魔王攻略

千次屋らいむ

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1章

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登場人物・用語

シズ:魔術師であり勇者。紫陽族。アカデミー出身者であり、「ギフト」の三人のメンバーのうちの一人であった。元(?) 恋人のタイムを説得するため、パルフ、スタンとパーティを組んで旅に出る。ナルシスト疑惑がある。

タイム:魔術師の王=魔王。ヒューマン。アカデミーの出身者で、「ギフト」のメンバーだった。Thymeの名はギリシャ語で「勇気」の名をもつハーブから取られている。

パルフ:パーティの戦士。太陽族。元は隣国ルイナから居を追われテレサスに移住してきた。アカデミーの戦術学校出身者で、最強と謳われた。だが人付き合いのスキルは全くない。四角四面な性格。

スタン:パルフの弟。パーティのメンバーだが非戦闘要員。かつて移民収容所にいた。太陽族とヒューマンの混血。未成年だが、パルフの代わりに仕事の交渉を引き受けている。割としたたかな性格。

コブラ:魔王軍の将軍。ヒューマン。アカデミー戦術学校出身者であり、かつて最強と呼ばれた。本名はサムヌア村のタム。

ルビー:タイムの幼馴染。アカデミーの出身者で、「ギフト」の元メンバー。紫陽族。現在は魔法解除の術を研究しており、魔術師を追う立場である保安官となっている。

ランサ:隣国ルイナの王。紫陽族。シズ曰く「独身でホットでセクシー」だがルイナ国内において太陽族の迫害を行っている疑惑がある。

ライラ:隣国ルイナの王の姪。紫陽族。生物オタクを装っているがテレサスの魔王であるタイムに近づく。
 
ヤン:パルフの戦術学校の同期。ヒューマン。

「ザ・マスタープラン」
魔王を玉座から解放する唯一の方法。「モンスターを一匹ずつ追い詰めて彼らが所持していた『魔導書』を集め、完成させると『ドラゴンが降りて』魔王の治世が終わる」という伝説。

「ザ・ゴールデン・パス」(旧街道)
王の宝物のための巡礼街道。宿屋が並んでいる。封印された王の宝物は「どんな願いも叶える」という。

「アカデミー」
かつて存在した魔術学校と戦術学校の総称。魔術学校の最終学年では「ギフト」と呼ばれる成績優秀者のグループがあった。 


 世界には三種類の種族がいた。
 紫陽族。太陽族。それからヒューマンだ。紫陽族はラベンダー色の肌に黒髪と繊細な感覚を持ち合わせており、尖った耳を持ち、優美で、魔術、戦術をはじめ何事にも秀でている。太陽族はカナリア色の肌と金髪を持ち、背が高く、戦闘能力に優れている。耳はわずかに尖っている。そしてヒューマン。この種族には特徴らしい特徴がない。とにかく地味で、そう、地味……
「ちょっと主観が入りすぎじゃない?」
 カナリア色の髪と肌である太陽族の少年が言った。平均的な太陽族よりも滑らかな尖りの耳を持っており、ヒューマンとの混血とみられる。彼……スタンはカーキ色のフード付きのコートを着ており、髪は無造作に伸びている。
「スタンは黙ってろ。それに主観じゃない。ヒューマンが地味なのは事実だ」
 ラベンダー色をした肌に黒髪……紫陽族の男が不本意そうに言った。彼の名前はシズ。このパーティのリーダーであり、つまりいわゆる「勇者」である。初期装備らしい革の鎧に、金属の肩当てをつけている。不可抗力により世界観の説明をしていたが、飽きたらしい。
 彼らは強力なモンスターが出ると噂の海辺にいた。
「シッ!何か出てくる」
 カナリア色の肌と髪、太陽族の女性が二人を牽制した。パルフだ。彼女は二人の不毛な言い合いに耳を貸さずモンスターの気配を感じるべく全身の器官を使っていた。
 大きな唸り声と共に、海からモンスターが姿を現した。長い体躯はうろこに覆われており、碧く、ぬるぬるとうねっている……シー・サーペント、ウミヘビだ。
「出たぞ」
 シズが叫んだ。モンスターを前にして大きな声を出すのは注意を引くため禁忌とされているが、彼が気にする様子はない。代わりに、詠唱してその指から青い光を出し、その光がシー・サーペントの胴体を貫いた。モンスターは大きく身体をうねらせ、咆哮した。その声がバリバリと辺りの空気を震わせ、太陽族の少年……スタンは耳をふさいだ。
 パルフは小型のナイフを腰から出し、両手に提げて砂浜を走り、太陽族らしい驚異的な跳躍力でシー・サーペントの首元に乗った。
「かませオラァ!」
 ギャングだ、とスタンは思った。シズのこの手のあおりをどこかで聞いたことがあるが、ギャングの連中が喚いていたのと同じ類のものだ。前方にいる彼の表情は見えないが、きっとアドレナリンにきらきらと輝いていることだろう。
 ズン、とパルフがウミヘビの首にナイフを刺し、容赦を与えず手前に引く。モンスターは痛みから逃れようと身を左右に大きくうねらせるが、彼女はそれをものともせず冷静にしがみついて、致命傷を与え続ける。シズは青い光をいくつも手から出し、それを階段のステップのように使いながらパルフは踊るように何度もナイフを相手の身に刺した。
 シー・サーペントがひときわ大きく呻いて砂浜に大きな影を作りながら、身を横たえた。
次の瞬間、シズの手から出た光がモンスターの体内に入ったかと思うと、大きなウミヘビは爆発四散した。肉片が砂浜の上に飛び散る。
「うげっ」
 後ろで戦闘を見ていたスタンは顔を顰めた。シズは両手を宙に挙げてまるで雨を喜ぶ農夫のように全身で肉塊と血を浴びて笑っている。その姿にパルフも眉をひそめた。

「最後の爆発って必要だったか?」
 身体の汚れを払いながら宿屋に向かうシズにスタンは尋ねたが、彼は肩をすくめるだけだった。 
「かっこいいだろ」
「マジで言ってる?」
「モンスターはいいな。人間と違って好きなだけぶっ殺せる」
 スタンはこの男が「勇者」と呼ばれる事実を疑った。
「姉ちゃん、なんか言うことあるだろ」
「こいつのこの調子には慣れた」
 パルフはそれだけ言うと身体を拭きながらさっさと宿屋へ向かった。

魔王攻略

第一章 終わりの始まり

 宿屋が急に騒がしくなり、スタンは首を傾げた。部屋のドアを開けて入り口を覗くと、壮年の男が宿屋の主人に何か聞いているようだった。同じように自分の部屋から出てきたらしいパルフもそちらを覗いていた。
「魔術師がここにいるはずだ。教えろ」
「俺たちのことか?」
 シズは部屋から出て、老いた主人をかばうように男の目の前に立った。
「シズだな。噂は聞いてる。お前たちの一行が原因か?表でモンスターらしきものの肉片を見た。あれは何だ?」
「何だっけ?」
 シズは後ろを振り返る。パルフは黙って首を振った。
「シー・サーペント」
 スタンが答えた。
「シー・サーペントだってさ。だったもの、だけど。っていうのは俺たちが木っ端みじんにしたから」
「モンスターの状態を確認した。魔術の使用違反じゃないか?戦闘用の使用は控えるようにと」
「保安官だ」
 スタンがシズに耳打ちした。
「ブタどもめ」
「言葉遣いが汚いよ」
 スタンは彼をたしなめた。
「勇者の名にはふさわしくない奴だ。残念だな」
 げえ、とシズは不愉快そうな声を上げた。
「説教を聞く時間はねえぞ。俺は勇者ですなんて契約にサインした覚えはねえ。あんたらが管理上、勝手に呼んでるだけだろ。だいいちこんな老いぼれをよこすなんて、保安局は人員が足りないのか?」
「言葉が過ぎるぞ、勇者」
「政府軍はもう壊滅したのに、あんたら保安官がいるせいで、結局自由に魔術が使えねえ。魔術師を登録制にするって話はまだあるのか?」
「もちろんだ」
 シズはそれを聞いて冷たく笑った。
「くだらねえな。あんたらの管理下に置かれるなんてシャレにならねえ。だいいち、隣国との戦争が起こったらどうする?その時は俺たち魔術師にへいこらして頼るしかないだろ」
 保安官は納得がいったというように唸った。
「そうか、お前も戦争に期待しているタイプか」
「昔ほどではねえよ」
 シズは注釈を入れたが、相手は聞いていなかった。
「その時は魔王軍が対処する。問題ない」
「魔王軍は魔術を使うんじゃなかったっけ?結局、あんたらは状況に応じてコロコロ立場を変えるんだろ。おい、聞いてんのか」
 保安官はシズの喚きを聞かずに立ち去りかけていた。
「上に報告しておく。魔術の使用違反が続けばどうなるか、分かっているな」
「どうなるって言うんだよ」
 シズは保安官の背中に向かって叫んだが、彼が振り返ることはなかった。

 保安局は要するに元政府軍の人間が作った組織だ。魔術を目の敵にしていて、少しでも規定に違反する行為があれば地の果てまで追いかけてきて勧告する(勧告されるだけなら幸いだが)。魔術師が全力を発揮することはいつの時代でも憚られる。シズはそれを身をもって知っていたが、それは長い話だ。
「そういえば、パルフってなにかとお前に対して世話焼きなのに俺の言葉遣いは注意しないよな」
 シズは部屋に戻り、既にベッドに潜り込んでいたスタンに向かって言った。パルフは別室に戻ったらしい。彼女はいつも一定の睡眠時間を確保したがる。
「自覚あったんだ。でも、収容所はもっと酷かったからね」
 スタンは言った。
「今日はいろんなことがあったし、疲れたな。まだ早いけど、寝るか」
 そう彼が言いかけた時だった。
 宿の入り口のほうから声が聞こえた。
「ゼンさん!気をつけて……さっき、魔王の目撃情報が入った」




第二章 その男、魔王につき

 「何だって?この近くなのか」
 シズは光の速さで部屋から入り口まで移動し、宿の主人に声をかけた男に尋ねた。
「だ、誰」
「勇者の一行だ」
「勇者ってガラじゃねえ」
 シズは主人を手で制止し、近所の住人らしき男に続きを促した。
「シロ村のはずれだそうだ。話によれば、その男はボロボロの上着を着て……盗賊を瞬時に蹴散らしたらしい」

シロ村はシズたち一行がいる場所にほど近く、交通の要となっている。「ザ・ゴールデン・パス」いわゆる旧街道、王の宝物への巡礼街道の一部であり、旅人も多く行き来するため、彼らを狙った犯罪の温床にもなる。
 シー・サーペントを粉々にしたシズたちは知りようもないが、モンスターは魔王の「目」となっており、どこで何が起こっているか、魔王、タイムが知るためのツールとなっていた。それによって不審な動きがあった際にタイムが出動できるようになっていた。
 とはいえ、盗賊の類にはふつう魔王が手を下すわけがない。魔王城にはモンスター全体を管理するデスクがあり、そこで魔王の指揮下にあるモンスターの一つ、コウモリが見たものに従ってタイムは直属の部下であるコブラを伴ってシロ村に向かった。彼は執務の時に羽織る赤いマントではなく、いつも極秘の外出の際に着ているおんぼろの茶色のコートに腕を通した。
「行くぞ」
「はい」
シロ村はシズたち一行のいる宿屋がある海辺の村と違い、深い森に囲まれている。馬で飛ばしながら到着すると、盗賊たちは火を囲んでいるところだった。
「お前らの顔は知ってる」
「何だ?てめえ」
 盗賊は明らかに弱そうな、背丈の低いヒューマンであるタイムとコブラの二人を見て笑った。彼らが手を下すほどもなく、この男女は森の中で迷って死にそうな見た目をしていた。
「お前らは違法な魔道具を所持しているだけでなく、民間の人々を襲った。両方とも許される話ではない」
 コブラが淡々と言った。
「はあ?何様のつもりだ」
 タイムが腕を上げると、ヒュルヒュルと辺りの木が迫ってきて、いわゆる結界のようなものが作られた。これで彼らは逃げることができない。

「一瞬だったらしい。麻痺魔法を使ってな」
 
 辺りにチカっと光が満ちて、次の瞬間屈強な盗賊の男達は崩れ落ちていた。
「いってぇ!」
 静かな空間にタイムの声がこだました。飛び上がって魔術を使い、着地した瞬間に足を捻ったらしい。右足を抱えて無様に飛び跳ねるタイムの後ろから、紫色に光る大刀を男が振りかざした。
 だが、それが降ろされることはなかった。コブラが彼を後ろから羽交い絞めにしたのだ。すんでのところでタイムは手をかざし、男に麻痺魔法をかけた。
「ありがとう」
「準備運動不足のせいですよ。私がいなければ、危なかったですね」
 タイムは困ったように笑った。その笑顔はおよそ「魔王」という呼称からは想像できない、素朴なものだった。

 「盗賊を退治したんなら、いい奴じゃないか?」
 宿屋の主人は困惑したように言った。その後、結界から出てきたタイムたちは、盗賊の奪った物品を村の人々や旅人に返したらしい。
「分からない、あの男のすることだ。何か目的があるはず」
 話をしに来た男は不審げに言った。
「魔王はルイナからの移民に金を使いすぎなんだ。そんなの、俺たちの生活には関係ないことなのに」
 その横からシズが尋ねる。
「おじいさん、シロ村はここからどれくらい離れてるんです?」
「山ひとつ越えたところ……って、どこ行くんだい?」
 シズたち一行はいつの間にか支度を終え、宿屋からさっさと出ていくところだった。
「ゆっくり寝たかったが、仕方ないな」
 パルフが呟いたが、シズは最早聞いていなかった。
「待っててくれタイム、今会いに行くからな!」
 シズの叫びが夜の海辺にこだました。




















第三章 There are no backstories (in this section)

 「魔王のところに行きたい。なるはやで」
 数日前、シズのその言葉を聞いてパルフは首を傾げた。
「なるはや」
「なるべく早く」
 人の多いパブだった。その店ではパーティの勧誘や交渉がよく行われていた。ガチャガチャと食器の音や酔った人間の話し声が飛び交うので、パルフがシズの話を聞くにはテーブルに身を乗り出さないといけなかった。パルフはいつもはあまり飲まなかったが、今日は良いことが起こりそうだったのでビールを注文していた。
「それは私をパーティに勧誘しているということか?」
「そうだ。ずっと計画を立ててた」
 目の前の男はせわしなく指をいじっていた。それは焦っていたり、不安になっていたりするサインだ。弟のスタンが言っていた。彼について詳しくは知らないが、アカデミーにいた頃はいつも自信満々に見えていた。今日は、何か不安になるようなことがあるのだろうか。
「他には誰がいる?」
 パルフは尋ねた。彼女は他の人とうまくいくことがあまりないから、過去にトラブルを起こした相手がパーティにいると気まずいかもしれない。だが、シズは言いにくそうにこう告げた。
「誰も、いない。俺とあんた、二人だけだ」
「なぜ」
 二人だけのパーティというのは聞いたことがない。近距離でもミッションに出るには、少なくとも四人ほどは要る。
「正直、誰にも言えないんだ……魔王を説得しに行くなんて。分かんないけど、あんたなら受け入れてくれるんじゃないかって思った」
 アカデミーで見かけた時の自信に満ちたシズの姿はどこにもなかった。少なくともパルフにはそう見えた。彼は戸惑っており、不確かで、助けを必要としているように見えた。シズは自嘲するように乾いた笑い声を小さく上げ、黒く長い前髪を払った。
 この男は、いまの魔王……タイムを王座から解放したいのだという。タイムという男をアカデミーで見かけたことは数回しかなかった。タイムとシズが恋仲にあったのは公然の事実だった(彼らが望むか望まないかに関わらず、アカデミーで噂が広がるのは早かったし、シズが一回目に告白してこっぴどく振られるところはみんなが見ていた)。つまり、かつて恋人だった男を魔王の重圧から楽にしたい、ということだろう。パルフにはその辺りの機微は分からないが、大切な者が危険のただなかにいるなら、そこから連れ出したい、重荷を背負わせたくないと思うのは当然のことだ。
「好都合かもしれない。私は他の人とうまくいかないことが多い」
 パルフにとって大切な者……スタンのことを考えながらそう言うと、パッとシズの整った顔が明るくなった。
「マジで?よかった。あんたが最後の希望って感じなんだ」
 パルフは頷いた。
「『ザ・マスタープラン』って言葉、聞いたことあるか?」
「いや。私は一般的な冒険者と違って、そういう用語にあまり詳しくない」
 彼女は他の冒険者と不仲になることが多いため、実際にミッションに出たことは少なかった。長旅となればなおさらだ。
「そっか。『マスタープラン』ってのは、魔王を王座から解放する唯一の方法なんだ。俺はそれを使ってタイムを解放したい」
「どういう内容なんだ?」
「モンスターを一匹ずつ追い詰めて、そいつらが持ってる『魔導書』を集めて完成させる必要がある。そうすれば『ドラゴンが降りて』魔王の治世が終わる、って伝説だ」
 ヒューマンの魔王についての伝説はパルフも聞いたことがあった。テレサスにはかつて数百年の間、魔術師の王……魔王が君臨していた。魔王になる者は魔力の強い紫陽族か、太陽族がほとんどだった。だが三百年前、初めてヒューマンの魔王が君臨した。彼は圧政を強いたため、軍のクーデターにより政権は転覆され、それ以降テレサスでは軍の支配が続いていた。
「ドラゴン、というのは本当にあの竜が降ってくるのか?」
「多分、疫病とか天災の比喩だろ。魔力が働いて、魔王の座からヒューマン自身が解放されるってわけ」
「なるほど」
 軍による政治が覆されたのが、数か月前のタイムによる魔王としての君臨というわけだ。その日のことをパルフもよく覚えている。嵐が起こり、テレサスの首都では混乱が極まっていた。軍のトップの人間が大勢謎の力によって死んだ。政権は廃墟となっていた魔王城に移り、アカデミーは混乱の中で解体された。
 魔王タイムが危険視されているのは、魔術師の王としての力を復活させたからだけではない。隣国ルイナからの移民支援に巨額の金を使っている、と噂されていることもあった。自身もルイナからテレサスへ移ってきたパルフは、それについて聞くと複雑な心境になった。タイムに味方したい気持ちと、何をするか分からないという危険さを恐れる気持ち、両方がパルフの中にあった。それを止めるというのは、理にかなっていることに思えた。
「モンスターと一匹ずつ対峙するっていうんで、危険すぎるからって他の冒険者には断られた。伝説の域を出ないわけだし、長旅になるしな」
「これまでは遠征に出たことはない。ミッションは近場のモンスター退治が多かった」
「だいたいの場所には宿屋があるから、大丈夫だと思う。『ザ・ゴールデン・パス』と被ってるところが多いからな」
「ゴールデン・パスとは?すまない、テレサス国内のことにはあまり詳しくなくて」
 一方シズはこの戦士を観察しながら、普通じゃないか、と思っていた。噂に聞くほどイカれてなんかない。話ができるし、これなら弟を通さなくても説得できるんじゃないか。
「いいんだよ。あんたルイナから来たんだもんな。『ザ・ゴールデン・パス』は、昔からある王の宝物を見に行くための道だ。巡礼道とか、旧街道ってやつだな。かなり整備されてて、道沿いには宿も多い。で、今回の騒動でそこにモンスターがたくさん配置されたってもんで、冒険者たちの格好の腕試しになってる」
「それを通って…『マスタープラン』を完成させるんだな?」
「そうそう」
 話の通じる人だ、とシズは思った。これまで誘いかけた冒険者と違い、危険すぎると喚くこともない。静かにこちらの提案を聞いてくれている。パルフは最強だけどヤバい奴、なんて噂したのは誰だ?全然そんなことないじゃないか。
 その噂はアカデミー時代からあった。戦術学校最強と謳われているが、一緒に働くのは到底無理。ルイナでは相当の人間を殺したらしい、殺人鬼だ、などと厄介な噂を流されていた彼女だが、いまパブのテーブルについて話をしている限り、静かで落ち着いた女性にしか見えない。
 その時、女性の甲高い叫び声が起こった。端のほうのテーブルで、鎧を身に着けた女性の冒険者が屈強な男に髪を掴まれてテーブルに押し付けられていた。
「大丈夫、ちょっと契約で揉めただけだ」
 二人の隣にいた痩せぎすの男が周りに言って回っていた。パルフはスッと席から立ち上がり、つかつかとそこに近づいた。
「彼女を離せ」
「なんだ?あんた。他のパーティの揉め事に口を出すな。これは俺たちの問題だ。そうだよな?ハンナ」
 男はテーブルの上に顔を押し付けられている冒険者に言ったが、その女性はパルフのほうを見上げて、口を「助けて」と動かした。
 パルフは何も言わずに、身体を構えの姿勢にすると、男に右フックを食らわせて吹っ飛ばした。ドシンと音がして彼はパブの壁にめり込んだ。
 それが合図だった。同じパーティの者らしい男たちが次々とパルフに襲いかかった。武器を持った者までいる。しばらくして、立っている者は一人だけになった。パルフだ。他の男たちはぶちのめされて床の上に伸びていた。
 シズはテーブルから歓声を送ると、ハンナと呼ばれていた女性に近づいていって手を差し出した。
「あなたは?」
「シズです」
「聞いたことある。アカデミーの人だよね」
「そう」
 シズは近づいてきたパルフにビールのジョッキを差し出した。
「さすが俺が腕を買っただけのことはあるな!」
 パルフは陶器のジョッキを受け取ってビールに口をつけた。その肩を叩いてシズは言う。
「まだ契約はしてない」
「そうじゃなくて……ほんとに噂通り変わった奴だな、あんた」
 パルフは片眉を上げてみせた。
「全ての契約は弟を通している。今から連絡しよう」

