記憶力の問題

つっちーfrom千葉

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記憶力の問題

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 デビッド=コルガンは、まだうら若いが異端児といわれ、優れた知性の持ち主でもある。学業の成果のみで、それを証明することはないが、地元のハイスクールを全校第二位という優秀な成績で卒業することとなった。羨ましいことに、彼はその奔放で自由気ままな性質により、人生の道に横たわる、どんな試練においても、額に汗を流してこれに取り組む、努力というものを一度もしたことがなかった。

『困ったことは、それが起きてから動いても十分に間に合う。慌てる姿を見せることは損だ』

 人生の道の途上で出会うどんな人物に対しても、彼はそんなことを言ってやるつもりだった。コルガン青年の両親は才能のある息子への過大な期待から、この国でも上位の大学へと進んでくれることを期待をしていた。しかし、遊びたい盛りの彼には、そんな地道な努力や研究を積み重ねるつもりは露ほどもなかったのだ。現在ハマっているのは、数論や政治学概論ではなく、1960年代に出版された、アメリカンコミックの収集と、アコースティックギターの演奏であり、ハイスクール卒業後は田舎町の静かな湖畔に、お手ごろ価格の別荘でも購入して、うるさい両親や世間から隔絶された、ボヘミアン生活を送ることを強く望んでいた。しかしながら、学校の名聞に常にこだわる先生方は、そのような戯言を許すわけもなく、地元からの強力な推薦を得て、普通の学生なら、余程の努力を積み重ねなければ、到底その門をくぐることを許されない、名門ハバフォード大学の教養学部へと、決して望まぬ進学をすることになった。まあ、世間にはよく転がっている、妬ましい人生の一つだと紹介してしまえば、それまでなのだが。

 その日、コルガン青年は近所に巣をもつ小鳥たちがさえずるよりも、ずっと早い時刻に目を覚ました。この快挙は約二ヶ月ぶりのことであった。たちの悪い夢に執拗にうなされ、寝つきが悪かったせいではない。今年、留年することを疑っている両親による突然の自宅訪問を受けるわけでもない。端的にいえば、今日この日が夏期試験の当日であったためである。授業の八割以上を平気で欠席するような品行の悪い学生や、スラム街の路上や競馬場のロビーや売春街で寝泊りをするような不届き者であっても、この日だけは、なぜか、がん首を揃えて、試験会場にやってくるのだ。ほとんどの授業を日々真面目にこなして健全な学生生活にまい進する一般の生徒が、見慣れない多くの悪ガキの顔に出くわすのも、この日である。己の数年後の生活のことや、この国の将来などを、一切顧みない不良どもが、久しぶりに出会う教授から、手酷い叱責を喰らわされるためだけに、わざわざ、この校舎までやってくるのである。それは、このイベントをすっぽかすことによって、後々もたらされるであろう、様々な致命的ともいえる不利益が己の身に迫ることを、恐れているからである。

 この有能なコルガン青年も、ご多分に漏れず、この日を特別な一日と位置づけ、試験の準備のために、いつにもなく確かな焦りをみせていた。今日の試験科目は確率論とロシア文学という、真っ当な学生たちが考えうる限りでは、およそ最悪の組み合わせといえた。一夜漬けの天才という、学生としては不名誉な通称で周囲から呼ばれている彼にしても、これらの教科に限っては、参考書や解説書を用いた長時間にわたる予習は欠かせないものであった。大学寮の狭い一室はすっかり荒れ果ててしまっていた。部屋の内部のあちこちに、うず高く積まれた雑誌や新聞紙の切り抜き、ロンドンの市街地の写真集、すでに表紙の色の褪せたアメコミなどの下から、名だたる文人の著した名著の数々がかろうじて顔をみせている始末だった。もうひとつ、彼が必要としたものは、学生たちの成長などよりもむしろ、金と名声の方を強く望んでいる、中途半端に名の知れた教授たちが、その生涯をかけて著した売れない参考書のたぐいであり、彼はその内容をほとんど確かめることもなく、普段なら絶対に目を通すことのないそれらを、次々と引っ張り出して茶色革の鞄に詰めていった。

 この寮から大学の構内までは、学生の歩行速度でも十五分とはかからない。いや、朝食を抜いて、歯磨きもせずに、何の未練もなく、この部屋を飛び出して、どこに寄ることもなく裏道を最短で突っ走り、朝練に汗を流す、アメフト部の練習を鼻から無視する形で、運動場のど真ん中を強引に突っ切っていけば、およそ七分後には試験会場にたどり着くことも可能だろう。そうすれば、おおよそ二時間ほどは、二つの難関試験の予習にあてる猶予の時をもてるわけだ。もちろん、授業をほぼすべてボイコットしている身の上で、この短時間の補習において、学部の上位ランカーになりたいなどと願うことは無謀といえる。たとえ宗教学の生徒であっても、そのような願望は許されないだろう。しかし、それだけの時間的猶予があれば、参考書の主要部分に、二度ほどは目を通すことができる。落第を免れるだけの最低限の成績であれば、取りあえず収めることができるだろう。大学卒業後、風来坊になることを夢見る人間にとっては、長期間の絶え間ない努力を重ねて、学部でも上位の優秀な成績を収めて大企業から優待を受けるなどという、成功者特有のストーリーはまったく不要なのである。

