あなたの知らない、それからのこと

羽鳥むぅ

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5.自由の身だから

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「――――っは!」

 膨大な記憶の奔流がようやく治まり、知らないうちに詰めていた息を吐いて呼吸を整えていると、番組はいつの間にか次のコーナーへと移っていた。内容を詳しく見ていなかったから、もしかしたら映っていた屋敷は以前本か何かで見て、たまたま記憶にあっただけなのかも。そう考えられるくらいには冷静さを取り戻しつつあった。深呼吸をしつつ時刻を確認すると、色々と調べるには時間が足りなそうだ。さっさと朝の準備を終わらせて、学校に行かなければ。しかし鏡に映った自分の顔を見て、凛香はハッと息をのんだ。レベッカとあまりにも似ていたから。
 パッチリとした瞳は目尻が切れ上がってキツく見られがちだから、余計なトラブルを起こさないよう伊達眼鏡と重めの前髪で隠していた。それはどちらかといえば踏みにじられ自信を失ったあとの表情に似ている。それもそのはず、凛香は他人と接触をしない生活を心がけていたし、あまり注目を浴びないよう生きてきた。小学生の頃は派手な見た目に反して大人しい性格ゆえに弄られたりもしたが、中学生に上がり、受験を視野に入れるころには誰も構ってこなくなっていたから楽になった。それから地域ではそれなりに進学校に入学したお陰で、周囲も成績に影響を及ぼす行動を起こすような、地味に過ごしている凛香をあえて面白おかしく構う者もなく、高校生活は快適に送っている。

 レベッカが本当に凛香の前世だとして、姿形も似ているなんてあるのだろうか? 考えても分からないことが多過ぎるが、思い出した今だから気付いたこと。凛香は彼女と違って自由だ。理解のある両親と、しがらみのない普通の家庭。中学生の弟とはたまに喧嘩もするけれど、仲は良いほうである。友達といえる存在はレベッカ同様いない、というか積極的に作ってこなかったが、肩書だけで近付いてきた取り巻きは存在していない。もちろん婚約者なんてものもいないし、周りから悪役令嬢だと揶揄されることもない。それに凛香の将来には、沢山の選択肢がある。

――ああ、なんて幸せなのだろう!

 目立たずに生きようとしていたのは、無意識に貴族社会で後ろ指をさされたレベッカの記憶のせい? だとしても一般家庭の凛香が王子様の婚約者に抜擢されるなんてありえない。そもそもこの国には王子様が存在しないので。もうレベッカのように息を潜めて生きる必要はないのだ。真っ直ぐ前を見て、今度こそやりたいように生きていけるのだから。長年張り詰めていたものが一気に解けた気がした。

 凛香は既に編み終えた方の三つ編みも、ゴムに指を引っ掻けて抜き取った。レベッカの赤毛にこげ茶を足したような、彼女に似て艶のある髪に櫛を通す。今は前髪を短くそろえる時間がないから、真ん中で分けてサイドに流した。他者との隔たりを得るために着けていた伊達眼鏡だって必要ない。
 従姉から誕生日にもらったコフレのポーチを引き出しから取り出して、中身の化粧品を取り出した。年頃の娘らしくなく、お洒落に頓着しない凛香に「素材がいいのに勿体ない」と会うたびに言ってきた従姉は、とうとう痺れを切らして会うたびに服やメイク道具をくれたりした。もちろん実践付きで。元々着飾ってもらうばかりだったレベッカの記憶は当てにならないが、従姉のお陰で現代の化粧は凛香の記憶として残っている。学校だから眉と睫毛を整えるだけでいいだろう。凛香はポーチからアイブロウを取り出した。
 
   * * * 

「え……? 誰……? 転校生?」

 そう言ったのは誰だったか。しかし教室にいた全員がそう思っていたのだから、皆が己の心の声が漏れたのかと思ったほどだ。
 突然の美女の登場に、朝のホームルーム前でざわついていた教室は静まり返った。颯爽と歩く彼女は迷うことなく、一つの机を目指す。机の上に鞄を置くと椅子に座り、教科書やノートを取り出した。我に返ったのはその机の前の席の女子で、友人と椅子を並べて話していたのだが、勇気を振り絞って恐る恐る声をかけた。当事者を除く沢山の視線が、彼女に訴えていたのを感じたので。

「……おはよう。変なこと聞いてごめんだけど、片野さん、だよね?」
 少し声が掠れてしまったが、誰も彼女を責める者はいない。皆は心の中でその勇気を称賛し、固唾をのんで見守るのみ。
「おはよう。……? もちろん、そうよ」
「まぁ、そうだよね。ハハ……えっと、イメチェンしたの? すごく変わったから吃驚して」
「うん、眼鏡を外してただけどね」
「ほんとだ! 化粧してるわけじゃないのね。片野さんってすごく美人だったんだ……って、失礼なこと言ってごめん」
 戸惑っていた別の女子も会話の輪に入ってきた。目立たなかったクラスメイトの大変身に、声を掛けずにはいられなかった。
「大丈夫よ。気にしないで」
 悠然と微笑む姿はまるで高貴な人を前にしているかのようで、思わず傅いてしまいそうだ。固唾をのんで見守っていた他の面々も話しかけてみたいと思ったが、凛香の醸し出すオーラのようなものに気後れしていた。

「はい、おはよう。ホームルーム始めるぞー」
 まごついているといつものように教室の前方の扉から担任が入ってきた。教卓から全体を見渡して目を丸くする。生徒たちは彼が何を言おうとするか分かってしまった。
「……誰だ? って片野!? 別人……じゃないよな?」
 担任の予想通りな反応に凛香以外は妙に安心した。天井から見えない糸で引っ張られているような、良すぎる姿勢も目立つ。今までの彼女は教室の風景と一体化しているような、空気のような存在だったはずなのに。
「本人ですけど……。そんなに変わりました?」
 指先を顎に当てて少し首を傾げる姿はとても様になっている。羽の付いた扇子を持っていてもおかしくないほどに。
「いや、なんか、こう雰囲気が……。まぁ、いいか。姿勢がいいのはいいことだ」
 上手く言葉にできない様子の担任だったが、担当教科が体育である彼は無理矢理に結論付けたが誰もツッコむ者はいなかった。
 
 それからも授業ごとに教師に、教室を出れば他のクラスの生徒にも驚かれて、流石に急に変え過ぎたかと思うほどだった。しかしただそれだけのこと。レベッカが羨望から侮蔑まで、いい意味でも悪い意味でも散々人の視線を受けてきた時とは比べ物にならない。愛想笑いとその場しのぎの会話だって、するすると口から出てきた。急に変わった原因に、いくら探りを入れられようとも容易く、社交界の腹の探り合いの足元にも及ばなかった。人の好奇の目が向けられるのも、初めだけだろう。一週間ほど我慢すれば皆、凛香に興味を失うはずから、それまでの辛抱だ。
 レベッカの人生の記憶が蘇ったとはいえ、それとは別に今までの凛香としての記憶も存在している。それなのに時折話しかけてくる生徒の名前と顔が覚えがないのは、凛香がいかに人と関わらずに済むように過ごしてきたのかが伺えた。静かで平穏に生きたいとは願ったけれど、ここまで極端にならなくても良かったのではないか? 折角平凡な生活ができるのだから、少しくらいはまともに人間関係を築こうとしてもいいものを。そう思ってしまうのはレベッカの感情なのだろうか。とはいえこれからも特定の人と仲良くするつもりはない。広く浅く、いつ裏切られてもいいように。
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