 「大変だったなあ……スタンを説得するの」
 シズはしみじみと言った。今、彼は大きなモンスターを魔力で締め上げていた。上半身が馬、下半身は魚のシーホースと呼ばれるものだ。
「いいから早く決着つけてよ。どうせ爆発させるんでしょ」
 スタンは水上のシズを見ながら、浜辺から叫んだ。

 魔王を説得しに行く、と聞かされた時、スタンが最初に思ったのは、こいつはアホか、ということだった。
 姉と違ってあちこちの噂に詳しいスタンは、もちろん今の魔王タイムが元アカデミーの魔術学校出身者であり、シズの恋人であったことは把握していた。だが、シズと姉が真剣な顔で相談してきた時、そんなことを言われるとは想定していなかったのだ。おまけに、各地のモンスターを倒して魔導書とやらを集めることが必須になるという。
「危険すぎる」
「そう言うだろうと思った」
 シズは知ったような顔で頷いた。アカデミーでは人気者で通っていたシズだが、恐らく他の連中には断られたのだろう。それで姉に近づいたというわけだ。
「でもパルフは並みの戦士じゃない。俺と一緒なら、モンスターなんて一瞬で倒せるはずだ」
「タイムが魔王の座に就いたのはもう何ヶ月も前の話だ。なんで今になって俺たちに頼むんだ?」
「金が……」
シズは珍しく自信がなさそうに俯いて呟いた。
「金がなかったから……」
「そっか」
「装備だってほとんどアカデミー時代と同じものだしな。それに、タイムは今、俺たちが想像しているよりも危険に近づいてる」
 シズは言った。確かに、魔王としての執務は並みの人間にはできないだろう。 
「なにせ隣国ルイナの王は……」
 パルフとスタンの二人は唾を飲み込んだ。テレサスに移住する前のことを思い出したのだ。きっと、ルイナの王がタイムに近づけば恐ろしいことが起こるに違いない。
「独身でホットでセクシーだと聞いている」
「なんて?」
 スタンは聞き返した。
「だから、ルイナの王ランサがタイムに近づけば、恐ろしいことになる」
 こいつってこんなにバカだったっけ、とスタンは思った。アカデミーの「ギフト」のメンバーは成績優秀な限られた者しかなれないはずだ。現に、去年はシズ、タイム、ルビーという女性の三人のみがギフトとして選ばれていた。他にも噂に聞いていた姿と、目の前で魔王オタクのように振る舞っているシズとはかなりの差があった。
「魔王城に乗り込まなくても色々方法はあるんじゃないか?」
「考えた。手紙とか伝書鳩とか、ご意見番とか」
「本気で言ってる?」
「『好きです!結婚してください』って伝書鳩を飛ばすのも考えた」
 スタンは後ろに倒れそうになった。

 「まあ、でも、結局俺たちは最強だから、こうしてここにいるってわけ」
 浜辺に降りてきたシズが指をパチンと打ち鳴らすと、背後にいたシーホースが爆発四散した。
「どうした、馬肉食べたかったか?」
 口をへの字に曲げているスタンにシズが尋ねた。
「馬肉か魚肉かわからないけど、ぜんぜん食べたくない」
 スタンはそう言ってわずかに身体についた血を拭った。
 いつの間にか砂浜の上にはシーホースが所持していたらしい魔導書が落ちていた。


































第四章 We Have the Power

 その頃、タイムは魔王城の自室に戻っていた。管理下にあるモンスターの数は日々変わるが、シズの姿はどこにも引っかからなかった。風の噂で彼が旅に出ているというのは聞いたが、どこにいるのか見当もつかない。モンスターがどこかで倒されているのを見て、彼ではないか、と思うこともあるが、確証はなかった。
 それに、もし魔王が彼を追っていることが知れて、保安官に追及されたらどうする?彼の身に危険が及んだら?それを考えるとタイムは身が縮む思いだった。その感覚には覚えがある。何度も体験したものだ。
 そもそも、あの人は俺のどこを好きになったんだろう。豪勢な魔王城の一角にある簡素な部屋で、タイムは考えた。思い出そうとしても喧嘩ばかりだ。最後に会ったのは林の中で、彼にはいつも迷惑をかけてばっかりだった。今回だってそうだ。仮にシズが旅に出ているとして、例えば「ザ・マスタープラン」を完成させるためだったら、申し訳ないにもほどがある。タイムには魔王の座を退く気はなかった。
 シズはいつもヒューマン専用の宿舎まで送ってくれて……一緒に海辺の村に行った。俺の故郷に似ているところ……そこで初めてあの人は俺に触れた。切羽詰まっていて、あんなに余裕のないところは見たことがなくて……
 そこまで考えて、タイムはシズのことをあまり思い出せなくなっていることに気づいた。カラスみたいに黒い髪、ラベンダー色の肌、薄い唇。強い手。それと……なんだっけ?手から砂がこぼれ落ちるみたいに、どんどん記憶が薄れていく。
 タイムの簡素な執務室の壁には、コブラから以前もらった豪勢な刺繍の入ったタペストリーが掛けてあった。でも、シズからもらったものは何も持っていない。タイムは段々分からなくなってきた。そもそも、俺のことを好きになってくれる人なんて、いたのかな?
「陛下!」
 コブラに呼ばれて、ベッドの上で思索にふけっていたタイムは我に返った。
「陛下はやめてくれって言ってるだろ」
「失礼しました、タイム様」
「様、もやめてくれ」
「はい。ところで、ルイナからライラ王女がお越しになりました」

 ライラは馬車の窓から外を眺めた。彼女は今回の探訪に心を躍らせていた。生物通で知られる彼女にとっては、テレサスの魔王の復活と同時に出現したというモンスターを見られることはこの上ない喜びだった。海辺の地域が多いテレサスでは、シーモンスターが多く現れるという。馬車の窓からもひょっとしたら見えるかもしれなかった。

 「もうお着きになるとは。早かったですね」
「お目にかかれて光栄ですわ、タイム様」
 ライラは紫陽族らしい漆黒でウェーブのかかった髪を編み込み、きれいなピンク色のドレスを着ている。タイムは微笑んでその手を取った。正直、ルイナ国王の姪である彼女が、この時期になぜルイナから訪問しようと思ったのか、分からない。人々が言うように本当に生物オタクだからなのだろうか。なぜ、今になって。
「わたくし、タイム様にお尋ねしたいことがいっぱいあるの。でも、あなた方がいたところで、きっとつまらないわよ」
 ライラは歌うような声で丁寧に人払いを要求してみせた。タイムの傍に常にいるコブラは心配そうな顔をしたが、彼は微笑んで「大丈夫」と言った。
「何かあれば、広間の外に我々がおりますから」
 コブラはそう念を押して部屋の外に出た。

「タイム様」
 ライラの声が急に低いものに変わり、タイムは驚いた。先程まで華やかな王女を装っていた彼女の表情は、深刻なものに見えた。
「……モンスターの話はいいんですか?」
「今日はお願いがあってここに来ました」
 そう言う声が震えているのにタイムは気づいた。
「あなたは国内で、ルイナからの太陽族の難民救済のために時間とお金を割いていると聞きました」
「ええ、確かにそうです。ルイナからテレサスへの国境を越えてくる人は年々増えている。なぜなのか、ご存じですか?」
「叔父上……ランサは」
 ライラは目を伏せて息を小さく吐いた。
「太陽族を迫害している」
「え?」
「聡明なあなたなら薄々お気づきだったのではないですか。数年前、叔父上は法律を作り、国内の太陽族を拘束するようになった。収容所では、恐ろしいことが行われているという噂があります」
「それから逃げた人々が、テレサスに来ていると?」
「そう」
 ライラは溜息をついた。
「私は保身のために、政治に興味のない、生物が好きなだけの姪を装っています。でも、叔父上はきっと気づいているのでしょうね、図書室への出入りを禁止されました」
「なぜ?」
「叔父上は」
 彼女は不安そうに指を組み直した。
「前王であった父の死以来変わってしまいました。彼の死に太陽族の者が絡んでいるのではないかと疑い……彼らを集めて、なにか恐ろしいことをしようとしている」
「恐ろしいこと、とは?」
「人体実験です」
 タイムは息を呑んだ。
「彼は国内の太陽族を捕らえ、収容所に送って、魔術での実験を彼らに行っている……それが私の知っている全てです」
 ライラは意を決したように目を閉じ、息を大きくついた。
「こんなこと、今日初めてお会いした方に頼むようなことではないですよね。分かっています。私は叔父上にとっては邪魔者……いえ、脅威なのです。もし私が死んだら、殺されたと思ってください。そして必ず、私たちの人々にとって正しいことをして」
「なぜ、危険を冒してまで俺のところに?」
「あなたなら、ルイナにいる太陽族、いえ、皆を救えるから」
 ライラの手は細かく震えていた。タイムはその手をとり、しっかりと握った。
「叔父上は、弱肉強食、というのが実際に当てはまると思っています。だから、弱い立場にある太陽族を平気で拘束できる。でもそれは、我々人間が見た側面の一つに過ぎない。それが本当なら、私たちのような力の弱い生き物は既に淘汰されているはず。でも、私たちは『方法』を見つけた」
 ライラは縋るようにタイムの手をぎゅっと握り返した。その手には人間の体温があった。
「あなたのことは話に聞いただけ。でも、信じられると思いました。周りに敵しかいないから、勘違いしただけかもしれませんが」
「ライラ様」
 タイムはなるべく力強く聞こえるように声を張った。この種類の不安は、彼も経験したことがある。命を狙われたわけではないが……独りぼっちで、周りに味方がいない不安だ。
「今日聞いたことは、誰にも話しません。ルイナで何か起こっているのは薄々感じていました。きっと、彼らにとって正しいことをします」
 ライラは小さく息を吐いた。泣きだそうとするのを抑えるような仕草だった。
「あなたは一人じゃない」
 タイムは、かつて他の人が彼に言ってくれたのと同じことをこの王女に告げた。ライラは目元を拭くと、身を起こし、パンパンと両手を叩いた。
「皆さん、入ってきて頂戴!お食事の時間にしようかしら。積もる話もまだまだありますわ」
 タイムがドアを開けると、彼女の従者がどやどやと入ってきた。これだけ人がいても、誰もライラの孤独を理解する者はいないのだ、と思うとタイムにはなんだか変な感じがした。先程までの心細そうな彼女の姿は消え、軽やかで、華々しい王女として振る舞っていた。

 食事を終え、ライラを彼女が滞在する部屋に送ってから、自室へ向かうタイムの後ろからコブラが付いてきた。
「ライラ様とはどのようなお話を?噂に聞くように、モンスターの話題ばかりでしたか?」
「長い話になる」
 タイムは赤いマントを脱ぎながら言った。
「全く、重いマントだよ。君はこんなもの着なくていいから良いよな」
「甲冑もそれなりの重さですが」
「とにかく、明日ゆっくり話そう」
「はい。ところで、シロ村の盗賊たちは名が知れていた連中だったようですが、我々が出るまでもなかったですね」
 タイムとコブラは時々、ああして悪党の出る場所に自ら赴いている。違法な魔術の使用や、魔道具の使用がみられた時に出ていくことが多い。魔術の使えない一般の兵士には危険なことが多いからだ。
「シズらしい冒険者が近くにいたという情報があるんだ」
「なるほど」
「結局、何も手がかりは得られなかったけどな」
 タイムはよくその名前を口にする。彼とは恋人同士だったと聞いたが、詳しく尋ねることはあまりしなかった。コブラもかつて在籍したアカデミーで、タイムと共に「ギフト」のメンバーだった男。魔王の胸中にいつもいる彼は一体どんな人間なのだろう。コブラはしばし想いを馳せた。

 「それ、撲殺!ぼくさつ!行け行け!」
「うるさいぞ、シズ」
 パルフは浜辺でシーピッグと呼ばれるモンスターを必死で追いかけて殴っていた。シーピッグは海辺に生息するモンスターで、ウロコに覆われた身体にいくつも目が付いている。集団で行動し、ピョンピョン飛び回るため、パルフは一匹ずつ岩場に追い詰めて倒していた。
「少しは手伝ってくれ」
「小型のモンスターだから要らないだろ」
 パルフが血塗れの手で何度か殴っていると、スッとシーピッグの姿が消え、代わりに魔導書らしい紙切れが砂浜に落ちた。
「やっと終わったか」
 シズは岩場からひらりと飛び降りてパルフのところに近づいた。
「ああ」
 パルフの顔は返り血で真っ赤になっていた。あれ、とシズは違和感を覚えた。目が据わっているのだ。いつもの冷静な彼女はそこにいなかった。
「パルフ?」
「あーもう、姉ちゃん血塗れじゃん」
 スタンが近づいてきて、ポケットから布を出し、パルフの顔を拭い始めた。
「自分でやる」
 そう言う姿と声音はいつもの彼女のもので、先程覚えた違和感の正体については忘れることにして、シズは宿屋へ足を向けた。








第五章 俺とあいつ

「なんであんたがタイムのこと好きだったのか、分かんなくなってきたよ」
 宿のベッドに座りながらスタンがため息をついた。
「ずっと一緒にいたら分かるけど、あんたって自分のことが一番好きだし、タイムのことずっと地味だって言うし。やばい戦闘狂だしさ」
「そうだな。私から見てもひどい」
 まだ寝るまでには時間があるため、パルフも彼らの部屋に来てベッドの上であぐらを組んでいた。
「ひどいこと言うな。そんなにかよ」
「自覚ないのか」
 シーピッグを倒した場所からそれほど離れていない村には小ぢんまりとした宿屋があった。旧街道は主に海辺を走っており、モンスター退治の旅にも便利だ。
「……そうだな。見たかったんだ」
「え?」
「あいつはずっと、俺とは違うものを見てた。もっと知りたい、って思ったのは初めてだったんだ。あいつと同じ景色が見たかった」
 シズは言った。
「……そっか」
「俺は変わったんだ。もう元の俺には戻れなくなった。あいつが俺を変えた」
 パルフはそれを聞いて、ここにはいない誰かを思い出すみたいに、どこかを眺めていた。
「これがミュージカルなら、アカデミーでの俺がいかに有望でハンサムで人気者だったか歌い始めるところだ」
「そういうの、尊大って言うんだよな」
スタンは溜息をついた。
「自分のことを話さずに、誰かについて語れないわけ」
「無理だな。まず俺の話をしてから」
「それよりさ」
 スタンは伸びをして言った。
「さっきも、宿の主人に旅の目的を聞かれたとき、腕試しだとか何とか言ってお茶を濁してたよね。どうしていつもさ、誰にも本当の目的を言わないの。魔王を解放するため、だって」
「誰にでもする話じゃないだろ。それに、『マスタープラン』は伝説にすぎない。そんな話を長々としてて、誰が聞くんだよ」
「スタンの言うことは一理ある」
 パルフが口を挟んだ。
「私も疑問だった。なぜ、私たち以外の人間には隠そうとするのか」
「別に隠そうとしてるわけじゃねえよ」
 シズは曖昧に笑ったが、パルフは真剣な顔を崩さなかった。
「恥ずかしいのか?魔王と一緒にいたことが」
「恥ずかしいわけないだろ。タイムはサイコーの人間だ」
「じゃあ、どうして本当のことを言わない?タイムはあんたの恋人で、彼を重圧から解放するために魔導書を集めているんだと」
「そう単純にはいかないんだ」
「もしかしたら、彼は孤独に感じているかもしれない。魔王としてみんなに恐れられているから。あんたが味方にならなかったら、誰が彼のそばにいるんだ?」
 パルフは一度物事に固執するとなかなか離れないことがあるが、今もそうらしい。面倒なことになった、とシズは思った。
「ハイ、この話、やめやめ」
 シズは手を何度か打って話を切り上げようとした。
「それより、どれだけ俺が人気だったか聞いてくれよ」

 ルビー・サンチェスは徹夜明けで保安局の本部にいた。彼女は紫陽族特有の黒い髪を赤く染めていて、無造作にひとまとめにしている。彼女はあくびをしながら廊下を渡った。
「おはよ。疲れた顔してんね」
 そう声をかけてきたのは同僚のシーラだ。
「夜遅くまで研究してたから。もうすぐ完成するんだ」
「研究?あんたっていつも実験と研究ばっかだよね。それより任務が先でしょ。見てよこれ、現場から採取されたシーホースの肉塊」
「うえっ、何でそんなもの見せるの」
「これは絶対違反でしょ。こんなにする必要ある?」
 ルビーは顔をしかめながら採取されたサンプルを見た。細切れになった肉は、例えば爆発に巻き込まれたかのようだった。
「あれ、本当らしいよ。アカデミーのパルフとシズが組んで旅に出てるって噂。パルフの弟らしい子と一緒に居るのをロウリーが見かけたって」
 シーラは頭を掻いた。
「いくらアカデミー最強だからって、戦闘要員二人だけで旅なんて、ありえないよね。何が目的なんだろ」
「今回のモンスター退治も、シズたちかもしれない」
 ルビーは言った。この戦い方からすると、彼は相当切羽詰まっているか、焦っている。何のために?
 例えば、魔王を止める、とか。
 ルビーはかつて「ギフト」のメンバーとして一緒にいた時のシズとタイムを思い出した。だとしたら、私は急がなくてはいけない。
「こんなにメチャクチャやる必要ってある?」
「さあ」
「モンスターを次々倒してるとしたら、相当金に困ってるか、腕試しがしたいかのどっちかだよね。それか、他に目的があるとか?」
 ルビーは『ザ・マスタープラン』のことを思い出した。彼女は口元に指で触れ、よく考え事をするときにそうするように顎に手を当てた。
「あー、ルビー?だめだ、ゾーンに入っちゃったよ」
 シーラが声をかけても、ルビーは思考の渦の中から帰って来なかった。

 タイム。私の王子様。
 彼はルビーの人生を丸ごとひっくり返してしまった。まるで魔法みたいに。
 誰かが彼を止めないといけない。彼を魔王の座から解放しないと。魔王でいることは危険で、彼の身に危険が及んでほしくないからだ。
 だが一つだけ言えるのは、『ザ・マスタープラン』はその解法ではない、ということだ。

