手の中には、朝に来た騎士団からのドラゴンの献呈に関する手紙が握りこまれていた。
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