婚約破棄で追放された悪役令嬢ですが、前世知識で辺境生活を満喫中。無口な騎士様に溺愛されているので、今さら国に泣きつかれても知りません

カインズ

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第五話:史上最高級のクワと、腰痛という名の罰

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言葉という、目に見えない壁と格闘する日々が続いていた。
イザベラは、カイルによるスパルタ式の「『ですわ』禁止令」のおかげで、以前よりは格段に、村人から逃げられる確率を減らすことに成功していた。もちろん、彼女のぎこちない丁寧語は、村人たちに「奇妙な鳥の鳴き声」か何かのように聞こえているらしく、会話が弾むには程遠い。それでも、無視されなくなった、という一点において、それは革命的な進歩だった。

そんなある日の昼下がり、イザベラは館の窓から、ぼんやりと村を眺めていた。
いつもなら、子供たちの甲高い声が聞こえてくる時間帯だというのに、やけに静かだ。広場に人影はなく、村全体が、灰色の雲のように重たい空気に覆われているように見えた。

(何かあったのかしら…?)

好奇心、というよりは、自分の平穏を乱されることへの警戒心から、彼女はこっそりと館を抜け出し、村の様子を窺いに行った。
案の定、村の雰囲気は暗かった。井戸端に集まった女性たちの顔には、深い憂いの色が浮かんでいる。

「マリーの熱、まだ下がらないのかい」
「ああ…。咳もひどくなるばかりでね。夜も眠れてないみたいなんだ」
「薬師の爺さんも、もう薬草の蓄えがないと言ってたし…」
「北の森まで行けば、咳止めの根っこが手に入るかもしれんが、この時期じゃあな。それに、育てるための畑も、人手が足りなくて、もう何年も荒れ放題だ」

断片的に聞こえてくる会話。
マリー、という名の子供が、重い病気で苦しんでいるらしい。そして、その子を救うための薬草が、この村にはない。
イザベラの胸に、ちくり、と小さな痛みが走った。
それは、空腹や屈辱とは全く種類の違う、ざらりとした痛みだった。

王都にいた頃も、慈善活動として孤児院や施療院を訪れることはあった。しかし、それは常に「ヴァレンシュタイン公爵令嬢としての完璧な義務」の一環だった。訪問の目的は、人々の心を掴み、王家の威信を高めること。そこには常に、計算と戦略があった。
しかし、今、この名も知らぬ「マリー」という子供に対して感じているこの感情は、なんだろう。
損得勘定がない。見返りも、名声も関係ない。
ただ、苦しんでいる子がいる、という事実が、鉛のように心を重くする。

(わたくしに、何かできることは、ないのかしら…)

気づけば、そう自問していた。
館に戻ったイザベラは、カイルを見つけると、珍しく自分から話しかけた。
「カ、カイル。…さん。その、薬草を育てる畑というのは、どこにあるのです…か?」
カイルは、剣の手入れをしていた手を止め、訝しげに彼女を見た。
「畑なら、館の裏手にあるが。どうした、急に農作業にでも目覚めたか?」
「そ、そういうわけでは、ありませんが…。畑が、人手が足りずに荒れていると、聞きましたので」

カイルは、ふん、と鼻を鳴らした。
「ああ。病人が出ても、すぐに薬が手に入らん。この領地の長年の問題だ」
その言葉に、イザベラの心は決まった。

「ならば! わたくしが、その畑を耕しましょう!」

高らかに宣言したイザベラに、カイルは心底面倒くさそうな顔を向けた。
「やめておけ。あんたにできることじゃない」
「なんですって!? わたくしに、できないことなどありません! やると決めたら、やるのです!」
「……そうか。まあ、好きにすればいい」

カイルは、それ以上何も言わなかった。その無関心な態度が、かえってイザベラの競争心に火をつけた。
(見てなさい! あなたや村人たちを見返すためじゃない。ただ、わたくしは、為すべきことを為すだけ。そう、病気に苦しむ、名も知らぬ子供のために!)
初めて芽生えた純粋な利他の心に、彼女自身、少しだけ酔っていた。

そして、イザベラは行動を開始した。
追放される際に、半ばヤケクソで詰め込んできた、いくつかのトランク。その奥底から、彼女は、とんでもない代物を取り出した。
それは、かつて王都の貴婦人たちの間で流行した「チャリティー・ガーデニング・パーティー」なる、偽善の塊のような催しのために、父に作らせた『特注農具セット』だった。

柄には、夜空を模した螺鈿細工がびっしりと施され、握る部分には滑り止めのためのベルベットが巻かれている。そして、問題のクワの刃先。その付け根には、土を掘るという本来の目的とは全く関係のない、装飾用のルビーとサファイアが、これでもかと埋め込まれていた。
その輝きは、薄暗い館の中で、異様なほどの存在感を放っている。
名付けて、『史上最高級のクワ』。

イザベラは、その宝石付きのクワを、まるで伝説の剣でも抜く勇者のように、誇らしげに担ぎ、館の裏にあるという、荒れ果てた畑へと向かった。
当然、その奇行は、すぐに村人たちの知るところとなった。
「おい、見ろよ。あのお姫様、今度は何してんだ?」
「キラキラ光る棒みたいなの、振り回してるぞ」
「畑仕事の真似事かい。どうせ、一日も持たねえよ」
遠巻きに、好奇と嘲笑の視線が突き刺さる。しかし、今のイザベラには、そんなものは気にならなかった。彼女は、崇高な目的に燃えているのだ。

「さあ、わたくしの言うことをお聞きなさい、大地よ!」

イザベラは、クワを天に掲げ、高らかに宣言した。
そして、目の前の、雑草に覆われ、石ころだらけの、硬く乾いた土に向かって、それを振り下ろした。
…つもりだった。
実際には、へっぴり腰で、ドレスの裾が汚れないよう、そろり、そろりと、クワの先で土の表面を優しく撫でているだけだった。