 彼は自分の趣味に支障をきたさない程度の、必要最低限の努力をすることによって、かろうじて落第しないだけの点数を得ることだけを、心から希望しているのである。彼は部屋の隅々からかき集めてきた参考書のたぐいを、リュックの中に半ば強引に詰めていくと、最後の段階として、数日前から買い置きしておいた、投げ売りのコッペパン三つと皮が変色したバナナを、その上から両手で押しこんだ。そのままの勢いでリュックを背負うと、いざ、部屋から飛び出して行こうかと身構えた。しかし、不意に何らかの霊感に打たれたような気持になり立ち止まった。そして、自分の荒れた部屋を十分に見回すために、もう一度振り返って辺りを見回した。彼は五分ほどの間、そのままの姿勢で立ち尽くした。自分の未来に起こり得る、危機的な何かを想像したのである。それは、この雑多な部屋の内部に不自然に漂っている不穏な空気から感じられる、あらゆる可能性の問題であった。

 彼はゆっくりと動き出すと、窓のすぐ側にぞんざいに転がっていた、アメコミファン垂涎の一品である『Tales to Astonish』第27号を拾い上げると、そのまま、部屋の中央付近に転がっていた、真っ白な封筒の上に丁寧に重ねた。間を置かず、今度は部屋の左奥の隅にある、木製のテーブルの下にいつからか潜り込んでいる、マリリン・モンローの死に関する陰謀論を500頁以上に渡り延々と解説した迷著『謀殺された妖女』を拾い上げ、ペラペラと何ページかめくると、何度か意味ありげに頷き、彼女の最大の特徴でもある色っぽい唇にいくらか名残惜しそうな素振りを見せてから、その本を閉じて、その塔のさらに上に重ねた。そこまでしたところで、コルガン青年は一度動きを止めると、口元に手を当て、少しの間、方々に思いを巡らせた。彼は壁についている薄いシミを気にして、指先で何度かこすってみた。その薄い汚れは相当に古くからのもので、なかなか落ちなかった。自分には若干神経質なところがある、彼は常にそういう認識を得ていた。

 やがて、テーブルの上のノートパソコンにかぶせてあった、読みかけの名作、トマス・モアの『ユートピア』を拾い上げると、その表紙をじっと眺めた。元々は三年ほど前に「題名だけは聴いたことがある」という興味本位で、ハイスクールの図書館から借り出してきたものである。生来のめんどくさがりと厄介な性分が本領を発揮したため、学校を卒業までに返す機会を失ってしまい、まことに遺憾ながら、もはや、自分の所有物となっていた。表紙には若き自分が、授業中の退屈を紛らわすために書き記した、意味のない数々の落書きが残されていた。その中に、かなりの達筆で書かれてはいるが、これだけは何とか意味の読み取れる一文が存在していた。彼はその単純なる文章の意味するところが、今現在もまだ、教訓として生きていることを知っていて、この長い歴史を持った貴重なる本に目をつけたのである。先ほど、自ら作り上げた積み本の塔の、さらに上に、そのままの形で置こうとしたようだが、逡巡の末、わざわざ、それを裏返しにして、つまり、背表紙を上にして積み重ねた。

 彼の今日の日程(スケジュール)からすれば、大量の単行本を淡々と積み上げていく作業などに熱中している余裕はまったくないはずで、来年の春に他の学生同様にきちんと進級したいのなら、一刻も早く大学の講堂へと馳せ参じる必要があるはずだ。しかし、彼はなぜだか、その徒労とも思える作業をやめられなかった。部屋の内部に無数に転がっている、案内書、参考書、解説書、手引書のたぐいを、ほとんどランダムに拾い集めて、先ほどの積み本の上に、さらに乱雑に重ねていくのだった。その奇妙な行為をこちらから見ている限りでは、その順番については、もはやどうでもいいようで、丁寧に寸分ズレずに置いたり、あるいは、部屋の隅から、山の頂上めがけて放り投げてみたり、気持ちの向くまま様々な方策で、その本の塔を積み上げていくのだ。それから、ものの15分も経たぬうちに、その立派な塔の高さは、彼の身長をも、ゆうに越えるほどになった。積み上げた書籍の総数は140冊以上にもなった。彼はその出版物の山を下から見上げると、満足そうに一度うなづき『まあ、これなら大丈夫だろう』と独りごちて、今期を賭ける試練へと向かう覚悟を今度こそ決めたようで、足早に玄関へと向かい、ドアを勢いよく押し開けて、試験会場へ向けて颯爽と走り去っていった。もちろん、このドアには、しっかりと鍵がかけられていることを、ここに追記しておいた方が良いだろう。


