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番外編 猫のいる街 1997

29. 誠二郎 24

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珠と話をし、朝日が昇る前に京子宅へ戻ってきた。
二人ともまだ夢の中だった。マネキンは見られずにすんだようだ。
やることもないし、暇だな。どれ、二人に朝ごはんを作ってやろう。
男やもめとはいえ、女房に先立たれてもう五年。簡単なものなら自炊できるようになった。
わしが作るものは和食が主だったが、冷蔵庫を覗くと魚はなかった。
ロールパンがあるから、京子たちの朝はパン食なのだろうな。
ならば挟めるものをと思い、ゆで卵を茹でている間に、きゅうりを細かく切り、ウインナーを炒めた。レタスをちぎり、プチトマトを一緒に水で流した。
茹で上がった卵を賽の目にカットし、きゅうりを入れてマヨネーズと和える。忘れがちな塩を少しふりかけ。
これなら、子供も食べてくれるだろう。
真っ白いお皿に水気を切ったレタスを乗せていると、頭上から雷鳴のような轟きが響き、振動がびりびりと壁に伝わる。そして、
「おじいちゃーん」
足音高く階段を下りてきて、居間の扉を開けて勢いよく入ってきたのは愛だった。
朝から元気だのう。
「おはよう」
「おはよう。おじいちゃん。今日は猫ちゃん見に行くんでしょう」
「そうだよ。朝ご飯を食べたら行こうね」
「うん」
「愛。顔洗ってらっしゃい」
京子に促され、愛はドタドタと走って行った。
「お父さん、朝ご飯作ってくれたの?」
「珠たちが世話になるんだから、これくらい安いもんだ。台所勝手に触ってすまんな」
「ううん。ありがとう。戴くね」
二人が朝食を終えてまもなく、車に乗ってまずホームセンターに向かった。
猫たちのキャリーバッグ二つとフードとパピー用の缶詰・ベッドや食器類おもちゃ・ノミ取りを購入し我が家へ向かった。
珠には昨夜のうちに言い聞かせておいたから、逃げずにいてくれるはずだ。
家に着くと、珠はチビたちと縁の下でちゃんと待っていた。
京子が家の鍵を開けてくれ、人の姿で久しぶりの帰還となった。
「何から手をつけたらいいのかわからなくなって、中途半端でごめんね」
廊下や部屋にダンボールが置いてある。その横を通って居間に猫たちを連れてきた。
チビたちは不安げに大きな鳴き声を上げている。
「珠が使ってたもの捨てずに纏めておいたはず」
と京子がダンボールを開け閉めして、目当ての物を探してきた。
タオルは洗い、ベッドは天日干しをしたそうだが、少しは珠の匂いが残っていたのか、チビたちに近づけてやると匂いを嗅いで這い上がってきた。
匂いに安心したのか、泣き声も落ち着いた。
フードと缶詰を開けて食器に入れてやる。珠は食べ慣れた久しぶりの餌に警戒なく食いついた。それを見たチビたちも、ゆっくりと近づいていった。
一度食べ始めると、初めての食べ物に興奮したのか、夢中で食らいつく。
水もがぶがぶと飲み腹が満たされると、横になった珠の傍でくっついて眠り始めた。
目をきらきら輝かせて猫たちを見ている愛に、部屋の外に出さないようにと言い置いて京子に任せ、わしは寝室に向かった。
日用品は捨ててしまって構わないが、年賀状の整理はしておきたい。知らせて欲しい人もいるしな。
押入れから箱を下ろし、年毎に分けた年賀状の新しい束を取り出した。必要なものを何枚か選り分け、それ以外は破棄してもらうことにする。
「京子すまないが、この方々にはわしが死んだことを知らせておいてくれるか」
「わかったわ。参列してくださった方と重複しないか確認しておくわね」
年賀状を渡してから、部屋の中を少し片付けていると、
「そろそろホームセンターの営業時間だから行きましょうか」
と京子に促された。
家を出る前に、玄関から全体を見渡した。
この家には40年世話になった。広くはないが、居心地のいい家だった。
京子を身ごもる少し前に、団地から居を移した。
子供たちが家の中や庭を走り回ったり、かくれんぼをしたり、花火をしたり、月を眺めてスイカを食べたり。久子と子供たちとのたくさんの思い出が詰まっている。もちろん珠との思い出もある。
これで最後になるかもしれんな。
確信したわけではない。そんな気がしただけだ。
家族とともに歩み、思い出を刻みこんだ、年老いた家との別れになるかもしれぬ、と。
わしは家の中に向かって頭を下げた。
家族と、そして珠たちを守ってくれて、ありがとう。
気を取り直し、我が家に背を向けて、珠たちをキャリーバッグごと後部座席に乗せた。
そうだ、忘れるところだった。
大事なものを回収し忘れていたので、慌てて庭に戻った。
それを取って車に戻ってくると、来る時は助手席に座っていた愛が、後部座席に座っていた。猫たちを見ていたいらしい。
キャリーバッグのチャックを開けて上から様子を見られるようにしてやる。
わしは珠の喉をさすり、「じきにリンと会えるからの。しばしの辛抱じゃ」と話しかけた。
言葉が通じるはずもないのに、珠がわしを見てみゃっと短く鳴いた。
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