 「自分に関係ないことなんてない」
 かつてタイムは言った。そして、ルビー自身の抱えていたものも、彼にとっては「関係ある」ことだったのだと思う。

 村の名家であるサンチェス家に生まれた女のするべきことはただ一つ、金持ちと結婚することだった。全ては事前に準備されていた。あの小さな村で、ルビーの人生のレールは生まれたときから決まっていたのだ。ただ一つルビーが他のサンチェス家の女と違ったのは、彼女にはタイムがいた、ということだった。
 ルビーとタイムには幼いころから魔術の才能があった。最初は、遊びの一つに過ぎなかった。サンチェス家の書斎にある本を出してきて、そこに書いてある呪文を詠唱すると、色々なことが起こった。その遊びは大人に見つかったが、彼らは怒らなかった。ただ「あり得ない」と言った。本の通りに詠唱しても、魔術が使える人間は限られているのだ。
 そのうち、二人は魔術師が使っている魔術が「読める」ようになった。普通なら、呪文を詠唱することで魔術が使えたが、二人は魔術をパッと見ただけで、術式が解読できたのだ。それができる魔術師は多くなかった。
「俺たち、アカデミーに行くべきだよ。優秀な生徒には奨学金が出るんだって。そうしたらこんな村から出られる」
 タイムが生きづらさを抱えていることには薄々気づいていた。それはあることに由来するものだったが、小さな村という特性上、それに関係した全てが彼をがんじがらめにしているのかもしれなかった。
「無理だよ、ここにいる限り私は他の誰かと結婚して生きていかないといけないの」
「そんな運命、変えられるって」
「あなたはサンチェス家に生まれた女性の運命を知らないんだよ」
 ルビーは突き放すように言ったことがある。でも彼は優しい人だったから、非難することはしなかった。
「奇跡が起こって、誰からここから連れ出してくれないかな」
 ルビーは溜息をついて言った。十日経てば、隣の村の家の嫡男と見合いをすることが決まっていた。息苦しかったが、父には逆らえなかった。誰も逆らったことがなかったからだ。
「起こるよ」
 タイムは無責任にもそう言った。これ以上彼と一緒にいると家の者に怪しまれる。二人の間には何もなかったとしても。だからその日は一旦帰ることにした。

 お見合いの日がやってきた。ルビーは顔にラベンダー色のファンデーションをはたかれ、頬と唇には紅を差された。ルビー色の胸の大きく開いたドレス。コルセットはきつかった。召使たちが忙しくルビーの周りで何かしていたが、その音はルビーの耳に入ってこなかった。
 突然、裏口がガチャリと開いて、誰かが入ってきた。逆行でよく見えなかった。その人が近くまで来て、ルビーは初めてそれがタイムであることに気付いた。彼はうやうやしく彼女の手を取った。
「俺は魔法使いだから、君を連れ出しに来た」
 その日からルビーの人生は丸ごと変わってしまった。二人はカバンを一つだけ持って、とにかく走った。走って走って、森の中を抜けて、なけなしの金をはたいて馬車に乗った。そしてアカデミーに着いた。そこでは文句なしに人々が魔術の才を持った二人を歓迎した。

 故郷で力を持っているルビーの父が、タイムを女手一つで育てた母親を追い詰めることを心配した。彼は父親から大事な「資産」である娘を奪ったも同然だからだ。だが彼の母親は地元の漁師たちを切り盛りしていて、したたかだった。誰も実際に力を持っている彼女に口出しできなかった。ルビーは月に一度家に手紙を出した。タイムにもそうするよう勧めたが、彼は曖昧な返事をするだけだった。

 テレサスの新都市にあるアカデミーでは隣国ルイナの脅威に備えるため、魔術学校、兵術学校が存在し、全国から才能ある若者たちが集まっていた。だが、軍の支配下ではどうしても魔法使いは邪険にされがちだった。また、違法な魔道具が出回っていたため、それが魔術師への風当たりを強くしていた。
「だから俺は、ルイナとの戦争が起これば魔術師に有利だと思ってたんだよ」
 シズはスタンに言って聞かせた。
「魔術師はいつの世でも恐れられて遠ざけられる存在だ。俺はルイナと戦って武勲を上げることで、魔術師の地位をマシにしたかったんだ」
「シズはそもそも、どうして魔術師になろうと思ったの?」
「それはまあ、才能があったからかな」
スタンは思わずあさっての方向を向いた。
「とにかく、俺は自分とその周りの人のことしか考えてなかったわけ」

 ルビーが観察している限り、タイムの生きづらさは小さな村から新都市のアカデミーに出てきてからも消えたわけではなかった。それは彼がヒューマンであることにも由来するのだろうと思った。何においても平均的なヒューマンはいつも肩身の狭い思いをするだろう。彼の魔術の才がずば抜けているとしても。それに、太陽族や紫陽族のあいだでは普通とみなされていたことは、ヒューマンの間ではそうではなかった。彼の心はルビーも開けられないほど、固く閉ざされていた。

 「皆も知っての通り、魔術師への統制は年々厳しくなっている。そんな中で今年度のギフトのメンバーを発表する……シズ、ルビー、タイムだ」
 背の低い太陽族の学長がそう宣言すると、シズは立ち上がった。
「おい、タイムって誰だ?」
「私の友達だけど。いつも一緒にいるじゃん。シズ、あなたってホント自分以外興味ないんだね」
 ルビーは呆れたように言った。シズと友達になって三年が経とうとしていたが、この男の自己中心的なところにはいつも困らされていた。
「このヒューマンか」
 シズはルビーの隣にいたタイムを見て言った。
「ふざけんなよ、大した努力もしないでギフトに入ろうなんて……どうせヒューマン優遇政策だろ」
「ちょっと!」
「俺はそれなりに努力してきたし、そこで優遇政策をしたところで意味ないだろ」
 タイムは冷静に返した。彼が立ち上がることはなかった。
「ごちゃごちゃうるせえ!」
「シズ、激昂するなんて君らしくないな。ここで問題を起こすようならギフトを辞めてもらうしか……」
 学長が諭した。
「すみません!いえ、何でもないです」
 それがルビーの見た、タイムとシズの最悪の出会いだった。いや、出会ってはいたのだが、シズが初めて彼を認識した、というべきか。

 「とにかく、タイムは俺が会ってきた他の人間とは全部が違ったんだ」
 「ギフト」の名の通り、確かに三人には魔術の才があった。中でも使用されている魔術が「読める」ルビーとタイムは頭角を現していった。「俺がギフトに入るのは当然、あとは成績のいいルビーだな。その二人くらいか」とのたまっていたシズも、タイムの才能を認め始めた。
 実習の授業中、腕を前に伸ばして呪文を唱えていたシズの横で、それをじっと見ていたタイムが彼に近づき、肩に触れた。
「何しやがる」
 シズは詠唱をやめて噛みつくように言った。
「肩の力をもっと抜いて。それに、もっと強力にしたいなら、文末を変えたほうが効果的だ」
 その通りにすると、確かに魔術は的にぶつかり、青い光と共に的は大きく吹っ飛んだ。
「……すげえ」
 タイムは魔術をもっと効果的にするコツをよく覚えていた。勉強熱心だったのだ。それ以降、シズは何かと彼を頼りにするようになった。

 太陽族と紫陽族はアカデミーの同じ寮に入っていたが、ヒューマンだけは分けられていた。
「あの伝説のコブラだって、ここで魔術学校の人間と生活してたんだよ。そう思うと、すげえよな」
 ヒューマンの寮ではそんな声が聞こえるのが常だった。 タイムはその入り口でシズを待っていた。
「おい、来たぜ、あんたの彼氏」
「やめろよ」
 シズが来たのに合わせて肩を叩いてくる寮生の腕を掴んでタイムは笑った。
「いいよな、あのシズと友達なんて」
 出発した二人を見送りながら寮生はあることないこと噂を始めた。

 シズの行きつけの店に来たタイムはそわそわとして落ち着かなかった。普段彼が行くのはガチャガチャとビールのジョッキの音が響くようなせわしないパブだけだったからだ。メニューに書いてある食べ物ですら、どんなものか想像ができなかった。
「他のみんなは?」
「え?誘ってない。お前にいつもの礼をしたいから。食おうぜ」
「どんな食べ物かも俺には分からないのに……」
 出てきた料理はどれも美味しかった。目を輝かせて次々と皿を空にするタイムを、シズは驚いたように見ていた。
「俺の顔になにか付いてる?」
 タイムは慌ててナプキンで口元を隠した。
「いや、そうじゃない。気にすんな。ただ、お前といるといつも話し足りないし、何か……言いたがっているように見えるから」
 そう言われて、タイムは動きを止めた。言えたらいいのにと思う。でも、きっと理解してはもらえない。
 俺は何も求めてないのに。援助や配慮もいらないのに。どうして「普通」でいられないんだろう。
「別に。気のせいだろ」
「とにかくさ、お前がこんな風にいっぱい食ってるとこ、見るの初めてだから……びっくりしたかも」
「それはここのメシがうまいからだよ」
 タイムはそう言って笑った。シズはその顔をしばらくじっと見ていて、やっぱり顔に何かついてるんじゃないか、とタイムは不安になった。
「ヒューマンだ」
 囁く声が聞こえた。
「アカデミーのシズだ。ヒューマンとつるんでるのか?こんなところにヒューマンの男が来るなんて」
「何か問題でもあるか?」
 シズは立ち上がった。
「やめよう」
 タイムは彼を制止した。そして、この店にいるのは太陽族か紫陽族しかいないことに気付いた。さっきから感じていた居心地の悪さはそれが原因か。
「俺がヒューマンの奴を連れて来て何か問題があるか?タイム、なんか言ってやれ」
「別に何も言うことなんてない」
「なんでいつも反論しない?」
「無駄だからだよ」
 タイムは落ち着いた声で言った。
「あんたがいると食事がまずくなる」
「そうだ、出ていけ」
 紫陽族の男たちが次々と口にした。
「うるせえな、そんなこと言うなら出ていってやるよ。覚えとけ。行こうぜ、タイム」
 シズはタイムの手首を掴むと、代金を払ってレストランを後にした。タイムの表情は硬くなっていた。
「ごめんな。あんなところ二度と行かねえよ。どっか行って飲みなおそうぜ」
「いや、飯はうまかったよ。でも今日は帰って寝たい」
 タイムはシズの手を振り払って言った。
「送っていくよ」
「いや、いい」
 じゃあ、と踵を返したシズが歩いていくのを、タイムはしばらく見つめていた。

 隣国ルイナで何か良くないことが起こっているらしい、という噂はその少し前から出ていた。テレサスとの国境に押し寄せる太陽族が増えている、とのことだった。
「許可が下りないって、どういうことですか」
 タイムは珍しく口調を強めた。
「難民キャンプの見学に、戦闘魔術の許可がいるなんて、訳が分からない」
「あり得ません」
 ルビーも横から口を出した。
「魔術学校の者が国境に行く場合は戦闘用魔術の許可証を発行するように、と言われている」
 講師はただそう繰り返した。
「太陽族の難民を助けたいというあんたの正義は立派だが、行きすぎている」
「行きすぎてる?実際に人が死んで生活が破壊されてるんだぞ!何も救えてないのに行きすぎてる訳がない」
「タイム、落ち着いて」
 片眼鏡をかけた講師はシステマティックにそう言った。
「どうしてそんなに国境の太陽族にこだわるんだ?君には関係ない人の話だ」
「この世で自分に関係ないことなんて、何一つない」
「俺が協力する」
 横からシズが口を挟んだ。
「ギフトの人間が三人もいれば安心だろ」
「あんたは戦闘狂だから、信用できない」
 タイムは言ったが、「いいだろう」と講師が言ったのを聞いて目を丸くした。
「シズが行くなら、許可証を出そう。決して無茶はしないように」
 タイムもルビーも何も言えなかった。

「……ありがとう」
「いいんだ。俺がいた方が便利だろ。あんたには色々教えてもらったし、力になりたいんだ」
「どうしてあいつ、シズが一緒ならいいって言ったんだろうな?あんたが紫陽族だから?」
「紫陽族で男だからでしょ」
 ルビーが横から口を挟んだ。
「人気者だからだよ。とにかく、行けることになったからには最善を尽くそうぜ」
「あなた、太陽族の人権なんて微塵も興味ないくせに」
 ルビーに言われてシズは舌を出してみせた。

 最悪の出会いだったわりに、シズとタイムの二人はそれなりに仲良くなって、ルビーは一安心していた。その時が来るまでは。
 二人は学校の廊下を歩きながら話をしていた。ルビーは廊下の向こう側から二人に手を振ったが、気づいていないようだった。休み時間だったから、廊下にはたくさんの生徒がいた。
「とにかく、今度の旅が有意義になるようにしよう。太陽族の人々のために……俺たちは必要なことをしないと」
「ああ」
 シズは頷いたが、どちらかというとタイムの話をよく聞いていないようだった。
「俺はいい友達を持ったよ」
「あんたの友達なんかにはなりたくない」
「え?」
 廊下にいた生徒たちは凍り付いた。喧嘩か?
「そんなのは嫌だ。あんたの恋人になりたい」
 タイムは血の気が引くのを感じた。
「からかってるのか?」
 彼の声は震えていた。
「そうじゃない」
 シズはなぜ相手がこんなに怯えているのか分からないといった風だった。
「俺が……誰にも言ってないのに……男の人がすきだって……」
 ルビーはタイムがその場に倒れ伏してしまわないうちに彼のところに駆け寄った。
「あいつ本気だよ、タイム」
 廊下のギャラリーがざわついた。喧嘩かと思えば、今度はアカデミーいちの伊達男であるシズの告白劇が始まった。
「分からない?シズは、いつだってあなたのことを見てる」
 タイムは何も言わなかった。頭がいっぱいいっぱいで、シズが「クソダサ上着」呼ばわりしている制服の裾をそわそわと握ることしかできなかった。
「……今まで俺を助けたのも、俺と寝たいからだったのか?」
「それは合ってる」
ギャラリーは再びざわついた。ルビーは思わず目を剥いた。余計なことを。
「でもそれだけじゃない。あんただって、好きな人がすることなら何でも助けてやりたいと思うはずだ」
「ハァ……考えさせてくれ」
 タイムは溜息をついて言った。ルビーは彼の肩に手を置いて、ギャラリーに向かってしっしっと手を振った。
「一人にしてあげて」
 シズは珍しく困惑しているように見えた。恐らく、彼の意のままにならないことはほとんど初めてなのだろう。ルビーがタイムを連れてさっさと歩くと、廊下の人々がさっと道を空けた。

 「ごめん。一瞬きみを疑った」
 アカデミーの建物を出て、草むらに座り込んだタイムは言った。彼の感じているプレッシャーを考えると、それも仕方のないことだった。
「私が彼に、あなたは男の人がすきだって伝えた、ってこと?」
「そう。すまない」
「あいつ、ほんとにタイムが好きなんだよ。なんで受け入れないの」
 そう言われてタイムは頭を掻いた。
「俺のタイプじゃないし……」
「強くて優しくて、できれば背が高い人がタイプだって言ってたじゃん」
「うっ……やめてくれ!」
「あなたはそれなりにモテるだろうから、ほかに選択肢がないわけじゃない。でも、私が見ていて分かるけど、男性は星の数ほどいても、あんな人はそうそういない。あなたたち二人なら、どんなことでもできる」
 それはルビーの本心だった。彼女は人気者にあやかろうとする多数の人と違い、シズに対して本音で接することができた。おもねることもしなかった。
「二人で協力できることと、恋人になることは別のことだろ?」
「だいたい一緒だし。ずっと言ってるじゃん……『彼氏欲しい』って」
「言ってない!」
「言った。ねえ、私は変わった。あなたが、怖いものを少しだけ減らしてくれた」
 ルビーはまっすぐにタイムを見た。
「あなたが私を最悪の人生から引っ張り出してくれたから、そのお返しがしたい」
 タイムは困ったように眉を下げた。
「あなたがお母さんに何を言われたかも知ってる。でも、あなたには幸せになる権利がある。シズとあなたが、どうなるか見てみようよ」
「薬品の実験だと思ってないか?」
「まさか」
 ルビーは目を逸らした。
「きみは何も変わってない。ちょっと、方法を身につけただけだ」
「あなたの魔法だよ」
 ルビーはタイムを小突いた。
「い、痛い」
 その強さに思わず彼は呻いた。

 しばらくして、タイムはシズを校舎の裏に呼び出した。
「こんなところに呼び出すなんて、定番すぎやしないか?それとも俺はこれからギャングに襲われるのか?」
「ここなら誰も聞かないだろ。多分だけど」
「で、話って何」
 シズの心臓はバクバクと波打っていた。
「この間のことだけど、その……冷たくして悪かったよ」
 タイムは頭の後ろを掻きながら言った。その笑顔は素朴だったが、真鍮みたいに輝いていた。
「あんたは色んなサインを出してたみたいだけど、俺にとってはとにかく急で……ごめん、なんて言ったらいいか分かんなくて」
 シズは思わず相手を引き寄せてキスをした。そうする必要があるように感じたからだ。彼は強くて勇敢な人間だったが、シズが側にいて守ってあげなければいけない気がした。二人の唇が離れて、シズはタイムを抱き寄せたまま腕に力を込めた。彼がどこにも行かないように。
「嫌じゃない?」
「嫌じゃない」
 タイムは小さく息をついた。彼にとって、誰かとこんなに近くにいるのは初めてのことだったからだ。それから緊張した様子のまま笑った。
「ルイナとの国境から帰ってきたらさ、どっか旅行にでも行こうぜ。ここじゃ、寮も分かれてるしな」
「いいな」
 タイムはシズの腕の中で微笑んだ。

 ルビーはたくさんの本を抱えて自室に戻った。机の上に本をどさっと置くと、壁を見つめる。そこにはびっしりと未完成の術式が書かれていた。彼女はペンを口にくわえてせわしなく保安官の制服の上着を脱ぐと、ペンにインクをつけて壁の紙に本で見た術式を加え始めた。
 魔術における禁忌は二種類あった。記憶を除去するものと、魔術を解除するためのものだ。ルビーが魔術師と敵対する組織である保安局に入ったのは、後者の研究を続けるためだったのだ。そのためには「敵を知る」必要があった。
 もうすぐだ。もうすぐ、この魔術が完成する。
 そうすれば、タイムを魔王の座から解放することができる。彼はシズと再会し、自分の生きたかった人生を送ることができるだろう。
 待っていて、タイム。
 ルビーはペンを動かしながら思いを馳せた。






第六章 魔王城インシデント(あるいはクジラ)

 「次の町、シーゲートにいるのはクジラらしい」
 スタンが図鑑を見ながら言った。旅に出る前に書店で買い求めた図鑑には、古代テレサスに存在したモンスターの生態が載っている。奴らは三百年前に魔王と一緒に封印されたが、今回の魔王復活で一緒に再生したというわけだ。ちなみに本は結構な出費だった。
「クジラなら知ってるぞ」
「オレもテレサスの収容所にいたとき、図鑑で見たことある。でも、その時に見たクジラはずっとシンプルだった。ほら」
 スタンが見せたページには、目がギョロリと大きく、潮を噴出するホースのようなものが二本背中から生えていて、全身がうろこに覆われているモンスターが描かれていた。
「そっちの図鑑には、クジラにはうろこがないって書かれてた。こっちのほうは何百年前もの人が想像した姿らしい」
「それが今でも本に描かれてるってのは、なんなんだろうな。シーホースだってそうだろ?同じ名前だけど、タツノオトシゴとは違う」
「モンスターじゃない普通の生物と、人々の想像が生み出した怪物、両方が存在するってこと?」
「わからねえな。とりあえず、見に行くしかない」
「また爆発?」
「手っ取り早いからな」
 スタンは溜息をついて本を閉じた。
「シーゲートか、懐かしいな」
「行ったことあるの?」
「タイムと行ったんだよ。一緒に旅行したのはあれ一回きりだったな。あいつの故郷に似てるって言ってた」

