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バレてはいけないこと 第一話

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 クラスメイトの尾鳥雛子について、妙な噂が流れ始めたのは、今年の春先からだった。僕と彼女とは男女共学高校のクラスメイトである。僕らが通う学校は、平均的な公立高校であり、別に進学校ではない。少し女子の比率が高いが、この国のどこにでもありそうな普通の高校だ。僕ももう二年生になるが、さして重大な事件も起こらない安閑とした日々に、それなりに満足していた。僕には原田という気の合う友人がいた。彼は卓球部に所属していた。元々は僕の方から部活をやろうと彼を誘ったのだが、顧問の教員と折り合いが悪くなり、先に退部することになってしまった。なので、原田に対しては、大変にばつの悪い思いをしている。なにせ、自分が先に誘っておきながら、自分が先に辞めたのだから。この原田という男は中学の頃から卓球部に所属していたのだが、そのスポーツ特有の暗いイメージとは似つかず、背も高いけっこうなイケメンである。背の低く、イケメンでもない僕らからすれば、羨ましい存在であった。

 僕らはシャイな高校生であったから、普段、女性との付き合いの話などしないが、原田ほど外見のいい男であったら、好き合っている女性の一人や二人いるのではないかと密かに勘ぐっていた。ただ、僕が部活を辞めてからも、ふたりで一緒に帰ることがほとんどで、女性の影はまるで感じられなかった。それが二年の夏ごろから、急に原田の周囲で女性の噂が立つようになっていたのだ。彼は昼休みになると、コソコソと教室を抜けて、第二音楽室へ向かうようになった。どうやら、そこで他の女生徒と会っているらしい。僕も他の友人から聴かされるまで、そんなことはまるで知らなかったし、実際にこの目で確かめたときは青天の霹靂といってもいい現象であった。あんなに純粋な男が十七歳の女生徒に手を出すとは、とても思えなかったからだ。僕は多少の憤りを感じたが、原田の恋愛問題については、そっとしておくことにした。彼に彼女がいるかどうかについて、自分から尋ねるとなると、まだ独り身の自分としては、余計にかっこ悪いからだ。向こうが切り出し始めたら、のんびりとした態度でそれを聴いてやればいいと思っていた。親友に彼女ができるという体験は初めてだが、あくまで余裕のあるフリをしなければならない。

 そんなある日、僕の耳に原田と同じクラスの尾鳥雛子のふたりがもう長いこと恋愛関係にあるという信憑性のある噂話が入ってきたのだ。尾鳥雛子という女子生徒は、ショートカットに眼鏡をかけた割合大人しめな女の子であったが、顔かたちは整っていて、美人と表現してもよかった。ただ、教室ではいつも読書をしている上品で控えめなイメージがあったので、自分から男性に告白して彼氏をもぎ取る勇気があるとはとても思えず意外だった。恋というものは人格をも変えてしまうものなのであろうか。こんな噂がクラス全土に流れるに至っても、原田は親友の僕に対して、尾鳥のことを紹介したりはしなかった。僕にはかなりの憤りがあった。というのは、僕自身も尾鳥に対して、多少の興味を持っていたからだ。「可愛いくて魅力的な子だな」と感じたことさえ何度かあったのだ。それが、すでに親友に横取りされていたとは……。自分だけが相手にされていない疎外感を感じるようになったのだ。いっそのこと、自分から相手に聞いてやろうかとさえ思い始めた。「おい、おまえ、あの女と付き合っているのか?」と。しかし、噂の段階で動き出すのは品のないマスコミみたいであるし、もし、これが真実であれば、自分の立場が余計に厳しくなるばかりである。苦渋の決断になるが、僕はしばらくの間、黙っていることにした。

 それから一週間後の清掃の時間、僕は自分に割り当てられた第二音楽室へ向かった。暑い夏の盛りだった。窓は開け離れていた。清掃の担当は自分一人だった。とにかく、ピアノの上から拭こうと思い、真っ黒なグランドピアノに手を添えた。そのとき、折から吹き込んでいた風に揺さぶられて、何かの紙片が床に落とされた。そんなものに、さして、興味も持たなかった。しかし、その手紙の表面にあった宛名に思わず目を引かれた。

『原田くんへ』

 何も考えずにここに踏み込んでしまったが、この第二音楽室はふたりがよく逢い引きに使っている教室ではなかったか。僕は慌てふためきながら、周囲を見渡した。自分以外、誰の気配もなかった。今なら、この恋文を拾い上げ、隅々まで読んでしまうことは容易い。だが、親友とその彼女との秘密の手紙である。良心が咎めるのは当然だ。もし、この行為がバレてしまったら、クラスメイトのほぼ全員からどれだけ責められるか知れない。高校生というものは、社会的道徳心はろくに育ってもいないくせに、恋愛観に関しては、ほとんどの大人と肩を並べるほどに成熟しているものなのだ。その聖典の中には、『他人のカップルの秘密を覗き見る奴は最低』とでも書かれていることであろう。つまり、件のふたりの秘密を知った途端にうちのクラスの全員から爪弾きにされる可能性が出てくるのだ。とりあえず、僕にはその手紙を開くことはできず、ポケットに保管しておくことにした。あのふたりに腹が立つことがあれば、これを読んで憂さ晴らししてしまうこともできるし、ここ数日何事もなければ、これを静かに処分してしまうこともできるからだ。どちらでもババを引く可能性は考えられたが、僕としてはできれば後者であることを望んでいた。僕が善人のままで済み、あのふたりの仲が自然消滅すれば、それが一番よい解決ではないかと思っていた。

