Wing Cross

森野アヤ

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【第六章】 コダマの森

第三十六話 -コダマの森-

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 東方の空から降り注ぐ朝日が、平地に広がる田畑を鮮やかに彩る。
 シノビの里に、それぞれの朝がやってきた──

 おキクの屋敷は、朝から稀に見る賑わいを見せていた。それと言うのも、マリンの作る朝飯に感化された黒服の男達。彼らの食事のペースは凄まじく、配膳が済んだ数々の料理が一瞬で皿の上から消えてなくなるほどの勢いであった。
 腹ペコのガイルが魚の塩焼きに箸を伸ばす。しかし、相手はシノビ。料理に辿り着く間もなく、彼の視界から目当ての物は姿を消していた。
 マリンに至っては目まぐるしく炊事場と広間を行き来しており、食事をする余裕など微塵も無いと言った状況である。
 激しい争奪戦を経て、ガイルはようやく勝ち取った山菜のお浸しを味わいながら、上座に腰を下ろしているおキクをちらりと盗み見た。この賑わいの中、彼女は依然変わらぬ様子で、ただ静かに茶を啜っている。
 しかし、セレナと別れたあの日からおキクの側近と思しき男、チヨマルの姿が見当たらない。彼には、それが一つの疑問であった。
 祝言を挙げる予定の二人が揃って姿を晦ました──
「(……は!!!!)」
 ガイルの脳内で良からぬ妄想が膨らむ。
「(いや、待て、セレナはまだ子供だぞ!?いくら相手がイケメンだからってまさかそんな……で、でも、もしかしたら俺が知らないだけで、セレナのやつ意外と面食いかも知れないし、誘われたら断れないタイプだし……うわああああ──)」
「……ちょっとガイル、片付けるからさっさと退きなさいよ」
 ガイルがハッと我に返ると、ジト目のマリンの顔面が目の前に迫っていた。
 正気に戻って辺りを見渡すと、既におキクも席を外し、忍達はそれぞれの持ち場へと散りつつある。
「マ、マリン!俺らこんな所で油打ってる場合じゃねえぞ!」
「きゃあ何なの!?」
 行き成り両手を捕まれたマリンは何事かと目を丸くした。
「セレナがアイツに……チヨマルにあんなことやこんなことをされる前に救い出さねえと!!」
「あんた一体何の話してんの?取り敢えず鼻血拭きなさいよ……」
「ガ・イ・ルちゃあ~~んっ♡」
 そんな二人の背後から、酒焼けした喉から無理矢理捻じり出したかのような、甲高いハスキーボイスが響いてきた。
「ひい!」
 途端にガイルの顔が青褪める。二人のもとに駆け寄ってきたのは、華やかなメイクを施し、ピンク色のリボンでおさげを結った、筋骨隆々のクノイチ(男)だった。
「ほら、お仕事の時間よぉ。今日もまた、アタシとあんなことやこんなことして楽しんじゃいましょ~ん♡」
「いやだあああ」
 笑顔の似合う長身の男は、泣き喚くガイルを軽々と抱き抱えると、そのまま倉庫の方へと消えていった。 
「だからあんなことやこんなことって何よ……」
 嵐の去った広間に一人残されたマリンは、ポツリとつぶやいた。

 炊事場の小窓から、爽やかな朝の風が吹き込む。
 綺麗に磨かれた食器を備え付けの棚に片付けながら、マリンはふとある事を思い出して視線を上げた。
「そう言えば、ピィチったらどこに行ったのかしら」
 雲一つない青天の空が、大きな瞳に映し出される。
 不意に沸いた疑問を抱きながらも、買い出しを任されていた彼女は、慌ててその場を後にした。



