犬と子猫

良治堂 馬琴

文字の大きさ
72 / 86

第72章『義姉』

しおりを挟む
第72章『義姉』

 深夜と言っても差し支えの無い時間帯、玄関の呼び鈴の音に外へと出れば、そこにいたのは戦闘服姿の嘗ての上官。寡黙で気難しく畏怖と尊敬の対象であった彼の突然の訪問に驚きはしたものの、
「先任、お久し振りです、こんな格好ですみません」
 と、島津の妻、敦子は頭を下げて挨拶をする。
「いや……こっちもこんな時間にいきなり悪いが……旦那を送って来た。呑んでたら潰れちまってな」
 そんな言葉と共に肩に担いだ物体を示され、何を、と思いつつ見てみればそこには前後不覚状態の夫の姿。口角から涎を垂らしつつ何やらむにゃむにゃと言っている夫の醜態に瞬時に頭に血が上り、敦賀の腕から夫の身体を受け取りつつ、敦子は声を荒げた。
「ちょっと!何先任と同僚の方に迷惑かけてんのよ!仁ちゃん!起きなさいよ!!お詫び言って!!」
 嘗ての上官の隣には初めて見る顔の女性海兵が一人、曹長の階級章を付けたその女性は
「すみません、こんな時間迄お引止めしちゃって」
 と申し訳無さそうに敦子へと頭を下げ、敦子はその彼女へと
「いえいえ、うちの馬鹿がご迷惑を……仁ちゃん!起きなさい!涎!!」
 そう詫びつつも島津を怒鳴り付ければ、その状況を執り成そうと思ったのか、直後、女性曹長が口にした言葉に時間と身体が硬直した、そんな気分へと陥った。
「あの、違うんです!妹さんが見つかって、そのお祝いと言いますか、今迄大変だったなって私と先任で労わってたと言いますか、決して遊んでいたわけでは――」

「ちょっと仁ちゃん!何酔い潰れてんのよ起きなさいよ!凛ちゃん見つかったってどういう事!?そんな大事な事知らせもしないでお酒飲んでたの!?ふざけんじゃないわよ起きろぉぉぉ!!」

