銀の懐中時計の天使

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銀の懐中時計の天使

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それは、ある聖夜一週間前の日の事だった。
住宅街の一角、民家の一室。
ある人物が、物憂げに空を見上げていた。
それは、体が透け、背中に真っ白な羽が生えていた。そう、その者はこの世の人間ではない。見ての通りの『天使』だった。
『天使』、それは特殊な存在。長く使われた物に宿り、人々の強い想いを受けて意思を持ち具現化したモノ。自らを使う『主』のもとで、その人間の行く末を見守り続ける事、それが『天使』の役目。
(でも、私が出来る事は、ただ見守る事だけ。他に何もできやしない)
この家の主人の『天使』は、重くため息をついた。
(遠い東洋の島国では、私達のような存在は「ツクモガミ」と呼ばれ神格を持つと聞いたことがある。私達も神の名を頂けたのなら、少しは出来る事も変わったのかもしれないのに)
どうにもならない事を思い、さらに気分は沈み込む。再度深くため息をついたその『天使』の顔(かんばせ)は、人間離れした美しさをしていた。
宝石のように輝く翡翠の瞳、すっと通った鼻筋、薄桃色に色づいた艶のある唇。緩く弧を描きながら腰まで揺蕩う黄金色の髪は、金糸のように滑らかで、冬の日差しに反射して柔らかな光を放っていた。
しかし、微笑めば誰もが見とれるであろうその表情は、何故か固く厳しい。眉を寄せ、まるで何か拷問にでも耐えているかのように、唇を固く引き結んでいる。
「――マリエラ」
『は……っ』
ふと部屋の奥から聞こえた声に、『天使』は反射的に顔を向けて返事をしようとした。しかし、すぐに踏みとどまるように無理やり口をつぐみ、苦悶の表情で俯いた。
『天使』が目を向けた先、丸まった大量の紙くずに覆われた床の真ん中にぽつんと立つ平机。その前の椅子には、一人の男が座っている。無精ひげを伸ばし、何日も着たままにくたびれた服にも気をやらず、虚ろな目をしたその男は、平机の上を見ながらひたすら呟く。
「マリエラ、マリエラ。今日の夕ご飯は何だい。シェパーズパイなら、とても嬉しいんだけど……え?それなら昨日も作っただろうって?嫌だなあ、君の作ったパイなら何度食べても飽きないよ。だから、なあ、今日もシェパーズパイにしてくれないかい?」
彼の視線の先には、表面に細やかで美しい花の細工が施された、銀色の懐中時計。
「なあ、いいだろう、マリエラ…」
『やめて!!』
『天使』は、耳をふさいでその場にしゃがみこんだ。男には『天使』の叫びが聞こえておらず、それからもただただ懐中時計に向けて話し続けている。
『天使』は、その悲痛な声を聞くまいと頭(かぶり)を振る。
(ああ…どうすれば、どうすればいいの…。彼は、私は、もうずっとこのままなの?私はただ、彼の時が止まっていくのを、ただ見ている事しかできないの?)
部屋の外から、クリスマスを祝う賑やかな音楽が流れて来る。耳をふさいでもかすかに聞こえてくるそれは、『天使』にとって何の慰めにもならない。
クリスマス。神の御子が生まれた日。神がこの世に舞い降りた、奇跡の日。
奇跡…そんなもの、ある訳が――。

≪――クリスマスに、奇跡は起こるぞ≫

突如聞こえたその声に、『天使』は驚いて顔を上げる。
そこにいたのは、赤い服を纏い、白く長い口ひげを生やした大きな老人だった。
『だ、誰っ!!?』
『天使』は、思わず後ずさりして尋ねる。
しかし、老人はその問いには答えず、『天使』に向かってこう言った。

≪お前さんの『主』の望み、叶えてあげたくはないかね?≫

『……どういう、事?』
『天使』は、警戒を解く事無く、険しい表情で言葉を返す。
そんな『天使』のあからさまな対応を気にすることなく、老人は飄々とした様子で答えた。
≪そのままの意味じゃよ。お前さんの『主』の願いを、お前さんの手で叶えてやろうと思わないかい?≫
再び繰り返された提案。『天使』は眉をよせる。
『私の『主』の願いを…叶える?私が?』
≪そうじゃ。お前さんがやるんじゃ。……そんな事は出来ない、と思っておるのかの?心配するな、わしが手伝ってやる。≫
『手伝うって……あなた、いったい何者なの?その姿、まるでサンタクロースのようだけど……。』
そう問われた老人は、長い白ひげを撫でながら、首を傾げる。
≪ううむ……そうでもあるし、そうでもないと言えるかのう。皆の知るサンタクロースとは、少し違う。わしはな、お前さんたちのような『天使』と契約して、サンタクロースよりもさらに大きな奇跡を起こすんじゃ。≫
『大きな奇跡……?』
≪そうじゃな……例えば、過去の失敗を取り戻したい、とか、誰も来ない場所で一生を過ごしたい、とか……今の『主』では叶えられない大きな望みじゃ。時には、世の理を超えるような、な。≫
その言葉を聞いた瞬間、『天使』の目が輝いた。
『世の理をも超える奇跡……それなら!』
≪ああ、しかし、わしにも出来ない事はある。死者の蘇生じゃ。それだけは、わしでさえ、どうにもならない。≫
すると、『天使』の目は一転して絶望の色に染まった。
『そんな…なら、私には……私には、彼に出来る事なんて、何もないじゃない…!』
悔し気に顔を歪める『天使』。≪サンタクロース≫には、その顔が今すぐにも泣き出しそうに見えた。
≪お前さん、どうやら随分と込み入った事情を抱えているようじゃの。それなら、ほれ、少しわしに話してみてくれんか。死者の蘇生を願うなど、余程の事じゃ。お前さんと、お前さんの主人に、一体何があったんじゃ?≫
『天使』は、≪サンタクロース≫の申し出に対し、しばらく沈黙していた。話すか迷うように、視線を虚空にさまよわせている。
≪サンタクロース≫は、『天使』の言葉を待った。『天使』の背後では、相変わらず男がぶつぶつと時計に声をかけている。
実は『天使』に声をかける少し前から部屋の様子を見ていた≪サンタクロース≫には、ある程度予想がついていた。
虚ろな目の男。彼に延々と話しかけられている銀の懐中時計。主人に忠実なはずの『天使』が拒絶する名前。
「マリエラ」『マリエラ』
男の声に重ねる様に、『天使』はぽつりと呟いた。
『マリエラ。彼から呼ばれる、私の名前。……でも、違う。本当は、違うの。この名前は、私のモノじゃない。』
『天使』の翡翠の両眼に、薄い膜が張ってせり出していく。
『――マリエラ。彼が生涯で一番愛した女性の名前。一年前のクリスマスの日、彼を残して逝ってしまった彼の妻の名前。若く、美しく、誰からも愛されたのに、たった一人愛した人を残して病に倒れてしまった、哀れな女の名前。』
涙の膜に濡れた虚ろな目が、椅子に座る男を見やる。

『私は、銀の懐中時計に宿った『天使』。あの人――私の持ち主、ジョー・ハウゼンが、死んだ妻を想い続けて生まれたモノ。マリエラを愛し、マリエラの事だけを考え、懐中時計に話しかけ続けて生まれた、マリエラの分身。それが『私』なの』