 館で待つ子供達より大分前に、セレナは薄暗い小屋の中で目を覚ましていた。
 未だ夜が明けていないのではと疑うほどに、解放的な木枠の窓から眺められる外の世界は、薄闇に支配されている。
 改めて辺りを見回すと、屋内には辛うじて人一人が生活できる程度のスペースに、必要最低限の設備のみが配置されていた。壁には狩りに使う武器の様なものが立て掛けられており、使い古されてはいるものの、刃の部分は丁寧に磨かれ新品同様の輝きを放っている。
 他には、無造作に干された藁製の外套、簡素な釣り道具、そして昨晩火を焚いていた一角の側にある鉄製の調理器具などが目に留まった。
 閑散とした空間。そこに、昨晩出会った青年──キスケの姿は見当たらなかった。
「……」
 足の痛みも疲れも、完全には取れていない。けれど、数日間魔法を使う機会が無かったためか、魔力だけは十分過ぎる程に蓄えられているのが、自身にも分かった。
(魔法を使う機会……か)
 よろりと立ち上がり、ふら付く足で小屋の外へ出てみる。そこは、幾重にも重なり合った枝によって一切の光を遮られた、深く暗い森の中であった。
 リースの森とも、エリーゼやシェリルと出会った森とも異なる、暗くて冷たい薄闇に支配された、寂たる樹海──
 先程から、少女の体を得体の知れない震えが襲う。
 寒さの所為だけではないということは、彼女自身も気付いていた。余所者の侵入を快く思わないこの森の住民によって、セレナは洗礼を受けていたのだ。
 震える体を両手で擦りながら、小屋が有る場所から少しだけ離れてみる。すると、静寂の中、そう遠くは無い場所から、微かに木霊する一つの"音"があった。エルフ特有の聴覚でもって、更に耳をこらす。それは紛れもなく水が跳ねる音である。
 ゆっくりとその方向へ歩を進めるセレナ。音が、どんどん鮮明になる──
「ぁ……」
 少女は思わず声を呑んだ。
 辿り着いた先、そこは鬱蒼とした森の中、木々の合間を縫う様にして広がる、小さな湖だった。
 澄んだ青緑色ビリジアンの水面と朝靄が相まって、それは神秘的な光景である。けれど彼女は、その光景に酔いしれる暇も無く、靄の中で微かに動く何かを目にするや否や、咄嗟に近くの木の影に身を隠した。
 セレナが目にした何か、それは湖に浸かり沐浴をする人の影。そしてその影の正体は、間違いなく昨晩世話になったあの青年だった。
 ……見てはいけないものを見てしまった。
 訳も分からず火照る頬を両方の手で抑えながら、小屋へ引き返すべく慌てて踵を返す。しかし次の瞬間、地面から露わになった木の根にまんまと足をすくわれ、セレナはその場に派手にすっ転んでしまった。
「…………。」
 うつ伏せのまま動けずにいる少女を、沐浴を済ませたキスケが見下しながら呟いた。
「……貴様は男の風呂を覗く趣味でもあるのか?」


 コダマの森は、既に日が昇り始めてもおかしくはない時間帯だと言うのに、いつまで経っても薄暗いままだった。
 森の最奥へ向かうと聞かされていたセレナは、特にこれと言った道具も持たずに小屋から出てきたキスケに、僅かに動揺した。肩からぶら下げている小さな袋の中身が気になり恐る恐る訊ねてみると、「鷹の餌だ」と真顔で返されて、彼女はそれ以上の言葉を失った。唯一、森の散策に活躍しそうなものと言えば、右手に備えられている鉤爪の武器である。
 彼──キスケと言う男は、後頭部で結った焦げ茶の髪と、鍛え上げられた肢体、そして右目を覆う黒の眼帯が特徴的な、寡黙な青年である。
 この地特有の控えめな色合いの衣に、両腕には先端に大きな紅玉の付いた長い鎖が巻かれている。動くたびにじゃらりと重みのある音を響かせるその鎖は、はたから見ればとても不便に思えるが、彼はそれすら微塵も感じさせないほどに平然とした様子であった。
 きっと、あの鎖はこの腕輪と似た効果が有るんだろう……
 セレナの両手首には、以前にフリースウェアーで購入した翡翠の腕輪がはめられていて、それは魔力を増幅させるための魔法具の様なものだった。
 キスケの側には、常にしなやかな一羽の鷹が付き添っていた。名はミツルギと言うらしい。彼がそう呼んでいたのを密かに耳にして知ったのだが。
 セレナは、キスケがミツルギへ時折向ける柔らかな表情を見る度に、家族であり姉のような存在でもあるピィチのことを、ふと思い出していた。
(早く終わらせて帰らなくちゃ。ピィチちゃんの……みんなのところに)
 決意を新たに強く唇を噛みしめる。そんな彼女の決意を知ってか知らでか、かなり前を歩いているキスケは急ぐように強く促した。