 彼がこの日に受ける必要のある二つの試験は、ともに午前中にあるため、午後の空いた時間は、なにも大学の敷地内にいる必要はなく、一夜漬けで疲れ果てた戦士にとっては、貴重な休み時間となった。講堂から足取り重く出てきた彼の表情には『いやいや、今回の大勝負も何とか切り抜けてやった』という大勝利の余裕が伺えたのだ。食堂でいつも通りの安い定食メニューを平らげて、とりあえずの飢えを凌ぐと、一目散に寮の部屋へと戻ってきた。朝、目が覚めた瞬間から、すでに妙な胸騒ぎがしていた。自室の扉には、出ていくときと同様に、しっかりと鍵がかかっていた。この点は特に問題はない。ドアが開くと同時に内部から流れ出る空気の流れを伺いながら、慎重に室内に踏み込んでみた。彼は狭い玄関から一歩も動くことなく、最初に室内の方々を一通り見回してみた。本棚の上の花瓶も、壁に立て掛けてあるクリーナーも、テーブルの上の中古のノートパソコンも、本棚の安い文庫の並びも、毛布の下に転がっているトイレットペーパーの傾きにおいても、少しも動かされたような形跡はなかった。床の上に散らばっている数百を数える雑誌類も、一般的な記憶力の持ち主に、この光景を見せれば、『どれも、動かされたような形跡はない』と答えるであろう。

 コルガン青年は、次にその鋭い視線を出発前にわざわざ作成しておいた、部屋の中央にどっしりと佇む書籍の塔に向けた。もちろん、在野の天才の脳裏をかすめた、ある種の閃きにおいては、ここがもっとも重要なポイントなのであろう。彼は玄関からいまだに一歩も動かず、積み上がったその山に触ろうともしなかった。迫りくる期限に焦るような様子も、不安げな様子も見せずに、ただ、10分以上にわたり、その風変わりな塔を見つめていた。彼は上段から下段へと次第に視線を移していき、身体の角度を少し変えて、それぞれの背表紙と小口の具合を丁寧に確認していった。けれども、あるところで、はたと、その眼球運動を止めた。そして、少し、ほんの十数秒何かを考え、やがて、ゆっくりとポケットの携帯電話を取り出した。彼は母国語を喋れるくらいの米国の人間ならば、誰でも知っているはずの公的機関への連絡番号を、ゆっくりと自然な動きで入力(ダイヤル)した。

 それから約二時間後、コルガン青年は大学の敷地から、徒歩十分程度の距離にある、小さな喫茶店を訪れていた。試験に疲れた彼を慰めるべく、ここまで連れ出したのは、ロンドという名の、ハイスクール時代からの旧友であった。彼はその才覚において、コルガン青年ほどの素養は持ち合わせていなかったが、凡人以上の努力や向上心は当然の如く有していた。友人がわざわざ会いたがったのは、普段の授業にはほとんど姿を見せない、友人コルガンの今回の試験の出来に関しての成績を、ひどく心配していたためである。

 賑やかな店舗の中には、一般の来客に加えて、彼らと同じく、試験終わりの学生の姿もちらほらと見受けられた。各々、試験の出来不出来のことで一喜一憂しているわけだが、仲間同士で打ち解け合う、こういう時に自分の成果や心配ごとを、あえて大声で話しているのは、大抵出来の悪い生徒の方である。二人はまずセイロンティーを頼み、この店が誇る、美人ウェイトレスがお手製のクッキーを売り込みにくると、コルガン氏は、「いや、クッキーに含まれる砂糖というものは、未来を担う青年の発育に、少なからず悪影響を及ぼすから」という理由で遠慮した。しかし、その実、本当にこの菓子を食べられない理由としては、持参した財布の内部事情にあるらしかった。ロンド青年はそれがいたく理解できているから、自分が注文した、シナモンクッキーの皿を、話し相手の手元にまで、そっと押してやった。

「いや、しかし、ロシア文学の試験は難問揃いだったね。学生全員に単位を与えるつもりなんて、まるで感じられなかったよ。教授の性格の悪さが浮き彫りだったね。普段、授業にはなかなか顔を見せない君にとっては、あれは相当厳しかったのではないかい?」

 ロンド氏は紅茶がぬるくなってしまう前に、カップを何度も持ち上げ、熱くなった舌を乾かしながら、ある程度飲み干してしまうと、そのように話を切り出した。

「いや、大したことはないね。あの教授のことだから、もっと、胸糞が悪くなって、人格破綻にまで陥るような問題に巡り合えると期待していたんだが。まあ、自己採点の結果では、45点は堅いだろうね。こんな点数じゃ、学内にはびこるエリート諸君には、とても敵うまいが、無事に進級する分には十分といえるだろう」

 コルガン青年の態度は至って平静であり、学生生活の節目の重大イベントを、不遜な一夜漬けで解決してみせた直後とは、到底思えないような余裕であった。ただ、時折、目の前の灰皿をコンコンコンと人差し指で突くような素振りを見せていた。ロンド氏は自分としては、明らかに70点を悠々オーバーする成績を収めたであろう、という憶測を持っていたが、それは胸のうちにだけ収めて、この場は取りあえず、コルガン氏の並外れた瞬発力に対して敬意を表するものであった。

「しかし、短編作家チェーホフの千を超える作品群を年代別に並べよ、などという、受験者に対する嫌がらせとしか思えないような問題もあったわけだが、さすがに君でも、あれには面食らったのではないかい?」