***


それは、クリスマス当日の夜のことだった。
雪がちらつく寒空の下、ジョー・ハウゼンは我が家へ帰ろうと足を速めていた。
今日は早く帰るつもりだったのに、まさかここまで長引くとは。懇意にしている出版社の編集者に、新しい小説の構想を伝えにいっただけだったのだが、話をしている内に構想の中のある設定に関する議論が白熱してしまい、気がついた時にはもう外は真っ暗だった。
ジョー・ハウゼンは、小説家である。そこまで名の知られた文豪ではないものの、そこそこファンはついているし、作品を出す度にそれなりに売れているので、なんとか物書きの仕事一本で食いつないでいけている。ジャンルはファンタジーで、日常に起こる非現実的な出来事をテーマに本を書いている。だが、いわゆるロールプレイングゲームのような内容ではないためか、ファンの割合は少年少女よりも比較的青年が多いらしい。
そんな可もなく不可もなくな小説家ジョー・ハウゼンには、最愛の妻がいる。名を、マリエラ・ハウゼン。この街一番の美人として有名な、若く麗しい女性だ。ジョーは彼女を心から愛していて、常に彼女を優先して物事を決めていた。
今日だって、様々な人からの誘いを蹴って、マリエラとクリスマスのパーティーをしようと前々から決めていたのだ。パーティーを始める時間も決めて、それまでに戻ると伝えておいたのに遅刻寸前というこの体たらく。設定の話に移った際に編集者から勧められたエールなど、飲まなければよかった。
そう心で悪態をつきながら、雪に濡れて冷気が立ち上る道を駆けていく。走っているおかげか、そこまで寒さは感じない。このまま一気に家まで走り抜けよう。
走る振動で跳ね上がる胸ポケットに手を当てる。カサリと音をたてたそこで、指先から固く平べったい形を感じた。きちんと『それ』がある事に安堵したジョーは、さらに速度を上げて家路につく。
街の中心街から少々離れた住宅地。その一角にある赤茶色のレンガ屋根がついた小さな家が、ジョーとマリエラの愛の巣である。
玄関前で明かりがついている事に帰宅した実感を得ながら、ジョーはベルを鳴らした。
ピンポン、と軽い音がしてから数十秒後、パタパタと誰かがこちらに駆け寄ってくる音がして、それからすぐに玄関のドアが開けられた。……少しだけ。
ジョーの妻・マリエラが、宝石のように輝く翡翠の瞳をのぞかせて、じいっとジョーを見つめている。遅い帰宅を責める様に。
ジャパニーズホラーさながらの妻の様子に内心怯えつつ、ジョーは朗らかに帰宅の挨拶をする。
「や、やあ、マリエラ、ただいま。遅くなってしまったね。」
「……」
「出先で編集の人と話していたら、つい夢中になってしまってね、こんな時間になってしまったんだ。本当は遅く帰る気はなかったんだ、本当だよ。」
「…………」
「ほら、現にこうしてパーティーに間に合うように急いで帰ってきただろう?ちゃんと君へのプレゼントも買ってきたんだ、だから、機嫌を直してくれないか?」
「………………」
「……あの、マリエラ?何か、言ってくれないか?」
「……何か他に言う事は?」
「すみませんでした!!!!」
ジョーは、謝った。即座に謝った。誠心誠意謝った。彼女の怒りを解くためなら、どんな謝り方でもする所存だ。
そんなジョーの様子が滑稽だったのか、マリエラは次の瞬間「ふふっ」と噴き出した。元々そこまで怒ってはいなかったらしい。薄桃色に色づいた艶のある唇が、優しい微笑みを湛えている。
マリエラは、ドアを全開にしてジョーを玄関に迎え入れた。
「…もう。何かに夢中になれるのは、あなたのいい所だけど、こんな時にまで発揮しないで頂戴。せっかく頑張ってご馳走を作ったのに、無駄になっちゃう所だったわ。」
「無駄になんかさせないさ。君が心を込めて作ってくれたご馳走の為なら、どんな所にいても、ここまで全速力で走って帰ってくるよ。誓おう。」
「あらあら、大きな事言っちゃって。ふふふ。……でも、嬉しい。」
マリエラは頬を染めて、ジョーに抱きついた。ジョーも、彼女を抱きしめ返す。

「――お帰りなさい、ジョー。あなたが今日も無事に帰ってきてくれて、よかった」
「――ただいま、マリエラ。君が今日も無事一日を過ごせたようで、よかった」

そうして、お互い幸せそうに顔を見合わせて笑いあう。暖かで甘い夫婦の情景が、そこにあった。
「――あ!いけない!七面鳥を焼いているオーブンをつけっぱなしにしてたんだったわ!このままだと焦げちゃう!」
マリエラは、弾かれたようにジョーから離れると、踵を返してキッチンへ駈け込んでいく。
緩く弧を描きながら腰まで揺蕩う黄金色の髪が揺れるのを見届けながら、ジョーもマリエラの後を追ってキッチンに向かった。愛する者の背中を追う目は、どこまでも優しかった。

二人だけのクリスマスパーティーは、静かで穏やかなものだった。
マリエラが腕によりをかけて作った様々な料理を少しずつつまみ、酒を飲み、とりとめもなく語り合う。料理の豪勢さを除けば、ほぼいつも通りの食卓と変わりなかったが、ハウゼン夫婦にとってはそれで十分だった。ただ、お互いがそこにいてくれるだけで、それだけで。
「――ああ、そうだ、マリエラ。君にプレゼントがあるってさっき言っただろう。受け取ってくれるかい?」
宴もたけなわの頃、ジョーはマリエラにそう告げた。
「あ、そうだったわね。私達、プレゼント交換をするのをすっかり忘れていたわ。嫌ね、ふふふ。」
今日の為にと奮発して買った上物のワインを喜んで飲んでいたマリエラは、どうやら少し酔ってきているようだ。笑い上戸の彼女は、何でもない事でおかしそうに笑っている。
ジョーは立ち上がると、部屋の隅のポールハンガーに掛けていた上着のポケットをごそごそ探った。帰る直前にも感じた固い感触に行きあたって、口元がほころぶ。
結婚してから毎年続けてきたクリスマスのプレゼント交換も、もう三度目。以前も頭を悩ませて選び抜いた自信作をマリエラに渡していたが、今回は前の二回とは比べ物にならない程の傑作を見つけた。プレゼント交換史上最高の代物だ、と直感した時から、彼女に早く渡したくて渡したくてたまらなかったのだ。
プレゼントの包みを後ろ手に隠しながら、ジョーはマリエラの前まで移動する。椅子に座ったままの彼女は、嬉しそうにジョーを見上げる。酔いにうるんだ瞳と薄く赤く色づいた頬を直視した事で、ジョーの中に余計な邪念がむくむくと頭をもたげたが、何とかそれを理性で抑え込む。まずはプレゼント交換だ、その先はまだ早い。
煽情的な欲望と熾烈な争いを繰り広げている事など顔におくびにも出さず、ジョーは「ジャーン!」と効果音付きでマリエラの前にプレゼントを差し出した。
「まあ、一体何かしら。開けてみてもいい?」
「もちろん、今すぐにでもどうぞ」
それを受け取ったマリエラは、繊細な手つきで丁寧に包みを開けていく。
「――あ……!」
マリエラが、目を見開く。包みから現れたのは、細やかで美しい薔薇の細工が施された、銀製の櫛だった。
数日前偶然とある骨董屋に足を運んでその櫛を見かけた時、衝撃を受けた。マリエラの綺麗で豊かな金髪にそれがすっと通っていく想像まで、容易に出来てしまった。この美しさと繊細なデザイン、これこそ彼女にふさわしいプレゼントだ、と感じたその瞬間に、ジョーはその櫛を購入していた。
運命のように出会った最高の贈り物に、無意識にジョーは胸を張る。マリエラに今までで一番の驚きと喜びを提供出来ただろう、そう思っていた。
しかし、どうにもマリエラの様子が思ったよりも芳しくない。最初は驚いてくれていたものの、その後は何だか喜べばいいのか分からない、といったような戸惑った表情を浮かべたまま黙り込んでいるのだ。
「――なあ、マリエラ、どうしたんだ?もしかして、このプレゼント、気に入らなかった…の、かな?」
不安に駆られたジョーは、おずおずとマリエラに尋ねる。どうせ気に入らなかったと言われるのなら、早めに聞いておくに限る。後回しにしても、傷が深くなるだけなのだから。
「あ…いえ、いいえ、ジョー。そんな事無いわ。私、とっても嬉しい。あなたが私の事をよく考えて用意してくれたものだって、すごく伝わってくる。だって、私が新しい櫛が欲しいって言っていたの覚えていてくれていたから、プレゼントを櫛にしてくれたんでしょう?」
大事な人に、自分のちょっとした事を覚えていてもらえるのは、本当に有難い事よ、そういってマリエラは幸せそうに笑った。どうやら、プレゼント自体には心から喜んでくれているようだ。ジョーは、安堵した。
「なら、どうしてあんな複雑そうな顔をしていたんだい。」
「ふふ…ごめんなさい。これは完全に私の勝手なわがままなのよ。あなたに先を越されちゃったなあって思って、ちょっと悔しかっただけ。」
「先を越された?」
どういう事だ、と首を傾げるジョーを横目に、マリエラは椅子から立ち上がって歩き出す。行く先は、部屋の奥にあるタンス。その一段目を開けて何かを取り出すと、彼女は再びジョーの前に戻ってきた。
「はい、これ。私からあなたへの、クリスマスプレゼント。」
正方形の箱の形をした包みが、ジョーに差し出された。ジョーは受け取ろうと手を伸ばしたが、手が届く前にマリエラが丁寧にその包みを開け始めてしまった。几帳面なマリエラとは違って幾分大雑把なジョーに、綺麗な包装と箱を破って開けてほしくなかったのだろう。
そうして待つことしばし。ジョーの目の前に、箱の中身が披露された。
「‼こ、これは…!」
ジョーは、驚愕した。目の前にあったもの、それは表面に細やかで美しい花の細工が施された、銀色の懐中時計だった。
マリエラは、いたずらが成功した子供のような、してやったり、の表情を見せながら言う。「ふふ、驚いた?あなたが櫛を買ったお店って、骨董屋の『Bloom』でしょう?実は、私もそこであなたへのプレゼントを買っていたのよね。……あなたが私に用意してくれた櫛と同じ作者の手で作られた懐中時計を、ね。」
この懐中時計、一目見た時から、あなたにぴったりだと思ったのよ。もう一目ぼれだったわ。冴え冴えとした銀色と裏腹に柔らかい音を奏でる時計の針、これこそ頭がよくて優しいあなたにふさわしいプレゼントだ、って思ったら、すぐに買っちゃったのよ、他の商品には目もくれずにね。
プレゼントを見せた時から話したかったのか、興奮したようにマリエラは語り続ける。ジョーは、それを呆然として聞いていた。
運命だ、と思った。櫛も、時計も、マリエラも、自分も。
出会えたことが、運命だ、と。
そう思った時、ジョーの中から形容のしがたい感情がとめどなくあふれ出した。体中の血が沸き立ち、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
こらえる事など、もう出来なかった。
ジョーは、マリエラを抱きしめた。ただがむしゃらに、ひたすらに、思いのたけをぶつけるように、彼女を腕の中に抱き込んだ。
驚いたマリエラが、声を上げるのが聞こえた。抱きしめたその体の細さに、余計に愛おしさを覚える。