 「難民キャンプには社会見学に行くわけじゃないぞ」
 タイムが言うと、馬上のシズたちは緊張した面持ちで頷いた。テレサスとルイナの国境にある村・ニジロには最近、ルイナからの難民が押し寄せていた。皆、着の身着のままで、何かに怯えた状態で来るらしい。テレサス新都にある移民収容所への許可証が発行されるまで、彼らはキャンプに滞在することになる。許可証の発行は、彼らの数に追いついていない。そのため、良い生活とはとても言えないキャンプで長い滞在を余儀なくされる太陽族もいる。多くが、家族と離れ離れになった者たちらしい。
 テレサスの新都からニジロ村までは、幸い一日で着く距離だった。「戦闘魔術の許可証」を持ち、三人は馬で走った。
「そろそろ着く頃だ」
 シズがそう言うと、タイムリーに村の看板が見えた。馬を降りて、荷物を持って歩いていくとすぐに収容施設らしきものが見えた……というのは、その周りに大勢太陽族がいたからだ。呻き声が聞こえる。負傷した人のものだ。シズは彼のところに近寄って行って、治癒魔法をかけようとした。
「来るな!」
「え」
 拒絶されて、シズは戸惑う。相手はひどく怯えていた。タイムが彼の近くに行き、落ち着かせながら傷を軽くするための魔術を詠唱する。
「大丈夫ですか」
 相手はそれに応えなかった。
「あいつらが……」
「え?」
「あいつらが娘たちを連れて行った」
 彼の指はシズを差していた。
「俺?」
 シズは自分を差して予想外だといった声を上げた。
「あなたがた、どちらから?」
 収容施設の中からヒューマンの女性が出てきて、三人に声をかけた。
「俺たちは新都のほうから来ました。何かできることがあるかと思って、毛布や支援物資を持ってきました……あと、魔術の使用許可証」
「どうして使用許可証が?」
「念のためです」
 タイムはなんだか恥ずかしくなってそれを仕舞い、馬の上から支援物資を取ってくるために村の入り口まで戻った。
「私はここでルイナから来る人たちを保護しているソンと言います。でも、あなたがたはあまり、ここでは歓迎されないかもしれない」
 女性はシズとルビーに言った。
「どうして」
「ルイナで王をはじめとする紫陽族が、太陽族を迫害しているという情報がある」
 彼女は言った。ルビーは息を呑んだ。
「虐殺を免れてここに来た人もいる。だいたいは、家族とバラバラになった人たち」
「虐殺?」
「勅令軍が太陽族を集めて、一度に殺しているという情報もある」
「なぜ」
「分からない。とにかく言えるのは、ここにいる人たちはひどい状況から逃げて、山を越えて来たってこと」
 それから三人はソンという名の女性に話を聞いた。隣国で起きているかもしれない惨事のこと。ここに来る人たち一人一人の物語。
「アカデミーの人たちに、ここの話を共有してほしい。正直、来られても提供するものは何もないけれど、ここの状況はみんなに知ってもらう権利がある」
「分かりました、ソンさん」
 焚火に照らされながらタイムは言った。横から、ハイハイがやっとできるくらいの子供がやってきて、彼女の膝に乗った。
「この子は三週間前にここに来た。お母さんはテレサスから発行される許可証を待ってる」
 彼女は淡々と言ったが、その表情は世の理不尽に対しての怒りを湛えていた。

 次の日、三人は礼を言ってニジロ村を出発した。しばらく誰も何も言わなかった。
「俺にとって大事なのは、ルイナとの戦争でのし上がって武勲を上げることだと思ってた」
 シズは硬い表情で言った。
「でもそうじゃないんだ。魔術師の地位なんて、些細な問題だった。世の中にはもっと助けを必要としてる人がいて、俺たちにその能力があるなら、それを使うべきなんだ」
 ルビーは小さく頷いた。タイムは何かを考えている表情で、「俺にもっと力があればな」と言った。
「力?」
「例えば許可証をもっと早く出せるようにする、とか。それじゃ根本的な解決にならないけど、ニジロの人たちを早く新都に送ることはできる」
「そうだよな」
 シズは頷いたが、その時の彼はタイムの心中にあることを全く理解していなかったことになる。


 「何回も言うようだけどさ」
 浜辺でシズはスタンに向かって叫んだ。
「なに?」
「俺が出会う人に本当のことを伝えないのは絶対に、タイムと付き合ってたのが恥ずかしいからとかじゃねえから」  
 スタンは溜息をついた。何か真剣な話かと思ったら、またそれか。魔王のことになると、この人はポンコツだな、と思う。
「またその話?」
「俺はヒューマンとは違うから偏見もないし」
「分かったから」
「そうじゃなくて、本当は……」
 海からザッと音がして、大きな怪物が姿を現した。「クジラ」だ。赤い頭と緑のうろこに覆われた身体をしている。そいつは大きく口を開け、砂浜にいるシズを飲み込んだ。
「ええーっ!」
 スタンは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「姉ちゃん、ちょっと、何とかしないと」
 彼は横で突っ立っているパルフに向かって叫んだ。
「どうせ爆発させて出てくるだろ」
 彼女は冷静な声で言った。ドゥン、と音がして、クジラの身が跳ねる。中で爆発が起こったらしい。だが、クジラはまだ生きている。シズは出てこない。
「失敗だ」
 はあ、と大きい溜息をついて、パルフは腰につけたナイフを取り出した。
「世話が焼けるな」
 彼女はクジラに向かって飛び、その背中に食らいついた。ナイフを突き立てると、彼女を振り落とそうとクジラが何度も身を捩り、大きな波が立つ。それにも気を取られず、パルフはクジラの身を穿ち続けた。
 もう一度ドン、と音がして背中につけた傷のところからクジラが破裂した。そこから見慣れた黒髪がひょっこり出てくる。シズだ。
「よかったぁー!」
 浜辺のスタンは思わず叫んだ。
「ここで死ぬわけにはいかねえだろ」
 シズは拳を突き上げた。近くから見れば冒険譚だが、よく見れば浜辺にまでクジラの肉が散っていて、残虐極まりない。プカプカとクジラの死体は海に浮き始め、シズがパルフの手を借りながら浜に降りると、すうっと死体が消え、魔導書の欠片が砂浜の上に現れた。
「思い出の場所、シーゲートでもう一回あいつに会うまではな」
 シズは魔導書の砂を払って、スタンに渡した。

 「俺は見たいよ。お前のビジョンってやつを。お前が描いた理想を」
 かつて、シーゲートの砂浜でシズはタイムにそう言った。その時は本気でそう思っていたのだ。タイムのビジョンは実現したが、それはシズの思っていた方法とは違った……タイムが魔王になることだったのだ。彼は少しでもタイムの物の見方に近づきたいと思っていたが……そんな風に実現するとはおもわなかった。それが悲劇なのか、それとも笑える何かなのか、シズには分からなかった。
 一緒にルイナとの国境であるニジロ村に行ってからしばらくして、二人はシーゲートに旅行に出かけた。ギフトのメンバーは寮の個室を与えられていたが、ヒューマンであるタイムが紫陽族であるシズのいる寮に立ち入ることは許されず、二人が会えるのは日中、アカデミーに限られていた。
「俺たちがシーゲートでやることって言ったら、もう、さ、一つしかないよな」
 金を貯めて乗った馬車の中でシズはタイムとしっかり手を繋いでいた。タイムが唾を飲み込むのが分かった。
「観光?」
 タイムはシズに小突かれた。
「緊張してる、から、手汗、ひどいかも」
 タイムは手を離そうとしたが、シズはしっかりとその手を握った。その後は二人ともなんだか話す気になれなくて、シズのいつもの饒舌ぶりは鳴りを潜めていた。
 シーゲートに着いて、二人はまず宿に向かった。それからしばらく部屋の真ん中に立ち尽くしたままだった。タイムは相手の肩に頭を預けて、その胸元に手を当てた。
「バクバクしてる」
「久しぶりだからな」
「俺は初めてだ」
 そう言うと、心なしかシズの心音が高まった気がした。シズはタイムの背中に手を回して、がちがちに固まった動きで彼を抱きしめた。しばらく二人はそうしていた。
「なあ、少し散歩しないか」
 タイムが提案した。シズは溜息をついてから、安堵したように頷いた。
 
 夏のシーゲートには泳ぎに来る者も多いが、秋には人が少なくなっていた。土産物屋も暇そうにしていて、中に入った二人が手を繋いでいるのにも気を留めていないようだった。
 海辺を散歩した後、街の中をうろうろして、茂みの向こうに小さな池があるのに二人は気づいた。
「俺の故郷に似てる」
 ネコジャラシをぷちっと摘んでタイムは言った。それからシズを擽ろうとした。
「やめろって」
「こういう小さい池がいくつもあるんだ。それと海辺のほかは、何もないけどな」
 タイムは池のほとりに座った。シズもその隣に並んで腰を下ろした。タイムはその肩に頭を預けた。するりとタイムが指を伸ばして、手を繋いだ。
「そろそろ戻ろうか。パブで何かうまいものでも食べよう」
「ああ」

 二人は宿の隣のパブでビールと食事を楽しんだ後、部屋に戻った。ベッドの上にタイムが座り、それを後ろから囲むようにシズが座っている。彼は腕をタイムの腹に回し、シャツのボタンを外していった。
「口からなんか出そう」
「どうして」
 シズはタイムのうなじに唇をつけながら尋ねた。
「緊張で、だよ」
 タイムは相手の手の甲に自分の手を重ねながら言った。
「俺を吐かせないでくれ」
「それがあんたの、ベッドの上の殺し文句ってわけ?」
 シズが言うと、相手は小さく息を吐きながら笑った。

 シーゲートから二人が戻ってしばらくして、「ギフト」の三人は軍から旧都の王城の遺跡見学に招待された。
「タダで旅行できるなんて最高じゃん」
 シズはそれなりに浮かれていたが、ルビーは不信感をあらわにした。
「普段から魔術師を目の敵にしてる軍が、より良い魔術師の育成のために魔王城を見学させるなんて、ありえないよ。何か裏があるんじゃないの」
「旧都の技術からインスピレーションを受けてほしいとのことだ。是非行ってきてくれ」
 学長はそう言って三人を説得した。
 新都市から旧都までは馬車を乗り継いで一日ほどかかる。三人とも最初は馬車から見える景色にはしゃいでいたが、着く頃にはガタガタ揺れる車の中で爆睡していた。
 王都の遺跡はさすがに見応えがあった。旧都は巡礼路である『ザ・ゴールデン・パス』の最終地点ということで土産物屋も多くあり、人で賑わっていた。旧魔王城は崖の上にあり、様々な建築様式がミックスされて迷路のようになっていた。
「綺麗だね」
「ああ、でもここにいた魔王たちがやってきたことを考えると、キレイってもんじゃないよな」
 ルビーとタイムはあの小さな村から魔術学校に入り、魔術師たちの王がいた場所に来られて感無量だった。

「なんで二人きりじゃないんだよ」
 夜、宿の大部屋に通されたシズは叫んだ。旅行というから期待して来たのだが、タイムと素敵な時間を、というわけにはいかないようだった。
「声が大きいって、シズ」
 タイムはさっさと寝る準備をしながら言った。
「あんたには未練とかないのかよ」
「旅行ならこれからいつでも行けるって。それより明日は王城の図書室を訪問できるんだぞ。早く寝よう」
 シズはしぶしぶベッドに寝転び、染み一つない天井を仰いだ。

「奴らは?」
「寝ている」
 囁き声が聞こえて、タイムはうっすらと目を開けた。
「早く殺さないと」
「息子と同じくらいの年だ。気が引けるな」
「ごちゃごちゃ言ってる場合か。男二人のほうから先に」
 自分たちのことを指しているのだ、と気づいてタイムの身体にさっと緊張が走った。男のほうから先に、ということはルビーにも追手が迫っているのだろうか。シズは向こうのベッドでぐうぐう寝ている。
「魔術を使われたら終わりだ。さっさと片づけるぞ」
 軍の人間か?魔王城に招待して、他に実力者がいない間に殺すということなのだろうか。男のうち一人が部屋に入ってきた。タイムは指先から青い光を出して、侵入者に向かって当てた。バチっと音がして、彼が壁に叩きつけられる。
「お、おい」
 もう一人が男に話しかけている。弓や飛び道具を持っていることは無さそうだ。気絶させただけだから長くはもたない。タイムはベッドから降り、シズをたたき起こした。
「んん……なんだ?タイム」
「シッ!早く起きてくれ」
 気絶していない方の男が部屋に入り、辺りを見回している。大部屋にはヒューマンの巡礼者ばかりだ。軍に抵抗できそうな者はいない。援軍を呼ばれるとまずい。
「あいつらに殺される」
「なんて?」
 寝起きのシズはいつも機嫌が悪かった。軍の男が太刀を持ってこっちに向かってくる。タイムは手を振り払って、小さな青い光を飛ばし、男の額に命中させた。
「ルビーを助けにいかないと」
「こいつ、死んだ?」
 シズはぼんやりと男を指差した。
「二人とも気絶してるだけだ。早く」
 ルビーは気配を感じたのか、ベッドの上で起き上がっていた。
「ルビー、早く」
 タイムはルビーの手を取った。
「俺とはあんまり手、繋いでくれないのに」
「嫉妬する相手とタイミングが間違ってる」
 タイムは小さく言って、ついでにシズの手首を握った。
「仲良くかけっこしてる場合じゃない、とりあえず身を隠せるところに行こう」
 宿の外には兵士が何人もうろうろしていた。
「俺たちを狙ってるんだ」
「なんで?」
「魔術師は脅威だから、それを未然に潰すためだよ」
 ルビーは焦った様子で言った。三人はどこか身を隠せるところを探した。
「新都の連中は?」
「そろそろ仕事にかかっているところだろう」
 茂みの中にしゃがんでいると、兵士たちの声が聞こえた。
「魔術師全員潰すって、本気か?」
「上の指示だからな」
 ルビーは叫びださないように思わず自分の口を押さえた。
「あいつら」
 彼女は小さな声で呟いた。
「私たちだけじゃない、この国の魔術師を全員殺す気だ」
 三人は身構えた。軍の弾圧は強くなっていたが、未然に才能を潰したいだけではないらしい。
「とりあえず、俺たちだけでもここから逃げないと」
 シズは言った。
「向こうに林がある。警備の人間がいたら倒すまでだ」
 三人は茂みから出て、木々の間にさっと移動した。
「どうする。国境に行くか?ルイナなら……」
 だがタイムは何かを逡巡していた。
「どうした?タイム」
「みんなを見殺しにするわけにはいかない」
「みんなって誰だよ。あんた、いつでもデカい規模のことを考えすぎだ」
「俺たちが国境に逃げたところで、テレサスにいる魔術師は一斉に殺されるだけだ」
「だから俺たちだけでも、って言ってるんだよ」
「ここで言い争いはやめてよ」
 ルビーは二人を止めようとしたが、タイムは魔王城の方を見つめていた。
「この林を抜ければたぶんルイナとの国境に行ける。0時に会おう」
「タイム、何言ってるんだ」
「俺はあいつらを止める」
 言い終わらないうちに、彼は駆け出した。その足はまっすぐ魔王城に向かっていた。
 追手の声が聞こえた。シズはルビーを背後に隠すようにして、後ずさった。
「とにかく行くしかない。ルビー」
「タイムはどうするの」
「あいつなら約束を守る」
 シズは言ったが、自分の言葉を信じることはできなかった。

 タイムは魔王城の西門に着き、坂を駆け上がった。息が上がっており、普段から筋トレをしておくべきだったな、と思う。入り口は今日確かめておいた。門を魔術で壊して入り、城の重い扉を開ける。幸い西には警備の者はいなかった。軍の人間は全員、魔術師殺しにかかっているのだろうか。魔王が封印されているのは一番高い塔のところだという。それが本当ならば、とタイムはそこに向かった。
「誰かいるぞ」
 男の声が聞こえた。軍の奴だ、と思うとタイムは再び駆け出していた。塔の入り口の金具を壊し、中に入る。螺旋階段が何段にも連なっていた。そこを上がっていく。下から別の人間が上がってくる音が聞こえる。
「飛んだ方が速かったな」
 タイムは今更後悔したが、ヒューマンの持ちうる少ない魔力をそこに使っている暇はなかった。一番高いところにたどり着くと、石造りの扉があった。「魔王」と書かれている。
「単純すぎ」
 タイムは唇の端を歪めて笑い、手から青白い光を出して鍵を開け、中に入った。
 中にはびっしりと文字が書かれていた。封印のための術式だ。それを端から手でなぞりながら、タイムは解読を試みた。
「読める」
 彼は思わず声を上げた。それは古い文法で書かれていたが、確かに魔術学校の本で読んだものと同じだった。これを解除して、魔王を復活させれば、魔術師の王である彼はこの殺戮を止めてくれるのではないか、というのがタイムの計画だった。
 タイムは解除のための魔術を詠唱した。文法はめちゃくちゃだが、仕方がない。魔術を唱え終わると、大きな音を立てて壁が動いた。そこに書かれた封印の術式の切れ目から壁が二つに割れ、その間の暗闇に金属の籠のようなものが出現した。青白い人影が現れる。
「私を解放したのは、お前か」
 タイムは茫然としながら頷いた。
「奴ら、テレサス中の魔術師を殺す気だ」
「奴らというのは?」
「軍のことだよ、あんたを封印した」
 魔王……の影……は手を広げてみせた。
「力を貸してやりたいが、小僧、私はこの通り籠に封印されたままだ」
「何をしたらいい?それと、俺は小僧じゃない」
「新たに契約をしろ。私を魔王の座から降ろし、自身が新たな魔王になると」
「やるよ。俺はなんでもする」
 兵士の声がすぐ近くで聞こえる。追手が階段を上がり、そばに迫っているのだ。急がなければ、殺される。
「ならば、お前に力をやろう」
 魔王は格子の間から腕を伸ばし、タイムに触れた。
 バリバリと音が轟いた。雷だ。
「私の軍への恨みは深いからな、何をするか分からないが」
 兵士が何人も部屋に入ってくる、と思った次の瞬間、雷が轟いて彼らに命中した。
「何をしてる?」
「お前の望んだことだよ」
 あちこちで雷鳴が聞こえる。地鳴りの音と、叫び声も聞こえる。
「私に機会をくれてありがとう、小僧よ、おかげで軍の人間はみんな死ぬ」
「はあ?俺は誰かを殺すために力を望んだわけじゃない」
「甘いな」
 魔王……旧魔王は高らかに笑った。
「殺さなければ殺される、お前の贔屓している太陽族が今していることだ」
「贔屓じゃない、俺は困難の中にいる人を助けたいだけだ!」
 魔王はタイムの身体を乗っ取ろうと力を強くした。
「私はデンゼル・ワシントン似が良かったんだがな……仕方がない」
「贅沢な魔王だな、この野郎!」
 タイムは言って、全身の魔力を使って相手を留まらせようとした。

「シズ」
 ルビーは目の前の光景が信じられず、思わず友人の腕を掴んだ。
 兵士が次々と雷に撃たれて死んでいく。地鳴りが響き、地面からは得体の知れない生物が姿を現した。
「一体何をしたんだ、タイム……?」
 シズはそう呟くほかなかった。






















第七章 コブラと呼ばれる女

 「ライラ様の話が本当なら、早く手を打たないといけませんね」
 コブラは魔王城の長い廊下を歩きながら言った。ルイナの王女は海辺のモンスターが出る町をいくつか通ってから国に帰るらしい。彼女を見送り、タイムはライラが言ったことを思い出していた。
「ああ。でもどうやって助ける?テレサスの民は納得しないだろうな。今でさえ、俺が難民支援に金を割いてるのを批判してる」
「あなたがこれまで、国民の機嫌を取ろうとしたことなんてありましたか?」
 コブラは言い、タイムは苦笑した。
「場合によっては、ルイナとの全面戦争になるかもしれない」
「その準備はできています」
そうか、とタイムは言った。その顔には緊張が見てとれた。彼はいつも緊張しているな、とコブラは思った。
「スパイをルイナに送ることができればいいんだけど」
「そもそも、王女が嘘をついている可能性は?」
「ない。前に難民キャンプに行ったけど、太陽族はひどい状態でこっちに来てる」
 この人はいつも他人の心配ばかりしているな、とコブラは考えた。それが彼のいいところではある。彼にとって、自分に関係ないことは一つもないのだ。そして、コブラにとっての問題も、「関係ないこと」ではなかったのだ、と思う。

 コブラの本名はサムヌア村のタムといった。だが本名で彼女を呼ぶ人は昔からほとんどいなかった。彼女が幼かった時、周りの人間は皆彼女に微笑むように言った。少女はそうするべきだと。だが、武功をあげて故郷に帰ってきた時、「笑え」と言う人間は誰もいなかった。彼女はもう村の人たちを信用しなかった。人は簡単に手のひらを返すことを知ってしまったからだ。

