隣人と猫と花壇

広川朔二

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隣人と猫と花壇

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朝露の残る庭で、佐倉美智子はシャベルを手に小さな苗を植えていた。マリーゴールド、ラベンダー、ペチュニア、色とりどりの花が、整然と並ぶ花壇の中で静かに息づいている。

「今年は虫も少ないし、いい調子ね」

そうつぶやいて笑みをこぼす。ガーデニングは美智子の日課であり、手をかければかけただけ応えてくれる花々は誰かに自慢するわけではないが、ささやかな誇りだった。

だが、数週間前から、どうも様子がおかしい。

花壇の端に、土が乱された跡がある。しかも、独特の、鼻をつく臭いが残っていた。最初は風向きのせいかと思ったが、どうやらそれは動物の排泄物らしい。念のため片付け、消毒もしたが、それから毎朝のように、同じ場所に糞が残されていた。

「……猫?」

この辺りは、以前は野良猫を見かけるような地域ではなかった。車通りも多く、野良が居つけるような環境ではないはずだった。だが、気づけば裏路地や庭先に、どこからともなく猫の姿をちらほら見かけるようになっていた。

最初は「気のせいか」と自分を納得させた。しかし、隣家の様子を目にしたとき、疑念は確信に変わった。

ある午後、洗濯物を干していると、ふと視界の端に動きが映った。隣家の門の外に、数匹の猫が集まっている。好物らしい魚のにおいが、風に乗ってこちらまで漂ってきた。視線を向けると、隣人の間宮俊一が、手慣れた様子で皿を並べていた。

美智子は思わず声をかけた。

「間宮さん、最近猫が増えてますよね。ちょっと……お庭に糞をされて困ってるんですけど……」

彼は皿を置いた手を止め、美智子を一瞥した。そして、薄く笑いながらこう返した。

「動物に優しくできない人間なんて、情けないね。花よりも命が大切だろう?」

その言葉に、言い返す気力は萎えた。ただ静かに頭を下げ、洗濯物を手早く取り込む。胸の奥がひどくざらついていた。

それからというもの、被害は美智子の庭だけにとどまらなかった。斜向かいの石井さんは、玄関マットに糞をされて憤慨していたし、通学路の近くでも猫がゴミを漁る姿を見たという話が耳に入った。町内会の回覧板でも「野良猫の糞尿被害にご注意ください」という文言が添えられる始末だった。

美智子は町内会長の山下にも相談したが、返ってきたのは気の抜けたような答えだった。

「うーん、でも餌やりは法律違反じゃないしねえ。注意書きはしておくけど、あんまり波風立てても良くないよ」

波風など、もう十分立っているというのに。

その夜、美智子はインターネットで「猫除け」と検索し、ハーブの苗をいくつか注文した。ペパーミント、ローズマリー、そして猫が嫌うといわれる超音波の装置まで。

だが、翌朝確認すると、また花壇の脇に同じような形跡が残っていた。土が乱れ、マリーゴールドの根元が掘り返されていた。彼女は無言で膝をつき、スコップを握りしめた。

日差しが強くなり、夏の匂いが空気に混ざり始めた頃。美智子の庭は、かつての美しさを少しずつ失っていた。

超音波も、ハーブの苗も、猫除けスプレーも、そのすべてが焼け石に水だった。猫たちはむしろ警戒心を失ったのか、悠々と塀の上を歩き、玄関先に居座るようにすらなっていた。

「……なんで、うちばっかり」

植えたばかりのサルビアの苗が、根元から引きちぎられている。糞だけではない。掘り返され、踏み荒らされ、草花は萎れていく。風が吹いても、あのささやかな香りが立たなくなった。

通りを挟んだ奥様方が、ひそひそと話しているのが聞こえてくる。

「あそこのお隣さん、相変わらず餌やってるみたいよ」

「猫のせいでゴミの日も荒れるし、うちも玄関マット汚されたのよ」

美智子は、黙って花壇の草を引いた。声を上げたところで、誰も解決してくれない。町内会は「揉め事は避けたい」と及び腰、警察や市役所も「違法行為でなければ対応できない」の一点張り。

