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母親になり損ねた女
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カーテンをそっと開くと、窓ガラス越しに月が見えた。
アキは、じっと月を見つめながらタバコをふかす。
細い煙が天井に向かって上っていく。
一人きりの狭いアパートの中で、そのか細い煙は侘しく見えた。
アキは、赤いインナーカラーの入ったボサボサの髪をかきあげ、タバコの煙を胸いっぱいに吸い込んだ。
アキはタバコを四六時中吸っていた。
きっと肺は真っ黒に違いない。
そのうち、取り返しのつかない肺病にかかるかもしれない。
そう思いながらも、アキはできるだけたくさんの煙を鼻から吸い込んだ。
肺に、血液に、全身に、毒をとりこむように。
この部屋にいると、ゆっくりと死んでいくみたいに感じる。
アキは五十代で、まだ死ねるほどには年をとっていなかった。だけど、体よりも先に心が衰弱していくみたいに感じていた。
このアパートの一室は、
アキが夫と幼い子どもを捨てて家を飛び出した末に行き着いた場所だった。
部屋はいわゆる汚部屋で、足の踏み場がないほど、物が散乱していた。
食べかけの菓子の袋や、カップ麺の容器。
空の酒瓶やゴミ袋。
脱ぎっぱなしの服。
この部屋は、昔からこんなふうだったわけではなかった。
この部屋もかつては住み心地よく片付いていた。
そして、その頃は、アキの他にもう一人、この部屋で暮らす人がいた。その人は、アキの恋人だった。
恋人は、もう何年もこの部屋に帰ってこない。
その人がかつて着ていた上着が、壁にかけっぱなしになったまま、窓からの太陽光にさらされて色褪せていた。
部屋の壁には、三箇所、強い衝撃で穴が空いていた。その穴には、ケンカの悲しい思い出が一緒に刻まれていた。
自業自得だ。
アキはそう心の中でつぶやいた。
だって、私は家族を捨てたのだから。
誰かを不幸にした後で、他の誰かと幸せになろうなんて都合の良いことを願ったから、天罰が下ったのだ。
アキは、母親になり損ねた女性だった。
彼女は、元来社交的な女性で、友達との外食や、スナックでの仕事が好きだった。
結婚してすぐに子どもができたので、スナックの仕事もやめ、家庭に入ったが、家の中にこもって家事や育児を淡々と繰り返すうちにウツウツとした気分を感じるようになった。
おまけに、子どもは言葉を覚えるのが遅く、何が嫌で泣いているのか分からない時が多かった。
落ち着きもなく、言うことも聞かず、叱れば癇癪を起こしてひっくり返って泣いた。
子どもの世話がつらかった。
中でも一番苦痛だったのは、子どもにうまく関われないことだった。
ある日のこと、子どもを連れて公園に行くと、たくさんの親子がそこにいた。
見ると、そこにいる母親達は、実に楽しそうに、ごく自然に、子どもに微笑みかけたり、一緒に遊んだりしていた。
アキは、砂場で泥団子を作って遊んでいる我が子のそばにしゃがみこんだ。
アキはその様子をじっと見つめる。
子どもは何が楽しいのか、たくさん作った泥団子をせっせと一列に並べていた。
この子はオモチャでも何でも一列に並べるクセがあった。
アキは、
「上手に作ったね」
と微笑んで言ってみた。
子どもは、何にも返答をしない。
ひたすら黙々と泥団子を作っては並べていた。
「泥団子、好きなの?」
今度は顔をのぞきこんで聞いてみた。
だけど、子どもは一瞬視線を合わせただけで、また黙々と同じ動作を繰り返していた。
アキの笑顔がゆがむ。
どうしてだろう。
どうしてこの子は、話しかけても答えてくれないのだろう。
私の関わり方が悪いのだろうか。
どうして、他の親子みたいにうまくいかないんだろう。
公園の中には、楽しそうな声があちこちから響いていた。
無言で我が子のそばにしゃがみ込んでいるアキの心に、ふっと隙間風がふく。
ここにいるたくさんの母親達の中で、自分だけが母親として落伍者の烙印を押されている気がした。
アキは家にいることも子どものそばにいることも苦痛だった。
吐口を求めて、スナックで働いていた頃の客と時々連絡をとったり、食事をするようになり、ある日、魔が刺して一線を超えてしまった。
それからは、なし崩しに何度もその男と体を重ねた。
それが、夫に知れ、大ゲンカの末に、アキは家を飛び出した。
笑ってしまうような、陳腐な話だった。
家を飛び出した時、アキの子どもは五歳だった。
それから十五年が経つが、その間一度も子どもに会っていない。
昔子供と暮らしていた家が、今もあるのかさえ、分からない。
アキは深いため息をついてから、そばにあったコンビニの袋をガサガサとあさった。