 タイムが三百年前に封印された魔王を覚醒させた後、テレサスの国は混乱に見舞われた。新都市は軍の施設ごと地中に陥没してめちゃくちゃになり、伝説上の存在でしかなかったモンスターが跋扈し始めた。新都市にあった軍の上層部はほとんどが謎の雷に打たれて死に、生き残った者たちが魔王城に集まった。「四天王」と呼ばれる中将クラスの四人が大広間に集められ、魔王となったタイムに対峙した。
「軍は今後、魔王の支配下に置かれる。テレサス軍はそのまま魔王軍となる」
 眼鏡をかけた中将のうちの一人が言った。
「魔王、はやめてくれ」
 タイムは言ったが、誰もそれに反応しなかった。
「誰かリーダーがいる。大将クラスは全員死んだからな、魔王のせいで。ああ、『前の』魔王か」
 髭の紫陽族の男が言った。
「将軍ってところか?この中から選ぶしかないな」
 赤毛の太陽族の男が手を挙げて言った。壁に背を預けた女……コブラは腕を組んで黙っていた。
「魔術師の下で動くのは気味が悪い。何をするかわかんねえぞ」
 髭の男が人差し指を挙げながら言った。
「この中で」
 タイムが口を開いた。
「この中で一番強い者を将軍とする」
 ふん、と赤毛の男は思わず失笑した。誰も手を挙げなかった。コブラが首を傾げると、ゆったりと結った黒髪が揺れた。
 しばらく誰も何も言わなかった。それから、コブラが手を挙げた。
「この中では私が一番強い」
 タイムはテーブルから顔を上げた。
「みんな私の強さに理由をつけたがるし、何か重いものを背負わせたがる。でも、私がここまで来たのは、単純に強かったからです」
 コブラは筋書きを読むような調子で言った。
「この女に騙されるな。何人殺したと思う」
「そういうことですよ。彼も数百人を殺してる。なぜ私だけが糾弾されるのか?私が女だからです」
「馬鹿言うな」
「醜いね」
 タイムは首を傾げて言った。
「あなた方が内輪揉めをするタイプには見えなかった」
 コブラは肩をすくめた。
「そもそも、この男は偉そうに言える立場なのか?」
 髭の男が言った。
「そうだ」
 眼鏡の男が同調した。
「我々に指図できるほど潔白ではないでしょう。私は知ってるんだ。アカデミーで、この男が紫陽族の男と一緒にいたのを」
「それは本当か?」
「ああ、二人は恋仲だったらしい」
 タイムは唇を噛んだ。そのせいで、自分が潔白じゃないなんて言われる覚えはない。だが、思考とは裏腹に身体は言うことを聞かなかった。タイムの額を冷や汗が流れ、手が震え始めた。
 コブラはテーブルの横を移動して、タイムのところに行った。そして震える手を取った。
「お言葉ですが、ラス」
 コブラはタイムの手を握ったまま、足を組んでいる髭の男に尋ねた。
「あなたの足はどうしたんでしたっけ?」
 全員が彼の足元を見た。ズボンの裾から見える男の足は木でできた義足になっていた。
「戦争でやられた。だが、あなたに説明する責任は俺にはない」
「同じことですよ」
 コブラはテーブルの向こうの男たちを見渡した。
「彼がそのことについてあなたがたに説明する責任は、どこにもない」
 コブラは深い色の瞳で、タイムをじっと見た。その目に見つめられていると、タイムの手の震えが落ち着いてきた。
「こんな凝り固まった連中にあなたのことを伝える必要はありません、タイム」
 タイムは茶色の目で彼女を見つめ返した。彼は昔からこの人のことを知っていたような気がした。
「陛下、騙されるな」
 ラスと呼ばれた髭の男が言った。
「私たち二人なら、きっとどこにでも行ける。私たちは強いから。初めから、強かったから」
 コブラはタイムの手にもう片方の手を重ねた。
「コブラ、君の本当の名前は何?」
 タイムはコブラの手から指を離して、言った。もうその手は震えていなかった。
「サムヌア村のタム」
「俺と似てる」
 タイムは少し笑ったが、その表情は一介の青年のものだった。少なくともコブラにはそう見えた。
「サムヌア村のタム、通称コブラ、あなたを正式に将軍とする」
 コブラの人生はその時、初めて意味を持った。

 実際、人々は彼女の強さに理由をつけようとした。
 村の子供向けの大会で他の子供を全員打ち負かした時、誰も何も言わなかった。彼女が一番強い人間であることを、誰も祝福しなかった。いつしか村の伝説にちなんで、タムはコブラと呼ばれるようになった。
 村では刺繍が盛んだった。それを生業としている者がたくさんいた。村の女の子は将来の結婚相手に渡すための刺繍を小さい頃から製作するのが常だった。
 だが、コブラは刺繍に興味がなく、彼女が唯一得意だったのは、戦うことだった。いつしか彼女を本名で呼ぶ人間はいなくなった。
 アカデミーに入ったのは彼女にとって救いだった。誰もが彼女をコブラと呼んだが、強ければ誰も彼女を非難しなかった。
 戦いがあり、その武勲を証明する旗をコブラは故郷に持って帰ったが、その意味を理解する者はいなかった。
「お母さん、そういうのは分からないわ」
 母は言った。
「ああ、すごいんじゃないか?」
 父は言った。
 両親が健在なのはいいことだ。コブラはそう思おうとした。新都市へと戻る前に、母は綺麗に刺繍がされた布を彼女に渡した。
「タムちゃんは刺繍ができないから、お母さんのをあげるね」
 コブラはそれを持って帰った。赤い布には鮮やかな刺繍が施されていた。それは解けない呪いだった。コブラはそれを地面に叩きつけた。その上に水がぽろぽろと落ちて、彼女は自分が泣いていることに気がついた。
 誇りに思われたかった。それだけだった。他の子どもと同じように。どうしてそれが叶わないのだろう。
「落としてしまったのかい」
 その時、通りがかった男がコブラに声をかけた。
「これくらいの汚れなら、すぐに取れるよ」
 男は布を拾って彼女に差し出した。

 彼女が魔王軍の将軍となった日、タイムと彼女は長い長い話をした。シズの話も、その時に聞いた。翌朝、タイムが自分の部屋と決めた質素な場所のドアを開けて、コブラは赤い布を差し出した。
「これ」
 タイムは困惑しながらそれを受け取った。
「綺麗な刺繍だな。これは……あなたの出身地のものか?」
「これは証明です。あなたも私も間違っていないという証明。これをあなたの大切な方にお渡しください。その時まで、私があなたをお護り致します」
 コブラにはもう帰るところがなかった。タイムもそうだった。彼はもう小さな村には帰らないと決めているらしかった。

 コブラは「大切な人に渡してくれ」とタイムに布を託したが、自分にとって大切な人には渡さなかった。その必要はなかったからだ。
 布を地面から拾った男は名前をナギと言った。彼はアカデミーの「頂上決戦」を見に来ていて、コブラの名前を聞くと目を輝かせていた。というのも、近くで子供を収容している施設で働いていて、アカデミーからの寄付品をもらいに来たついでに観戦したらしい。
 じゃあ、と施設を訪れたコブラが見たものは、彼女が今まで叩き込まれてきたものとは全く違っていた。弱い者は強い者に食われる。紫陽族や太陽族の強さを超えるために、誰よりも強くならなければ、というのが彼女の中に作られた信念だった。ナギと施設の子供はそれをみんな壊してしまった。
「この子は無愛想だが刺繍が得意で、一日中夢中になっている」
 せっせと布とにらめっこしている男児に視線を向けてナギは言った。
「刺繍?女がするものだ」
「この作品を見ればわかる」
 そこには物語が丸ごと刺繍によって語られていた。コブラも聞いたことがある伝説が、一本一本の糸の集合によって表されていた。
「……すごい」
「ね?女とか男とか関係ないって分かるだろ」
 ナギは快活に笑った。
「彼らが将来、病を治す薬を作ったり、機械を作ったりするかもしれない。でも、それだけじゃない。今は分からなくても、もっともっと後の世代になって、我々は真理を手に入れるかもしれない」
 力の弱い者、小さい者を守っているとき、守られているのは単に彼らの身体だけではない……我々の未来を守っているのだ。
 コブラはそのことをタイムを見るたびに思い出すのだった。

 コブラとナギが婚約したのは、ナギが布を拾ってから数か月後のことだった。ほどなくしてコブラは中将となった。
「昇進おめでとう。君の能力なら当然のことだ、コブラ……いや、タム」
 背の低い太陽族のアカデミーの学長はビールのジョッキを傾けた。それに応えると、コブラは早速食事に手を付けた。
「まだトップじゃない。それに、まだ全ての能力を活かしているわけじゃない。私が男だったらもっと速く昇進したはずだ」
「君は充分うまくやっている。人の金で食う飯はうまいかね、コブラの旦那さんよ」
「彼の名前はナギだ。コブラの旦那ではない」
 彼女は訂正した。
「君の施設はどうだ?」
「うち一つでは足りない。隣国からの太陽族の移民は増えるばっかりだ。一体何が行われている?」
「その話だが、先日太陽族の子どもがアカデミーに入学した。隣国で数百人の兵士を殺したらしい。一人で」
 コブラは東洋風の焼き飯を頬張りながら目を見張った。
「少年兵か?なぜ私にその話を?」
「一般市民だ。レジスタンスの正式なメンバーですらない。自分の身と仲間を守るためだ。君を思い出した」
「なぜ」
「入学した時の君と同じ目をしていたからさ」
「へえ」
 あまり昔の話を思い出したくないコブラはスープを啜った。
「太陽族の収容施設の幹部を殴り殺そうとして、追放処分になりそうだったところを、アカデミーに入らせたんだ。幸い、うちには寄付金がたくさん入っているからね」
「その子、字は読めるんです?」
「今勉強しているところだ。賢い子だから、勉強も戦術も覚えがいい。すぐに君に並ぶ伝説になるだろう……パルフは」

 コブラとタイムが隣国についての話をしている時、ナギは保安官に尋問されていた。
「もう解放してくれませんか。子どもたちが待っているんですが」
 根が真面目なナギは丁寧な口調を崩さなかったが、内心は早く終わらないかな……などと考えていた。シーゲートに来るべきではなかったかもしれない。モンスターが出て以来、保安官たちは魔術の取り締まりを強化しているらしい。文書をこちらの施設に届けに来たというだけで、怪しまれた。こちらの施設では魔術ができる子どもにそれを教えているだめだ。
「もうそれぐらいにしてやったらどうだ、おっさん」
 横から紫陽族の男が口を挟み、ナギは一歩下がった。
「なんだ、お前たち……シズの一行か?」
「さすが、俺って名が知れてる」
 シズは後ろのスタンにニヤリと笑いかけたが、スタンは固い表情のままだった。
「あんたの顔は知ってる。正義面してるけど、人殺しだろ」
「あぁ?何言ってんだコノヤロ」
「お前じゃない、そこの戦士気取りに言ってるんだ」
 壮年の保安官の男はパルフを指差した。
「人を指差したらいけませんよ」
 ナギが丁寧に注意した。
「言いたいことはそれだけか」
 パルフは何の感情もない声で言った。
「おいてめえ、俺の仲間を侮辱してただで済むと思ってんのか」
「やめろ、シズ。どうせ無駄だ」
「タイムもあんたも、いつもそうやって言わせておくだけなのか?ありえねえ」
「勇者よ」
 保安官がシズに言い、彼は「オエッ」と抗議の声を上げた。
「次に保安局の目に留まるようなことをすれば、後はないと思え」
 両者は睨み合って、背を向けたら襲われると思ってでもいるように後ずさりをしながら遠ざかった。
「ふう、ああいう空気、苦手なんだよな」
 スタンが額の汗をぬぐって言った。
「次の目的地は?」
「『ザ・マスタープラン』によれば、ジャバウォックが出るセント・マイケル教会」
 スタンは本をめくりながら答えた。
「そういえば、『ザ・ゴールデン・パス』って言うからには、王の宝物の中にはゴールドが入ってるのかな?」
「誰も、封印する前に王の宝物を開けたことはないらしい。中身は分からないままだ。伝説ができて、みんなが巡礼するようになって、道が整備された」
「どんな願いでも叶えてくれるんだっけ」
 彼らは歩き出そうとして、後ろにナギがいたことを思い出した。彼らは振り返って、ナギが大丈夫かどうか確認した。
「助けてくれてありがとう。私はナギ。君たちはどこへ向かうんだい?」
「俺はシズ、この二人はパルフとスタンだ。次はセント・マイケル村に向かう。腕試しの途中でね、モンスターを何体もやっつけてるんだ」
 スタンは不満げにシズのほうを見たが、彼は気にしないふりをした。
「じゃあ、私はシーゲートに寄ってから、旧都のほうに戻るよ。気をつけて」
 ナギは馬に乗ると、高らかに駆けていった。
「感じのいい人だったな」
「うん。道、間違えてると思うけど」
 三人は迷子未遂を救うべく馬が駆けていった方向にダッシュした。

 数日後、コブラとナギの居間で二人はお互いの早い帰りを喜んだ。もっとも、コブラのほうは魔王城と家を行き来しただけだが。
「シーゲートに書簡を届けに行く道中に妙な輩に絡まれてね。保安官らしいんだけど。そうしたら、勇者の一行に助けられた」
「珍しいな。ナギは別に弱そうには見えないのに」
「君ほど強いわけじゃないからな。それに軍が退去してシーゲートも治安が悪くなってる」
コブラは首を傾げてみせた。
「私の上司のせいだって?」
「そうじゃない。とにかく、そのパーティも変だったんだ。たった三人のパーティで、そのうち一人は子供だったから、実質二人だ」
「へえ」
「腕試しだと言ってた。モンスターを次々と倒してるらしい」
コブラはすっと目を細めた。
「その中に紫陽族の男はいたか?」
「ああ、紫陽族の男が一人と、太陽族の背の高い女性と子供が一人ずつ。姉弟らしかった」
コブラは息を呑んだ。もしかして。
「……その紫陽族の男、顔に火傷跡はあったか?」
「頬に傷みたいなのはあったな。よく見てないけど」
「ダーリン、悪いけど、今から城に行かないといけない」
「えっ?今帰ってきたところじゃないか」
「その一行に会ったのはシーゲートの近くだったな?タイムに伝えないと。今すぐ」
コブラはコートに腕を通しながら言った。

 「タイム様!……何をしてるんです?」
「さ、逆立ち、の練習」
 タイムの簡素な部屋のドアをバンと開けたコブラは、逆さまになっている上司を見つけて目を白黒させた。
「君みたいに……身体能力が良くなったらいいな、とか思って」
 タイムは遊んでいるところを咎められた子供のように、起き上がって顔を伏せながら手を払った。
「その話は後で。夫がシズらしき人物と遭遇しました」
 相手ははっと息を呑んだ。
「彼は太陽族の姉弟と一緒にいるらしい。姉のほうは、前に学長と食事をした時に聞いたアカデミーの生徒と特徴が一致します。彼らはシーゲートでモンスターを倒していたらしい」
「本当か」
「誰もあなたに嘘なんてつきません」
「だとしたら……」
 どうすればいい。ここからシーゲートまでは、かなりある。それに、シズたちは既に移動しているかもしれない。
 彼に会う方法を、タイムは知っているはずだった。
 彼は魔王城の図書室に向かい、いくつか本を手に取ってそれをめくった。














































第八章 We Have the Power (Reprise)

ルイナ 午後2時40分

 彼女はレンガ造りの建物の間を必死で走っていた。じきに勅令軍の追手が来るだろう。髪にスカーフを巻いていても、太陽族らしい明るい肌の色は隠せない。はあ、はあ、と自分の声がいやに響く。走ったりするような年齢ではないからだ。でも走らなければ自分の命はない。彼らは冷酷に太陽族を追ってくる。女も子供もだ。収容所に入れられれば、何をされるか分からないというのは聞いている。収容所から戻った者はいない。そういうことだ。遠くで人の叫び声が複数する。矢が風を切る音もする。どうか私に当たりませんように。彼女は祈って、それから離れ離れになった息子を思い出した。彼は今、どうしているのだろう。きっと大きくなっているだろう。あの子はレジスタンスの手に託すしかなかった。私と姉とでは守ってやれないから。無事にテレサスに行ったのだろうか。それとも途中で殺されただろうか。建物の陰から様子を伺うと、通りの向こうで家から出てきた太陽族の男女が連行されるのが見えた。思わず身を隠し、泣き出しそうになるのを堪える。は、と小さく息をついて、別の方向に走り出す。すると行き止まりに突き当たった。戻らなければ。
 呻き声が聞こえた。痛みに耐えるような声だ。ちらりとその方向を見ると、兵士らしき紫陽族の男が座り込んでいるのが見えた。足を矢にやられたらしく、出血していた。その腕にはマークがあるのが見えた。勅令軍だ。男の呻く声と速い息はどんどん大きくなる。彼女は男の恐怖を感じ取る。どうすればいい。
 息子も、大きくなっていればあれくらいの年だろうか。いや、もっと幼いだろうか。彼女は考えた、というよりも、判断した、という方が近い。さっと建物の陰から出て、男に近寄る。スカーフを取って、兵士の太腿に巻き、止血する。声を上げようとする男に、しい、と人差し指を唇に当てて制止する。それから、さっと身を引いて、逃げる……逃げようとした。
「そこまでだ」
 いつの間にか後ろに立っていた紫陽族の兵士が言った。
「敵の命を助けようとしたのは、血も涙もない太陽族には珍しい行為だが……あなたを見逃すわけにはいかない。この町の太陽族は連行する。来なさい」
 彼女は声を上げて逃げようとしたが、腕を強く掴まれる。気づくと四方を兵士に取り囲まれている。
 と、ゴン、と音がしたと思うと腕を掴んでいた兵士が倒れた。周りの兵士が何事かと辺りを見渡すが、次々と倒れていく。少し経って、そこに立っていたのは太陽族の女性と紫陽族の男性だった。彼らの服の袖には蝶の刺繍があった。
「レジスタンス」
 彼女は思わず声を出した。実在しているとは。勅令軍の暴挙を止めるために、レジスタンスという組織が暗躍していると聞いたことがある。蝶の刺繍がその目印だという。
「パルフがいればこんなの一瞬だったのにな」
 太陽族の女性が頭を掻きながら言う。
「あの子のことはもう忘れろ」
 紫陽族の男性が、倒れた兵士たちを引きずって壁に寄せながら言った。
「あなた、名前は?あなたはもう安全です。テレサスに行くんだよ。早く、町の端で馬車が待ってる」
 太陽族の女性に手を引かれ、彼女はかさかさになった喉から声を発した。
「イライザ。私の名前はイライザ」

テレサス 午後2時40分

 ジャバウォックは古代の民話にも登場する怪物で、人の悪夢を餌にしている。悪夢というのはこの場合、思い出したくない記憶のことだ。身体は薄橙のうろこに覆われ、角があり、小さなドラゴンのような形をして宙に浮いている。それはセント・マイケル教会の地下墓地におり、人々の奥底にある仕舞っておきたい思い出を互いに見せてくる。その隙に攻撃をしかけてくるのだ。しかし、ジャバウォックそのものではなく、精神攻撃にやられてそのまま殺し合いになり、地下墓地の一部となった冒険者は多い。

 「ジャバウォックか。正直、怖いな」
「あんたにも怖いとかいう感情あるんだ」
 スタンが平坦な声で言った。セント・マイケル村にあるその名もセント・マイケル教会は荘厳なロマネスク建築で、石壁の重々しさが辺りに不穏な空気を醸し出していた。
「だって精神攻撃してくるんだろ?何してくるかわかんねえし」

 「パルフ!」
 その声に三人は振り返った。東洋人らしいヒューマンの青年が仲間らしきグループを引き連れてこっちに向かっていた。
「元気だったか、ヤン」
 彼の姿を認めてパルフは珍しく微笑んだ。短髪に涼やかな切れ長の目をした勇者らしき青年は、さわやかな笑顔を一行に向けた。
「スタン!久しぶりだな」
「会えてよかった」
 スタンは思わぬところで会った知り合いに駆け寄った。
「そっちは……友達?」
「同僚です」
 スタンはすぐに訂正した。
「もしかして……シズ!噂は聞いてます」
「噂?」
「手ひどく振られたんでしょう?魔王……タイムに」
「は?」
「違いましたか?」
「ちょっと待て、なんで戦術学校の生徒が俺たちのことを知ってるんだ」
「同じアカデミーだからですよ。あなたはギフトのメンバーだったし、告白はみんなが聞いてたし、何よりあなたは人気者だった」
「まあな」
「そこは否定するとかなんとかしろよ」
スタンが横から口を挟んだ。
「パルフ、あんたも知ってたのか?」
「一応。でも私がそんなことに興味あると思うか?」
 シズは首を振った。この場合、それが都合のいいことなのかどうか、もう分からなかった。このヤンという男も、後ろにいる彼のパーティも、恐らくアカデミー出身者なら全員噂を知っている、というわけ。
「あなたにとって喜ばしいことかどうかは分かりませんけど、みんな知ってましたからね。二人が付き合ってたことも」
 ヤンは悪気がなさそうに快活でよく通る声で言った。後ろでパーティのメンバーたちがひそひそと話している。
「それがどうして、こんなことになったのか」
「俺たち、殺されかけたんだ」
 ヤンは眉を顰めた。
「……殺されかけた?」
「ああ。軍の奴らにな」
 シズはギフトのメンバーが旧都に招待されたこと、それは軍の陰謀で、彼らが殺されかけたところをタイムが魔王を復活させることで救ったこと、を説明した。
「そんなことが」
 ヤンと彼のパーティのメンバーは言葉に詰まっていた。
「パルフたちもジャバウォックに挑戦しに行くのかい?」
「ああ、腕試しだな」
 スタンがシズを小突いたが、彼は無視した。
「腕試しをするには危険すぎる相手だ。共倒れになる可能性もある。我々は賞金のために来ているんだが……もしかして、他に理由があるのでは?」
 ヤンは目を細めた。この男の目の奥には得体の知れないところがある、とシズは思ったが、得意の笑顔を纏って取り繕った。
「俺たちもそんなところだよ。お互い、いい結果になるといいな」
 
