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肌色のニロニロ

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 梅雨の厚い雲に覆われた空。日暮れにはまだ間があるというのに森の道は夕方のように暗かった。

 吟遊詩人Sは、この森に入った時から、低く響く呪文のような声と、身体にべったり貼りつく舐めるような視線を感じていた。

 鬱陶しい。

 だが、確認しようとして立ち止まると、声も視線も瞬時に霧散した。一人の旅には慣れているSだが、どこか薄ら寒い気持ちが募っていった。

 この旅の目的地である妖精の村は、この森を抜けた向こう側にある。今回は梅雨が明ける前に妖精たちに今年の夏の歌を届ける約束だ、と、いうことにしてある。本当の旅の目的は別にある。だから今回もいつもより左に少し外れたこの道を選んだ。この森は、ほんの少し道をずれだけで全く違う顔を見せる。妖精たちからは『あやかしの森』と呼ばれていた。

 道のそこここに水溜りが出来ていた。靴を濡らさないように注意しながらソロソロと歩いていたが、少し進むと道は完全に浸水していた。梅雨の雨で水溜りが出来るくらいのことは、特段おかしなことではないが、これはあまりにも酷い。まるで池だ。夕暮が近い。ただでさえ不気味な森で、暗闇に巻かれてしまうことを思うと気が急いた。

「くっそお、もういいや」

 Sは靴や足が濡れてしまうことを諦め、ビシャビシャと音を立てて歩き出した。急いだ方がいい。本能がそう叫んでいた。Sが急いで歩けば歩くほどあの呪文のような音は大きくなり、森の木々の隙間からのぞく視線の粘着度も増していく。Sが一際大きな水溜りを突っ切ろうとした時、右側の木立の上から何が落ちて水溜りに飛沫を上げた。

「うわっ」

 Sは小さく声を上げて足を止める。何だ。何が落ちて来たんだ?覗き込むと、それは妖精の村でよく見かける生き物(確かニロニロと言っただろうか)に良く似た20センチほどの小さな細長い生き物だった。丁度身体の真ん中付近に二本の短い手があり、その先に5本の指に似た突起を付けている。ここは妖精の村からもほど近いので、こうした生き物がいてもおかしくない。Sはちょっとホッして再び歩き出そうとした。あれ?あれ?足が動かない。おかしいなと思って足元を確認したSは、思わず大声を上げた。

「うわああああああああ」

 そこには何十匹ものニロニロがSの両足にその小さな手のようなもので絡みついていた。そうだ。何かがおかしいと思ったのは、妖精の村のニロニロは真っ白なはずなのに、こいつらはオレンジ掛かった肌色をしている。小さな手をまるで触手のように伸ばしてSの足に巻きつけているのだ。Sが動けなくなったことを察知したのか、森の木の陰から様子を見ていた数えきれないほどの大群のニロニロがSに向かって押し寄せてきた。

 この視線だ。森に入ったところからSに張り付いていた小さな点のような無数の目。ニロニロはその手を使ってSの身体に這い上がってくる。太腿から腰へ、そして腹から背中、胸から腕を覆い尽くしたニロニロは、Sの顔にもその触手を伸ばしてきた。薄緑色のポンチョは、既にその色さえも判別出来なくなっていた。1匹のニロニロがSの形の良い唇に直径3~4センチほどに少し膨らんだ頭の部分を擦り付けている。その先端から沁みだしている白濁した液体にSの顔が徐々に濡れていった。

「や、やめろ」

 必死に応戦していたSの動きが徐々に衰え、やがて完全に停止した。ニロニロの大群はSの帽子まで覆い尽くすと、森の中へSの身体をジリジリと運んでいった。

(続く)
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