――ああ、そうか、俺は、マリエラの事をこんなにも愛しているのか。身を切るような切なさに身を焦がすほど。

ジョーは、マリエラの頭をそっと上向けると、噛みつくように口づけた。


***


≪――そうか、お前さんはそうしてハウゼン夫妻の元へやってきたのじゃな。同じ人間から作られた銀色の櫛と共に。≫
『天使』のもとである銀の懐中時計のいきさつを聞いた≪サンタクロース≫が、要約するように言った。『天使』は、こくり、と小さく頷く。
『そう、三年前のクリスマスの日、私はジョーへの贈り物としてここへやってきた。ジョーはその日から、いつも肌身離さず私を持ち歩いていたわ。家でも私を使って時刻を確認し、仕事の為に外に赴けば、私が刻む時間を見て、マリエラの元に帰る事が出来る時間になるのを待ちわびていた……。マリエラも、ジョーが贈った櫛を愛用していた。朝目覚めてすぐに、彼女は丹念に自分の髪をその櫛で梳かしていた。たまに時間がある時は、ジョー自身で彼女の髪を梳かしてあげていたわ。……本当に仲のいい夫婦だった。私は、櫛と共にその生活を見守っていた。二人で夫妻にあった事を共有してお話しして笑いあって……本当に、穏やかで、幸せな時間だった。』
≪櫛にも、お前さんと同じように"モノに宿るもの"としての意識があったのかね?≫
≪サンタクロース≫が、少々驚いたように尋ねた。
『ええ、あの時は私もあの人も意識だけある状態だったから、話をしあうくらいしか出来なかったけれど。……でも、あの人ももうここにはいない。マリエラが死んだ時、櫛は彼女の遺体と共に墓の下に埋められたから。せめて自分の代わりについてやってほしい、というジョーの意向でね。』
≪…………。≫
≪サンタクロース≫は、かける言葉を見つけられず目を伏せた。
主の妻が死に、妻を主としていた櫛もいなくなった。そして『天使』の主は今、妻の死に耐え切れず精神を壊している。この『天使』の抱える悲しみがいかばかりかと思うと、長く人と『天使』の願いを聞いてきた≪サンタクロース≫でさえ、何も気の利いたことを言ってやることが出来なかった。
『――マリエラが倒れたのは、あのクリスマスから一年過ぎたあたりのことだった。突然の事だったわ。いや……突然では、なかったのかもしれない。兆候はあったの。少し前から、頭が痛い、体がだるい、と言って、寝込むことが度々あったから。ジョーは、恐らく風邪でもひいて、それが長引いているのだと思っていたのでしょうね。実際、私もそう思っていたのよ。症状は、ほとんど風邪にそっくりだったんだもの。でも……それは間違っていた。私達は、気づいていなかったのよ。それが、難病の初期症状だったという事を。』
あれから口を挟まずに、天使の話す内容を聞いていた≪サンタクロース≫だったが、その話が進むにつれて、何かがひっかかるような感覚を覚えた。何だろうか。思わず、小首をかしげる。
『天使』は、そんな≪サンタクロース≫の様子など意に介さず、まるで取りつかれたかのようにとうとうと語り続ける。
『家の中で倒れていたのを、仕事から帰ってきたジョーが見つけたの。顔を真っ青にして……こうなる事を全く予想していなかったのでしょう。私も勿論、そうだった。まさか、体がそこまで弱っているだなんて思いもしなかったわ。むしろその日は調子が良かったくらいで、彼の為に夕飯でも作れるかも、と思って、彼の好きなシェパーズパイを作ろうとしていたのよ?それなのに……ベッドから体を起こして立ち上がった瞬間に、ひどい眩暈と頭痛が襲った。痛くて、気持ち悪くて、立っていられないくらい……。』
目の前の『天使』から発せられる声は、どんどん生々しく熱を帯びていく。まるで、マリエラ本人の苦しみを体現するかのように。
『次に目が覚めた時は、病院にいた。隣には、一晩中看病してくれていたジョーがいたわ。彼は、私が目覚めた事に喜んでくれたけど……倒れた私を見つけた時よりも真っ青な顔で、泣きはらした目をしていた。
ジョーは言ったわ。私が難病にかかっていて、その病状は悪化しているということ。そして、すでにそれを完治させる方法はなく……寿命は、後一年もつかどうかだろうって。
そこまで言い切って、彼は泣き崩れたわ。私も……信じられなかった。信じたくなかった。だって、あれはただの風邪で、もう少ししたら体調も回復して、またいつも通りジョーと穏やかに暮らしていくんだと、何も疑っていなかったのよ!?それなのに、それなのに、いきなり病気を宣告されて、しかも彼と一緒にいられる時間が後一年あるかも分からない、なんて言われて……目の前が真っ暗になった!今までの幸せな日々が、絶望に塗りつぶされた!!
ああ、神よ、何故私達にこのような苦しみを与えたもうたのですか!?何故、生涯共に長くあり続けたい、というささやかな願いすら、あなたは奪ってしまわれたのですか!!』
激昂する『天使』。それを見て、≪サンタクロース≫はようやく違和感の正体に気づいた。
主語だ。語り手が『入れ替わっている』。
――これは、まずい。早くしなければ、取り込まれる。
≪サンタクロース≫は頭を抱え髪を振り乱している『天使』の肩をつかむと、苦悶の表情で涙を流す翡翠の瞳を覗き込みながら、叱咤する様に叫んだ。
≪気を確かに持て!!そなたは、マリエラではない!!モノに宿りし『天使』、それがそなたじゃ!!どんなに見目や声が同じでも、今のそなたはマリエラにはなり得ない!!記憶に取り込まれてはならぬ、主の想いに流されてはならぬ!このままでは、そなたは己が『天使』だという事も忘れ、終いにはナニモノでもなくなってしまうぞ!!≫
『天使』は≪サンタクロース≫の言葉を聞いて、しばしぼんやりとその目を見つめていたが、少ししてまた両目から静かに涙を流し始めた。だが、その涙は先程とは違うモノが表している感情であることに、≪サンタクロース≫は気づいていた。
『――ごめんなさい。取り乱してしまって。……もう、あなたにも分かったわよね?私が"私"でいられなくなってきていること。』
ほろほろと頬を伝っていく涙。ついさっきまでのものとは違う、哀しみの色に染まったそれらは、床に落ちることなく消え失せていく。
『天使』は、今なお夢中になって懐中時計に向けて話しかけている主人――ジョー・ハウゼンの方へ久々に向き直ると、再び語りだした。
『マリエラが死の宣告を受けた後、二人は相談して家で療養する事に決めた。最期はせめて大好きな家で、大好きなジョーに看取ってほしい、とマリエラが言ったから。それからジョーは小説家の仕事も休んで、つきっきりで彼女の看病をしたわ。彼女が少しでも生き永らえ、自分と共にいられるように。勿論、マリエラもそれを望んでいた。必死に、病魔と闘っていた。…………でも、ダメだった。マリエラは、死んだ。奇しくも、それはクリスマスの日だった。私と櫛が、ジョーとマリエラの元へ来た運命の日。よりにもよって、ジョーの一番幸せな記憶が残るクリスマスに、彼女は天に召されたの。