 ジャバウォックに先に挑むのはシズたちになった。教会の扉に続く階段を上がりながら、彼はパルフに話しかけた。
「普通だったな」
「何がだ」
「あんたとヤンの関係だよ」
 パルフは首を傾げた。
「ヤンは私をいつも評価してくれてる」
「そうじゃない。忘れたわけじゃないだろ?アカデミアの戦術学校、頂上決戦さ」
シズは言った。
 アカデミアの戦術学校の「頂上決戦」。卒業前に、「最強」と呼ばれる生徒同士が「殺す以外は何でもあり」の戦闘をする。かつてはコブラも行った試合だ。「戦術学校最強」と呼ばれていたパルフと、「二番手」に甘んじていたヤンとの試合はアカデミーの誰もが見たがった。賭けが認められており、毎年かなりの額が賭けられるのが常だった。
「俺は見てたんだ、あんたが激昂して、ヤンを何度も殴ってレフェリーに止められるところ」
 パルフの名は魔術学校の中でも有名だった。正体不明のルイナ人。一人で何千人も殺したとかいう噂がある太陽族の女。その試合をシズも見に行った。
 審判が合図すると、二人は間合いを詰めながら近距離戦を始めた。除けるのも上手いので、どちらの拳も当たらない。パルフがヤンの足元をキックで狙うが、それも躱される。速すぎて、素人の目には見えないのではないかと思うほどの動きだった。しばらく手に汗握る戦いが続いていたが、ヤンがふとパルフに何かを耳打ちした。
 次の瞬間、パルフはヤンを地面に転がすと、その上に馬乗りになった。ヤンの顔を一度、二度殴る。レフェリーが笛を吹いたが、パルフは止まらなかった。

「感情をコントロールできなくなるなんて、あんたらしくない。何があった?」

 ギャラリーがざわめいた。パルフの表情はシズのいたところからは見えなかったが、何かに取り憑かれたように彼女はヤンを殴り続けていた。

「それは、言えない」
 パルフはいつもの冷静な声で言った。
「それより早くジャバウォックを片付けよう。魔導書を奴から奪ってしまえば、ヤンはすることがなくなるな」
 パルフはトントンとシズの肩を叩くと、重い扉を開けた。教会の中は謎の煙に包まれていた。
「パルフ、スタン。離れるな」
 シズはせき込みながら言った。しばらくして、煙が晴れた。
「どこだ、ここ」
 シズがいるのは森の中だった。他の二人はどこに行ったのか。それとも……これはジャバウォックが見せている幻影の中なのか。
 馬のひづめの音がする。馬車か。シズはとりあえず見つからないように木の陰に隠れた。馬車が近づいてくる。紫陽族の軍人らしい御者が乗っている。トン、とその男の首に矢が刺さり、男が倒れた。
「え」
 シズはその唐突さに思わず声を上げた。馬がいなないて暴れる。木の上からさっと誰かが飛び降りた……パルフだ。長い髪をひとまとめにしている。馬を落ち着かせて、倒れた御者が死んでいるか確認をし、荷台に向かう。さっと荷台にかぶさった布を取ると、そこには何人もの人がすし詰めになっていた。太陽族だ。
「もう大丈夫だ」
 パルフは一人一人に声をかけて、荷台から降ろす。太陽族……女性や子供もいる……は憔悴した様子で一方向に向かっていく。
 死んでいたはずの御者が立ち上がり、パルフを後ろから攻撃しようとした。
「危ない」
 シズは思わず声を上げそうになった。だが、パルフは後ろから羽交い絞めにされたにも関わらず、相手の足をすくい、地面に倒して、腰から短刀を取り出すと一気に首を掻き切った。太陽族の女性が怯えた声を上げる。
「大丈夫だ」
 パルフは返り血を浴びた顔で淡々と言った。急に、ぐにゃぐにゃと目の前の景色が歪む。煙がまた出てくる。
 それが晴れたと思ったら、今度は開けた道にいた。読みが正しければ、これはジャバウォックの「食べている」幻覚だ。そして、これはパルフの記憶ということになる。
 向こうからまた馬車がやってくる……シズは道の端に寄ったが、身を隠すところはどこにもない。今度はヒューマンの御者だ。身に着けているのは確か……ルイナの王家の紋章だ。
 茂みから何か獣のようなものが飛び出して、御者を襲った。彼の首が掻き切られて辺りに血が飛び散る。パルフだ。速すぎて見えないが、確かにこの容赦のなさと冷静さは彼女の動きだ。馬車が止まり、後ろにはやはり太陽族が乗っている。
「パルフ」
 茂みから太陽族の女性が出てきた。
「乗って。誰かがみんなを安全に導かないといけない」
 彼女の服の袖には蝶の形をした刺繍がついていた。パルフは頷き、荷台に乗る。茂みからヒューマンの男性が出てきて、御者台に座る。彼の服にもまた蝶の刺繍が入っていた。
「途中まで行って、また戻ってきてくれればいいから」
 太陽族の女性はパルフの血の付いた手を握って、念を押すように言った。馬車が走り出す。そこで、シズは自分の中に感情がいきなり流れ込んできたことに気づいた……怒り、焦り、そういったものが満ちあふれてくる。これはパルフの感情なのか?

 しばらく走ったところで、彼女は気づく。この馬車はテレサスまで向かっているのだと。「途中」などない。あの女性は彼女を裏切った……いや、裏切ったのはパルフだ。彼女はレジスタンスの人間を失望させた。だからこの馬車は向かっているのだ……国境へと。
「降ろしてくれ」
 パルフは御者に向かって叫んだ。だが彼はこちらを少し振り返って微笑んだだけで、止まらなかった。
「まだ助けないといけない人がたくさんいる」
「パルフ」
 御者は困ったように笑った。
「君がこのカオスから抜け出して、教育を受けるのは、レジスタンスのみんなの願いなんだ。君はこんなところにいるべきじゃない」
「私の仲間が無残な目に遭ってるのを、のうのうと見ていろっていうのか?」
「頼む、パルフ。とにかく君はテレサスに行くんだ。いいね?」
 目の前がまた歪んでいく。煙が立ち込める。

 次に気がついた時には、シズは施設の中にいた。
「あれ、スタンじゃん」
 シズは部屋の中にスタンの姿を認めた。先程までの光景を考えると、知っている人間を見るのはなんだか安心できる気がした。
 部屋の中にいたのはスタンだけではなかった。髭を生やした壮年の太陽族の男がいた。
「……だから私が言うように、ここでうまくやっていくには色々としなければいけないことがある。通過儀礼というやつだね。君にはお父さんがいなかったから、そういうことを教えてくれる人がいなかったようだけど」
「はい」
「なぜ私が君を呼び出したか知っているかい?君は今のところ、とてもうまくやっているからだよ」
 男はスタンの頭を撫でた。
「スタン、そいつから離れろ。今すぐ」
 シズは叫んだが、彼の声はスタンには届いていないらしかった。
「もっとうまくやろうと思ったら、いろんな大人の言うことを聞かなければいけない」
 スタンは大真面目に頷いた。男は座っているスタンに近づいた。
「例えば、こんな風に」
 彼はさらに近づいた。
「え?」
「君はいい子だね、スタン」
「はい」
「いい子だから、君はできるよね?」
「何を」
 スタンが聞き終わらないうちに、男が壁まで吹っ飛んだ。パルフが後ろから殴ったのだ。
「姉ちゃん?」
 パルフは男に馬乗りになり、黙ったまま頭を殴り続けた。彼の口内が切れて出血しても、構う様子はなかった。
「姉ちゃん、やめてよ!オレがたった今話してた相手をぶん殴るわけ?」
「こいつはお前に近づくべきじゃなかった」
 パルフはそう言っただけで、彼を殴り続けた。
「何かが起こる前で良かった」
 そのうち施設の大人が二、三人部屋に入ってきて、一心不乱に男を殴り続けるパルフを急いで止めた。

 また目の前が歪み、次に気づいた時には、部屋の中にいた。重厚な石造りで、この場所をシズも知っている……アカデミーの学長室だ。
「彼女を入学させようなんて正気じゃない。施設長が子どもに暴行しようとしていたのは別として……何人殺したのか、ご存じですか?レジスタンスの話じゃ数百人はくだらない」
 パルフは手を血まみれにさせたままソファに座っていた。向かいには男が二人、座っている。一人は背の低い太陽族、アカデミーの学長だ。
「それは彼女の同胞の連行を止めるためだろう。ルイナの王は既に何千人もの太陽族を収容させているらしいからな。もしかすると、コブラを超える存在になるかもしれない。正しく教育を受けられれば、の話だが」
 どうやらパルフの処遇が決められようとしているらしい。二人はまるでこの部屋に本人がいないように話していた。そんな話し方はやめろ、とシズは思う。
「ごちゃごちゃうるさい。必要な措置を取ってくれ」
 パルフは身を乗り出して言った。
「君には教育を受ける権利がある、パルフ」
 学長は彼女を制止して言った。
「私は君の動きを見ていて、あることを学んだ。世の中には他人を蹴落そうとする人間もいるが、他人が立ち上がれるために奔走する人間もいる、ということだ。パルフ、ルイナでの太陽族の処遇は、私も心配しているところだ」
「心配?彼らはどんどん殺されていってる、私はこんなところにいるべきじゃない」
「パルフ、彼らをより多く助けるためには、君がここに留まることが必要なんだ。今まで、君に起こったことは非常に残念だと思う。君がしなければいけなかったことも。だが、大事なのはこれからだ。君が、これから助けられる人たちのことを考えてくれ」

 また視界が歪む。ワアッと人の声が聞こえてくる……歓声だ。この光景はシズも見たことがある。「頂上決戦」の時だ。
「ヤン」
 パルフは向かいに立っている男に話しかけた。
「彼は……アングスは、何と言っていた?」
 その瞬間、パルフの記憶がシズの中に流れ込んできた。ヤンについての記憶だ。
 戦術学校での訓練があった。パルフを仮想敵として、他の生徒たちがアジトに乗り込む、というものだ。土色の戦闘服を身に着け、口をスカーフで覆った生徒たちがレンガの壁沿いを伝ってアジトに近づく。ハンドサインを出し合い、弓やナイフといった思い思いの武器を構えて、一列になって入り口から中に入る。
 一人目。矢を持った男が入ると、パルフに持ち手を取られて壁に投げ飛ばされた。二人目。ナイフを持った男はパルフに近づこうとし、軽いナイフさばきと共に近距離戦に突入するが、一瞬のうちにナイフを奪われて壁に押し付けられる。その後ろから三人目がパルフを羽交い絞めにする。頭突きを受けて、彼(彼女?)は逡巡する。その隙にナイフを突きつけて、床に伏せさせる。四人目が入り口から入り込む。彼だか彼女だかの矢が壁に刺さる。訓練用の矢だから先には木の実が付いている。パルフは四人目の足を払って、床に倒れさせる。
 立っている者はパルフのほかにいなくなった。床に転がっている四人目がスカーフを取って笑った。ヤンだ。
「君は速すぎる」
 パルフは笑わなかった。
「実戦なら全員死んでいるぞ」
 後から入ってきた教官が部屋の中の光景を見て溜息をついた。
「ヤン、笑ってる場合じゃないぞ」
「はい」
 一風変わっていたパルフは戦術学校でもその強さのために「浮く」ことが多かったが、ヤンは何かと彼女を尊敬して、気遣ってくれた。彼は誰にでも親切で、快活で、リーダーとしてふさわしい人間に見えた。
 そんな彼の意外な一面をパルフが見たのは、ある夕方のことだった。彼女はたまたまヒューマン用の寮の裏側を通り、スタンのいる収容所のほうに行こうとしていた。呻き声が聞こえて、パルフはさっと木陰に隠れてそちらを見た。紫陽族の男が、ヒューマンの男の腹を殴っていた。げほ、と彼は声を上げた。
「静かにしろよ」
 紫陽族の男は腕を振り上げたが、その腕が降ろされることはなかった。パルフが後ろから手首を掴んでいたからだ。
「やめろ」
「何だ?お前」
 パルフは殴られていたヒューマンの男を見た。
「ヤンじゃないか」
 パルフが知る限り誰よりも強い男がなぜ、細身ですぐ倒せそうな紫陽族の男に殴られているのか、彼女には分からなかった。
「悪いけど、邪魔。これはちょっとした痴話喧嘩ってやつだから。安心して」
 紫陽族の男は言って、しっしっとパルフを追い払おうとした。
「誰だ?こいつは。知り合いか?何でヤンはこんなことをされてる?」
 ヤンは言いにくそうに口を開いた。 
「俺の彼氏だよ」
 ヤンが男性と付き合っているというのはパルフも噂に聞いていた。
「私の知っている限り人は恋人を殴ったりしないものだが」
「俺たちの間のことは分からなくていいんだよ」
 紫陽族の男が言い、ヤンの腰に手を回してにっこりと微笑んだ。
「だから悪いけど、今日は二人にしてくれる?」
 パルフは心配そうな顔をしたが、ヤンは硬い表情で「大丈夫」と頷いた。
「『大丈夫』、じゃないでしょー、ヤンったら真面目だね」
 相手の男はヤンの短い前髪をいじりながら言った。
 パルフは一旦その場を立ち去ったが、思えばヤンは一度、目の周りを殴られたように青黒くして訓練に出たことがあった。恋人の男……アングスはヤンより身長も低く、魔術学校の人間だったが、パルフにはよくわからない力でヤンをコントロールしているようだった。
「なんであの男から離れない?」
 目元に殴られたような痕をつけてきたヤンに一度、パルフは聞いたことがある。
「離れるとかいう次元じゃないんだ、俺たち」
 ヤンは困ったように笑ってそう言っただけだった。
 『頂上決戦』当日。パルフとヤンは互角の戦いを続けていたが、ヤンの一言によってパルフは逆上し、レフェリーに止められても彼を殴り続けた。

「もしかして」
 一部始終の光景を再び眺めていたシズは思い当ることがあり、呟いた。
「八百長か」
 それが発生しているという噂は数年前からあった。頂上決戦への賭けがヒートアップしていく中で、事前に結果が決まっていく、というものだ。
「あんたはヤンを守ろうとしたんだな」
 
 「アングスは君が勝つ方に賭けた」
 ヤンはあの時、パルフにそう囁いた。その声は悲痛に聞こえた。思えば、なぜか彼の動きは本調子ではなかった。戦っているうちに感じていたことだ。その時、彼女の中で、何かがパチンと弾けた。
 気づくと思考にまかせて彼を殴り続けていた。
「殺す」
 彼女はそう呟いた。これが終わったら、絶対にあの男を殺す。ヤンに不正をさせてしまった男を。理不尽を彼に課している男を。

 そして実際彼女はそうした……殺しはしなかったが。決戦が終わった後、医務室にいたヤンは頭に包帯を巻かれてベッドに座っていた。パルフはよろよろとそこに近づいた。
「もうあんたは心配しなくていい」
 パルフは掠れた声で彼に言った。その拳は血まみれだった。ヤンはベッドのそばに立ったパルフにしがみ付き、啜り泣いた。
「俺のために」
「あんたは自分の生きたいように生きる権利がある。あの男に支配されることは、もうない」

 バチンと音がして、シズはよろめいた。視界には石壁が映る……ジャバウォックの教会に戻ってきたのだ。
「パルフ!」
 シズは立ちすくんでいる彼女に話しかけた。話しかけようとした。パルフはナイフを出し、シズに切りつけようとした。
「うわ、何」
「見たのか?」
 すんでのところでパルフの攻撃を避けると、シズは相手が混乱状態にあることに気づいた。こっちが仲間であることも認識していないらしい。
「見たのか」
 パルフはもう一度そう言い、ナイフを振るった。ヒュン、と刃が風を切る音がする。シズはパルフがいつもそうするように相手の足元を崩そうとしたが、力量の差は明らかだった。ナイフでは届かないと判断したと見え、パルフはナイフを落として拳を繰り出してくる。
 シズはそれを避けきれず、まともにパルフのパンチを食らい、壁に叩きつけられた。ぐえ、と彼は呻く。
「あんたの悪夢が何でできてるか、分かったよ」
 彼は混乱状態にある相手を落ち着かせようとして、言った。
「理不尽をふるってくる人間に対する怒りでできてるんだな」
 パルフはこっちを見たが、その目は虚ろだった。
「一番に力の犠牲になるのは子供だ。私がどれだけ強くなっても見逃してしまう…あいつらは止められないんだ」
 スタンのことを言っているのか。シズはどうにか立ち上がったが、パルフは全身から殺気を出しながら近づいてくる。このままでは殺される。どうすればいい?
「言葉のあやはナシだ」
 シズが自分に言い聞かせる前に、拳が飛んできた。すんでのところでそれを避けると、バキ、と音がして彼女の手が石壁にめり込んだ。この細い体のどこからその力が出ているのか分からないが、今はそんなことを考えている場合ではない。シズはパルフの頬に手を添えた。その額に、自分の額をつける。
「救えなかった人間のことは今は考えるな……あんたが!救った人のことを考えろ!」
 うう、と混乱状態のパルフは呻いた。
「何人もの命が助かって、テレサスに来て、教育を受けられてるんだ……あんたは無力なんかじゃない。今だって、魔導書を集めて伝説の謎を解くことで何万人もの人間を救えるかもしれない。俺たちには、力がある」
 シズは手から青い光を出して、パルフの両手首に向かって放ち、バチンと音をさせて拘束した。彼女は腕を動かそうとするが、青い光がまとわりついていて離れない。
「俺たちは無力なんかじゃない」
「……シズ?」
 パルフの目からすうっと虚ろさが消えた。シズはパッと魔法を解き、彼女の腕を自由にしたが、反動でパンチを顔面に食らって壁まで吹っ飛んだ。
「いってえ……」
「シズ!すまない」
 パルフはそこまで駆け寄り、シズの頭に手を添えた。
「スタンは?」
「あそこだ」
 シズは教会の端で座り込んでいるスタンを指差した。
「ジャバウォックを倒さないと」
 グオオと唸り声がしたが、それは地下から聞こえているようだった。
「地下だ」
 シズとパルフは走って階段のあるところを目指した。 
 ふと、シズはあることに気づいた。パルフの記憶には、途中からしかスタンが登場していない。彼はパルフとスタンを交互に指差して、二人に尋ねた。
「もしかして、あんた達は本当の姉弟じゃないのか?」
「今ごろ気づいたのか?そもそも私たちの訛りは違うしな」
 パルフはなんでもない表情で言ったが、シズは今まで信じてきたものがガラガラと崩れる気がした。
「他人に興味がなくて悪かったよ」
 地下室は暗く、墓地のようになっていて、乱雑に人骨が散らばっていた。
「気味が悪いな」
 もしかしたらこの中には、ジャバウォックが見せた幻覚のせいで仲間割れを起こしたというパーティの骨も入っているのかもしれない、とシズは思った。その数は一つや二つではないだろう。あんなに鮮烈に「悪夢」を見せてくるんだから。
「いたぞ」
 二人はジャバウォックを地下室の端に追い詰めた。
「飛び回るから的が当てにくいな」
「シズ」
 彼は手から青い光を出し、いくつか円を作った。それを階段のように使い、パルフがジャバウォックに近づく。相手はかなり速い。パルフを落とさないように細心の注意を払いながらシズは魔術でできた円盤をコントロールする。パルフがジャバウォックの背に乗り、ナイフが一閃した。ジャバウォックは大きくうねり、咆哮を上げて暴れる。パルフがその頭を殴り、首元をナイフで掻き切った。鮮血がはじけるように流れ、ジャバウォックが地面に落ちる。彼がゆっくりと倒れ、その姿がすうっと消えて、後には魔導書のかけらが落ちていた。
「よっしゃ」
 シズはパルフを空中から戻すと、拳を握った。
「戻るぞ」
 パルフは魔導書を拾い、階段を駆け上がった。
 スタンは隅に座り込んだまま小さく震えていた。
「スタン。大丈夫か」
「姉ちゃん」
 彼は小さい子のようにパルフが差し出した手につかまり、ゆっくりと立ち上がった。
「ジャバウォック、怖かったな」
 シズが言ったが、スタンは何も答えなかった。