 しかし、よりにもよってその当日の放課後、僕のプライドを爆裂させる事態が起きてしまったのだ。原田と一緒に帰宅しようと、下駄箱の隅の方で彼が来るのを待っていると、何と、その十五歩ほど離れた位置で、尾鳥と原田がキスしているシーンを見てしまったのだ。ふたりはしばらくの間見つめ合っていたが、やがて、すぐ近くに僕が茫然とした面持ちで佇んでいることを見咎めた。さすがに決まりが悪くなったのか、ふたりは手をしっかりと握り合ったまま、すごすごと正門へと向かっていった。僕はひと言も発することなく、どうしたらよいか分からず、約十分ほどそこに立ち尽くしていた。

 その夜、散々迷った挙句、手紙の中身を読むことにした。悪人呼ばわりされるだろうが、向こうも自分に黙って女を作っているのだから、お相子といえばお相子だ。それに、よりにもよって、恋敵が掃除をするエリア上に、恋文を落としていくという油断は何をされても文句を言い難いところもあるだろう。僕は思い切って手紙を開くと一気にそれを読んだ。詳しくは省くが、内容としては、ほとんど想像の通りだった。ふたりは元々好き合っていたが、実際に付き合い始めたのは二ヵ月前の初春の頃だという。というのは、その記念日にファーストキスをしたことが、そこにしたためられていたからである。僕の気持ちは一気に熱くなった。というのは、その恋文が、とある一文で締められていたからである。

『あのことはふたりだけの秘密にしましょう。私にとっても特別なイベントです。T君にも絶対に伝えないでください』

 僕は手紙を読んでしまったことについては心底反省するにせよ、この一文には黙っているわけにはいかなかった。ふたりがどれだけ深い仲になろうとそれは勝手だが、その一文には、僕の名前が含まれているからである。原田は明日すべてを話すと言ってくれたが、あれだけ話しにくそうにしている以上、僕にとって良い話ではないような気がした。尾鳥と原田がこれからも付き合いを続けることを報告されたら、僕は一人ぼっちになってしまうような気がして寂しかった。かといって、ふたりの仲をぶち壊しにするような勇気も自分にはなかったし、そんなことをできる人間は最低だ。あえて、ひとりになることを選ぶ方が親友のためには幸せなのかもしれないが、自分にとっては確実な孤独と不幸が待っている。僕はこの局面にあってどうしたらいいのだろう。

 翌日の昼休み、そんなことを思いながら、あてもなく、校庭をぶらぶらと歩いていた。すでに始業のチャイムは鳴っており、生徒の姿は少なくなっていた。十人にも満たない生徒が校庭を散策していたが、カップルの姿は見られなかった。ある保健体育の先生が偉そうに語っていたところによると、高校のうちに彼氏彼女ができる生徒の割合は一割にも満たないそうだ。現実に見た限りでは、その数字に近いような気もするし、悲観的に見れば、カップル率は、もう少し、高いような気もした。ふと、遠くに目をやると、鉄棒のところに髪を茶色に染めたふたりの女生徒が立っていた。ふたりの顔ともに、何度か見たことがある。確か、隣のクラスの女生徒だ。こちらを見て何かくすくすと笑っていた。猫が転んでも可笑しくなる年頃なので、笑うこと自体は一向に構わないのだが、僕はその様子が気に喰わなかったので、すっかり不機嫌になった。やがて、ふたりはこちらへ数歩歩みだすと、初めてのまともな対話にも関わらず、気安く話しかけてきたのだ。

「ねえ、T君って、尾鳥さんのこと知ってる?」

「いったい、何の話だよ。何も知らねえよ」

「T君って、きっと、卓球部の原田君のお友達でしょう?」

 僕が頷くとその女生徒たちはさらに声を荒げて、こちらを冷やかすように付け足して来た。

「ねえ、原田君って、尾鳥さんと付き合ってるでしょう? ねえ、ずっと好き合ってるから、ふふ、もうKissくらいしてるでしょう? でも、もうすぐ別れるんだと思うけれど……」

「おい、何を勝手なこと言ってんだよ!」

 僕はそんな会話に参加するのが嫌だったので、わざと大声を出して、その子らを追い払おうと思い脅かしてやった。まるで、僕自身の愚かさを貫徹しようとしているかのようだった。

「だって、尾鳥さんってねえ、特別なんだよ。私たち一般人とはまるで違うの。それは、知ってるの? ねえ、知ってるの?」

 二人組はそれだけ言い残すと、さも可笑しそうに笑い声をあげながら、少しずつ僕から離れていった。僕には何が何だか、さっぱり分からなかった。ふたりがもうすぐ別れるという意味も、尾鳥が特別な存在だという意味も……。
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