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二章 最悪の職場環境
2.救急搬送されました
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腕時計で時間を確認してから、黒いビジネスバッグを肩に掛け、立ち上がった。
昼休憩を返上して、出るぎりぎりまで営業電話をかけ続けたけど、すべて話を聞いてもらう前に切られた。
でも今日は落ち込んでいなかった。営業でご自宅にご訪問させていただくことになっているからだった。
「課長、行ってきます」
「なんとしても取って来い」
「はい」
前田課長は私が営業に向かうのが嬉しいらしく、上機嫌で送り出してくれた。
財前華緒とすれ違い、意味あり気な笑みを向けられる。
絶対に契約を取ってくる、と胸の内で意気込んで、社を出た。
話を聞いてくれた松岡様は、五十歳代の主婦。二五歳で独身の息子さんのために、手ごろな入院保険を探しているとのことだった。
『息子はまだ若いけど、いつ何が起こるかわからないでしょう? 備えるように勧めようと思って』と。
おすすめの入院保険のプランを、二回目の訪問で提案してきた。
三回目の今日は、検討のお返事を聞かせていただくことになっている。
松岡様と同世代の母がケガで入院したことにして、保険のお陰でお金の心配をせずに治療に専念できたと伝えた。もちろん営業トーク。
母は出産以外で一度も入院をしたことがないほど元気いっぱいな人だ。
去年、大学卒業後に私は実家を出た。母は病気も怪我もなく、友人が経営するクリニックの受付で働いている。お盆とお正月には帰省したし、春に地震があって電話をかけたときも元気だった。
お母さんごめん、と心で謝りながら、松岡様に嘘をついた。
『そうよね。病気にはなってほしくないけれど、怪我や事故に遭う可能性もあるものね。やっぱり入っていた方が安心よね』
松岡様は頷いてくれていた。
契約をしてくれるといいな。
九月も半ばだというのに厳しい残暑が残り、真夏のような陽炎が立ち上がる中、私は意気揚々と駅に向かった。
三時間後、私は敗残兵となって、社に戻る道をとぼとぼと歩いていた。
夕方にもかかわらず、強い日差しが頭上に降り注ぐ。
拭いても拭いても汗が止まらず、体中がべとべとする。頭がぼーっとして、気持ちが悪い。改札を通ったあと、立ちくらみがして倒れそうになった。
昼食は抜いてしまったけど、水分はとってたんだけどな。
社に戻って報告をしたら、何か食べよう。
あー、報告、気が重い。
戻らないわけにはいかないし、報告しないわけにもいかない。
だけど、契約は取れませんでした、なんて言ったら、課長、泡飛ばしながら怒鳴り散らすんだろうな。
嫌だな。会社なんかなくなっちゃえばいいのに。胃が痛い。くらくらする。体重いな。
頭の中で文句を言いながら、ひきずるように重い足を踏み出して歩く。
自社ビルに辿り着いた。
自動ドアが開き、数歩中に入る。突如、体が重くなった。
あれ? あれあれ?
自分の意識と逆らうように、体が傾いていき、いうことをきかない。
ああ、どうしよう。と思いながらも、どうすることもできなくて、倒れないようにしゃがんだものの、まだ体が重く、立ち上がれそうになかった。
このまま横になってしまいたいぐらいきつかった。
いっそ意識を失ったほうが楽になれそうなのに、なぜだか意識は保っていたほうがいいような気もして――
「どうしました?」
遠くで誰かの声が聞こえる。
「救急車呼びましょうか?」
その人の困ったような声に返答をしようとしたけれど、声が出せない。荒い息だけを吐く。
周囲のざわつきが耳に入り、迷惑をかけているなとわかったけれど、どうしようもできなかった。
やがてやってきた救急隊員からあれこれ質問され、答えようとはするものの、思うように話せなくて。
初めて救急車に乗った。
病院に着き、途中までは意識はあったけれど、治療の途中で眠ってしまった。
目覚めたとき、見慣れない模様の天井が見えて、一瞬戸惑った。
消毒薬の匂いがする。静かだけど、人の気配を感じた。
左腕に違和感があって腕を持ち上げると、点滴の針が刺さっているのが見えた。
そうだった。病院に運ばれたんだったと思い出した。
会社のロビーで倒れて、誰かが救急車を呼んでくれたんだった。
申し訳ないことをした。体調管理を怠った私が悪い。
仕事はどうなったんだろう。私を知っている人が、営業部に連絡をしてくれていると助かるんだけど。
電話かけないといけないなと考えていると、
「鈴原さん、気づかれましたか」
シャーッとカーテンが開いて、看護師さんが点滴のチェックをしてくれる。
「あの、電話をかけたいんですけど」
「ここは禁止です。使用可能エリアが決まっているので、移動は点滴が終わってからにしてください」
そう教えられて、おとなしくしていた。
電話をかけられない理由ができたことに、正直なところほっとしていた。
体のだるさやしんどさはなくなっていたけれど、前田課長と会話をする元気はなかったから。
点滴が終わった頃、やってきた医師に今日の行動や体調など質問をされて、ひとつひとつ記憶を辿りながら答えていった。
熱中症の処置を行ったことを聞かされ、水分と一緒に塩分も摂取する、食事、睡眠をしっかりとること、など注意を受けた。
退院は明日朝の診断を待ちましょうと言われて、入院が確定した。
治療室のようなところにいたらしく、その後病室に移送された。