……それからよ。ジョーが、徐々に壊れ始めたのは。マリエラの死は勿論の事、彼女が死んだのが特別なクリスマスの日であったのも、彼にとっては耐えられない事実だった。ジョーは、マリエラが死んだことを認められなかった。だから、いつしか三年前のクリスマスにマリエラから送られた銀の懐中時計を、彼女だと思い込んで話しかけるようになった。普通の日常会話から、彼らが出会った時の話、一緒に出掛けた先での話、喧嘩した時に同時に謝って笑った話、それから…決して叶う事のない将来の話。ジョーは、懐中時計に向けて只々語り続けた。まるで、マリエラがそこにいるみたいに。
私はそれを聞いていた。せめてジョーの悲しみを和らげたくて、只々聞き続けていた。そして――気が付いたら、私は『天使』となっていた。マリエラと全く同じ容姿でね。』
『天使』は、両手を二の腕にやってさすり始めた。人間らしい容姿はしていても実体は持たない『天使』が寒さを感じる事は無い。それを裏付ける様に、『天使』の表情は苦悶と恐怖に満ちていた。
『……私、怖いの。とても、怖いのよ。私は、『天使』。主を見守り続ける事が役目。なのに……ジョーが『マリエラ』と呼ぶ度、私は返事をしてしまう。ジョーが思い出話を語る時、まるで自分が彼と共にそれを経験したかのような記憶と感情を持ってしまう。ジョーの愛情にあふれたあの瞳に見つめられる度――それを嬉しい、と感じてしまう。愛しい、と思ってしまう。まるで、生きていた時のマリエラのように。
 ねえ、≪サンタクロース≫。私、分からないのよ。この気持ち、いいえ、この私の存在自体が!
    ねえ、私のこの想いは一体何なの?ジョーが私に『マリエラ』を求めているから、そうなるように生み出されたの?それとも、これは私自身が抱いている感情なの?
 教えて、≪サンタクロース≫!私は一体ナニモノなの?『天使』なの?『マリエラ』なの?
 ねえ、私は一体どうすればいいの!!?』
そこまで息せき切って叫んだ『天使』は、ついにその場にしゃがみ込み声をあげて泣き崩れた。
≪サンタクロース≫は、その光景を見て久々に強く胸を打たれた。今まで、様々な人と『天使』の絆を見つめてきた。だが、今回の物語はあまりにも哀しすぎる。
人の強すぎる想いは、何かを生み出す事もあれば、何かを歪ませる事もある。それはいわば≪サンタクロース≫が起こす奇跡よりも、不可思議なものなのかもしれない。
そんな事を考えながら、≪サンタクロース≫はうずくまる『天使』の背中をそっと撫でる。
目の前では、相変わらず主人のジョーが懐中時計に語りかけている。
「――そういえば、そろそろクリスマスだね。もう今年で六年目か。時間が経つのは早いね。去年はちょっとゴタゴタしててやりそびれちゃったけど、今年は盛大にやろう。結婚五周年の節目も兼ねてね。今年も君にぴったりのプレゼントを用意するから、楽しみにしていてよ。……あ、僕へのプレゼントは大丈夫だよ、マリエラ。まだ体も本調子じゃないんだから、無理に動かない方がいい。……勿論、君からプレゼントをもらえないのは残念だよ?でも、そのせいで君の体調が悪くなる方が心配だ。だから……うーん、どうしても、というなら、クリスマスの日にはシェパーズパイをメニューに加えてくれないかい?……結局それを言いたかっただけだろうって?ハハハ、バレたか!だけど、本気だからね?僕も手伝うから、一緒に作ろうよ――」
陽気で明るい主人の声と、哀しくすすり泣く『天使』の声が、部屋の中で混ざり合う。その対照的なコーラスは、いっそ喜劇だと言って笑い飛ばしてやりたくなる程の不協和音だった。
≪サンタクロース≫は、このいびつな空間の中、ジョー、そして『天使』と順に見やってから、『天使』に向けてこう言った。
≪――この状況を変える方法なら、一つあるぞ。≫
『え……?』
それを聞いた『天使』が、涙で濡れた顔をあげて驚く。
『い、一体、どういう事…?だって、あなたは死者の蘇生は出来ないのでしょう?なら、私がマリエラをジョーの元へ呼び戻すのは不可能……』
≪そうじゃ。お前さんの主が愛したマリエラを蘇らせる事は出来ん。だが、『マリエラにそっくりな人間』なら、ここに創り出す事が出来る。≫
『…!それは、つまり……!』
≪左様。お前さんが、人間になればよいのじゃ。その姿でな。≫
『天使』が、大きく目を見開く。衝撃の大きさを物語るように、その唇がわなないている。
『わ、私が、人間に……?そんな事が出来るの?』
≪ああ。死者を蘇生させる事は出来んが、元々人間でないものを人間に変える事なら、わしでも出来る。そして、その対象は、願いを叶えるための力を行使する『天使』にも適応されるのじゃ。
 お前さんの主ジョー・ハウゼンの願いは、愛するマリエラと共に生きる事……。ならば、お前さんがその見目を持ったまま人間として生まれ変わり、ジョーと出会えば良い。そうすれば、必然的にジョーの願いは叶うであろう。≫
≪サンタクロース≫の提案を聞いた『天使』の目が、どんどん輝きを取り戻していく。
『そう…私が、人間になって、ジョーの傍に……。素晴らしいわ。そうすれば、あの人をもう一人ぼっちにする事はない。私がナニモノなのか、悩む事も無い。マリエラの代わりに、マリエラとして、ジョーと共に生きる事が出来る……!』
興奮冷めやらぬように話し続ける『天使』。だが、それを≪サンタクロース≫の厳しい声が遮った。
≪ただし。わしとの契約は、お前さんの力を使って行うことじゃ。当然、お前さんはそれ相応の代償を負わねばならん。≫
ぱたり、と『天使』から言葉が止まった。それまでの嬉しそうな表情が、一瞬で固まった。
『……あなたと契約を交わしたら、私はどうなるというの?』
≪結論から言えば、『今のお前さん』は消える事になる。≫
『天使』の顔に、驚愕と焦りが浮かんだ。
『ちょっと待って。『今のお前さん』、というのは、この、『天使』としての私、という事よね?それが消える、というのは、まさか、人間に転生したら、私は『天使』だった頃の記憶を忘れてしまう、という事!?』
≪サンタクロース≫は、深く頷く。
≪その通り。人間は普通、前世の記憶を持たない。確実に、お前さんが『天使』として培ってきたものは消滅するじゃろう……記憶も想いも、な。≫
『…………。』
≪転生したお前さんと出会えば、確かにジョーはお前さんを愛するじゃろう。だが、今あの者の精神は夢現をさまよっておる。もしかしたら、お前さんを『マリエラの身代わり』として扱うやもしれん。いや、下手をすれば『マリエラ本人』として、お前さんに接するやもしれん。
それを『天使』としての記憶も想いも忘れたお前さんがどう感じ、そしてどう行動するのかは、わしにも、ましてや神さえも分かりはしない。必ずしも、『今のお前さん』が望むように事が進むとは限らない、という事じゃ。ある意味、一種の賭けなのじゃよ、これは。≫
『…………。』
≪サンタクロース≫は、蒼白な顔色で黙り込む『天使』に〝決断”を求めた。