「な、なんて硬いのかしら、この土は! 全く、なっていないわ! もっと、こう、柔らかく、従順であるべきでしょう!」
土に文句を言っても、状況は変わらない。
額に汗が滲む。呼吸が乱れる。しかし、掘れたのは、ほんの数センチ。

その様子を、いつの間にか現れたカイルが、腕を組んで眺めていた。
「……おい」
「な、なんですの! わたくしは今、忙しいのだけれど!」
「あんたは、そのクワで土と恋文でも交わしてるつもりか?」
「はあ!?」
「クワは、そうやって使うんじゃない。腰を入れろ、腰を。体全体の重みを乗せて、振り下ろすんだ」

カイルは、石ころを蹴りながら、ぶっきらぼうに言った。
「こ、腰…?」
「ああ。見てろ」
カイルは、どこからか拾ってきた普通の木の枝で、手本を示した。それは、力強いが、無駄のない、流れるような動きだった。

「ふん、そのくらい、言われなくとも分かっていますわ!」
イザベラは、カイルに無様な姿を見られたことで、再びプライドに火がついた。
「見てなさい! わたくしの、本当の力を!」

彼女は、カイルに教えられた通り、ぐっと腰を落とし、両手で宝石付きのクワを握りしめ、渾身の力を込めて、それを振り上げた。
そして、大地に向かって、力いっぱい、振り下ろした。

その、瞬間。

ゴキッ。

イザベラの体から、これまで一度も聞いたことのない、鈍い、嫌な音が響いた。
時が止まる。
振り下ろしたクワは、見事に土に突き刺さった。しかし、それと引き換えに、彼女の腰に、灼熱の鉄の棒を突き刺されたかのような、激しい痛みが走った。

「い……」

声が出ない。

「い、痛……っ!?」

冷や汗が、全身から噴き出す。
腰が、曲がらない。
伸ばすことも、できない。
まるで、体の上半身と下半身が、喧嘩別れをして、全く別の生き物になってしまったかのようだ。
史上最高級のクワは、大地に突き刺さったまま、主の無様な姿を、キラキラと嘲笑っているように見えた。

「ああああ、ああ、腰が、腰がぁああああ!」

ついに、イザベラは、畑の真ん中で、情けない声を上げてうずくまった。泥と、小石と、雑草の匂い。視界の端で、小さな虫が這っていくのが見える。
涙が、ぽろぽろと零れ落ち、乾いた土に小さな染みを作った。
もう、何もかもがおしまいだわ。

遠巻きに見ていた村人たちが、ざわざわとし始めた。
「おい、本当に動けなくなったみたいだぞ」
「自業自得だろ」
「でもよ、なんだかんだ、俺たちのために畑を耕そうとしてたんだろ?」
「……放っておくのも、寝覚めが悪いな」

そんな声が聞こえたかと思うと、数人の村人が、おずおずと、こちらに近づいてくるのが見えた。
一番近くに来た、日に焼けた無骨な農夫が、戸惑いながら、イザベラに声をかけた。

「……嬢ちゃん、大丈夫か」

その、ぶっきらぼうな一言に、イザベラの涙腺が、完全に決壊した。
「だ、大丈夫なわけ、ないでしょう! 腰が、腰が、真っ二つに折れたわあああん!」
わんわんと泣きじゃくるイザベラを見て、村人たちは顔を見合わせ、やがて、誰かが「仕方ねえな」と呟いた。
次の瞬間、屈強な男たちの腕が、彼女の体を、まるで米俵でも運ぶかのように、軽々と持ち上げた。
「きゃっ! な、何をしますの! 乱暴よ!」
「うるせえ。黙って運ばれろ」
村の女性の一人が、泥だらけになったイザベラの顔を、硬い布で、しかしどこか優しい手つきで拭ってくれた。

館のベッドに運び込まれ、横たえさせられる。
しばらくして、腰の曲がった村のおばあさんが、すり鉢を持ってやってきた。
中には、得体の知れない、強烈な匂いを放つ、どす黒い緑色のペーストが入っている。
「さあ、嬢ちゃん。服をまくりな。腰に効く、とっておきの薬だよ」
「い、いや、結構ですわ! こんな、怪しげなものを…!」
「いいから、じっとしてな!」
有無を言わさず、そのひんやりとして、妙に温かい湿布が、イザベラの腰にべったりと塗りたくられた。

腰の鈍い痛みと、湿布の妙な温かさと、強烈な薬草の匂いに包まれながら、イザベラは、ぼんやりと天井の染みを眺めていた。
結局、わたくしは、何一つ成し遂げられなかった。
畑を耕すどころか、自分の体を壊し、村人たちに迷惑をかけただけ。
完全な、大失敗。

なのに。
なぜだろう。
心は、不思議と、少しだけ、温かかった。

自分の行動は、失敗に終わった。
でも、「誰かのために」と、見返りを求めずに行動しようとした、その思い。
その思いが、結果的に、これまで自分を拒絶し続けていた村人たちとの間に、細くて、不格好で、でも確かな一本の橋を架けてくれた。

善い行いをしようとすれば、善い結果が返ってくる。
王都にいた頃は、そんなものは、おとぎ話の中だけの綺麗事だと思っていた。
しかし、今、この辺境の地で、彼女は、その因果律の、ほんの小さな一端に、確かに触れたのだ。

イザベラは、ツンと鼻の奥が痛くなるのを感じながら、そっと目を閉じた。
腰は、激烈に痛む。
しかし、その痛みは、彼女の世界が、また少しだけ、広がった証のような気がした。
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