 今朝方の妙な寒気は、薄れるどころか強くなっていた。
 森の奥へ向かうにつれて、その気味の悪い感覚は確たるものとなってゆく。
 セレナは、速足で歩くキスケにやっとの思いで付いて行き傍らに並ぶと、彼をちらりと横目で伺った。
 森を覆う陰湿な空気に慣れてしまっているのだろうか。彼は焦るセレナとは対照的に、表情一つ変えずにただひたすら歩を進めていた。
 この深い樹海の中、どれ程進んだか定かではない。しかしセレナは、生気を吸い取られるような感覚が強くなるにつれて、どんどん息は荒くなり、体が重くなってゆくのが分かった。
 そんな中、それまで前を歩き続けていたキスケが、不意に足を止めた。
「キスケさん?」
 彼女が目を瞠ると同時に、突如森が騒めきだした。
 ざわざわ、ざわざわと──
 次いで悍ましく、それでいて凍えるほどの冷気──いや、"霊気"が、二人を取り囲むように渦を巻く。
「き、キスケさんこれって……!?」
 あまりにも突然の出来事に、セレナは思わずたじろいだ。
 彼女が尻込みしている間に霊気は徐々に形を成してゆき、それはほんの僅かな時間で、黒髪の女の頭を持つ大蛇の姿に変貌した。
 今までに遭遇したモンスターとは異質の妖気、そして威圧感に、少女の足がガクガクと震える。
『……あらァ……可愛イ、オ嬢ちゃんだコト……コの森で迷ってしまったノ?可哀ソウに……』
「……ッ!」
 不協和音にも似た声音が、血色の唇を割って流れ出す。魔獣特有の金色の瞳が、糸の如く細い瞳孔が、とぐろの中央で怯えるセレナを捕らえて離さない。
 蛇女は嬌笑を浮かべながら、細く長い二股の舌先でもって、硬直したセレナの白い頬をねっとりと嘗め回した。
 しかし次の瞬間、妖しいまでに恍惚した美しい顔立ちは一変し、怒りを露わにした鬼の形相と化す。
『チィッ!オ前も居たノ!!』
 蛇女の視線の先には、無表情でその光景を傍観しているキスケの姿が有った。彼はいつの間にかとぐろの中から抜け出し、側にあった巨岩にもたれて腕組をしていた。
「残念だが貴様の相手はそこのガキだ。貴様如きでは俺の相手は役不足だからな」
 不敵な笑みを浮かべる彼の発言は、見事に蛇女の感情を逆撫でした。
『オノレェ……!!久々ノ獲物ダからイカしたママで散々弄ってヤろうと思ッテいたノに……!あァ、勿体ナい……モッタイナイ……ケド……!キサマも小娘モロとも八つ裂きにしてくれるワ!!』
「きゃああ!!」
 蛇女の絶叫と共に、巨大なとぐろの中心部が勢いよく狭まり始める。
 刹那、セレナの体がふわりと宙を舞った。それと同時に先程まで居たその場所は、きつく締め上げられた蛇腹の渦に吞み込まれていた。
「おい娘、俺が昨晩お前に告げた言葉を覚えているな」
 キスケは、抱えたセレナを地上に下ろすと、抑揚のない低音で問う。
 キスケがセレナへ告げた言葉──
 “自分の身は自力で守れ”──
「そんなことも出来ないような腰抜けに、先へ進む資格は無い」
「…………」
 セレナは血がにじむ程強く唇を噛んだ。それは、初めて抱いた“悔しさ”という感情であった。

 一体何の為に私はここに居るのだろう?みんなの所に帰りたい。けれど……
 弱いままで、何もできないままで、このまま旅を続けたくない。
 私はこの試練を乗り越えなくちゃいけないんだ。その先にきっと答えが待っているはずだから。

『逃ガしゃしナいよ!!さあ、ワタシの毒の海デ悶え苦シみな!』
 蛇女はそう叫ぶや否や、耳元まで裂けた口から二人へ向けて、紫色の唾液を放つ。地面にぶちまけられた粘液状のそれによって、咄嗟に後方へ避けた二人は、ヤツの狙い通りに分断されてしまった。
 地面に散らばる木の葉が、小石が、音を立てながら溶けてゆく──キスケと合流する為には、道を塞ぐこの魔獣を倒さなければいけないのだ。
 セレナは目を瞑り、すうと息を吐いた。
 “自分の身は自分の力で守る”。

「……いくよ、私の聖獣たち……!」

 見開かれた大きな瞳は、磨かれた鏡の如く澄み渡り、経ち阻む魔獣の姿を鮮明に映し出した。
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