 教会から出ると、外でヤンの一行が待っていた。
「悪い。ジャバウォック、倒して消しちゃった」
「ええ?」
 ヤンと彼のパーティの人間は狼狽えていたが、シズはにっこりと笑って手を振った。

 「次のモンスターはなんだっけ?そろそろ終わりじゃないか」
 宿で彼はスタンに聞いたが、相手はぼうっとしていた。
「スタン」
「え?ああ」
 彼は辞典をめくっていたが、その手が止まった。
「もうやめたら?」
「え?」
 シズは相手の言っていることが分からず、聞き返した。
「俺たち二人って、結局あんたのせん妄に付き合わされてるだけじゃない?」
「何言ってんだ、スタン。もうすぐ魔導書を全部集められるんじゃないか」
「それだって伝説でしょ。魔王を王座から解放するなんて、ホントにそうなるわけ?」
「そうなってる。実際ここまで魔導書を集めてきたじゃないか」
「魔王に固執してるけど、やっぱり、魔王はあんたのことなんて忘れてるんじゃ……」
「そんなことない!スタン、お前ジャバウォックにやられてからおかしいよ」
 シズは焦って言った。そして彼が大きな教会の隅で震えていたことを思い出した。一体何を見た?
「どうしてそうじゃないって確信が持てるんだ?俺たちがあんたについていくのを決めたのは、こんなことのためじゃない。まあ、経験が積めて長続きしそうだったから、ってあんたにとっては理想じゃないだろうけど」
「……例えあいつが俺を忘れていても、俺にはしなくちゃいけないことがある」
「それが固執だって言ってるんだよ」
 スタンはぼうっとした表情で言った。
「俺たち、今日は疲れてるんだよ。ひとまず寝てから考えようぜ」

 ぶつくさ言うスタンを寝かしつけてから、シズは自分もベッドに潜り込んだ。
「シズ」
 しばらく経ってから名前を呼ばれて、彼は目を開けた。確か自分は宿にいて寝ていたはずだ。隣にはスタンがいる。
「シズ、俺だ」
 懐かしい声に彼はばっと身を起こした。
「タイム?」
「ナギからあんたの話を聞いて、居所をさぐったんだ」
 見慣れた姿が目の前にはあった。タイムがそこに立っていた。
「そのクソダサ上着、支給されたのか?全然似合ってない」
「ありがと」
 水色の上着を着たタイムは微笑んだ。シズは思わず彼を抱きしめようとしたが、腕は空を掴むだけだった。
「魔術で意識を飛ばしてるんだ。今、俺は魔王城にいる」
「そんなこと、できるのか」
「できた」
 タイムは腕を広げてみせた。
「それで、意識が飛ばせるということは……」
「もしかして、俺と同じこと考えてる?」
「ああ」
 タイムは微笑んで頷いた。
「じゃあ、やめとけ!」
「ルイナに行く」
「だからやめとけって。あんたは魔術の腕は一級かもしれないけど、スパイ活動に関しては素人だ」
 はあ、とシズは大きくため息をついた。この男は、ルイナに意識を飛ばして何が起こっているのか調査する気だ。それが彼の持っていた目的とはいえ、敵地に侵入するのはあまりに危険に思えた。
「大丈夫だ」
「何がだよ。あんたって地味なくせにいつも無謀だよな」
「今度はひとりじゃないから」
 タイムは笑ってそう言い、シズは面食らった。
「もう置いて行ったりしない」
 タイムは触れないと分かっているにも関わらず、腕を伸ばしてシズの肩を持った。
「タイム」
「行くぞ、シズ」
 彼の声に迷いはなかった。































第九章 ルイナ潜入

ルイナ 午後5時20分

 アルゴの人生は順調だった。彼は紫陽族として生まれ、王の勅令軍の兵士として徴兵され、数百人の太陽族を収容所に送っていた。だが、順調だったのは先程までの話だ。数時間前、彼は太陽族の多く住む町で、矢を脚に受けた。敵であるはずの太陽族の女性に手当てを受けて出血多量で死ぬのは免れたが、現在、彼は太陽族の連中と一緒に収容所に送られているところだった。
「おい、俺は紫陽族だぞ。こいつらと一緒にするな。一体どこに連れて行く気だ」
 アルゴは脚から依然として血を流しながら御者に向かって叫んだが、彼は死神のように黙っていて、答えは無かった。
 しばらく経って馬車は止まった。
「お前はもう使い物にならない」
 御者は彼にそう告げ、抵抗にも関わらず引きずるようにして建物の中に入らせた。紫色に光る太刀で彼は脅された。違法な魔道具だ。取り締まらなければ。そう思ったが、彼に動く力はもうなかった。
 そこで彼が見たのは異様な光景だった。ベッドがいくつも並んでいて、太陽族の男女がそこに寝かされている。彼らはいくつもの管に繋がれていた。
「お前は眠るように、幸せな夢を見ながら王の計画に貢献することができる。光栄だと思え」
 御者は感情の無い声で言った。
「何するんだ」
 アルゴは抵抗したが、羽交い絞めにされたままズルズルと引きずられてベッドの上に寝かされた。白い服を着た女性が、にっこりと笑いながら管を持って彼に近づく。
「やめろ!」
 彼の叫びが辺りに響いた。

テレサス 午前0時

「タイム」
 シズはタイムの腕を掴もうとしたが、その手はするりと空を掴んだ。
「俺は『ザ・マスタープラン』を完成させてあんたの所に行くつもりだ」
「え?」
「モンスターを倒して魔導書を集めてる。あと一つだけなんだ。そうすればあんたを解放できる。それまで待ってくれ」
「ちょっと待て。こっちに来るのは危険だ」
「どうして」
「ルイナでは何かが起こってる。彼らはこっちに来るかもしれない」
 シズは溜息をついた。この男はいつも他者ばかり優先している。
「お前一人で対峙するつもりか?ここまで来たのに。あと少しでそっちに行ける」
「巻き込むわけにはいかない」
「巻き込めよ、俺を」
 シズは言った。彼が望むなら、何でもするつもりだ。
「俺のところに来ることが真の目的じゃないはずだ。あんたは優秀な魔術師だから、ちゃんと使命が……」
「忘れるなよ、俺はアカデミア最強の魔術師だ。それで、アカデミア最強の戦士がこっちにはいる。一緒なら無敵のはずだ!お前が一人で立ち向かう必要はない。もう昔のタイムとは違うんだ。一人じゃないんだ」
 張りつめていたようなタイムの表情が歪んだ。その目から水滴が流れる。
「タイム」
 シズは意識体である相手の肩を掴もうとした。
「ほんとは、会いたくないわけない。誰かにここにいてほしい。でも、不安だから、最初から遠ざけた方がいいんだ」
 それは押し殺してきたタイムの本音のようだった。
「よく言ったな。助けられることなら何でもする。とりあえず俺の今の目的はそれなんだ」
「ありがとう」
 タイムは目元を押さえて言った。
「そろそろ魔力切れを起こしてしまいそうだ。ほんとはそっちに行けるといいんだけど、俺にはやることがある」
「魔王城で会おうぜ」
「ああ。じゃあ」
 ぶつり、と途切れるようにタイムの意識体は消え、後にはシズだけが残された。彼は今の会話を慈しむように泣きだしそうな表情をしてから、決意を決めたように口を真一文字に結んだ。

「もうすぐだ。もうすぐ、私の計画が完成する。復讐の時間だ」
 ルイナの王城で、廊下を足早に歩き回りながらランサが言った。紫陽族らしい漆黒の髪は長く、宝石をあしらったマントは彼が動くのに合わせて床を這った。
 ライラは彼女の肌色によく合うラベンダー色のドレスで、彼の横についた。
「叔父上、あなたは父上たちを殺したのが太陽族の人間だと確信しておられますが、もしそうでなければ?」
「一人残らず殺すまでだ。彼らは野蛮な戦闘民族だからな。どうしてそんなことを私に聞く?」
「いえ、何もありません」
 ライラは礼をした。
「私が間違っているとでも?」
 ランサは足を止め、ライラの首を掴んだ。彼女は叔父の瞳に殺意が映っているのを見た。彼は本気だ。自分を止めるものがいれば、生物オタクの馬鹿でも殺す気なのだ。首を絞められてライラは呻いた。
「テレサスに行って、お前は何をしてきた?」
「陛下」
 そばにいた部下が彼を制し、ランサは彼女を離した。ライラはひゅうっと息を大きく吸ってぜいぜいと喘いだ。
「モンスターの情報を提供するように、と言ったな?それがまだ出ていないのは、何か理由があるのか?」
「わたくしは……知識を暴力のためには使いません」
 ライラは胸元を押さえながら答えた。それから部下に礼を言ったが、答えは無かった。四面楚歌、というやつだ、と彼女は思った。
「伝説は本物なのか?」
「まさか。そんな巨大なドラゴンが出てくるわけがないでしょう」
 ライラは笑ったが、その顔は引き攣っていた。
「ドラゴンが『降りて』一国の人間が全滅して、ルイナからの移民がテレサスを支配した、と伝説にはありますが、そんな荒唐無稽なことが起こるわけがない。山奥の村みたいな話が、そんな規模では起こりません。ペストならまだしも」
 ランサはゴールドの冷たい瞳で彼女を見た。
「私の計画を完成させるには、それが必要なんだが」
「他の方法を探したほうが良さそうですわ」
 ライラは小さくおじぎをした。
「下がってくれ」
 ランサは手を払うと、玉座に座り直した。ライラは王城の廊下を歩いて自分の部屋に戻り、扉を閉めると小さく息をついた。
「ライラ様、お食事の時間です」
「今はいいわ」
 外から侍女が声をかけたが、ライラはそれどころではなかった。
 ルイナでの伝説は、テレサスのものとは少し違う。タイムの王城の図書室で本を見せてもらったが、そこに書かれていたことはライラの記憶とは違っていた。なぜなら、書き換えられているからだ。ルイナの人間によって。
 テレサスの伝説では、三百年前にヒューマンの魔王が君臨したのち、「龍が降りて」つまり伝染病か天災によって、テレサスの人口が減り、魔王は封印されたことになっている。
 だが、実際は伝染病あるいは天災で人口が減ったテレサスにはルイナからの移民が殺到した。「ドラゴン」の災厄を免れたテレサス国民の残りは隣国ルイナからの「救済者」によって記憶を除去され、定着した移民とともに新しい生活を始めた。ルイナから来た人間に抵抗しないためだ。
 この伝説はテレサスの魔術師を陥れるために利用された……ルイナの権力者は彼らが力をもつのを、特に当時の魔王を恐れていたのだ。記憶除去の魔法は、現代では禁忌とされている。テレサスの人々が自分にそれを使われたということを思い出さないためだ。生き残っていた国民はルイナから来た者と争うこともなく安寧な暮らしを送ることはできたが、アイデンティティは書き換えられた。魔術師や魔術は危険なものとされた。全てはルイナが支配を強めるためだった。
 王、ランサは「ドラゴン」を再び召喚しようとしている。テレサスをリセットし、紫陽族の支配を広げるためだ。そのためには、多量の魔力が必要になる。ヒューマンに比べて、太陽族や紫陽族はもともと強い魔力を持っている。それを利用するために、太陽族を拘束し、どこかに収容しているのだ。
 ライラは自分が魔術に明るくないために、ランサのしようとしていることを完全に把握できないことを悔やんだ。彼の暴挙を止められるとしたら……タイムしかいない。だが自分は八方塞がりだ。ライラへの監視は、テレサス訪問以降強くなっていた。
 テレサス王城の図書室に、記憶除去についての本を置いてきた。ルイナからこっそりと持ち出したものだ。彼が気づいてくれるといいのだが。
 ライラは目を閉じた。そして彼に思いを馳せた。自分は無力でないということを、彼が思い出させてくれた。
 タイム。彼ならきっと、皆を救ってくれる。

 「竜宮城、ってどんなところなんだろうな」
 シズは歩きながら言った。
「本によれば、そこに最後の魔導書を持っているモンスターがいるはずなんだけど」
 スタンの足取りは重かった。
「どうした、スタン」
「……姉ちゃんの暴力は誰かを守るためだけど、あんたのそれは何のため?それって、自己満足じゃない?」
「どうした、ここにきて仲間割れか?」
「そうじゃない。純粋な疑問だよ。それに、伝説によれば魔導書を集めて『ドラゴンが降りる』ってことは、伝染病や天災があるってことでしょ?他の皆を巻き込んでまで、タイムを王座から解放したいの?」
「それは正直、考えてなかった」
 シズは言った。
「そうなのかよ」
 スタンは不満げに言った。
「やっぱり、自分と、タイムが無事だったらそれでいいんじゃん」
「そういう考え方もありだろ」
「ナシだって」
「着いたぞ」
 パルフが二人を制止した。「竜宮城」と呼ばれる建物は桃色で、東洋風の三階建てになっている。入り口には大きな門があった。
「入るか」
 シズが門を押すと、大きな音を立てて開いた。一階には何もない。カツカツとブーツの音を立てて二階に上がると、沢山の人がいてシズは身構えた。
「なんだ?ここ」
 そこにいたのは大勢の太陽族だった。彼らは突然の訪問者に驚いて一斉に動きを止めた。
「もしかして、みんなルイナから逃げてきたのか?」
 前に出てきた女性が何か言ったが、その言語は理解できないものだった。
「古代太陽族の言葉だ」
 パルフが言った。
「そんなの、分かるのか」
「戦術学校で習った」
「なんて言ってるんだ?」
 パルフはゆっくりと女性になにか言った。彼女が答える。「ここは昔から太陽族がコミュニティを築いてきたところだって。それと、スタンのこと、危ないって言ってる」
「オレが?なんで」
 パルフはまた言葉を交わした。
「ええと、スタンが危ないんじゃなくて、ジャバウォックに影響されてるらしい。なぜモンスターと接触したのかって聞いてる」
「魔導書を集めてるって言ってくれ」
 パルフがそう伝えると、一同はどよめいた。
「どうしたんだ」
「危険だって。ドラゴンが来るって」
「ドラゴンってのはメタファーだろ?」
「そうじゃないらしい」
 それから女性は長々と話をした。パルフが訥々と通訳するところによると、話はこうだった。
 三百年前、ヒューマンの魔王が軍によって封印された時、実際にドラゴンがどこからか現れた。それは口から吹く炎によってすべてを焼き尽くした。テレサスの土地には隣国ルイナからの人間がやってきて、従わない者たちを記憶除去の魔術で洗脳した。生き残った太陽族の彼らは、竜宮城に籠って、ドラゴンのことを忘れないために口伝でその時の話を残していった。
「魔導書を集めたら、やばいことになるってわけ?」
「そうらしい。だが、ドラゴンを再現させようとしているのは、魔導書を集めている私たちだけじゃない。ルイナの王もそうだと」
「ルイナの?」
「そもそもなぜ『ザ・マスタープラン』を使おうとしているのか、彼女は聞いている」
 シズは息を呑んだ。本当のことを伝えるべきか。
「今の魔王を助けたいんだ。タイムは俺にとって大事な人だから、王座から自由になってほしい」
「なら、早く魔王城に行って、と言っている」
「魔王城に?なんで」
「ルイナの王が来る。彼はドラゴンを呼ぼうとしている」

 タイムが魔王城の図書室に行くと、記憶除去の魔法についての本がポンと置いてあった。
「誰だろう」
 他の人間が図書室の本に触った形跡はない。もしかして、前に来たのはライラだろうか。タイムは表紙を撫で、パラパラと本をめくってみた。すると紙切れが挟まっているのに気づいた。
「ルイナの伝説は、テレサスのものとは違う」
 紙にはそう書いてある。ライラだろうか。本文を読むと、確かにルイナ式の単語がところどころで使われていた。だが、これを読んでいる場合ではない。一刻も早くルイナに潜入しなければ。タイムは意識を飛ばすために、前回使った本をめくり始めた。詠唱し、ゆっくりと集中する。

 彼は施設の中にいた。レンガ造りの壁は重々しく、異様な光景が広がっている。人々、主に太陽族の男女がベッドに寝かされ、管に繋がっている。
「魔力を集めているのか」
 タイムは誰かに見られないよう物陰に身を隠しながら呟いた。他人の魔力を取り込んで利用するという話は聞いたことがある。例えば古代のモンスターであるジャバウォックが人々の悪夢を吸って、エネルギーにするのと同じ要領だ。
 入り口から誰かが入ってきて、タイムは身構えた。長い黒髪、宝石のあしらわれたマント。紫陽族の男だ。従者を何人か連れているところを見ると、話に聞くルイナの王、ランサらしい。彼は辺りを見渡し、研究者らしい女性の話を聞いて、手を打った。
「気が変わった。魔術が完成したら、テレサスに行くぞ」

 「ちなみに、俺たちが戦う予定だった最後のモンスターって、何だったんだ?」
「エビ」
 スタンは答えた。
「エビ?」
「ほら」
 彼は本を開いてみせた。そこには確かに巨大なロブスターのようなものが人間を襲っている絵があった。
「とにかく、こいつと戦わなくて、よかったな」
 シズはそう言うしかなかった。
「それより、ジャバウォックにスタンがやられてるって、どういうことだ」
「俺は大丈夫だよ」
「変だって。元気ないし」
 三人は魔王城へ向かう足を止めた。シズはスタンを立たせ、その肩に手を置いた。
「何する気だ、シズ」
「やったことないけど、やってみる。ジャバウォックが俺たちにしたことを再現するんだ。パルフは座って見ててくれ」
 シズは詠唱した。恐らくタイムが使っていた意識を飛ばす魔術と似ているものだ。スタンの意識の中に、潜り込んでいく。深く。

 シズはレンガ造りの家の中にいた。太陽族の女性が二人と、少年……スタンがいる。今よりずっと小さい。女性のうち一人は大きくため息をついた。
「言ったでしょ、もう彼は帰ってこないって」
「私のせい?」
「あなたのせいじゃない、イライザ。誰も悪くない」
「そう言われても」
 イライザと呼ばれた女性は言った。
「自分を責めるの、やめられない」
 スタンは黙ってスープを飲んでいた。気まずい沈黙が流れた。
 ガタン、と音がして、三人は入り口を見た。ドアが開いて、紫陽族の男が入ってくる。
「何なの、あなた」
 イライザは叫んだが、すぐに後ろ手に拘束された。スタンは男たちの間をすり抜けて、走る。「奴ら」がやってきた。走って、角を曲がり、林を抜ける。追いつかれたら終わりだ。だが、ついに誰かにぶつかって、止まる。勅令軍の人間だ。彼は連行され、馬車の荷台に乗せられる。ヒューマンの御者が馬に鞭を入れ、車が走り出す。シズはその荷台に飛び乗った。
「これがあんたの悪夢だったんだな」
 彼は言った。そしてゆっくりと、スタンを抱きしめた。その背中から、黒い何かが飛び出ている。それを引っ張ると、するすると長い紐のようなものが出てくる。ポン、と音がして、それが抜けた。バチン、と目の前が暗くなり、また明るくなる。
「オレにハグした?」
 気がつくと、スタンが目の前で怪訝な顔をしていた。現実に戻ってきたのだ。
「した。嫌だったか?」
 スタンはさっさとコートを払って、小さくジャンプした。
「なんか、身体が軽くなった。ありがと」
「ああ」
 シズはスタンの母親について何か言うべきかと思ったが、何も言わないことにした。
「行くぜ。魔王城に」
 三人は再びそこに向かって歩き始めた。