「いや、実を言うとね、あの問題こそ、我が軍の勝利をこの手元へとぐっと引き寄せた要因なんだよ。あの教授の嫌らしい思考回路であれば、おそらく、あの問題は然るべくして切り出されるだろうと、完全に山を張っていたからね。まあ、これは頭の良し悪しではないよ。言うまでもなく、記憶力の問題だね」

 他の生徒の百分の一の時間も、勉学には向けていないにも関わらず、コルガン氏はまったく悪びれずにそう述べた。しかし、その言葉を発した際、なぜか、目の前の灰皿をつかむと、それを力いっぱい机に叩きつけた。乾いた鋭い音が店内に響き渡り、従業員の何名かが戸惑いを見せ、トラブルの気配を感じて、こちらを振り返った。彼の思考は何かを思い出すたびに、次第に暗いほうへと向かっていたのである。

「人生を揺るがしかねない苦難を切り抜けたにしては、少し、気が立っているんじゃないかい。何があったんだい?」

「それがね、試験を受けている間に、寮の部屋に泥棒に入られちまってね。まあ、かなり前から、嫌な予感はあったんだが……」

「それは大変なことだ。学生寮のスタッフや、地元の警察には、もう連絡したのかい?」

 気優しい友人のロンド氏は、このプライベートな問題を、店内でくつろいでいる他のお客には、決して知られないように、少し顔を近づけて、なるべく声を伏せながら尋ねた。

「ああ、もちろん、盗難の被害を確認してから、十分も経たないうちに連絡したよ。というかね、こちらの話す順番が、いささか悪かったようだけれど、すでに犯人は捕まえてやったんだ。自分の手でね、すぐにとっ捕まえてやって、そのまま警察に引き渡してやったんだよ。まったく……、今、思い出しても、胸糞の悪い出来事だけどね」

 コルガン氏は今になっても、ふつふつと込み上げてくる怒りを何とか抑えようと、鉄製の灰皿を再び持ち上げて、顔の前まで持ち上げて、何度かこねくり回してみて、やがて、いくらか気が済んだように、それを裏返しにして、テーブルの上に戻した。普通の視点で考えてみて、解けそうにない問題は、取り敢えず裏返しにしてみろ。それが彼の幼い頃からの持論である。

「さっきから、不機嫌な様子でいるのは良くわかるよ。誰だって、自分の部屋に無断で入られるのは嫌なものだ。何かを盗られてしまったのかも、という危機感の前に、自己の生活を丸ごとのぞき見されたような気になるからね」

 ロンド氏は友人の怒りに対して、心からの賛意を示した。ただ、この段階では、この窃盗事件の根深さには、まだ気がついていなかった。こういう異例ともいえる事態にあっては、彼もまた一般の学生と同じく、極めてありきたりの発想しか出来なかったわけだ。つまり、コルガン青年の一室に、試験のための外出の合間を狙って、おそらくは外部からの物取り強盗が、ベランダの排水管をよじ登って、窓ガラスを巧妙に破壊した後、内部に侵入して、部屋を思う存分に荒らしてやり、目についた貴重品に次々と手をつけては持参のバッグに手際よく放り込み、やがて、分捕ってやった戦利品に満足して帰っていったと、まあ、その程度の想像を働かせていたわけである。正答を知る前に、自分で創り上げただけの想像とはいえ、ロンド氏がいささか不愉快になったことは確かである。誰だって、自分がそんな横暴な一件の被害者になるなんて、想像すらしたくはないであろう。しかし、先ほどの友人の証言が本当であるなら、犯人はすでに捕まっているという。もしも、それが真実であれば、本件の被害者としては、少なからぬ慰めにはなるはずだ。

「それで……、犯人は単独犯だったわけかい? 白昼堂々、相当なクソ度胸だな……。それにしても、たしか……、学生寮の入り口には、屈強な警備員が三名も雇われて常駐しているっていうのに……。君の部屋まで入り込んだ泥棒の奴は、よっぽど上手く滑り込んだんだな」

「給料はもらってるだろうが、食うや食わずの安月給。勤務中も緊張感ゼロで、時おりコーラを飲んで葉巻を吸いながら、昨日のヤンキースの勝敗のことで笑い話して、たまに通りがかる美人OL目当てで突っ立ってるだけの無責任警備員なんて、何人いたってクソの役にも立ちゃしない。あいつらはそもそもこの事件には関係ないがね。犯人はさ、隣室のエドガーだよ。あいつが白昼堂々うちの部屋に乗り込んできやがったんだ。まったく、とんでもない野郎だ」

 コルガン氏は次第に湧いてきた怒りを懸命に抑えつつ、再び、そのような重要なる証言をした。この発言に対しては、この場所が市井の住民も頻繁に訪れる公共の場であることを、いかに重視しつつこの会話に臨んでいたロンド氏であっても、周囲にまで轟く驚きの大声を発せざるを得なかったのである。

「なんだって! あのエドガーが、君の部屋に盗みに入っただって? まさか、そんな、あいつは十年来のビートルズファンだぞ! それに、あの熱心なカトリックが!」

 目の前の聞き手が、後方にふんぞり返って仰天している様を見ても、語り手のコルガン青年は、まるで動じることもなく、カップの底に最後まで残されていた、紅茶の数滴を惜しむように啜っていた。貧乏学生の身には、久しぶりに味わうことができた砂糖の甘味であった。