電話しなきゃなと思いながらも眠気に襲われ、そのまま寝てしまい。次に目覚めると、陽の光が室内を照らしていた。
次回⇒3.すでに心は折れていた
昼休憩を返上して、出るぎりぎりまで営業電話をかけ続けたけど、すべて話を聞いてもらう前に切られた。
でも今日は落ち込んでいなかった。営業でご自宅にご訪問させていただくことになっているからだった。
「課長、行ってきます」
「なんとしても取って来い」
「はい」
前田課長は私が営業に向かうのが嬉しいらしく、上機嫌で送り出してくれた。
財前華緒とすれ違い、意味あり気な笑みを向けられる。
絶対に契約を取ってくる、と胸の内で意気込んで、社を出た。
話を聞いてくれた松岡様は、五十歳代の主婦。二五歳で独身の息子さんのために、手ごろな入院保険を探しているとのことだった。
『息子はまだ若いけど、いつ何が起こるかわからないでしょう? 備えるように勧めようと思って』と。
おすすめの入院保険のプランを、二回目の訪問で提案してきた。
三回目の今日は、検討のお返事を聞かせていただくことになっている。
松岡様と同世代の母がケガで入院したことにして、保険のお陰でお金の心配をせずに治療に専念できたと伝えた。もちろん営業トーク。
母は出産以外で一度も入院をしたことがないほど元気いっぱいな人だ。
去年、大学卒業後に私は実家を出た。母は病気も怪我もなく、友人が経営するクリニックの受付で働いている。お盆とお正月には帰省したし、春に地震があって電話をかけたときも元気だった。
お母さんごめん、と心で謝りながら、松岡様に嘘をついた。
『そうよね。病気にはなってほしくないけれど、怪我や事故に遭う可能性もあるものね。やっぱり入っていた方が安心よね』
松岡様は頷いてくれていた。
契約をしてくれるといいな。
九月も半ばだというのに厳しい残暑が残り、真夏のような陽炎が立ち上がる中、私は意気揚々と駅に向かった。
三時間後、私は敗残兵となって、社に戻る道をとぼとぼと歩いていた。
夕方にもかかわらず、強い日差しが頭上に降り注ぐ。
拭いても拭いても汗が止まらず、体中がべとべとする。頭がぼーっとして、気持ちが悪い。改札を通ったあと、立ちくらみがして倒れそうになった。
昼食は抜いてしまったけど、水分はとってたんだけどな。
社に戻って報告をしたら、何か食べよう。
あー、報告、気が重い。
戻らないわけにはいかないし、報告しないわけにもいかない。
だけど、契約は取れませんでした、なんて言ったら、課長、泡飛ばしながら怒鳴り散らすんだろうな。
嫌だな。会社なんかなくなっちゃえばいいのに。胃が痛い。くらくらする。体重いな。
頭の中で文句を言いながら、ひきずるように重い足を踏み出して歩く。
自社ビルに辿り着いた。
自動ドアが開き、数歩中に入る。突如、体が重くなった。
あれ? あれあれ?
自分の意識と逆らうように、体が傾いていき、いうことをきかない。
ああ、どうしよう。と思いながらも、どうすることもできなくて、倒れないようにしゃがんだものの、まだ体が重く、立ち上がれそうになかった。
このまま横になってしまいたいぐらいきつかった。
いっそ意識を失ったほうが楽になれそうなのに、なぜだか意識は保っていたほうがいいような気もして――
「どうしました?」
遠くで誰かの声が聞こえる。
「救急車呼びましょうか?」
その人の困ったような声に返答をしようとしたけれど、声が出せない。荒い息だけを吐く。
周囲のざわつきが耳に入り、迷惑をかけているなとわかったけれど、どうしようもできなかった。
やがてやってきた救急隊員からあれこれ質問され、答えようとはするものの、思うように話せなくて。
初めて救急車に乗った。
病院に着き、途中までは意識はあったけれど、治療の途中で眠ってしまった。
目覚めたとき、見慣れない模様の天井が見えて、一瞬戸惑った。
消毒薬の匂いがする。静かだけど、人の気配を感じた。
左腕に違和感があって腕を持ち上げると、点滴の針が刺さっているのが見えた。
そうだった。病院に運ばれたんだったと思い出した。
会社のロビーで倒れて、誰かが救急車を呼んでくれたんだった。
申し訳ないことをした。体調管理を怠った私が悪い。
仕事はどうなったんだろう。私を知っている人が、営業部に連絡をしてくれていると助かるんだけど。
電話かけないといけないなと考えていると、
「鈴原さん、気づかれましたか」
シャーッとカーテンが開いて、看護師さんが点滴のチェックをしてくれる。
「あの、電話をかけたいんですけど」
「ここは禁止です。使用可能エリアが決まっているので、移動は点滴が終わってからにしてください」
そう教えられて、おとなしくしていた。
電話をかけられない理由ができたことに、正直なところほっとしていた。
体のだるさやしんどさはなくなっていたけれど、前田課長と会話をする元気はなかったから。
点滴が終わった頃、やってきた医師に今日の行動や体調など質問をされて、ひとつひとつ記憶を辿りながら答えていった。
熱中症の処置を行ったことを聞かされ、水分と一緒に塩分も摂取する、食事、睡眠をしっかりとること、など注意を受けた。
退院は明日朝の診断を待ちましょうと言われて、入院が確定した。
治療室のようなところにいたらしく、その後病室に移送された。
電話しなきゃなと思いながらも眠気に襲われ、そのまま寝てしまい。次に目覚めると、陽の光が室内を照らしていた。
次回⇒3.すでに心は折れていた
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