≪このまま『天使』として主人を見守るだけに留まるのか、人間として主人の傍にいる事の出来る可能性に賭けてみるのか……さて、どうする?≫

『天使』は、黙り続けていた。考え続けていた。
≪サンタクロース≫から与えられた、奇跡のような選択肢。自分が人間として生まれ変われば、ジョーは救われる。自分も、彼の傍にいられる。彼に声も届くし、想いも伝えられる。だが、それも『天使』として彼の悲しみを見続けてきた記憶と想いがあってこその話だ。何も覚えていない自分が、狂ったように死んだ妻を想い続けているジョーを見て、どう思うのか……。
ただでさえ、今も自我が安定していない自分の事だ。人間になったとしても、ジョーの傍にいる事を選んだとしても、結局は思い詰めることになるのではないだろうか。『一体自分はナニモノなのか』と。
『天使』は、悟った。留まるも地獄、進むも地獄。どうあがいても、自分はマリエラという存在から逃れられないのだ、と。
――ならばいっそ、全て忘れて人間になってしまおうか?
『天使』は、疲れてしまった。己の存在について考える事を。
人間に転生すれば、今までの『天使』としての記憶は全て消える。だったら、ジョーと出会う前の一瞬だけでもいい。まっさらになりたい。マリエラという存在に縛られない、それに悩む事も無い、ナニモノでもない”私”に――。
『天使』は≪サンタクロース≫の方へ向き直ると、願いを告げた。

『お願い。どうか私を――。』


++++


『やあ、××××。起きているかい?』
『きゃっ!……ああ、あなた。ありがとう、ご飯、持ってきてくれたのね。』
『どうしたんだい、そんなに驚いて……ん?ベッドの上にある、その紙は一体何だい?』
『え、えっと、その、何というか……日記。そう、日記みたいなものよ。色々印象深かった事を、紙に書き留めているの。私の大事な思い出、忘れてしまいたくないから……』
『……大丈夫、これからだって紙に書き留められないくらい、素敵な思い出はたくさん作れる。だから、早く元気になっておくれよ。……ところで、その日記とやら、僕に見せてくれないかい?君がどんな事を書いたのか、気になるんだ。』
『だ、ダメよ!絶対ダメ!この中身は秘密!』
『どうして?お互い秘密は無しって、結婚する時に約束したじゃないか。』
『確かにそうだけど……でも、これはまだ書いている途中だし、第一小説家のあなたに読まれるのってとっても恥ずかしいわ。色々ダメ出しとかされそうだもの、文法とか構成とか。』
『なっ、流石にそんな事はしないよ!素人が書いたものだと、きちんと認識して読むから!』
『……そんな事言っても、絶対後で『ここはこうした方がいいよ』って言い出すに決まってるわよ。あなた、文章へのこだわりが強いから。』
『××××、誓うよ。決してそんな事はしないから。どうか、それを僕に読む権利を与えては下さいませんか?』
『……フフッ、相変わらず大げさね。大丈夫よ。あなたにはいつか必ず読んでもらおうって決めてはいたから。でも、今はダメ。もう少しだけ待ってくれる?』
『もう少しって……どのくらい?』
『さあ、どのくらいかしら……私にも分からないわ。だけど、あなたにこれを読んでもらう時が来たら、あなたに合図を送るわ。そうしたら、見て頂戴。私の力作。』
『……分かったよ。合図があったら、だね。ちなみにそれは、どんな合図なのかな?それくらい聞いてもいいだろう?』
『そうね。それは教えておかないとダメよね。あのね、その合図は――。』



それは、とある記憶。とある男の中から忘れ去られた記憶。
××××が死んでしまう数か月前の事だった。



+++


朝を告げる日の光が瞼の裏に入り込むのを感じたジョー・ハウゼンは、ゆっくりと目を覚ました。
ピチチチ、と鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。窓から晴れ渡る青空と太陽が見える。ジョーはしばらくその景色をぼんやりと見つめながら、何故か自分の状況を冷静に分析していた。
昨日はどうやら『マリエラ』と話し込んでいるうちに眠ってしまったらしい。椅子に座ったままの不自然な体制で寝たせいか、体中の節々が痛い。締め切りに追われて小説を夜中まで書き続けている時にはよくやってしまっていた事だったが、以前まではいつも寝支度をしたマリエラが自分を起こしに来てくれていた。「こんな所で寝ていたら、風邪をひいてしまうわよ」と、心配そうに声をかけながら……。
――『以前までは』?何が起こる『以前まで』?
そこまで考えて、ジョーは思考を止めた。そこから先を突き詰めてしまうと、知りたくない事実に気づいてしまうような気がして恐ろしかったのだ。
気を取り直して、ジョーは目の前にいる『マリエラ』に声をかける。
「おはよう、マリエラ。今日はいい天気だね。曇り空ばかりのこの街にしては珍しいよね、何かいい事でもありそうだ。君もそう思うだろう?」
そうして机の方に顔を向けて、絶句した。
いない。『マリエラ』が。
机の上には、何もなかった。
「マ……マリエラ!?どこに行ったんだ、マリエラ!?」
ジョーは、慌てて机の周辺を探す。自分が寝ぼけて『彼女』を落とした可能性も否定できないからだ。だが、机とその周りをくまなく探しても、『マリエラ』は見つからなかった。
「何故だ……昨日までは、確かにここにいたのに!!」
捜索範囲を、部屋の中全体に拡大する。部屋の隅々まで見て回る。それでも『彼女』は見つからない。
「マリエラ……マリエラ……どこなんだ、どこに行ってしまったんだ……!!」
半狂乱になりながら、ジョーは家の中を駆けずり回る。
『マリエラ』がいなくなってしまうなんて、そんな事は許さない。絶対に『彼女』を手放してはいけないのだ、今度こそ!!
――『今度こそ』?何故そう思うんだ?
――まさか、前にもあったのか?マリエラがいなくなる、なんて事が?
ジョーは、勢いよく首を振る。知りたくない、思い出したくない。それを思い出してしまったら、僕は……!
家の中、ある一部屋以外の全ての場所を探しつくした。棚の引きだしを全て引っ張り出して、入っていたものを乱暴にかきわけて。部屋中の隙間を覗き込んで、手を突っ込んで。ゴミ箱の中身も全てひっくり返して。それだけやっても、『マリエラ』は見つからなかった。
心身共に疲れ果て、ジョーが床に座り込んだその時。
リリリリン、と軽やかな音が家に響き渡った。来客の合図。誰かが外からベルを鳴らしているのだ。
だが、今のジョーには来客に対応する気力などなかった。今はいなくなってしまった『マリエラ』を見つけ出す事の方が、彼にとっての優先事項だからだ。
しばらく休んで、また部屋を隅々まで探そう、と、鳴り響いたベルを無視しながら、ジョーが考えていると。
「――お前さんの探し物は、ここにはないぞ。」
背後から、急に声をかけられた。
「うわっ!!」
ジョーは、驚いて後ろを振り返る。そこには、大きな老人が彼を見下ろすようにして立っていた。
赤い服を纏い、白く長い口ひげを生やしている。まるでサンタクロースのようないでたちだ。だが、出て来るには時期が少々早すぎる気がする。
「な、何なんだ、アンタは!どこから入ってきた!これは立派な不法侵入罪だ、警察に通報するぞ!」
不審者と思しき老人から距離をとると、ジョーは一気に電話の近くに走り寄った。そして、老人を警戒しつつ、警察を呼ぶための番号を押そうとした。
「お前さん、銀の懐中時計を探しておるのじゃろう?その子は、ここにはおらんぞ。」
その老人の言葉に、ジョーの手が止まった。
「…………何故、アンタが『マリエラ』の事を知っている?」
「勿論、あの子と話をしたからじゃよ。わしは、サンタクロースよりもっと大きな奇跡を起こす者。あの『天使』は、奇跡が起こる事を願っていた。だから、わしはあの子のもとへ来た。あの子と主人であるお前さんの願いを叶えるためにな。」
「あ、アンタ、一体何を言って」
「ああ、『天使』とはな、長く使われた物に宿り、人々の強い想いを受けて意思を持ち具現化したモノじゃ。わしは、クリスマスの日に『天使』の力を使う事で、特別な奇跡を起こす事が出来る。わしは銀の懐中時計に宿った『天使』と契約を結び、今ここでお前さんに奇跡を与えに来たのじゃ。」
「……意味が分からない。アンタ、頭がいかれてるんじゃないのか?……いや、待てよ。まさか、アンタが僕の『マリエラ』をどこかにやったんじゃないか?そうでないと、『マリエラ』がいなくなった訳も、アンタが『マリエラ』を知っている理由も、説明がつかない!なあ、そうなんだろう!」
ジョーは鬼のような形相で、鼻息荒く老人に歩み寄ると、その襟首につかみかかって叫んだ。
「言え!!『マリエラ』をどこへやった!!あれは僕のものなんだ、なくてはならないものなんだ!!あれがないと、僕は、僕は!!!」
――『あれ』?あれって何だ?『マリエラ』は人間だ。なのに、どうして僕は『彼女』をモノ扱いするような言い方をしているんだ?何故?
老人は、ジョーの乱暴な行動に怯える事もなく、虚ろに混濁した彼の目を静かに見据えて言った。
「……お前さん、もうすでに勘づいておるのだろう?自分が虚無の幻想を見続けている事を。それでもなお、お前さんはそれにすがろうと必死になっておるのじゃな。哀れなものよ。」
「何を……何を言っているんだ、お前は!!虚無の幻想?そんなもの、僕は見ちゃいない!!僕は正常だ!!いいから早く『マリエラ』を返せ!!『彼女』がいないと、僕は辛くて辛くて仕方がないんだよ!だから頼む、返してくれよ、頼むから!!!」
――辛い?何が?僕は、一体何が辛いんだ?
老人は、狂ったようにその両肩を揺らして懇願してくるジョーの様子を、どこか哀しげに見つめていた。まるで何かを惜しんでいるかのようにも見えた。そんな老人の姿に、ジョーは終ぞ気づく事は無かった。
「言うたじゃろう。ここにはいない、と。……つい先程、ベルが鳴ったな。外に出て、郵便受けの中を見なさい。そこに、お前さんが見つけるべきものへの道しるべがある。それは『合図』じゃ。お前さんが失くしてしまった、秘密に繋がる大事な鍵じゃよ。文字通り、な。……それでは、わしは行くとしようかの。後の事は、お前さん次第じゃ。」

