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1章
8話
しおりを挟む私に覆いかぶさる彼の雰囲気がじりじりと人間から離れて行く気配がしていた。
箱の中から闇が這い出てくるような、妙な寒気を伴う怖気がする。その怖気は恐らく本能的なものなのだろうけれど、でも私の本能自体がもう大分イカれているのだろう。生存本能より、夏樹を求める本能の方が強くて、だから辛うじて私は彼の前で平気で笑っていられるんだと思う。
幽霊だろうが、悪霊だろうが、肉の塊だろうが構わない。それが夏樹ならば、近くにいて欲しい。それは間違いなく、心の底から願った事だ。だから、じりじりと伸びた爪が多少肌に食い込もうと、彼の目がより猫のそれに近づこうと、髪の毛が仄かに発光するようなオレンジ色に変化しようと、やっぱり夏樹は夏樹だったから・・・だから全然、構わなかった。
「やっぱり人間と一緒だと生きづらい?」
「今そんな話してへんやろ、はぐらかさんといて・・・なあ、ええか。よく聞きや」
別れを切り出した彼に問いかける。苛立たし気な夏樹に一蹴されてしまったけれど、別にはぐらかすつもりではなかったのにな。
ぎゅっと眉根を寄せた彼は、細く長く息を吸い込むと、苦しそうに、呻くように言葉を続けた。
「俺は妖怪やねん。人間だった俺は、もう死んでる」
「ッ――――!」
心臓に杭でも突き刺されたかのような、そんな痛みを感じた。
知っていた。
ただの事実の羅列。
もう長年向き合い続けてきた真実であるのに。
だというのに、こんなにも間近で、目の前に、逃れようもないその真実を突きつけられた途端、私は痛みを伴うほどの深い絶望を味わっていた。もしも魂という存在が本当にあるのなら、多分今、私のそれはぎしぎしと軋んでいる。痛みを感じるはずのない、どことも分からない部分が致命的な傷を負ったような気がした。
嗚呼、私、自分で戒めていたつもりだったのに、なのに思っていた数倍、もしかしたら数十倍、浮かれ果てていた。
夏樹がいる生活に、下らなくて甘ったれた、許されない夢を見ている自覚が足りなかった。そりゃそうだ。「戸籍がないなら結婚はできないか」なんて、今更だけど、頭ぱっぱらぱーじゃなきゃ考えるはずもない。
喉の奥から漏れ出そうな呻き声を辛うじて飲み込む。その嚥下する音が、やけに大きく聞こえた。
「ごめんな。あんた元々死の色があんまりに濃かったから・・・だからこうやって俺が近くにいたって、今更すぐに不幸に見舞われたりはないと思っててんけど・・・あんたは俺が思ってた以上に俺側に引かれてる・・・」
死の色が濃いとか薄いというのは、正直言ってよく分からないけれど、濃いと言われても反論する気にはなれなかった。だって、ずっといつ死のうかと考えていた訳だし。こうして夏樹がいなくなると言われたらあっさり腹を括れるくらいには、私はギリギリのラインに立って生きてきた。
どうして夏樹にはその「死の濃淡」とやらが分かるのかとか、夏樹が一緒にいたら不幸になるのはどうしてなのとか、聞きたい事はたくさんあるけれど、でも口を挟めるような雰囲気でもなかった。それに、そもそも聞きたい事を聞けるようなら、もっと前に沢山のことを聞いているという話だ。
まるで懺悔するように、夏樹は、深く後悔した色を声に乗せて、もう既にぼろぼろの私に、ねじ伏せるような正論を説く。
「だから、あり得ないような確率の不幸を引いてしまいよんねん。分かるか。俺と一緒にいたら、あんたどんどん不幸になんねんで。それじゃあかんやろ、ちゃんと幸せに――――」
「幸せだよ、今」
「ッ!」
耐えかねて夏樹の言葉を遮った。「幸せだ」と発した私の声は思った以上に低く、まるで地獄の底から這い出て来たみたいな、怨嗟を孕んだような、そんな声だった。
真っ直ぐにその目を見返して、できる限り静かな声を心がけて。それでも、泣き叫ぶのを抑えているせいで声が震え出す。もはや涙を止める事もできなくて、あとからあとから流れ落ちていく。