 可愛がっていた義理の妹、消息不明となってからは毎日その行方を案じ探し、忘れた事等一度も無い。実の兄である島津以上に自分が凛を可愛がっていた事は島津も知っている筈なのに、その自分に真っ先に知らせる事も無く深酒をし、挙句に『生きる伝説』である最先任に担がれての帰宅とはどういう事だと、その怒り以外の事は一瞬にして敦子の頭から消し飛んでいた。
 前後不覚の島津とその胸倉を掴み激昂する敦子、夫の身体をがくんがくんと言わせながら恫喝するその様に、敦賀も連れの女性曹長も手出しも口出しも出来ずに若干引き気味で状況を見守っている。
「あ、あの、奥さん、時間も時間ですし……」
 ドン引きといった按配で恐る恐る止めに入る女性、敦子はそれに我に返り、醜態を晒してしまったと内心恥じ入りながら、
「ああもう!本当にこんなになっちゃって迷惑掛けてすみません!本当にもう、そんなに大事な事ならさっさと帰って来て私にも教えるべきなのにこの人は!あ、もう大丈夫ですから、後は私が。本当にご迷惑お掛けしました、失礼しますね」
 そう告げて夫の身体を肩に担ぎ、ぺこり、と二人へと頭を下げて室内へと入り扉を閉めた。
 どさり、玄関へと放り出した夫は未だに目を覚ます事も無く、寒いのか身体を屈めながら両手で自分の腕を摩っている。
「……こんの……馬鹿海兵が……!!」
 妻の怒り等知る事も無く薄ら笑いすら浮かべて眠っている夫の姿に更に怒りは募り、襟首を掴み風呂場へと向かって歩き出す。投げ出された足が廊下の棚や電話代へとぶつかり何かが落ちる音が背後から聞こえてくるが、そんな事には構わずに一気に風呂場へと引き摺って行き、その中へと夫の身体を叩き込みつつ水道の蛇口へと手を掛け、一気にそれを全開にした。
「……ちょ!?な、つめ……おい!誰……敦子!!止めろって!!」
 早春、春とは言っても未だに空気は冷たく、水も同じ様に身体が痛くなる程の冷たさを湛えている。それを何の前触れも無く浴びせられたとあっては如何に深酔いしていようとも現実へと引き戻されるのか、我に返った様な島津の声が風呂場へと響き渡る。
「凛ちゃんが見つかったって、どういう事なの!!」
「……え?」
「先任とお連れさんが送って来てくれたけど、そのお連れさんから聞いたんだよ、私!何で……何で仁ちゃんが一番に教えてくれなかったの!!」
「……あ、タカコか……いや、あの」
「うるせぇ!いいから正座しろ正座!!」
「あ、はい」
 状況が完全には飲み込めていないのか呆然とした様子の島津、それがまた敦子の怒りに拍車を掛け、正座をしろと怒鳴り付ける。そしてその言葉に素直に従い風呂場の床に正座をしたずぶ濡れの戦闘服姿の夫を見下ろしながら、敦子の尋問が始まった。
「で、いつ分かったの?」
「今日です」
「いつ位?」
「午前中」
「…………」
「……午前中です」
「何で直ぐに私に連絡しなかったの?」
「ちょっと気分が悪いって言い出して……慌てて陸軍病院連れて行って、すっかり忘れてました……ごめんなさい」
「病院って……大丈夫なの?」
「はい、特に異状は無いそうです」
「本当に……本当に凛ちゃんなのね?」
「……うん、間違い無いよ、あいつだ。元気そうだったよ、近い内に挨拶に来るって」
 小さく笑みを浮かべての島津のその言葉に、敦子の身体から力が抜けていく。ずっとその実を案じ続けていた義妹、無事なのだと、あの可愛らしい笑顔にもう直ぐ再会出来るのだと涙ぐみ、風呂場の床へと座り込みながら目の前の夫へと抱き着いた。
「良かった……良かったぁぁぁ!!」
「うん……良かった……良かったな……本当に良かった」
 感極まり、声を放って泣き出した敦子の様子に島津はまた笑い、寒さで震えつつも妻の身体を抱き締め返す。抱え込んでいたものは或る意味自分以上だったのかも知れない敦子はひたすら泣きじゃくり、それが落ち着く迄感情の昂りで震える背中を撫で続けていた。
 それが落ち着いたのは十五分程も経ってから、しゃくり上げ言葉に詰まりつつも妻から向けられた問いに、島津は深く考える事も無く言葉を返す。
「……で、凛ちゃん、今何処にいるの?一人なら今からでもうちに」
「大丈夫だよ、司令の家で大切にされてるか――」

「……は?司令?高根総司令の事?あの屑と凛ちゃんがどう関係有るの?」

 しまった、と、そう思った。
 高卒で海兵隊へと任官した敦子は自分よりも任官年度は四年早く、当時副司令だった高根の事は自分よりも早くから知っている。当然彼の私生活、女性関係についても海兵同士の世間話の俎上には上るわけで、一言で言えば屑であるという事を知らない道理は無い。男性海兵から見てもなかなかに『アレ』だった個人としての高根の女性の扱い、女性海兵からすればそれは『最低』の一語に尽きるものであり、当時の彼の評価も同じだったであろう事は想像に難くない。そんな男のところに大切な義妹を置いているとはどういう事だと今度は別方向に怒り出した敦子に向かい、島津は更に状況を悪化させる言葉を吐き出した。

「いや、あの、な?凛、妊娠してて、司令の子」

「……私の大切な可愛い妹があの屑に手籠めにされて妊娠してるってどういう事よ!!もういい!!今から私が司令の家に行って凛ちゃん連れて来る!!どけ!!」
 凛も高根を大切に思っているし、高根の口から結婚させてくれと聞いた、生涯大切にすると約束もしてもらった、気持ちは分かるが今はもう遅い、近い内に正式に挨拶に来ると言っていたから今は落ち着け、と、思いつく限りの言葉を敦子へと掛け宥め、全く不満ながらも渋々と敦子が引き下がったのは、この一時間後の事だった。

「司令、お早う御座います」
「お早う……御座います、お義兄さん」
「やめて下さいよそれ……それより、可及的速やかに我が家に挨拶に来て下さい……嫁にバレました」
「……明日行きます……敦子ちゃん、怒ってる?」
「太刀を研ぎに出してました」
「……遺書、書いとくわ」
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

処理中です...