「君は本当に隣室の友人を警察に突き出したのかい? ならば、あいつが犯人だという証拠を示したわけだね?」

「自分の命を繋いでいくために貯め込んでいた金を、容赦もなしに盗んでいく野郎を特定するのに証拠なんて必要ないだろうよ。そういう後付けは、すべて警察や雇われの私立探偵の仕事だろ。昔からどんな探偵小説にも、そう記してあるじゃないか。「どれどれ、では、一人ずつ、アリバイを聞かせてもらうよ……」指紋でも入室経路でも、廃れたはずの親戚関係でも、勝手に調査してみろってんだ。物臭だらけの労働者がひしめく、この国にあって、その中でも一番図々しい組織を動かすために、この州の年間予算がさ、いったい、どれだけ割かれていると思ってるんだ。行き場のない浮浪者や酔っ払いやギャンブラーを引っ張っていくだけじゃ、治安のためにはならんだろ。たまには被害者を心底満足させるような、いい仕事をしてもらわないと……」

「しかし……、僕にはまだ信じられないがね。君は今、金を盗られたと言ったね? じゃあ、奴は友人であるはずの君の部屋に、その留守を狙ってまで、金を盗む目的で忍び込んだっていうのかい? 何でまた、そんなくだらない行為を……」

 コルガン青年は、その質問に対して理路整然とした答えを用意することには、若干躊躇した。彼の立場からしても、この多少入り組んだ一件については、きちんとした話す順序というものがあるらしかった。

「こんな僕だって、一日中ロックを流して、本を読みふけって過ごせるわけじゃない。ミイラになる二十分前には、一応は何かしらの食物を口に入れなきゃ、やっていけないからね。栄養が向こうから寄ってくるわけじゃない。南米アマゾンの食虫植物じゃないんだからさ……。実は、月に一度、カリフォルニアの田舎町にいる両親から仕送りを受けているのさ。今朝、試験に出向く際に、送られてきたばかりの封筒の中身を入念にチェックしたんだ。きっかり400ドル入っていた。これは間違いない。視力の問題じゃなく、金に飢えているからね。簡単にいうと、試験から戻ってみたら、その封筒から、100ドル札が一枚消えていたのさ」

 ロンド青年は、その多少不可解とも思える話の内容を慎重に吟味しているのか、顎に指をあてて、しばし、考え込んでいた。彼は友人を窃盗犯に貶めないための、自分なりの推論を立てようと、何度かテーブルを指で軽く叩いていた。いったい、それを誰に見せたいというのか、髪をど派手な色に染めた数名の若者が、向こうの通りにまで響くような大声で何事かを喚き散らし、互いの身体に腕を絡ませ、肩を寄せ合いながら店の外へと出て行った。あんな無作法な連中が、テーブルクロスをまっさらなまま食事を終えたり、レジスタッフに要求された通りの勘定をきちんと支払うものだろうか? という単純な疑念が脳裏をよぎった。一番最後に出て行った茶髪のギャルの「fussyだからさあ!」というキンキン声が、やたらと気に障って印象に残り、しばしの間、思考が中断されることになった。


「なるほど、そういうことね……。まあ、思い違いの可能性はあるにせよ、自分の部屋の中から、封筒に入れてきっちり保管しておいたはずの紙幣が、一枚だけ消えてしまったのではないかと、端的にそう思い違いをしたわけだね。それで……、試験に出かける前に、ドアには鍵はかけたんだろうか? うん、わかった。きちんと、確認をしたわけだね。すると、第三者が部屋に侵入したとすると、窓から入ったというわけか……。どんなに単純思考で不器用な人間であっても、部屋の内部に財宝が眠っているかも判明しないうちに、壁の外から工業用ドリルで穴を空け始めたりはしないだろうからね……。では、今一度、聞くけれど、我が友人エドガーが、その一枚の紙幣を奪った犯人だと、君が推察する理由はなんだい?」

 その返事は簡単には戻ってこなかった。コルガン青年はひどく機嫌を害していて友人の適切な指摘に、それほど注意を払ってはいない様子だった。彼はこの事件はすでにあらかた解決済みだと思っていたし、自分の想定通りの犯行だとすると、これは裏切りなどという手厳しい言葉すら完全に超越した、人権侵害にさえあたる凶悪なものだと思っていた。面と向かって座る、唯一の聴衆であるロンド氏は、これまである程度の期間付き合ってきた限りでは、信用のおける友人のようである。彼になら、真相の詳細を話しても良いかなと思い始めていた。ただ、同じように信用していたはずのエドガーは、彼のことをきっちりと裏切って、大事な紙幣を堂々と盗んでいったのだ……。彼は沈鬱な表情を浮かべたまま、静かに、しかし、淡々と次のようなことを述べた。

「問題はさ、実家から送られてきた、その現金書留封筒のことなんだよ。まあ、奴が近日中に100%確実に忍び込んで来る、という自信はなかったけど、大金を手にした当初から、これを狙っている者がいるような、嫌な予感は確かにあったので、あらかじめ、その封筒の上に、本を重ねておいたわけだよ……」