メリークリスマス――。

その一言を最後に、老人は目の前からふっと姿を消した。
「!?えっ……消え、た?嘘だろう……?」
人が一瞬で消える。超常現象を目の当たりにしたジョーは思わずよろめく。だが、老人の言葉が頭に反芻された時、彼はがっと椅子をつかんでその体を持ちこたえた。
『郵便受けの中』『見つけるべきものの道しるべ』『合図』……。
「合図……合図って、まさかっ……!」
瞬間、ジョーの中に浮かび上がった記憶。それは彼にとって『見たくない真実』を薄っすらと思い起こさせようとしていたが、今の彼にそれを気にする余裕はなかった。
ジョーは、玄関先へと駆け出した。靴をつっかけながら外へ飛び出し、郵便受けの中を確認する。
勢い良く開けた衝撃で、何か月も取り出していなかった新聞がざあっと溢れ出してきた。しかしジョーはそれに構う事無く、さらにその中から郵便物を次々取り出していく。
そして、全ての郵便物がなくなり、空っぽになった郵便受けの一番底。その中央に、それはぽつんと置かれていた。
「!!!これは……」
――銀色の鍵。引き出しの施錠に使うような、小さい鍵。
ジョーは、息を呑んだ。知っている。僕は、これが何だか知っている。そして、それをどうして失くしてしまったのかも。
郵便受けから鍵を取り出して、ジョーは家の中へ戻る。そのまま二階への階段を上り、ある一室の前で立ち止まった。
ジョーとマリエラの寝室。ジョーが銀の懐中時計を探している時に、唯一入らなかった部屋。
いや、入らなかった、というよりは、入れなかった、と言っても正しいのかもしれない。何故なら、そこに入ってしまえば、彼は否が応でも思いださなければならなかったから。『見たくない真実』を。
ジョーは、鍵を握りしめたまま、長い間部屋の前で立ち尽くしていた。胸の鼓動は、早鐘を打っていた。その表情はこわばり、額からは冷や汗が噴き出ていた。
恐ろしかった。ジョーは今、自分が見ないようにしてきた真実に自ら直面しようとしていた。
こわい、こわい、みたくない、しりたくない、もうこれいじょうぜつぼうしたくない……!!
身を縮こまらせてぎゅっと目をつぶったジョーの脳裏に、あの老人の言葉が再び蘇った。

『あの『天使』は、奇跡が起こる事を願っていた。だから、わしはあの子のもとへ来た。あの子と主人であるお前さんの願いを叶えるためにな。』
『わしは銀の懐中時計に宿った『天使』と契約を結び、今ここでお前さんに奇跡を与えに来たのじゃ。』

銀の懐中時計の、『天使』。
あの老人の予言めいた言葉は当たっていた。失くしてしまったマリエラの秘密を知る『合図』となる鍵は、確かに郵便受けの中に入っていた。
ならば。もし、万が一、老人の語った『天使』の話も本当だとしたら……。
――『マリエラ』。まさか、君が願ったのかい?僕が真実を受け入れる事を、そして……前に進む事を。
他人が聞けば、何と馬鹿馬鹿しいと一笑に付すような理由。それでも、その見えない想いはジョーの心を確かに動かした。
ジョーは、意を決して寝室のドアをゆっくりと開けていった。

そこは、『あの日』から何も変わってはいなかった。
優しいクリーム色の壁紙に、柔らかな羽毛の絨毯。マリエラの好みで選ばれた、白いレースのカーテン。二人の着替えが上と下三段ずつで分けられて入れられているタンス。マリエラが愛用していた化粧品やアクセサリーが整理整頓して並べられている、彼女専用の鏡台。骨董屋で一目惚れし衝動買いをしたことでマリエラから怒られたものの、結局は彼女も気に入って部屋に置いた、長身のライトスタンド。二人で相談しながら選んで買った、美しい草原が描かれた壁掛け用の水彩画。
そして――部屋の一番奥。白い掛布団に覆われたダブルベッドとその左横に置かれた木製の椅子。
そう……マリエラはあのベッドで、毎日横になっていた。そして、僕はその椅子に座って、毎日彼女と話をしていた。
『あの日』まで――約一年前、マリエラが、病で、死んでしまうまで。