第十章 頂上決戦

 魔王城の広大な敷地の中にルイナの王・ランサが立っていた。彼とライラ、そして護衛が数人。彼はライラの首根っこを押さえている。
「ライラから手を離せ」
 タイムは言った。
「かわいそうに。寂しすぎて恋心が芽生えたか?」
「タイム様、あいつの口を縫い留めてやりたいんですが」
 コブラがタイムを下がらせながら言った。
「まだ今じゃない」
 タイムは彼女を制止して、向こうに聞こえるように叫んだ。ランサは渋々といったように彼女から手を離した。
「ただのジェントルマンシップだ」
「軍を招集するべきでしたね。今からでも遅くない、どうします?」
 コブラが尋ねた。
「そうだな。できるか?」
「あなたの望みなら今すぐに」
 彼女は部下に耳打ちした。相手は頷き、魔王軍を呼ぶためにそこを出た。
 入れ替わるようにして敷地に入ってきた女性に、タイムは亡霊でも見たように驚いた。
「ルビー?」
 そこには保安官の制服を着た旧友がいた。
「タイム、早く動かないと、この国は大変なことになる」
 ルビーは彼に駆け寄りながら言った。それをコブラが制止する。
「この人は?」
「大丈夫、ルビーだ」
「あなたが……」
 コブラは驚き、そして保安官の制服を見た。
「なぜ保安官に?」
「それは長い話。とにかく、シズが今しようとしていることは……」
「やっと着いたぜ」
 シズ、パルフ、スタンがぼろぼろの姿で現れた。
「シズ!」
 タイムは息を呑み、近づこうとするのを堪えた。
「と、誰?」
「暇だったから来た」
「戦術学校二番手のヤンだ」
 途中で合流したらしいヤンのパーティがシズたちと一緒に来た。
「はるばる遠くからやってきたのに、私を無視してないか?誰なんだ、彼らは」
 ランサが言った。
「俺の仲間だ」
 タイムが言い、ランサは失笑した。
「これを見たら、そんなこと言えなくなるよ」
 ランサが手を挙げると、ゴウン、と地鳴りがした。空の上に何かが現れた……ドラゴンだ。それは大きな咆哮をし、身体をくねらせた。
 ルビーが何かを詠唱する。それはタイムの聞き覚えがある詠唱だった。恐らく、魔術を解除するものだ。
 ランサが手から光を出し、ルビーを攻撃する。タイムは応戦した。
「間に合わない」
 ルビーが叫んだ。
「ルビー」
「ごめん、タイム、解除魔法、ダメだった」
 ドラゴンが火を吐いた。それは近づいてきていた魔王軍の人間に向かい、彼らは盾で応戦したが、無意味だった。
「悪いが、君たちには全員死んでもらう」
 ランサが言った。タイムたちは身構えた。次の瞬間、ドラゴンの尻尾が彼に直撃し、ランサは魔王城の門の壁まで吹っ飛んで、あっけなく地面に倒れた。
「ええーっ」
 スタンは思わず叫んで、身を隠すところを探した。
「あそこにいろ、スタン」
 パルフは門の壁にある大砲用の窓を指して、ナイフを取り出した。
「ドラゴンには逆鱗があるんだよな?」
「うん、多分。首の下のとこ」
「じゃあ、そこを狙う」
 魔王軍の人間が弓矢でドラゴンを狙うが、動きが速すぎて当たらない。尻尾になぎ払われて、何人かが壁に打ち付けられた。
 パルフは木を踏み台にすると、ドラゴンの背中に飛び乗った。鱗はつるつると滑るが、背中にある鰭のようなところに掴まると大丈夫だ。
「シズ!落ちないように助けてくれ」
「了解」
 シズはいつでも魔術で彼女を支えられるように構えの姿勢をとった。パルフはドラゴンの頭部に近づく。
「シズ、あんたが狙った方が早い」
 パルフはそう言うと、ドラゴンの頭に手をかけてぐいと引っ張った。喉の部分が露わになる。シズは手から光を出し、喉に飛ばす。ドラゴンは咆哮して、パルフを振り落とした。彼女はどうにか着地したが、尻尾が直撃した。
「姉ちゃん!」
 スタンは思わず壁の穴から飛び出して駆け寄った。彼女にはなんとか息があった。スタンは膝の上に彼女の頭を乗せた。
「来るな、スタン……逃げろ」
「動いちゃダメだ。死んじゃう」
 スタンは泣きそうな声で言った。
 ルビーは麻痺魔法を唱えて、ドラゴンを止めようとする。だが、鋭いかぎ爪が彼女を襲った。地面に倒れたところにタイムが駆け寄る。
「血が」
 ルビーは胸元から出血していた。爪にやられたのだ。
「タイム、逃げて」
「逃げない。どうにかする」
 ドラゴンの尻尾が襲ってきて、すんでのところでタイムはそれを避けた。
 コブラが放った槍がドラゴンの喉に命中する。それは大きくうねって、身を捩る。
「逆鱗ってのは、具体的にどこなんですか」
 彼女が焦った声で尋ねる。
「分からない」
 タイムは前足のかぎ爪を避けたが、後ろ足は避け切れなかった。コブラが彼をかばい、背中に爪を食らった。
「タム!」
 タイムは叫んだ。このままでは多量出血でルビーもコブラも死んでしまう。治癒魔法では間に合わない。
「ヤン、行くぞ」
「ああ」
 シズは魔術による光を階段のように使い、ヤンをドラゴンのところまで導いた。ヤンはそれの喉に突き刺さった槍を握り、もっと奥まで刺す。ドラゴンはバサバサと翼を上下させ、抵抗した。
「ライラ」
 タイムは茫然と立ち尽くしていたライラに声をかけた。
「早く逃げて」
「でも」
 彼女は逡巡したが、さっと城のほうに退避した。
 ヤンが足を踏み外し、どさりと地面に落ちる。
「ヤン」
 シズが駆け寄るが、彼は呻くだけだった。

 タイムは辺りを見渡して絶望した。使える資源は全て使い尽くした。魔力切れ、というかパニックを起こしそうだ。仲間は死にかけており、敵も死に、全ては無に帰しそうだ。自分たちがドラゴンにやられるのも時間の問題だろう。
「タイム」
 シズのパーティにいた少年……スタンが叫んだ。
「『ゴールデン・パス』には王の秘宝があるって言ってたよね。あれ、使えないの」
「秘宝?」
「誰も何が封印されてるのか知らないって。何か、魔術を使った道具とかじゃないの」
 軍に追われて魔王を復活させた時と違い、その伝説は希望にもならないように思えた。
「どんな願いも叶えられるんだよね。それを使って、ドラゴンを倒せない?」
 だが、使える手は全て使わないといけない。タイムは魔王城の方を見た。ドラゴンは現在、城の上を回遊している。
「タイム、一理ある」
 傷だらけのシズは言った。
「そこに手があるなら、全部使わないと、こいつは倒せない」
「行くぞ、シズ」
「ああ」
 二人は魔王城に向かって駆け出した。「秘宝」が置いてある場所はある程度目星がついている。興味がなかったから開けることはしなかったが、今は興味がどうこうという話ではない。
 ドラゴンに気付かれないように西門から入る。懐かしいな、とタイムは思った。魔王を復活させようとした時と同じルートだ。
「宝は多分、図書室の地下にある」
 二人は魔王城の図書室に行き、タイムが解除魔法を唱えた。本棚の間に亀裂が走ったかと思うと、それが扉になって両側にゴウンと音を立てて開き、地下室への階段が出現した。
「ただ、宝を守るためのモンスターがいるはずだ。そいつを倒さないと」
「モンスター退治なら任せろ」
 シズが快活な声で言った。

 地下室への道は長かった。二人が階段を駆け下りていくと、暗い石造りの部屋にぶち当たった。
「こんな質素な部屋でいいのか?」
 シズが言うと、隅にあった影が動き出した。グオオオ、とそのモンスターが咆哮する。ジャバウォックだ。
「そうだろうなと思ったよ。タイム、悪夢の準備はいいか?」
「ああ」
 辺りに煙が立ち込めた。シズは大きく咳き込む。やがて、何もない白い空間が現れた。
「なんだこれ」
 理論上はタイムの悪夢だ。だが、そこには何もなかった。ゆらりと白いシャツを身に着けた人影が動いた。タイムだ。
「タイム」
 シズは彼を抱きしめたが、その瞳はぼんやりと一点を見ていた。
「かわいそうに」
 女性の声が響いた。そして空間の向こうに人影が出現した。
「母さん」
「え、お、お母さん?」
 シズはそんな場合でもないのに戸惑った。タイムの母は彼と同じ髪と目の色をしていて、長い髪をゆったりと結っていた。その唇が開いた。
「かわいそうに、タイム。あなた病気なのよ。こっちに帰っておいで。そうしたら、そんなこと忘れるわ」
 シズの背中に寒気が走った。彼女の意味することが手に取るように分かった。そして、昔ルビーが「タイムはお母さんに嫌なこと言われたの」と言っていたのを思い出した。
 嫌なこと、ってもんじゃない。
「頼むから死んでくれ」
 幻影のタイムは疲れたように呟いた。その虚ろな瞳は母を見ていた。
「え?」
 シズは聞き返した。
「俺はビョーキじゃない。俺だけじゃ母さんの望む通りにできない。あなたが死ぬか、俺が死ぬかしかない」
「タイム」
 シズは彼を止めようとしたが、タイムは頭を抱えて呻くだけだった。彼がこんなに混乱しているところは初めて見た。これがタイムの「楔」なのか。
 空間の中に、一か所だけ光と温かさを感じるところがあった。タイムはよろよろとそちらに近づいて、座り込んだ。床に手を当てる。すると白い床にコブラやシズの姿がぼんやりと浮かんだ。
「うう」
 タイムは頭を伏せて、そこを見つめた。
「タイム」
 シズが呼びかけると、彼はぼんやりとこちらを見た。この空間ではこちらの声が届くらしい。
「あんたの母親に言われたこと、残念だと思う。誰もそんなこと、あんたに言うべきじゃない。でも、受け入れてもらう必要なんてどこにもないんだ」
「シズ」
「俺がここにいる。それだけじゃダメか?」
 タイムはぐずるようにシズの肩に頬を寄せた。彼の背中に腕を回して、タイムの母と対峙する。
「あんたがタイムにとっての『楔』なんだな」
 シズは手から青白い光を出して、彼女に巻き付けた。この空間では魔術が使えるのか。よかった。そのまま、彼女を空中に浮かせる。
「お母さん、初めての挨拶でこんなことして、ごめん」
 彼女の足元からは黒い根っこのようなものがズルズルと出てくる。手を上に振り上げて、タイムの母を宙に飛ばす。ズルズルと出てきていた黒い物体は、しばらくしてポンと地中から抜けた。その穴の部分からは光が出ていた。その光が広がって、目の前がまた見えなくなる。
 気づくと、タイムはまだ腕の中にいた。
「んん……シズ?」
「気がついたか」
 ハッとタイムは身を起こすと、シズから離れた。
「ご、ごめん。別にあんたに身を任せたかったわけじゃなくて」
「謝るなって」
 タイムの顔は真っ赤になっている。誰も見ていないのに。
「それより、こいつを倒さないと」
 シズは部屋の中をうろうろと飛び回っているジャバウォックを親指で示した。
「そ、そうだよな」
 タイムは気を取り直し、構えの姿勢を取った。その手から光が出て、ジャバウォックに向かう。シズも同じように光を当てる。少しずつ二人の光が大きくなって、はじけ飛んだ。そこには炭のようなものだけが残っていた。
「け、消し炭になった」
「こんなもんだろ」
 黒い消し炭がすうっと消え、鍵が出現した。大きく、鈍い輝きを放っている。
「鍵が出てきた。宝箱がどこかにあるってことか」
 シズは言い、辺りを見渡した。すると、どこからか赤い宝箱がすうっと現れた。
「やっぱ宝の箱は赤だよな」
 シズはそんなことを言いながら鍵をそこに差し、箱を開けた。

 「……なんだこれ」
「時計か?」
 そこにあったのは小型化した時計、のようなものだった。教会や町にあるものと同じ……だが、もっと小さい。真鍮でできたカバーを開けると、ガラス盤に挟まれたそれが出てくる。だが、ガラスも今の技術より進歩したもののようで、透明度が違った。横にはねじのようなものが付いている。恐らく現在の時間を指していて、コチ、コチ、と音を立てて動いている。
「これが王の秘宝?」
「待て、別の時代の物の可能性がある。今よりずっと先のもの」
 タイムは言った。
「これが何でも叶えられるって、どういうことだよ」
「でも今の俺たちは、こいつに頼るしかない」
 タイムはねじのような部分に触れた。
 次の瞬間、辺りが暗くなり、様々な光景が一気に浮かんで消えた。それと一緒に、形容しようのない恐怖と悟りがタイムの中に一気に流れ込んできた。海が干上がるところ、人が沢山並べられて火薬のようなもので殺されていくところ、大きな雲。爆発だ。よくわからない。ただ感じるのは恐怖と、全て人間がそれをしたということだ。
「今の見たか、シズ」
「ああ」
 彼も同じものを感じたようだった。
「あれは何だろう」
「分からない、時空のはざま、みたいなものか?」
「人間がしてきたこと、これからすること、の幻影なのか?」
 分かるのは、この機器が時間をコントロールするものだということだ。タイムは恐る恐るねじを回した。
 すると目の前のシズが消えた。
「え、何、どこ行った」
「ここだ」
 彼は入り口からひょこっと顔を出した。
「あんたがねじを巻くと、俺はさっき入ったはずの入り口に移動した」
「どういうことだ?」
「ねじを巻くと、時間が巻き戻る、ってことじゃないか?」
 タイムはしばし考えたが、考えている時間はない。その可能性があるなら、リスクを考えてでも使うべきだ。
「それが本当なら……」
「ドラゴンが出現する前に時間を戻せる」
「それ、どれくらいねじを巻けばいいんだ?」
「分からない。やってみるしかない」
「魔王を復活させた時の要領で、念じてみる。掴まっててくれ」
 タイムはそう言いながら、わりかし雑な手つきでねじを回した。溢れ出るような恐怖と戦いながら、念じる。ドラゴンが出現する前、奴の魔力、エネルギーがまだ「人間」つまり太陽族の人々から吸い取られる前だ。
「戻ったか?」
 時計の針は0時を指している。
「俺たちが宿で会った時だ」
「そうだな。俺は意識をルイナに飛ばす。そこでランサを止めるよう時間稼ぎをするから、あんたはルイナに行って、太陽族の人たちを避難させてくれ」
「ルイナに?一日かかるぞ」
「何とかする。明後日になったら、例の場所で合流しよう」
「来なければ、その時は……」
「失敗するわけない」
 二人はさっと身を起こし、それぞれの持ち場に向かった。
「馬、借りるぞ」
 旧都からルイナの中心部までは馬を飛ばしても一日かかる。パルフやスタンはどうしているだろうか。時間を巻き戻せば、パルフは治っただろうか。宿で自分がいないことを訝しんでいるだろうが、仕方がない。
 
 「さて」
 タイムは自室の窓から外を覗いた。先程まで聞こえていた兵士たちの叫びは一切聞こえない。確かに時間は遡ったらしい。気が進まないが、シズがルイナの太陽族収容施設に着くまでは、時間を稼がないといけない。今は夜中だから、さすがにランサも何もできないだろう。長時間意識を飛ばすと、タイムの力では魔力切れを起こす可能性がある。
「よし、寝よう」
 タイムは意を決してベッドに潜り込んだ。

 夜明け前にランサは自室で目を覚ました。何か良くない夢を見た気がする。自分が大きなモンスターにやられて死ぬ夢だ。今日は収容施設を見に行くと決めていた。そろそろ実験が完成するところだ。太陽族、その他の「要らない」人々からの魔力を吸わせて、ドラゴンを呼び起こすのだ。
「おはようございます」
 誰かがとびきりの笑顔で彼に話しかけた。従者ではない。ヒューマンの男だ。水色の上着を着ている。
「よく眠れましたか?」
「ああ。……いや、自分が死ぬ夢を見た」
「それはいけない」
「お前は誰だ?」
 ランサは彼に触れようとしたが、さっとよけられた。
「私はタイム、新しい小間使いです」
「タイム。隣国の王と同じ名前だな」
「そうですね」
 彼は明後日の方向を見ながら言った。
「もう朝食の時間ですよ」
「もう少し、ここにいたい。君と一緒に」
 タイムは笑った。
「では、そうしましょう」

 魔王城から意識を飛ばしていたタイムは、すごい冷や汗をかいていた。間が持たない。シズの会話能力を少しは見ておくべきだった。このままではすぐに正体と目的に気付かれてしまう。

「君は、容姿も話に聞く隣国の王に似ているな。茶色の目と髪……だが、こんなに魅力的だとは聞いていない」
 タイムは微笑んだ。
「私も、陛下がこれほどまで素敵な方だとは」
 ランサは柔らかく微笑んで、ベッドサイドから本を取り出した。
「今日はこの研究がやっと実る予定なんだ」
「どんな研究です?」
「役に立たない人間を使って、幸せな夢を彼らに見せながら、大きな目的を達成するものだ」
「興味深いですね」
「これが完成すれば、ルイナ全土だけではなく、テレサスも私の支配下に置ける。邪魔な人間はいなくなる」
「なるほど」
「テレサスの王は国境を越えた太陽族を保護しているらしい……虫けらを保護しても、何にもならないのにね」
 タイムの表情が固まった。ここで、何を言うべきなんだ?そもそも、初対面の人間にそんな話をする男なんて相手にするべきじゃない。最悪だ。
「私とは違う。大義を掲げるだけでは、無能なのと同じことだ」
 ランサは笑ったが、タイムはどう返すべきか迷った。
「ランサ様」
 その時、ドアが開いて従者が転がり込むように入ってきた。
「私が指示するまでドアは開けないようにと言っているだろう」
「それが……一番大きいラトルの収容所に侵入者があったそうです」
「なんだって?」
 タイムは舌打ちをし、ポケットから懐中時計を取り出した。
「お前の手先か、タイム?」
 ランサが何か言う前に、タイムはその指に時計のねじを触れさせ、手を重ねるようにしてねじを巻いた。
 辺りが暗くなり、ランサとタイム二人だけになった。次々とタイムがさっき見た幻影と同じものが流れる。干ばつ。束ねられて無造作に置かれた人間の腕や足。大きな爆発。
「なんだ、これは」
「時空のはざまだ」
 タイムは詠唱し、意識に実体を重ねると、ランサを蹴り飛ばした。
「目に見える『強さ』を追い求め……他人の自由を奪う権利があると驕ったリーダーに、未来はない」
 ランサは幻影の向こうに吸い込まれていく。叫び声だけが後に残った。
 時計は5時20分を指していた。

「あんた、名前は」
 シズは勅令軍の兵士らしき男に話しかけた。彼は足を怪我していて、ベッドに寝かせられていた。流血している足に治癒魔法をかけ、彼を立たせる。
「動けるか」
「ああ。俺はアルゴ」
「あんた、体力ありそうだから、みんなを誘導してくれ。あとその上着は脱いどけ」
 怪我人からも魔力を吸い取る気なのか、とシズは思いながら兵士の制服を脱がせる。
「早く」
 シズは人々から次々と管を抜いていって(手荒だと分かってはいるが、時間がなかった)外に誘導した。外にいる兵士と監視の者は全員気絶させてある。
 入り口から入ってきた人物の姿を認めて、シズは驚いた。
「タイム」
「シズ。ランサは片づけた。安心してくれ」
 シズは意味がないと分かっていても手を伸ばした。すると向こうもそれに応えた。触れることができる。シズはしっかりと相手を抱きしめた。鼓動が伝わってくる。
「終わった。これから、ルイナ中の収容所を回らないと」
「その前にすることがあるだろ」
 シズは相手の腰から手を離すと、頬に手を添えて、噛みつくようにキスをした。

 結局、ルイナの国はライラが治めることになった。太陽族は拘束から解放されたが、「計画」のために魔力を使われた人々が戻ることはなかった。タイムは王座に就いたままだったが、城のことはコブラに任せ、シズ、パルフ、スタンと旅に出ることになった。
「やるべきことはたくさんある。俺についてきてくれるか?」
「もちろん」
 三人は答えた。

 テレサスとルイナの国境、ニジロ村では故郷に帰ろうとする人々の列ができていた。ソンは彼らの長旅に必要な物資を次々配っていた。魔王軍の人間も来ていて、護衛にあたっていた。
「イライザ」
 ソンは少し前に村に来ていた女性に話しかけた。
「これからどうする?ルイナに戻る?」
「新都で息子を探してみる。まだ生きていたら収容所にいるかもしれない」
 彼女は答えた。ソンは微笑み、魔王軍の兵士に彼女を新都に連れて行くように指示した。
「ちなみに、息子さんの名前は?」
 兵士が尋ねた。
「スタン」
 イライザは答えた。
「彼の名前は、スタン」
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