「君は試験のために外出する際、紙幣の入った封筒の上に本を積んでから、部屋を出ていったってことだね?」

「そうなんだ、おそらく、まあ、140冊だと思う」

 ロンド氏はコルガンのその言葉に反応して、パン!と強く手を叩いてみせた。解決へと繋がっていく細い糸が、ようやく、自分の目にも見え始めたと、そう感じたのだった。

「いやはや、やっと、分かってきたよ。侵入者が床の上に置かれている、紙幣の入った封筒を探るためには、その上に大量に積まれている本や雑誌類を、一度脇にどかさなければならないわけだ。つまり、君が試験に出かけている間に、何らかの目的で侵入者があったために、部屋に戻ってきたとき、本の山がすっかり崩されていたってことだね? だから、それが地震や地縛霊や天井に住んでいるネズミの仕業でなければ、誰かが本を崩して封筒を拾ったことになるね」

 コルガン青年は、その雑な発想による、余りにもまっとうすぎる判断に対して、相当に失望したようで、顔を曇らせたまま、首を何度も横に振った。

「いや、違うんだよ。積み上げられていた本のたぐいは、出たときとまったく同じように部屋の中央に積み上げられていたんだ。うん、わかりやすく言い換えれば、僕自身が二度目に見たときも、ちょっと見ただけでは、以前と見分けがつかないくらいに、きれいに積み直されていたと言うべきか」

 ロンド氏は友人の今の発言の意図が分からず、しばしの沈黙に落ちることになった。思考状態はかなりの混乱と表現してもよかった。その二人の会話の合間に、窓際の席に座り込んで、この地区最安値の一杯250円のホットコーヒーで、二時間以上も粘り込んでいた、黒縁の分厚い眼鏡をかけた文学女子が、ようやく重い腰を上げると、勘定を支払うためにレジの方向へ向かっていくのが見えた。おそらくは、名探偵がようやく実行犯の名を告げたのかもしれない。彼女が無事に支払いを終えて出て行くと、この店内には窃盗議論をしている二人以外に客はいなくなった。あれから十分という時間が経過しても、ロンド氏はこれから何を言うべきか考え込んでいた。店内の空気は正答を求めて静まり返っていた。これ以上長く息を止めていたら、ベテランの漁師でも死んでしまうのではないかと思えるほど、慎重に考えた後、ロンド氏は独自の見解を述べた。

「ちょっと、いいかい? 先ほどの君の発言から、僕が導き出した、単純な結論というのを、まずは聞いて欲しい。オッカムを持ち出すまでもなく、難解な事件においては、簡潔な推論ほど真実に近いということもいえると思う。まず、君は学校の試験に出かける前に、封筒の上に用心のために本の山を築いた。これは、誰かが部屋に侵入した際に、これに触れていないかを見張るためだよね? そして、帰ってみたら、ドアの鍵には何者かが侵入した形跡はなく、本の山に関しても崩されてはいなかった。君の言葉を借りると『ほとんど、きれいに積み直されていた』。そして、紙幣が一枚だけ消え失せたように感じられる。今一度説明してみると、つまりは、こういうことだよね? でも、僕に言わせると、この状況から導き出される結論は、君とは真逆なんだ。学校に出かける前と、ほとんど同じように本は積まれていた。だから、誰も紙幣の入った封筒には触れていない。つまり、紙幣が一枚消えたと感じられたのは、完全に君の勘違いか、もしくは、疲労からくる幻覚である。これでどうだい?」

 ロンド氏は自論に絶対的な自信を持っていて、確実な同意が得られると感じて、少し誇らしげな表情さえ浮かべながら、話し相手からの返事を待っていた。しかし、当のコルガン青年はというと、すでにこの話題には大して興味を見出せなくなっていた。なぜなら、すでに窃盗犯本人は警察の手に引き渡されているからである。彼はお留守番に退屈した幼児が、友達から教えてもらったばかりの占い遊びに興じるかのように、右手の人差し指で、テーブルの上の太い木目を何度もなぞり、目には見えない何らかの絵を描いていた。

「いいかい、部屋に忍び込んだ元友人は、雑誌の山を崩して、底にあった封筒から紙幣を一枚抜き去った後、本と雑誌をきれいに積み直したけれど、僕は『完璧に』とは表現してないよ。奴はね、紙幣の上に本の山を築くという、こちらの意図自体は見破ったわけだが、金を盗んだ後にまったく同じ塔を作ることは出来なかったんだ」

「こちらの聞き違いだったかもしれないけれど、ついさっき、君は出がけに140冊もの本を積んだと語っていたよね。そして、帰宅後の確認においても、『きれいに積み直してあった』と証言したよね。仮に侵入者が紙幣の入った封筒を奪うために、本の塔をいったん床の上に崩したと仮定しても、なぜ、肉眼できちんと積まれているように見える本が、自分のいぬ間に一度は崩された物だと断定できるんだい? まさか、積まれた本の並び順が、出かける前と後で違っていたと、そんなことを言っているのかい? それこそ、無茶な理屈だと思えるが……」