ジョーは、膝から崩れ落ちた。ついに、彼は真実を見てしまった。
ジョーが心から愛した妻マリエラは、もうこの世にはいないのだ、と。
だが、彼はここで泣き伏してしまう訳にはいかなかった。はっはっ、と浅い呼吸を繰り返しながら、彼は手に握りしめた銀色の鍵を見つめ、ゆっくりと立ち上がる。そのままそっと、床を擦る様に足を進めると、ダブルベットの右横に置かれた小さなキャビネットの元へたどり着いた。
――『あの日』を迎える数週間前、マリエラはジョーに銀色の小さな鍵を渡してきた。『あの時約束した合図』だと言って。
――ジョーは分かっていた。恐らく、マリエラが日記だといった書き物は、彼女にとっての遺書であると。合図を出した、鍵をジョーに渡したという事はつまり、彼女はもう自分の死期が近い事を悟っているのだと。
――ジョーは、信じられなかった。信じたくなかった。マリエラが自分との別れを覚悟してしまっている事を。自分の傍で生き続ける事を諦めてしまった事を。それが、彼にとっては大きな裏切りのように思えたのだ。どうして、どうして。何度も尋ねようかと思った。だが、出来なかった。その時も、マリエラから告げられる真実を受け止めるのを恐れて逃げてしまった。それが、彼の心に大きな影を落とす事になった。
――マリエラの予感は当たっていた。その数週間後の『あの日』、彼女はこの家で静かに息をひきとった。葬儀を終えた後、ジョーは『合図』の鍵を墓場近くの茂みに投げ捨てた。
――見たくなかったのだ。マリエラが、自分に対して遺したであろう別れの言葉を。だって、それを見てしまったら、自分は永遠に彼女と分かたれることになってしまう。死という越えられない壁の前で。
――だから、なかった事にした。マリエラが死んだ事も、遺書がある事も、自分がその存在を疎んじていた事を彼女に言えなかった事も、全部。なかった事にすれば、見ないふりをすれば、悲しみも苦しみも後悔も全部忘れられる。
――そうして、ジョーは幻想へ逃れた。銀の懐中時計を『マリエラ』に仕立て上げて、話しかけ続けた。そこにマリエラがまだ生きているかのように。そうすれば、彼は今まで通りでいられた。心を暗い感情に支配されずに済んだ。
だが、もう夢から覚める時間だ。銀の懐中時計にいる『天使』なるものが、自分の背を押してくれている。だから、ここで更なる真実に向き合わなければならない。ここでくじけたら、もう二度と立ち直れない。そんな気がした。
ジョーは、キャビネットの一段目、中央にある鍵穴に銀色の小さな鍵を差し込んで右にひねった。かちゃり、と小気味よい音がして、鍵が開いた事を確信する。
キャビネットの引き出しをそっと開ける。
中央に、紙の束が置いてある。これが、マリエラの『秘密』なのか?
ジョーは、それを手にとり、その表紙を見て唖然とした。

『銀色妖精の夢冒険   メラリア・クラーク』

メラリア・クラーク?自分はその名前を知らない。
だが、その姓なら聞き覚えがある。クラーク。マリエラが自分と結婚する前の旧姓だった。
そして、そこに書かれた文字の筆跡はどう見てもマリエラ本人のものだ。Mを斜めに書く彼女の癖が、このページの文字にもよく表れている。
ファンタジックな言葉の並び。知らない名前と旧姓で作られた名前。
――どう見ても、小説の題名とペンネーム、じゃないか。
それに気づいたジョーは、ぱらりとページをめくる。そこには、びっしりと文章の羅列が揃っていた。
内容は、よくあるファンタジーだった。銀色の髪と同色の可愛らしいドレスを身にまとった妖精は、普段は主人の元で穏やかにその生活を見届けている。だが、彼女がその本領を発揮するのは夜、人間達が寝静まってからだ。妖精は、夜な夜な人間達の夢を渡り歩いては様々な人間の想いを覗いていく。そして、悲しみや苦しみなどの暗い感情に支配された人間達を苛む悪夢には、その感情がどこから生まれたのかを探り、最終的に自身の不思議な力でそれを浄化するのだ。
『チックタック、チックタック。歪んだ想いよ、正しき時の流れに眠れ!』
夜が明ける頃、妖精は悪夢祓いを終え、自分の家に戻っていく。力を使いすぎたから、今日はずっとお昼寝ね、そう言って妖精が眠りについたのは、主人が持ち歩いている銀色の懐中時計の中であった……。
全てを読み終えたジョーは、呆然としていた。
彼は、『秘密』の文書の事をずっと遺書だと思っていた。
だが、この紙の束には、その小説以外に書かれている事は何もなかった。自分への別れの言葉も、先に逝ってしまう謝罪も、死に近づく恐怖や悲しみも、一切書かれていなかった。
そこにあるのは、小説家の夫に触発されて物書きに挑戦した妻のささやかな成果であった。
「…………全く、君って人は、本当に…………っ。」
ジョーは、くしゃりと顔を歪めた。その目に涙がせり上がり、つうと頬に流れていく。
彼は、マリエラの小説を胸に抱きしめて、静かに泣き続けた。
マリエラの遺した処女作にして最後の作品。それがジョーに何を与えたのか、それは彼本人にしか分からない。
そんな彼の後ろ、キャビネットの上で、無くなっていたはずの銀色の懐中時計が朝日を受けて優しい光を放っていた。

***


≪――これで、本当に良かったのかね?≫
家の外で泣きじゃくるジョーを窓越しに見つめながら、≪サンタクロース≫  は尋ねた。
『ええ。これで良かったのよ。私にとっても、ジョーにとっても。』
隣で、銀の懐中時計の『天使』がそう答えながら静かに微笑んだ。そこには、先ほど追い詰められていた時の鬼気迫る感情はすでになかった。
『≪サンタクロース≫ 、あなたこそ、これで良かったの?私は貴方と契約して力を使ったら、記憶が消えてしまうのではなかったかしら?なのに、私はこうして記憶を維持したままここに『天使』として残っていられている。貴方はそれでいいの?』
≪ふぉっふぉっふぉっ。心配はいらん。わしが言うた代償は、転生など大きな願い事を叶える時に必要になる、という例えにすぎん。お前さんの願いは、依り代である銀の懐中時計を隠す事、そして主人が紛失したマリエラの秘密の鍵を復活させる事。それくらいならば、お前さんが消えるほどの力を使う事はなかったのじゃよ。≫
『そうは言ったって……』
≪何を不満そうにしておる?契約はなされ、それはしかと発動した。現にお前さんにはすでに代償――力を使った証がきっちり残っているじゃろう?≫
≪サンタクロース≫ が指をさした先には、肩まで切り揃えられた美しい金髪。
『天使』は、短くなったその髪を一つまみ持ち上げて不安げに言う。
『代償っていうから、しばらく依り代で眠る事になるくらい覚悟していたのに……。まさか髪をばっさり切られるなんて思ってもいなかったわ。これ、本当に力を使うための代償になったの?』
≪お前さん、律儀だのう……。大丈夫じゃ、古来より髪というものは魔法の力を多く蓄える事が出来る。お前さんの腰までのびていたあの髪の量だけで、十分『奇跡』を起こせるだけの力を発揮できた。安心するが良い。≫
『そう……なら、いいんだけど。』
ほっとした顔で、『天使』は再びジョーの方を見つめる。
≪それにしても、驚いた。お前さんは、てっきり転生して人間としての道を歩むものだと思っておったのじゃが。まさか、全く違う願いを言うてくるとは思わなかったぞ。≫
その話題に触れられることは予想していたのか、『天使』は苦笑して≪サンタクロース≫ の会話にのった。
『実は、貴方から決断を迫られた時、人間になろうと思ってはいたのよ?もう自分がナニモノであるのか考え続けたくなかった。ただこの状況から逃げたくて、その道を選ぼうとした。でも、その時に、私を買った時に聞こえたマリエラの言葉を思い出したのよ。』
≪マリエラの言葉、じゃと?≫
『天使』は深く頷いて、呟くように言った。