だって。
だって無理だ。
夏樹にそんな事言われたくない。
彼にだけは「幸せになれ」なんて言われたくない。そんなの耐えられない。耐えたくもない。
夏樹しか好きになれなかったのだ。どうしても、どうしても私の「幸せ」には夏樹が必要だった。それを確認し続ける日々だった。終ぞ真っ当な幸福とやらを見つけられなかった不良品の私に、あなただけは「幸せになれ」なんて言わないで。
「私、今、本当に幸せなんだよ、夏樹」
「ッ、幸せなわけないやろ!あんた今俺に引きずられて、あれこれ痛い目見てるやろうが」
彼の罵声が全然怖くなかった。
彼の罵声自体が、散々夢で聞いたそれよりずっと柔らかいからか、それとも、それが純粋に私を想ってくれるものだからか。分からないけど、理由なんて何でもいいや。もう考えるのも疲れてきた。
彼から溢れ出る人でない気配に触発されるように、理性の底へと沈めていた本音が、口の隙間からまろび出てしまいそうだった。一応まだ、私の理性は言う訳にはいかないと訴えていて、だから一度、大きなため息をつきながら唇を閉じ、本音を飲み下してから、どうにか朗らかな声色を作った。
「幸せだよ。夏樹がいない世界より、なんでもいいから夏樹がいる世界の方が、断然幸せ」
ヘタに嘘をついたら、抑え込んだ醜い本音が溢れ出そうだったから、私はただの真実だけを口にした。目尻を伝い落ちた涙が、そのまま髪の中へ流れて落ちて、変にくすぐったい。
「違うやろ・・・違うやんか、幸せって。なあ、もっとあるやん。俺じゃなくて他の・・・他の男と、・・・っ!」
言葉を最後まで言い切れないまま、夏樹は投げ捨てるように私の手を離し、自分の顔を覆った。
言葉を言い切れないまま放棄した夏樹を見上げて、私は泣きながらちょっとだけ嗤った。
だっていい年をした大人がふたり、子どもみたいに泣きながら、自分のままならない想いを伝えきれなくて悶々とするなんて、あまりに滑稽だ。
私は夏樹が好きだよ。
夏樹も私が好きでしょう?
他の男と幸せになれなんて、嘘でも言えないんでしょう?
すごい傲慢で己惚れた思考だけど、でも当たっているでしょう?
嗚呼、夏樹の事が好き。大好き。本当に好き。好きで、好きで好きで好きで、忘れたくて、忘れられなくて、なんで一緒に死ねなかったんだろうって思うくらいにしんどくて。でも助けてくれたことが心底嬉しくて。私が助けられなかった事が死んで詫びたい暗い申し訳なくて。あんまり苦しいから憎たらしくなる位にね、好きなの。
「いっぱい試したよ。でも無理だった。全然無理だった。全部全部夏樹と比べちゃう。夏樹の代わりにしようとして全部失敗したの」
嗚呼、逃がしてあげたいのにな。
私の事忘れて、妖怪人生、楽しく生きていってくれたらいいなって、本当にそう思っていたんだけどな。
どろどろとした本心が、静かに保とうと努力していた精神の湖面を泡立たせる。
嗚呼、やっぱり。一度沸騰してしまったらもうダメだと思ったから、頑張って耐えていたのに。
そんな私に、最後の一歩を踏み出させるのは夏樹だよ?あなたがもし、私に他の男と幸せになれって突き放せたら、ちゃんと逃がしてあげたのに。
ぼたぼたと泣きながら、唇の端が引きつって歪な笑みを作るのが自分でも分かった。
まだ少し手首に痺れが残る手で、彼の作務衣の襟首を掴んだ。驚いたように彼が顔を覆っていた手を緩めて、細い縦長の瞳孔が私を見下ろした。
「夏樹がいない世界じゃ幸せになれないよ。どんな幸運があっても、夏樹がいないってだけでダメなんだもん。大学じゃまともな友達も作れない。彼氏作ろうにも、全部夏樹と比べちゃう。少なくとも月に1回は夏樹が死ぬ瞬間を夢に見て、夏樹の写真にしゃべりかけるような女なんだよ、私」
私の声は涙で揺れてはいたけれど、穏やかな物だった。ただ吐き出される言葉はまるで可愛げのない恨み節でしかない。
夏樹は私の唐突な告白に唖然として、それから口元を片手で覆った。あなたのその目でぐつぐつ煮だっているのは欲望だろうか、それとも恐怖?憎悪?