 ロンド氏は相手に向けて語りながらも、自身のやや踏み込んだ推論に恐れをなしたようで、その表情は若干青ざめた。目の前のこの友人が、試験前の希少な時間を利用して積んだと言い張る、140冊もの本の並び順を、出掛けの僅かな時間において、そのすべて覚えてしまったとしたら……、これは尊敬や信望といった概念を通り越して、恐るべき才能の持ち主と表現せねばならないからである。

「お二人様、紅茶のお替りはいかがでしょうか?」

 奥から、ウエイトレスのあどけない声が響いてきた。二人は眉間にシワを寄せたままで、その麗しい声には何の反応も示すことはなかった。紅茶のポッドに、まだ余裕があったための、善意の問いかけであったのかもしれないし、『いつまで、この店にいる気だ。追加の注文をしないのなら、さっさと帰ってくれ』の意思表示かもしれないが、二人は彼女の意志については、どこまで考えたのだろうか。

「いや、君はこの話の見方を根本的に間違っているよ。奴は部屋に忍び込んで、金を盗むという目的を達成するために本の山を崩して、自分勝手に紙幣を奪っていった後、床に撒き散らした本の群れを、元の通りに積もうとしたんだ。それは、侵入者があったという痕跡を消すためだよね。そして、『元通りの順番に並べ直した』のさ。上から12番目の『ロンドン周遊記』の下には『トマトのおいしい料理法』が正確に並んでいたし、29番目の『死海文書探究記』の下には『本当は怖い赤ずきんちゃん』が、65番目の『大いなる遺産』の下には『フレーゲ著作集』が順番通りに、きちんと乗せられていた。こちらが出掛けに覚えていった通りだ。順番については申し分ない。まあ、あいつも、記憶力だけはそれなりにあるからね。僕ほどではないけれど……」

 コルガン氏のその見解に対して、それを聞いていたロンド氏は、さすがに動揺を隠せなかった。彼は机を一度ドンと叩いて、身を前に乗り出した。

「それは、犯人が140冊もの本を崩す前とまったく同じに並べることができたからこそ、隣人の中では比較的記憶力のいいエドガーが犯人だっていうことかい? いくらなんでも、それは言い過ぎだろう。だいたい、隣室のあいつが、厳重に鍵のかかった君の部屋の内部に、どう入り込んだんだい? 窓ガラスに傷はついていた? それとも、天井から縄を伝って降りてきたのかい? 壁は無事だったんだろ? 彼の犯行とするには、物的証拠が無さすぎるよ……」

「物的証拠なんてものはさ、今さらどうでもいいんだよ。それは後からでも、警察が必死に探すだろうさ。あいつは、試験の前日、僕の部屋に訪ねてきたんだよ。なにか思い詰めたような顔をしてね。『頼む、100ドルでいいからさ、何とか融通してくれ……。このままじゃ、やばいんだ……、授業料にあてるべく、たちの悪い貸金業者からローンで借りた金の返済日が明日なんだ……。いや、君に断られたら、もう終わりだ。奴らは一日だって待ってくれない。実は、軽い気持ちで、マフィア系の業者から借りてしまったんだ……。明日、耳を揃えて支払えなかったら、ナイフで目玉をくり抜かれるかもしれない……』と、まあ、こういう感じに迫ってきたんだ。もちろん、僕は断固として拒絶したよ。自分が食っていく分で精一杯だ。自分のケツは自分で拭けって言ってやったよ」

 「それで……? その後の展開は……?」

 こういった刑事事件関連の議論を始める場合、そういった重要な証言はなるべく早めに出しておくのがフェアではなかったかと思いながら、ロンド氏は恐る恐るそう尋ねた。

「奴は突然顔を真っ赤にして、こう叫んだんだ。

『旧知の友が窮地に陥っているのに、何でそんな冷酷な態度を取れるんだ! いいか、僕はこの問題に学生生命を賭けている。明日までに100ドルを揃えられなければ身の破滅だ! この近隣に住む生徒で、そんな大金を持っているのは、君だけなんだ。いいか、そこにしまってある100ドルは、近いうちに必ず奪ってみせる。せいぜい、玄関と窓には頑丈に鍵をかけておくんだな!』

 そう吐き捨てて、乱暴にドアを閉めて帰っていったんだよ。開き直りも、あそこまでいくとかえって気持ちがいい。とんでもない野郎だろ? あれで、友人とかいう単語がよく使えるなと、正直思ったがね」

「なるほど、そういうことがあったのか……。では、君が無くしたと言い張る100ドルと、エドガーの奴が前日の脅迫で要求した100ドルとの整合性は取れたわけだ……。もし、これが寮内の生徒の犯行ではなく、外部の暴漢の犯行だとしたら、封筒から100ドルを盗るだけでは絶対に済まないよね。封筒ごと全部持っていかれるに決まってる。しかし、僕はまだ完全には納得できないよ。いくら追い詰められていたからって、あいつが本当に友人を裏切ったりするもんだろうか……? あれだけ、面倒見のいい男が……」

「人間の心なんてものを、一方では、宝石のようにありがたがる人もいるけれど、実際は薄っぺらいものでさ、金欲と肉欲にはどうあがいても、まったく逆らえないのさ。金の行方が原因で、親子や兄弟の縁がぷっつりと切られるなんて事例は、いつの時代にも当たり前のように転がっているだろ。『カラマーゾフの兄弟』なんて、くっそ長い教本を持ち出すまでもなく、事前に犯行を予告するような奴なんてのは、ほぼ、確実に実行に移すし、まあ、往々にして、それによって身を滅ぼすわけだね」