『ジョーに、正しい時を歩ませてあげて、って。』

≪サンタクロース≫ は、その言葉に目を瞠る。
≪正しい時を……?≫
『その瞬間、一気に自分の中で答えが出たの。どうして『天使』として私が生まれたのか。
 私は懐中時計、主の為に正しく時間を刻み、それを教えるのが元々の役目。マリエラは、ジョーがどんな時でも自分にとって『正しい時』を歩めるように、そんな願いを込めて私を彼に贈った。 
 今となってはジョーが私の主人だけど、最初に私を手に取って想いを託したのはマリエラ。
 なら、私は"最初の主"だったマリエラの願いを叶える。ジョーに正しい時を歩ませる。
 そのためには、私が人間になってはいけないと思ったのよ。また彼がマリエラの幻に囚われたら、彼は『マリエラが死んだ』という正しい時の流れに今度こそ置いて行かれてしまう。それだけはやってはいけないと思い留まったの。』
そこまで話し終えると、一旦『天使』は息をついた。そして、続ける。
『ジョーに正しい時を歩ませるにはどうすればいいか。それは分かっていた。彼に『マリエラは死んだ』と正しく認識させて、その上で彼自身に行動を起こさせる事。一番簡単に出る答えだけど、一番成し遂げるのが難しい問題よね。私は悩んだわ。……でも、最良とは言えずとも、最善の道を私は見いだせた。他でもない、私の仲間、銀色の櫛のおかげでね。』
≪銀色の櫛……お前さんが『天使』として生まれる前に、仲良くしておったと言っていたな。≫
『そう。まだ日常が穏やかだった頃、あの人が私に教えてくれたのよ。マリエラが夫の小説に憧れて、こっそり自分でも小説を書き始めているってね。ジョーが家を出ている時や深夜、彼にばれない様に書いているみたいだから、きっと完成したらサプライズで見せるつもりなんだろうって。マリエラが病気で倒れ、家で療養している時も、彼女は隙を見て小説を書き続けていたらしいわ。だから、マリエラがジョーに『合図を送ったら見せられる書き物』の話をした時に、ああ、きっとその小説の事なんだな、って思っていたものだった。
……すっかり忘れていたわ、私も。自分の事でいっぱいいっぱいになって。櫛が教えてくれた事、マリエラが残したもの、全てあのキャビネットの中にしまいっぱなしだったの。』
ふう、と息をつき、『天使』は空を見上げた。その目は遠く何かを見ている。それは天へ昇ったマリエラなのか、死出の旅路の供をした櫛なのか、≪サンタクロース≫ には分からなかった。
『マリエラが残した想いをジョーに届ける……彼の時を再び元の流れに戻すために考えてやってみたけれど、これで一体どうなるのか、私にはもう分からない。あの小説の中身が何なのか私は知らないし、もしかしたらマリエラがあの中に入れていたのは小説じゃなくて、それとは別に書いていた遺書かもしれない。あの紙の束に込められたマリエラの意思に、ジョーがどう応えるか……それはもう、本当に彼次第ね。』
肩をすくめる『天使』に、≪サンタクロース≫ は少々咎めるような口調で問いかける。
≪だから、言うたじゃろうが。キャビネットの中身を見ておかなくて良いのか、と。そうすれば、お前さんとわしとでどうとでも対処ができたであろうに。≫
そんな≪サンタクロース≫ の様子にくすくすと小さく笑いながら、『天使』は言葉を返す。
『いいの、見なくたって。マリエラは、ジョーに『合図』の鍵を渡した。つまり、マリエラはジョーに最初に自分の文章を読んでもらいたかったって事。だから、一番初めにあの中身を読んでいいのは私じゃない。そして、それに手を加える権利も私にはないのよ。』
真っすぐに言い切る『天使』を見て、≪サンタクロース≫ はどこか哀し気に目を細めた。
≪……お前さん、何度も言って悪いが、本当にこれで良かったのか?確かに事態は動いたが、これで決してジョーが立ち直れるという保障はない。むしろ更にマリエラを恋しがって苦しむかもしれん。その時、お前さんに出来る事は何もないのじゃぞ。お前さんは未だ『天使』、その声も想いもジョーには届かない。そうなった時、お前さんは主人と自身の苦しみに耐えながら主人を見守り続ける事が出来るのか?≫
≪サンタクロース≫ の容赦ない質問に、『天使』は思わず目を伏せる。だが、少々の沈黙の後、『天使』は顔をあげてきっぱりと答えた。

『――ええ、見守り続けるわ。後悔はない。だって、私は信じるから。ジョーはきっと立ち直る、と。マリエラだって、きっとそう思っているはずだわ。』

≪サンタクロース≫ は、『天使』の煌めく翠玉の瞳に圧倒された。きっとその光は、朝日に照らされただけで生まれたものではない、と≪サンタクロース≫ は直感していた。
『髪を切ったとは言え、見た目は完全にマリエラのままだし、未だにジョーに対しては愛しい想いがあるけれど。
 ……でも、いいの。私がナニモノか、ようやく分かったから。
 私は、銀の懐中時計。マリエラの願いを受け継いで、ジョーの時を刻むモノ。
 だから、私は時を動かし続けるわ。ジョーの人生を一分一秒間違えることなく。
 これからも、ジョーはまた幾度となく迷うでしょう。自分の行く先が果たして『正しい』のか。
 でも、どんな結末であれ、今の状況を受け入れて、そこから考えて動き出せば、それこそがジョーの人生において  『正しい時の流れ』になる。
 今回、貴方がジョーと私に『奇跡』を見せてくれた。私の存在を、彼に伝えてくれた。
 それはきっと、ジョーがこの先『正しい時の流れ』を見出す時に強い道しるべとなってくれるでしょう。
 ありがとう、≪サンタクロース≫ 。貴方の『奇跡』は、確かに私達を救ったわ。』
じゃあ、私行くわね、さようなら、またいつか。
そう言い残し、『天使』は≪サンタクロース≫の 隣から姿を消した。依り代の銀の懐中時計に戻ったのだろう。

その場にたたずんでいた≪サンタクロース≫ は、『天使』から告げられた意志と感謝を頭の中で繰り返し思い返した。そうして、すうっと空を見上げた。
『サンタクロース』の目じりから一筋の涙が伝い落ちていた。

――ああ、このような奇跡の形もあるのか。あってよかったのか。

≪サンタクロース≫ は、ずっと思い悩んでいた。今回の内容は、全く持って『奇跡』とは言えない代物だった。
主人は夢想から抜け出すことが出来るかも分からない、『天使』も人間になることが出来ず、その想いは主人に届く事も無い。このような曖昧な結末を『奇跡』などと呼べるものか。
≪サンタクロース≫ は、主人を見守り続けると選択した『天使』に歯がゆさと無力さを感じていた。あまり感情を揺らさない≪サンタクロース≫にしては、珍しい事だった。
故に何度も「これで良かったのか」と問いかけたのだが、『天使』は己の選択を翻す事は無かった。むしろ、それに自信と誇りをもって答え、こちらに感謝まで返してきたのだ。
≪サンタクロース≫ の『奇跡』は自分達を救った、と。
≪サンタクロース≫ は、空を見上げ続ける。この地域では、あまり見ない晴天だ。
美しく光り輝く太陽に向かって、≪サンタクロース≫ は飛び上がった。次の『天使』と主人の願い事を叶えに行かなければならない。
どんどん小さくなっていく赤茶色のレンガ屋根の家を見ながら、≪サンタクロース≫ は夢想する。
きっと、今年のクリスマス、主人は愛する妻の墓参りに出かけるだろう。そしてその夜、盛大に宴を催すだろう。それは一人だけの宴かもしれないが、決して彼の心は悲しみで満たされてはいないはずだ。
そうしてしばらくしたら、また小説家の仕事を再開させるだろう。読者を喜ばせる作品を世に出しながら、生涯現役で小説家の活動を続けていくだろう。亡き妻の憧れを、その背に背負いながら。
銀の懐中時計の『天使』は、そんな彼を静かに見守っているだろう。もしかしたら、その姿は銀髪で同色の可愛らしいドレスに変わっているかもしれない。名前だって、もしかしたら『マリエラ』から『メラリア』に変わっているかもしれない。主人の妻の願いを受け継ぐ存在なのだ。妻が創り出した強く美しいヒロインの姿になる、そんな『奇跡』があってもおかしくない。
時が経ち、主人が寿命を終えた時、銀の懐中時計は彼の遺言通りに遺体と共に土に埋められるだろう。天に召され、主人と『天使』は共に行く。天上で待ち続けていた妻と銀色の櫛の元へ。そして、『天使』は"最初の主人"に告げるのだ。主人が『正しい時』を歩む事が出来たかどうか――。
≪サンタクロース≫ はそこまで想いを馳せて、忍び笑いをした。あの主人と『天使』の行く末など神にも分からぬというのに、どうしてだろうか、明るく優しい未来が見えるような気がしてならない。

この行く当てのない夢想が、彼らの『正しい時の流れ』とならん事を。

そんな願いを心の内に呟きながら、≪サンタクロース≫ はその姿を消した。





クリスマスに起こる奇跡。
それは、誰にも知られないまま、今もどこかで叶えられ続けている。



                                     <終>
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