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第11話 科学的考察の及ばぬ秘密

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「……私はになったのです」

 ――あまりにも、気味の悪い話であった。

 突然現れた、記憶喪失の男。
 胸に浮かび上がる、呪いのような記事。
 浸入するあり得ない記憶。頻発する悪夢。
 契りを結んだ果てに、忽然と姿を消した――。

 理由も不明、原理も不明、行方も不明。

 ――背筋が寒くなった。
 甲斐からすれば、恐怖以外の何物でもない。
 この恐怖を、甲斐は独りで抱えていたのだ。
 抱えたまま、気丈に、強かに、笑顔で優しく振る舞ってくれていたのだ。

「……これが私の秘密です」
 甲斐の目は涙で濡れ、目元は紅く色がついている。
 か細く、憑き物が落ちた、透き通る声――。
 その落ちた憑き物に、べったりと憑かれたのは、――私だ。

「この染みは、一体――」
 見たことも聞いたこともない症状。
 いや、聞く限り、人知を超えた何かにしか思えない。
 長田に、甲斐に、今現在も――、忌まわしき烙印が浮かび上がる。

「分かりません……」
 当たり前の答え――。分かっていたら疾うの昔に解決出来ただろう。

「すみません……、失礼なことを聞きました。でも、今も、その……続いているんですよね」
「ええ、あれからずっと」

 一週間に一回、胸に記事が浮かぶ。
 消えた長田から、引き継ぐように、一日で消える。
 鏡写しの、不思議な記事。

 ただ――、長田とは一点だけ異なる。浮かぶのは文字だけで、らしい。

 どうして――なんて、分からない。
 ただ、胸の染みは、確実に浮かび上がる。

「……気味悪いですよね、気持ち悪いですよね。……ごめんなさい、新井さん。嫌な思いをさせてしまったわ」
 幽かに震える健気な声。
 確かに気味は悪い――、だが感情こころは違う。

「……いや、最初に聞いた僕が悪いんです。話すのも、さぞ辛かったでしょう。お話しいただいて、――ありがとうございます」
 甲斐は、涙を浮かべながら頭を垂れた。
「こちらこそ――」
 ――やはり、のだ。
 甲斐の苦しみに、少しでも寄り添えれば、あぁそうだ、これこそが望んでいることなのだ。

「僕で良ければ、微力ながら協力するよ」
「新井さん……、本当に、ありがとうございます」
 甲斐は涙を拭いながら、感謝の言葉を述べる。

「どうすれば、消えるのかな、――それ」
 一瞬だけ、視線が乳房の谷間に墜ちる。
 いつの間にか締められたボタンの狭間に、先程の記事を思い浮かべる。
 甲斐は、恥ずかしそうに、胸元を締める。

「今は、……まだ分かりません」
 いつか分かる日が来るのだろうか。

「それとも、その記事自身に、理由があるのか――」
 何故浮かび、どうすれば消えるのか。書かれていることに、その原因や理由があるのか。甲斐や医師の疑問も、そこにある。

「きっと……、意味はあるんだと思います」
 ――それは希望。
 他に推定出来るものが何もないからこその、希望。

「この記事が、長田さんの過去、あるいは消えた先を示しているのかもしれません」
「今まで現れたものは、全て記録してるのかい?」
 長田の記事は、医師にも見せていた。では、長田が消えた後、甲斐はどうしていたか。
「……はい。毎週、鏡を見ながら記録しています。ただ、一つ気になることがあって……」
 甲斐の表情が曇る。

「実は、……長田さんが消えた時、んです」
 ――理由は分からない。
 だが、家に帰って部屋を整理した時には、確かになくなっていたという。

「まさか、……長田が、持って行った?」
「そう、かもしれません。でも、何処に……?」
 消える理由に、その記録ノートが関連しているかも知れない。そうなると、記事が浮かぶ原因と、消えた原因は異なることになる。

「持って行かねばならないモノだったか、あるいは、か」
 ――書かれている情報、それは荒唐無稽な記事。
 甲斐は腕を組み、僅かに黙考する。

「でも、……いえ、確かめようがありません。今残っているのは、あれから付け始めた、記録だけです」
 ちょっと待っててください、と言い残し、甲斐は奥へ消えた。
 暫くして、一冊のノートを手に戻って来た。

「それが……」
 甲斐の胸に浮かび上がる、烙印。苦しみの対価。
 胸をはだけて、鏡を見て写した、

「一部ですが、……私の記録です」
 市販のノート、表題はない。
 高揚と戦慄を織り交ぜた感情で、僅かに指が震える。中を捲ると、整然と文字が目に飛び込んできた。
 頁にちょうど記事一つ、完全に記録されていた。ノート全ては埋まっていないが、十数頁ほどが埋まっていた。

「……すごいな」
 感嘆の声が漏れる。
 写真の部分は、大まかなイラストとして記録され、手書きノートながら、まさしく紙面である。
 しかし、甲斐は簡単な謙遜をすると、すぐに説明に入った。

 ――曰く、記事内容は振り幅が大きい。
 荒唐無稽。されど、現実と見紛うものもある。
 全て日本語の記事だが、その多くが、――今の世相のように、騒がしく、『非常時』に似た、何処かの日本、或いは何処かの外国なのだという。