「でも、それだけでは……、絶対にあいつだと、あいつ以外にはいないと、断じきれるのだろうか……?」

 ロダン青年は複雑な心中でもがいていた。今となっては、長年の友人であるエドガーが、本当に犯罪に手を染めてしまったような気もするし、すべては眼前のコルガン氏の空想に過ぎない気もした。

『本当に積まれた本の下にあった100ドル札は無くなったのだろうか?』

 何度も同じ問いかけが頭の中を行き過ぎていった。大量の本の底に埋められていた白い封筒から、お札が一枚だけ減ったというコルガン青年の主張が、もし勘違いであるならば、この一件は一番自然に片付くような気がした。しかし、この疑惑の一件に一番の信憑性をもたらしているのは、彼の記憶力などよりも、その苦悶の表情であった。普段から何事にも楽観的なコルガン青年が、友人の裏切りにより、それ相応の辛苦を味わっているとすれば、それこそ、どんなことよりも重点を置かねばならない問題であった。

「本当は、どうだったんだろうか……?」

 ロダン氏はついにその言葉を発してから、目を伏せた。ギブアップのサインであった。客が減ってしまい、時間を持て余したウエイトレスは、商売っ気を出して、笑顔で近づいてきた。二人がどういった種の会話をしているかなど、まったく気にしている様子はなく、慣れた手つきで、ずっと空のままだったカップに紅茶を注いでいった。コルガン氏はロダン青年の混迷極まった心中を察して、少し顔を上げて、満足そうに二度頷いた。

「40分ほど前に警察から連絡があったよ。エドガーが僕の部屋から金を奪ったことを自供したとさ」

 ロダン氏はその言葉を聞いて、なぜだか、反駁よりも、さもありなんという気持ちが強かった。彼は照れ笑いを浮かべて、右手を後頭部にまわして、何度か髪の毛をかいた。

『なぜ、そんなことをしたんだろうねえ?』

などと、鎌をかけてみたい気もしたが、解決が先に来た以上、言葉はすでに不要な気もした。ただ、先ほどの記憶の問題。あの、「140冊の書籍をきちんと並べ直したはずのエドガーが、なぜ犯行を疑われたのか」については、きちんとした真相を語って欲しい気もした。ただ、あれほどまでに、この一件をコルガン青年の気の迷いだと主張してきたあとで、それをあえて聞き出そうとするのは気恥ずかしい気もした。でも、心の清い友人は、気が向けば話してくれるかもしれない。そこで、しばらく黙ってみることにした。

「事前に予告を受けていた僕としては、封筒の中身を荒らされるとすれば、エドガーが侵入した場合だと分かっていたわけだから、140冊の本で罠を仕掛けておくことは容易だったんだよ。140冊くらいの量であれば、奴が順序を正確に記憶して、封筒から紙幣を奪った後で、もう一度、正確に並べなおすことは充分できると思っていたよ」

 紅茶が空いたポッドを受け取った喫茶店の店主が、中の汚れをきれいに洗い流す、爽やかな水の音が聞こえてきた。どこからか、大きなアブが飛んできて、二人の鼻先を高速で通過していった。ロダン氏は反射的に後ろに飛び退いたが、コルガン氏は冷静に前を見据えたままで、びくともしなかった。

「僕は紙幣の入った封筒から上に、順に数えて三冊目の『ユートピア』だけは、わざと裏返しにして乗せたんだ。でも、奴はおそらくそれを覚えていなかった。奴は表紙を上にして重ねてしまった。それだけさ、大きな理由ではないんだ。それだけなんだ」

 ロダン氏はたった今、真相を聞いたはずなのに、なぜか釈然とはしなかった。この難問に対する適切な回答にはなっていない気がした。彼は無言のまま、上半身をぐっと前に出すことによって、さらなる説明を要求した。表か裏かなんて、それこそ、思い違いで片づけられる気がしたからだ。

「もちろん、それで良かったんだ。あの多くの本の並びを、完璧に覚えられるのならば、100ドル札一枚くらい、奴にくれてやってもいいと思ったわけさ。でも、おそらくはそれは出来ないだろう、ということも事前に理解していた。だから、うん、何というか……、せっかく、『ユートピア』をひっくり返して、表にしてしまったのなら、焦らずに、ちゃんと表紙を見回せとは思ったけどね。そこにこちらの意思がきちんと記してあるんだから……」

 ロダン氏はさらに不可解に陥り、机に肘をつき、右手で顎を支え、さらなる疑問を示して、解明につながり得る続きの言葉を待っていた。コルガン氏は、長い時間の経過により、すっかり平静を取り戻し、落ち着いた態度のもとで、最後の言葉を付け加えた。

「こんな物騒な事件が起こる、遥か昔から……、もっと言えば、こんな不毛な付き合いが始まる前から、ちゃんとそこには書いておいたんだ」

『人から金を借りるときには、一声かけてから行け』とね。
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