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三章 元カレ来たりて父、動揺

4.リイチの才能

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 リイチは毎朝5時に起きて、男性風呂の掃除を頑張っている。1時間30分ほどの仕事なので、宿泊代にすると4日働いて帳消しの値段に設定にした。けれど、もう一週間働いている。
 いったいいつになったら帰るのか。
 本業も副業も大丈夫なのか訊ねると、しばらく休みだからいう返事。
 春風としても、リイチに手伝ってもらうことで、助かっていた。

 郡治と仲居たちを少しでも長く休ませてあげたい。
 仲居業は、かなりハードな仕事の部類に入る。和装、身に着いた行儀作法からそうは見えないだろうけど、肉体労働だ。
 立ったり座ったり、布団やお膳などの重い物の持ち運び、風呂掃除など、肉体を酷使しているので、着物の下にサポーターを巻いている人もいるほど。
 
 それに加え、お客様への配慮が必要なため、メンタルも疲弊する。お客様の表情や仕草を読み、必要なものを手配。幅広い年代のお客様との会話、観光スポットや歴史文化などの勉強も必須。
 観光地ではなくとも、グルメスポットを質問されれば、希望や好物・苦手な物をお聞きして、オススメのお店を考える。そのためには近辺のお店を把握しておかなければいけない。

 お休みは母の頃から週二日制だが、人が足りないときなどは、お願いして出てもらう。
 事務の榊とみさえにも、本来の業務に加えて受付をお願いすることがある。

 従業員たちに甘えているなと思っているが、春風が丸一日の休みを取ることが滅多にないのを全員が知っているので、快くなのかはわからないけれど、引き受けてくれる。
 今は助かっているけれど、いつまでもそれに甘えていてはダメだと、わかってはいた。

 そんなとき、番頭の郡治から、「リイチさんを、育ててみてはどうですか?」と提案された。
「リイチには、本業があるんです。ずっとここで働いてくれるわけではありません。なので、彼をあてにしないでください」
「本業がおありで。そうですか。残念です。接客に向いているのではないかと思ったので」
「向いているとあたしも思います。ずっといてくれるとありがたいとは思うんですが」

「実は――」
 深刻な顔で、郡治がなにか切りだそうとしている。良い話ではないのが直感でわかったけれど、聞かない訳にはいかない。

「そろそろ年なので引退を考えているんです」
「ああ……」
 やはり。そうだった。
 隠せなくて、落胆の吐息がこぼれてしまう。

「わたしは、もう65歳です。先代の料理に惚れ込んで、気がつけば二十八年お世話になっています。旅立たれる際に、社長を支えてやってほしいと頼まれた時には、涙がこぼれました。こんなわたしを頼りにしてくださっていると、嬉しくて」
「父もあたしも、郡治さんにとても感謝しているし、頼りにしています。あたしにとっては、身内のような感覚です」

「ありがとうございます。春風さんは小さい頃から先代女将の近くで、お仕事の真似をしておられました。頼もしい後継ぎだと思っていました。外で就職されたときには、残念な心地でおりましたが、こうして戻ってきてくださいました。頑張っておられる春風さんの支えになりたい一心で、リニューアル後もお手伝させていただきましたが、年をとるというのは、嫌になりますな。自分の体が自分のものではないような、思い通りに動かなくて戸惑うことが増えてきました。騙しだましやってきましたが、そろそろ自分を騙すのも難しくなってきました。リイチさんのような、若くて気力と体力に溢れた体が羨ましいです」

「今すぐ、というわけではないですよね」
「そうですね。お約束はできませんが、体さえ動けば半年なり一年なり。気力はありますから」
 
「父と相談をしておきます。もう少し頼りにさせてください。ご無理のない範囲でお願いします」
「情けない体たらくで、すみません」
「とんでもありません。頑張ってくださっているのは、みんなわかっていますから」

 卑下する必要はまったくないと、春風は力いっぱい否定した。

 その日の夜、春風はリイチを自室に呼び出した。単刀直入に、訊ねる。
「ねえ、リイチ。仕事は本当に大丈夫なの? 休みはいつまでなのよ」
「一カ月くらい平気」
「ほんとに?」
「僕らの仕事って変則的だから。長く休みが取れないこともあるし、逆もあるから。だから働かせてもらってありがたいってかんじ」
「それならさ、お風呂掃除だけじゃなくて、接客もやってみない? 郡治さんが、リイチに向いてると思うって」
「いいの? 僕、人が好きだから、嬉しいよ」
 
 リイチからあっさりと色よい返事がもらえて、休暇が終わるまで風呂掃除以外の仕事もしてもらうことになった。
 後にこの休暇は嘘だと判明するのだけれど、リイチの言うことを信じた春風に嘘を見抜くことはできなかった。

「いらっしゃいませ。お荷物お持ちいたします」
「あら、かわいい人が入ったのね」
「リイチといいます。よろしくお願いいたします」

 人を惹きつける笑顔でお荷物をお預かりして、リイチは徳永様をご案内する。
 童顔にフレッシュさが加わるリイチの笑顔は、好感度を上げて、警戒心を薄れさせる。
 どの年代にも気に入られるが、特に女性のお客様からの人気が高かった。さすが地下とはいえ現役のアイドル。

 春風とリイチが出会ったバレンタインイベントで、リイチはダントツの売上トップだったことを思い出した。

「ねえ、一緒に写真いいですか?」
「いいですよ。あ、でも、SNSに上げるのは、控えてもらっていいですか」
「えー。どうして?」
「恥ずかしいから、お願いします」
「わかった」

 若い女性のお客様から写真をせがまれ、きゅんポーズやハートマークを作っている。
 さすがに撮られ慣れているのがよくわかる。ポーズが自然だった。
 写真ぐらいならサービスの一環としてOKかなと、咎めることなく様子を見守るだけにした。春風たちにも記念として求められることがあるから。
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