「中には平和な記事もあります」
 これです、と甲斐がノートを捲り指し示す。

【來年の準備に賑わう繁華街】

 昭和十五年の東京大会が、開催予定となっている――。

 確か昨年の夏頃に、正式に開催権を返上するということで、組織委員会に報告したはずである。
 記事に曰く――。
 今般の事変は、七月の衝突から一ヶ月も経たない間に、講和が結ばれた。
 さらに、衝突を奇貨として、北支安定化と日中共同による、反共反ソの準軍事協定が締結されたとまである。
 それが功を奏してか、開催権は返上されず、昭和十五年の東京大会へ向けた準備が、意気揚々と進められている。

 ――勿論、現実ではない。
 実際の政府は「反省を促すための派兵」とやらに熱心で、和平の話は全く上がらず、「爾後じご国民政府を対手とせず」と宣言し、以降今に至るまで、事変は拡大を続けているのだ。
 『非常時』ではない日本。
 たかだ二年前なのに、既に忘れて久しい、――平和。
 この記事に書かれている日本は、一体どうなっているのだろう。
 皆楽しげに、選手達の活躍を夢見ながら、デパートでショッピングや祭りをしているに違いない。

 ――それでも。
 甲斐は再びの前置きをして、区切りをつけた。

「こんな記事も、……あるんです」
 静かに、ページをめくる。
 一番後ろ、ノートの最後、片隅に折り目が付けられた、――そのページ。
 甲斐の手は、僅かに、僅かに震えていた。

。恐ろしすぎて、誰にも……」
 目に飛び込む見出し。
 それは何者をも戦慄させる、あって欲しくない現実。

  

「こ、これは……」
 恐慌の感情が胸の底から溢れ出し、漏れる。

 記事に曰く――。
 一九三九年八月十五日、米国がなる新型爆弾を帝都に投下、炸裂させた。

【京都につづき、帝都が殘虐ざんぎゃくなる新型爆彈の猛威に晒されることになった。恐ろしく眩しい閃光、大爆音と熱風が街を、市民を襲い、瞬時にして帝都の姿は變貌変貌した。負傷した市民は、皮膚が赤く燒け、おびただしい出血をしてゐる。投下地點の代々木周邊は、木々も蹟形あとかた無く消し飛び、クレーターの如き樣相である。
 ――それは、眞に殘虐をくすものだ】

 ニュークと呼ばれる新型爆弾――。
 ウラン原子核の分裂を使い、最小量でも火薬二万トンに匹敵する爆発力を秘め、単純な爆風だけでなく、強烈な紫外線で、人や建物を焼き尽くす。
 それが、京都、帝都と、二発も、市民の上に、落とされた。


 ――こんな、


 これは『荒唐無稽な現実』なのであろうか。
 それとも、将来、こんなことが起こるのであろうか――。

 欧州も、ソ連も、支那も、我が国も、いずれ巻き込まれる国々全て。
 何処の国であれ、この地獄に巻き込まれるのか。

 慄然。
 ぞわぞわと胸中から、筆舌に尽くしがたい嫌な感情が、私の心を握りつぶしながら這いずり上がる――。

 ――いったい、この記事達は、何を伝えようとしているのか。
 これを伝えることに、何の意味があるのか。
 長田の、甲斐の胸に浮かんで、何故私達は混乱しているのか!
 惑乱する私を見てか、甲斐が謝る。

「ごめんなさい、新井さん……」
 声は、濡れている。
「こんなもの、あなたに見せるべきではなかったわ……」
 紅潮し、俯いて、己の非礼を詫びる。
「……いや、いいんです。甲斐さんも、……苦しんでいたんでしょう」
 甲斐は俯いたままだ。

「……僕もその秘密を知ったのなら、同じ苦しみを共有できます。僕には長田さんの代わりは出来ないだろうけど、一人で抱え込まないでください」
 徐に、甲斐が顔を上げる。

「……貴女との秘密は守ります。。だから約束してください。一人で抱え込まない、と」
 その言葉に、甲斐のまぶたから、ぼろぼろと涙が零れた。堰を切ったように止まらない涙に、甲斐は手で顔を覆った。

「……ありがとうございます。……新井さん」
 こういう時に、咄嗟にハンケチでも出せれば良いのだろうが、持っていなかった。
 やはり、なのだ。

「新井さん……」
 涙を拭い、顔を上げた。にこやかな笑顔であった。
「必ず、またいらしてください」
「えぇ、来ますよ、何度でも」
 子どものような返答。だが、それが一番、甲斐のためになると思った。
「私も、一人で抱え込みません。だから――」


 ほんの少し、間があった。


「この事は口外せずに、お墓まで持って行ってください」
 ――笑顔で言われて、何故か胸が痛く、背中が重くなった。
 とんでもない秘密なのだ、広言は絶対出来ない。
 この感覚こそが、甲斐が苦しんできた重みなのだ。そう思いながら、またの来店を約束して、書店を後にする。

 ――昭和十四年十月。
 迫り来る冬の足音は、ほんのすぐそこまで近づいてきている――。
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