古民家ベーカリー&カフェ とまり木 ~美味しいパンとやすらぎを~ 〈何気ない暮らしの景色賞〉受賞

衿乃 光希

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五章 同じ地域に住む者同士

5. 母との電話

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「もしもし、お母さん」
 お風呂から上がって自室に戻ったところ、スマホに着信の知らせが入っていた。
 ドライヤーで髪をさっと乾かしてから、母に電話をかける。ボブは乾くのが早いから助かる。

『依織ちゃん、お仕事辞めたって何があったの? 引っ越しまでしてたなんて。お母さん、何も聞いてなかったよ』
 母は待ち構えていたらしく、ワンコールで繋がった。
 声に緊迫感はないけれど、心配していたのか、矢継ぎ早に質問してきた。でも私を責める口調ではなかった。

「事後報告でごめんなさい。急なことになっちゃったから、いろいろ大変で」
『今、どこに住んでるの? パン屋さんで働いてるって?』
「うん、そう。この二週間ぐらいのことなの。住んでるところはね」

 引っ越した地域を伝えると、
『あら、田舎ね。何があったの?』
 すぐに田舎だと伝わった。

 あのね、と私は母にすべてを話した。
 わずか二週間の間に起こった出来事は、母を驚かせたけれど、責められることはなかった。
 退職代行を使ったことに関しては、呆れた声で『今どきの子ねえ』と言われた。

 でもすぐに理解を示してくれた。前田課長の、退院直後に出社をしろ、という言葉に、母として怒ってくれた。
『根性叩き直すだなんて! 失礼な! うちの依織ちゃんは、あんたみたいに根性腐ってないのよ!』

 私は課長に良い返せなかったけれど、代わりに母が怒ってくれて、なんだかすっと気持ちが軽くなった。味方がいてくれて心強かったし、私のために母が怒ってくれて、嬉しくなる。

「それでね、今はとまり木で一緒に働いてる、松本沙耶さんって人のお家でシェアさせてもらってるの」
『松本沙耶さん? 女性よね。どんな人? 年齢は?」

「五十五歳。だけど美魔女なの。三十代にしか見えなくて、きれいな人なんだよ」
『一人で暮らしていらっしゃるの?」

「猫がいるよ。ハチワレ猫の八さん」
『田舎らしくって良いわねえ。じゃなくて、ご家族は?」

 猫と聞いて、母の声が一瞬和んだ。
 母は子供の頃、猫を飼いたがっていた。けれど父、私の祖父にアレルギーがあるので願いは叶わなかった。今の歳になっても動物を迎えないのは、祖父に何かあってはいけないからだと、ずっと前に話していた。

「結婚はしてるけど、旦那さんはいないよ」
 私の言い方がわかりにくかったのか、少し間があった。

『……事情があって、一緒に住んでないってこと?」
 気遣うような口調で、母が言った。

「詳しくは聞けてないんだけど、たぶん亡くなってる」
 脳裏を過るのは、お仏壇。
 引っ越しした当日、沙耶さんがお酒の缶を二缶持って、和室に入って行った。襖を引く間に、黒いお仏壇が見えた。

「まあ……そうなの。深い事情は聞けないわね』
「そうでしょ」
 母も私と同じ意見だった。

「タイミングがあったら、聞いてみようかと思ってはいるんだけど」
『無理にはやめておきなさいね』
「わかってるよ」

 私だって、言っていないことがある。人の事情に深く首を突っ込むなら、私の事情も話さないといけない。
 話すのが嫌ではないけど、なんとなくまだ言えてなかった。
 これもタイミングを計って、と思っている。

『お世話になっているなら、一度挨拶に伺いたわね」
「沙耶さんも心配されるだろうから、家に来てもらっていいよって、言ってくれた。話もするって」

『そうなの。じゃあ、どこかで日にちを合わせて行かせてもらおうかな』
「十一月の連休に地域のイベントがあってね、出店するんだって」

『その辺りは、麻弥ちゃんと旅行に行くのよ。宿も取ってくれてるの』
「そうなんだ。じゃあ、ここはダメだね」

 麻弥先生は母の勤務先の花崎クリニックの院長で、母の幼馴染でもある。
 旅行は好きだけどひとり旅は苦手という麻弥先生には、私も一緒に連れて行ってもらったことがある。

 母と沙耶さんの共通の休みは水曜日の午後だけ。実家からここまでの移動時間を考えると、日帰りは体力的な負担が大きい。水曜日の午前か、前後で丸一日休みをもらえるか、麻弥さんと相談することで、この話はいったん落ち着いた。

『それはそうとして、依織ちゃん、十二月の第二日曜日に法要するけど、お休みもらえるの?』
「あ、お祖父ちゃんの。六年?」

『そう。七回忌』
「忙しい曜日だから、休めるかな?」
 日曜日は一番忙しい。休みたいと申し出るのは、少し気が引ける。福留さんはいないし。

『法事なのに休ませてもらえないようなお店なの? 大丈夫なの。また体壊さない?』
「大丈夫だよ。店長は優しい人だから。休みのことはお願いしてみるね」

『お願いね。あと、それでね……』
 なにか言いにくいことでもあるのか、母が言い淀む。ピンときた。

「お父さん? 連絡ないの? 今回もお母さんひとりに任せるつもりなんだね。去年のお祖母ちゃんのときも帰ってこなかった。勝手だよね。自分の親の法要なのに」
『あ……うん、勝手よね』

 父は祖父の三回忌が終わったあと、私たちの前から姿を消した。遺品整理や相続などの手続きは終わっていて、別居期間も終わると思っていたのに。

 ≪疲れたから。旅に出ます。

 こんなメッセージひとつを寄こして、すべての連絡がつかなくなった。
 警察に相談に行ったけれど、「待っていてあげたらどうですか?」と言われてしまった。自分の意志で家出をした大人と判断されたからだった。
 一応、捜索願は出したけれど、その後連絡はない。

 いったいどこで何をしているのやら。最初は心配していたけれど、そのうちに怒りの気持ちが勝ってしまった。

「帰ってこなくていい。私たちだけでやろうよ。お祖父ちゃんも向こうで怒ってるよ」
 母はそれ以上、何も言わなかった。


 次回⇒6.競合店の出現!?
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