そこには、葉書が一枚入っていた。
アキは部屋に堆積するゴミの山の中からペンを見つけ出すと、自分の膝を机がわりにしてーーこの部屋にある机はゴミにうまってしまっているので、使いたいと思ったらまずゴミをどうにかしないといけないーー葉書の裏に何かを書き始めた。
膝の上で書かれた文字は汚くゆがんでいた。しかし、それでかまわないのだった。どうせ、届くことのない手紙なのだから。
アキは葉書の裏に文字をつづりながら、
今ならばーー、
と心の中でつぶやいた。
今ならば、分かることが一つある。
あの子と、一緒にいた時には気づけなかったこと。
離れてみて分かったこと。
それは、あの子を手放しちゃいけなかったということだ。
あの子といると、つらい気持ちを感じる時が多かった。それでも、あの子を失うことは、人生を失うことだった。
あの子をちゃんと愛せたら良かったのに。
あの子の母親に、ちゃんとなれたら良かったのに。
アキは上着をはおると、
「会いたい」とただ一言書いたハガキを持って、外に出た。
宛先も差出人の名前も書かれていないままの手紙を近所の郵便ポストに放りこむと、カタン、とひっそりとした音がした。
暗くなった静かな街角、
孤独そうにたたずむ郵便ポスト、
指先に触れた郵便ポストの冷たさ、
そして、カタン、というわびしい音。
アキは、突然大声で泣き出したくなる。
後悔ばかりが胸にあふれる。
こんな場所で泣き出すわけにもいかず歯を食いしばると、涙が一筋だけ頬をつたった。
もし、あの子と一緒に人生を歩んでいたら、
今頃あの子の大人になった姿を見られるはずだった。
アキは、頬の涙をぬぐいながら、我が子が生まれた時のことを思い出す。
分娩室に響く産声、
おめでとうございます、と産科医が言う声。
アキの胸の上に、赤ん坊の小さな体が乗せられた。
アキは赤ん坊を抱いた。
初めて抱く我が子の柔らかい感触、
肌のにおい。
そして、その瞬間に湧き上がった感情。
あの時の気持ちのまま、母親になれたら良かったのに。
また、泣き出しそうになり、アキは涙を押し留めるために、思い切り顔を上に向けた。
すると、暗い夜空の高いところに月が浮かんでいるのが見えた。
月は、微笑んでいるような優しい光で、暗闇に沈む街ごとアキを抱き包んでいた。
この光に、どうか我が子も包まれていますように。
そう、アキは月に祈った。
月が静かにアキに微笑んでいた。
完
アキは、じっと月を見つめながらタバコをふかす。
細い煙が天井に向かって上っていく。
一人きりの狭いアパートの中で、そのか細い煙は侘しく見えた。
アキは、赤いインナーカラーの入ったボサボサの髪をかきあげ、タバコの煙を胸いっぱいに吸い込んだ。
アキはタバコを四六時中吸っていた。
きっと肺は真っ黒に違いない。
そのうち、取り返しのつかない肺病にかかるかもしれない。
そう思いながらも、アキはできるだけたくさんの煙を鼻から吸い込んだ。
肺に、血液に、全身に、毒をとりこむように。
この部屋にいると、ゆっくりと死んでいくみたいに感じる。
アキは五十代で、まだ死ねるほどには年をとっていなかった。だけど、体よりも先に心が衰弱していくみたいに感じていた。
このアパートの一室は、
アキが夫と幼い子どもを捨てて家を飛び出した末に行き着いた場所だった。
部屋はいわゆる汚部屋で、足の踏み場がないほど、物が散乱していた。
食べかけの菓子の袋や、カップ麺の容器。
空の酒瓶やゴミ袋。
脱ぎっぱなしの服。
この部屋は、昔からこんなふうだったわけではなかった。
この部屋もかつては住み心地よく片付いていた。
そして、その頃は、アキの他にもう一人、この部屋で暮らす人がいた。その人は、アキの恋人だった。
恋人は、もう何年もこの部屋に帰ってこない。
その人がかつて着ていた上着が、壁にかけっぱなしになったまま、窓からの太陽光にさらされて色褪せていた。
部屋の壁には、三箇所、強い衝撃で穴が空いていた。その穴には、ケンカの悲しい思い出が一緒に刻まれていた。
自業自得だ。
アキはそう心の中でつぶやいた。
だって、私は家族を捨てたのだから。
誰かを不幸にした後で、他の誰かと幸せになろうなんて都合の良いことを願ったから、天罰が下ったのだ。
アキは、母親になり損ねた女性だった。
彼女は、元来社交的な女性で、友達との外食や、スナックでの仕事が好きだった。
結婚してすぐに子どもができたので、スナックの仕事もやめ、家庭に入ったが、家の中にこもって家事や育児を淡々と繰り返すうちにウツウツとした気分を感じるようになった。
おまけに、子どもは言葉を覚えるのが遅く、何が嫌で泣いているのか分からない時が多かった。