何でもいいよ。なんでもいい。それだけ熱い視線で焼き尽くすように見てくれるなら、そこに込められている感情が何かなんて、もうどうでもいい。
刻み込んでやりたい。
私が死んでも、彼が私を忘れられないように。
死んだ人を想い続ける地獄のような苦しさを、彼も知ったらいい。それに苦しんで、苦しんで苦しんで、いつか時間薬がそれを癒してくれることを、態とらしく祈ろう。でもそれまでは、夏樹を私に縛り付けてやりたい。
なんて醜い。
こんなに壊れてしまう前に、一思いに死んでおけばよかったと心底思った。でも怖かったんだから、仕方がないじゃない。
きっと夏樹より、私の方が変わったね。全然変わってないつもりだったけど、幼虫が羽化するように、私も変わっていたみたいだ。残念ながら芋虫がなったのは麗しい蝶じゃなく、地味なのに不気味で毒を持った蛾だったけれど。
こんな醜い感情が、恋な訳はないな。
ましてや愛なはずがない。
こんなに、胸の奥が苦しくて、体が全部どす黒く染まっていくようなこの気持ちが、そんな崇高なものな訳がない。きっとこれは、憎しみとか、呪いとか、そういうアレだ。
ぼたぼたと涙が溢れる。
吐息だけの嗤いが零れる。
苦しい。
痛い。
血を吐きそうだ。
その苦しみを、あなたにまで与えようとする私を、どうか憎んで、憎んで、憎んで、それで忘れないで欲しい。
「もうね、私ぐちゃぐちゃに汚いんだよ」
夏樹の手の向こう側、喉の奥から、男のうめき声と猫の唸り声が入り混じった、妙な声が溢れ出る。
怒ってるんだ?どれに?自分から汚れに行った私に?
いいね、もっと怒って。憎んで。
「別に私、夏樹が死んだことを受け入れなかったわけじゃないんだよ。ちゃんと納得しようとした。色んな人に言われたもの。お父さんにもお母さんにも言われた。友達にだって言われた。『夏樹はあなたを守ったんだよ。だからあなたは幸せにならないと。夏樹の分も生きないと』って。分かるよ、分かる。みんなの言う通り。きっとそれが正解。でもね、できなかった。無理だったの。何をしても夏樹じゃないってだけでダメだった。だからもう、死ぬ覚悟ができるまでダラダラ生きてるだけだった」
ひゅっと夏樹が息を飲む。
ぼたぼたと涙を流しながら、夏樹は口を覆っていた手をどかして、私を睨むように見下ろす。ぎちぎちと音が出そうなほど食いしばられた口元は、鋭い八重歯がよく目立って見えた。
彼の怒りを呷るように、私は言葉を吐き続ける。
「なのに最後に夏樹が現れて、一緒に暮らすなんて奇跡まで体験してさ。だからもう、何の悔いもない。周りに迷惑かけないように整理だけして、死ッ」
唐突に口を覆われる。彼の大きな手が、しっかりとベッドに私の頭を押し付けるようにして口を抑え込む。少し痛いし苦しいけど、何より私を見下ろす彼の目が、馬鹿みたいに熱っぽくて、そこから目を離せない。
「好きや」
「っ!」
彼の目が、獲物を狙い定める猛獣みたいにぎゅうッと細くなる。白目の色が陰りのある朱色になっていた。猫にしたって派手な色味の目が、獰猛で、なのに切実な視線で見下ろしてくるのだ。心臓が痛みを伴ったまま鼓動を走らせる。
知ってた。
でも言うと思わなかった。
だって。なんで。ずっと言わなかったのになんで今――――。
「もうええやろ。そんなに死にたいなら、全部俺に寄こせ」
「な、んッ」
唸り声もそのままに吐き捨てながら、彼は私の口を解放し、代わりに私の髪の中に乱暴に指を突っ込んで両手でがっしりと頭を掴み、そのまま私が何を言う間もなく、齧りつくように口づけて来た。
一瞬、頭が真っ白に染まる。
「――――っ!?」
唇に触れたそれが、その行為がキスだと把握するのに数秒を要した。
私より温度の高い唇。思ったよりも柔らかい乾いた粘膜。下唇に当たる鋭利な歯。
嗚呼、私、今夏樹と初めてキスしたんだ・・・。
もうほんと、死んでいいな・・・。
すごく素直にそう思えて、ゆっくりと目を閉じた。もっと唇の感触に集中したかったのだ。
初めてのキスは、涙の味と花火の匂いがした。
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