犬と子猫

良治堂 馬琴

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第72章『義姉』

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第72章『義姉』

 深夜と言っても差し支えの無い時間帯、玄関の呼び鈴の音に外へと出れば、そこにいたのは戦闘服姿の嘗ての上官。寡黙で気難しく畏怖と尊敬の対象であった彼の突然の訪問に驚きはしたものの、
「先任、お久し振りです、こんな格好ですみません」
 と、島津の妻、敦子は頭を下げて挨拶をする。
「いや……こっちもこんな時間にいきなり悪いが……旦那を送って来た。呑んでたら潰れちまってな」
 そんな言葉と共に肩に担いだ物体を示され、何を、と思いつつ見てみればそこには前後不覚状態の夫の姿。口角から涎を垂らしつつ何やらむにゃむにゃと言っている夫の醜態に瞬時に頭に血が上り、敦賀の腕から夫の身体を受け取りつつ、敦子は声を荒げた。
「ちょっと!何先任と同僚の方に迷惑かけてんのよ!仁ちゃん!起きなさいよ!!お詫び言って!!」
 嘗ての上官の隣には初めて見る顔の女性海兵が一人、曹長の階級章を付けたその女性は
「すみません、こんな時間迄お引止めしちゃって」
 と申し訳無さそうに敦子へと頭を下げ、敦子はその彼女へと
「いえいえ、うちの馬鹿がご迷惑を……仁ちゃん!起きなさい!涎!!」
 そう詫びつつも島津を怒鳴り付ければ、その状況を執り成そうと思ったのか、直後、女性曹長が口にした言葉に時間と身体が硬直した、そんな気分へと陥った。
「あの、違うんです!妹さんが見つかって、そのお祝いと言いますか、今迄大変だったなって私と先任で労わってたと言いますか、決して遊んでいたわけでは――」

「ちょっと仁ちゃん!何酔い潰れてんのよ起きなさいよ!凛ちゃん見つかったってどういう事!?そんな大事な事知らせもしないでお酒飲んでたの!?ふざけんじゃないわよ起きろぉぉぉ!!」