落ち着きもなく、言うことも聞かず、叱れば癇癪を起こしてひっくり返って泣いた。
子どもの世話がつらかった。
中でも一番苦痛だったのは、子どもにうまく関われないことだった。
ある日のこと、子どもを連れて公園に行くと、たくさんの親子がそこにいた。
見ると、そこにいる母親達は、実に楽しそうに、ごく自然に、子どもに微笑みかけたり、一緒に遊んだりしていた。
アキは、砂場で泥団子を作って遊んでいる我が子のそばにしゃがみこんだ。
アキはその様子をじっと見つめる。
子どもは何が楽しいのか、たくさん作った泥団子をせっせと一列に並べていた。
この子はオモチャでも何でも一列に並べるクセがあった。
アキは、
「上手に作ったね」
と微笑んで言ってみた。
子どもは、何にも返答をしない。
ひたすら黙々と泥団子を作っては並べていた。
「泥団子、好きなの?」
今度は顔をのぞきこんで聞いてみた。
だけど、子どもは一瞬視線を合わせただけで、また黙々と同じ動作を繰り返していた。
アキの笑顔がゆがむ。
どうしてだろう。
どうしてこの子は、話しかけても答えてくれないのだろう。
私の関わり方が悪いのだろうか。
どうして、他の親子みたいにうまくいかないんだろう。
公園の中には、楽しそうな声があちこちから響いていた。
無言で我が子のそばにしゃがみ込んでいるアキの心に、ふっと隙間風がふく。
ここにいるたくさんの母親達の中で、自分だけが母親として落伍者の烙印を押されている気がした。
アキは家にいることも子どものそばにいることも苦痛だった。
吐口を求めて、スナックで働いていた頃の客と時々連絡をとったり、食事をするようになり、ある日、魔が刺して一線を超えてしまった。
それからは、なし崩しに何度もその男と体を重ねた。
それが、夫に知れ、大ゲンカの末に、アキは家を飛び出した。
笑ってしまうような、陳腐な話だった。
家を飛び出した時、アキの子どもは五歳だった。
それから十五年が経つが、その間一度も子どもに会っていない。
昔子供と暮らしていた家が、今もあるのかさえ、分からない。
アキは深いため息をついてから、そばにあったコンビニの袋をガサガサとあさった。
そこには、葉書が一枚入っていた。
アキは部屋に堆積するゴミの山の中からペンを見つけ出すと、自分の膝を机がわりにしてーーこの部屋にある机はゴミにうまってしまっているので、使いたいと思ったらまずゴミをどうにかしないといけないーー葉書の裏に何かを書き始めた。
膝の上で書かれた文字は汚くゆがんでいた。しかし、それでかまわないのだった。どうせ、届くことのない手紙なのだから。
アキは葉書の裏に文字をつづりながら、
今ならばーー、
と心の中でつぶやいた。
今ならば、分かることが一つある。
あの子と、一緒にいた時には気づけなかったこと。
離れてみて分かったこと。
それは、あの子を手放しちゃいけなかったということだ。
あの子といると、つらい気持ちを感じる時が多かった。それでも、あの子を失うことは、人生を失うことだった。
あの子をちゃんと愛せたら良かったのに。
あの子の母親に、ちゃんとなれたら良かったのに。
アキは上着をはおると、
「会いたい」とただ一言書いたハガキを持って、外に出た。
宛先も差出人の名前も書かれていないままの手紙を近所の郵便ポストに放りこむと、カタン、とひっそりとした音がした。
暗くなった静かな街角、
孤独そうにたたずむ郵便ポスト、
指先に触れた郵便ポストの冷たさ、
そして、カタン、というわびしい音。
アキは、突然大声で泣き出したくなる。
後悔ばかりが胸にあふれる。
こんな場所で泣き出すわけにもいかず歯を食いしばると、涙が一筋だけ頬をつたった。
もし、あの子と一緒に人生を歩んでいたら、
今頃あの子の大人になった姿を見られるはずだった。
アキは、頬の涙をぬぐいながら、我が子が生まれた時のことを思い出す。
分娩室に響く産声、
おめでとうございます、と産科医が言う声。
アキの胸の上に、赤ん坊の小さな体が乗せられた。
アキは赤ん坊を抱いた。
初めて抱く我が子の柔らかい感触、
肌のにおい。
そして、その瞬間に湧き上がった感情。
あの時の気持ちのまま、母親になれたら良かったのに。
また、泣き出しそうになり、アキは涙を押し留めるために、思い切り顔を上に向けた。
すると、暗い夜空の高いところに月が浮かんでいるのが見えた。
月は、微笑んでいるような優しい光で、暗闇に沈む街ごとアキを抱き包んでいた。
この光に、どうか我が子も包まれていますように。
そう、アキは月に祈った。
月が静かにアキに微笑んでいた。
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