 可愛がっていた義理の妹、消息不明となってからは毎日その行方を案じ探し、忘れた事等一度も無い。実の兄である島津以上に自分が凛を可愛がっていた事は島津も知っている筈なのに、その自分に真っ先に知らせる事も無く深酒をし、挙句に『生きる伝説』である最先任に担がれての帰宅とはどういう事だと、その怒り以外の事は一瞬にして敦子の頭から消し飛んでいた。
 前後不覚の島津とその胸倉を掴み激昂する敦子、夫の身体をがくんがくんと言わせながら恫喝するその様に、敦賀も連れの女性曹長も手出しも口出しも出来ずに若干引き気味で状況を見守っている。
「あ、あの、奥さん、時間も時間ですし……」
 ドン引きといった按配で恐る恐る止めに入る女性、敦子はそれに我に返り、醜態を晒してしまったと内心恥じ入りながら、
「ああもう!本当にこんなになっちゃって迷惑掛けてすみません!本当にもう、そんなに大事な事ならさっさと帰って来て私にも教えるべきなのにこの人は!あ、もう大丈夫ですから、後は私が。本当にご迷惑お掛けしました、失礼しますね」
 そう告げて夫の身体を肩に担ぎ、ぺこり、と二人へと頭を下げて室内へと入り扉を閉めた。
 どさり、玄関へと放り出した夫は未だに目を覚ます事も無く、寒いのか身体を屈めながら両手で自分の腕を摩っている。
「……こんの……馬鹿海兵が……!!」
 妻の怒り等知る事も無く薄ら笑いすら浮かべて眠っている夫の姿に更に怒りは募り、襟首を掴み風呂場へと向かって歩き出す。投げ出された足が廊下の棚や電話代へとぶつかり何かが落ちる音が背後から聞こえてくるが、そんな事には構わずに一気に風呂場へと引き摺って行き、その中へと夫の身体を叩き込みつつ水道の蛇口へと手を掛け、一気にそれを全開にした。
「……ちょ!?な、つめ……おい!誰……敦子!!止めろって!!」
 早春、春とは言っても未だに空気は冷たく、水も同じ様に身体が痛くなる程の冷たさを湛えている。それを何の前触れも無く浴びせられたとあっては如何に深酔いしていようとも現実へと引き戻されるのか、我に返った様な島津の声が風呂場へと響き渡る。
「凛ちゃんが見つかったって、どういう事なの!!」
「……え?」
「先任とお連れさんが送って来てくれたけど、そのお連れさんから聞いたんだよ、私!何で……何で仁ちゃんが一番に教えてくれなかったの!!」
「……あ、タカコか……いや、あの」
「うるせぇ!いいから正座しろ正座!!」
「あ、はい」
 状況が完全には飲み込めていないのか呆然とした様子の島津、それがまた敦子の怒りに拍車を掛け、正座をしろと怒鳴り付ける。そしてその言葉に素直に従い風呂場の床に正座をしたずぶ濡れの戦闘服姿の夫を見下ろしながら、敦子の尋問が始まった。
「で、いつ分かったの?」
「今日です」
「いつ位?」
「午前中」
「…………」
「……午前中です」
「何で直ぐに私に連絡しなかったの?」
「ちょっと気分が悪いって言い出して……慌てて陸軍病院連れて行って、すっかり忘れてました……ごめんなさい」
「病院って……大丈夫なの?」
「はい、特に異状は無いそうです」
「本当に……本当に凛ちゃんなのね?」
「……うん、間違い無いよ、あいつだ。元気そうだったよ、近い内に挨拶に来るって」
 小さく笑みを浮かべての島津のその言葉に、敦子の身体から力が抜けていく。ずっとその実を案じ続けていた義妹、無事なのだと、あの可愛らしい笑顔にもう直ぐ再会出来るのだと涙ぐみ、風呂場の床へと座り込みながら目の前の夫へと抱き着いた。
「良かった……良かったぁぁぁ!!」
「うん……良かった……良かったな……本当に良かった」
 感極まり、声を放って泣き出した敦子の様子に島津はまた笑い、寒さで震えつつも妻の身体を抱き締め返す。抱え込んでいたものは或る意味自分以上だったのかも知れない敦子はひたすら泣きじゃくり、それが落ち着く迄感情の昂りで震える背中を撫で続けていた。
 それが落ち着いたのは十五分程も経ってから、しゃくり上げ言葉に詰まりつつも妻から向けられた問いに、島津は深く考える事も無く言葉を返す。
「……で、凛ちゃん、今何処にいるの?一人なら今からでもうちに」
「大丈夫だよ、司令の家で大切にされてるか――」

「……は?司令?高根総司令の事?あの屑と凛ちゃんがどう関係有るの?」

 しまった、と、そう思った。
 高卒で海兵隊へと任官した敦子は自分よりも任官年度は四年早く、当時副司令だった高根の事は自分よりも早くから知っている。当然彼の私生活、女性関係についても海兵同士の世間話の俎上には上るわけで、一言で言えば屑であるという事を知らない道理は無い。男性海兵から見てもなかなかに『アレ』だった個人としての高根の女性の扱い、女性海兵からすればそれは『最低』の一語に尽きるものであり、当時の彼の評価も同じだったであろう事は想像に難くない。そんな男のところに大切な義妹を置いているとはどういう事だと今度は別方向に怒り出した敦子に向かい、島津は更に状況を悪化させる言葉を吐き出した。

「いや、あの、な?凛、妊娠してて、司令の子」

「……私の大切な可愛い妹があの屑に手籠めにされて妊娠してるってどういう事よ!!もういい!!今から私が司令の家に行って凛ちゃん連れて来る!!どけ!!」
 凛も高根を大切に思っているし、高根の口から結婚させてくれと聞いた、生涯大切にすると約束もしてもらった、気持ちは分かるが今はもう遅い、近い内に正式に挨拶に来ると言っていたから今は落ち着け、と、思いつく限りの言葉を敦子へと掛け宥め、全く不満ながらも渋々と敦子が引き下がったのは、この一時間後の事だった。

「司令、お早う御座います」
「お早う……御座います、お義兄さん」
「やめて下さいよそれ……それより、可及的速やかに我が家に挨拶に来て下さい……嫁にバレました」
「……明日行きます……敦子ちゃん、怒ってる?」
「太刀を研ぎに出してました」
「……遺書、書いとくわ」
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