それでも、言葉にしなければいけないと思った。

再び、隣家の門を叩く。インターホンを押すと、しばらくして間宮が出てきた。

「……何か用かね」

「猫の餌やり、やっぱり控えていただけませんか。もう、うちの庭だけじゃなくて近所中が困ってるんです」

間宮の目は吊り上がり、鬼のような形相で美智子を睨みつけた。

「そんなに植物が大事か? 猫は命だ。あんたは命より花が大事なのか!」

その言葉に、何も言えなくなった。感情では勝てない。理屈では通じない。

その日の晩、美智子は夫に「もう庭をやめようか」とぽつりと漏らした。夫はテレビから目を離さず、気のない返事をした。「まあ、無理しなくてもいいんじゃないか」

——わかってない。わかるはずもない。

翌週の土曜、町内に見慣れない車が停まった。間宮の家に、若い女性が降り立った。美智子も面識のある、彼の娘・里香だった。

「お久しぶりです、佐倉さん。……父がお世話になってます」

その笑顔は、何も知らない無邪気なものだった。庭の片隅に消えきらぬ糞尿の臭いが立ち込めている中、美智子は曖昧に微笑んだ。

「ちょっとお話、いいですか」

里香はそう言って庭の縁に腰を下ろした。

「実は……父、最近物忘れもひどくて。熱中症も怖いですし、一人暮らしなのも心配で。近くに住めたらいいんですけど、仕事があって。だから、もしよかったらご近所として、何かあったときに気にかけていただけたらと……」

一瞬、胸が詰まった。

でも、美智子の口から出たのは、想定外の言葉だった。

「……それは、良好な関係を築いているご近所さんなら、そうしたかもしれません」

「え?」

「でもお宅、最近、猫に餌をやってるでしょう? そのせいで、うちも、他の家も、近所全体が被害を受けてるんです。お願いしても逆ギレされて、罵られて……。申し訳ないけど、そんな人を“気にかけてください”って言われても……ねぇ」

自分でも、何を言っているのかわからなかった。気づけば、声が震えていた。

里香は、呆然とした顔で小さく頭を下げた。

「……ごめんなさい。そんなことになってるなんて、知らなくて……本当に、すみません」

そう言って、深く頭を下げた。その姿に、美智子の胸が締めつけられる。

悪いのは、娘じゃない。わかっている。なのに、口をついて出たのは、怒りと疲れの残滓だった。

その夜、美智子は食欲がわかなかった。自分が吐いた言葉が、頭の中で何度も反芻された。
言うべきではなかったかもしれない。でも、どうしても、止められなかった。

扇風機の風が、室内を虚しく回っていた。





うだるような暑さが続いていた。蝉の声が耳の奥を打ちつけ、日中はコンクリートの照り返しが容赦なく肌を刺す。この夏、間違いなく異常だ。ニュースでも連日、熱中症に関する注意喚起が流れていた。

美智子は、朝から水やりをしていた。被害が落ち着くことはないが、完全に放棄することもできなかった。枯れてしまった花の鉢を一つ片づけ、ふと、塀越しに隣家の様子が目に入る。

——洗濯物が、数日間そのままだ。

「……?」

何となく胸騒ぎがしたが、すぐに頭を振った。この間のことを思い出す。罵倒された言葉、娘に吐いた嫌味、自分の苛立ちと後悔。

「……気にすることないわ。もう関わらるの、やめましょ」

そう言い聞かせるように庭に戻った、その時だった。

ガチャン!

何かが倒れるような、大きな音が響いた。空気を裂くような破裂音ではない。だが、明らかに異常な音だった。音の方向は、隣家だ。

美智子は思わず立ち止まり、塀の向こうに耳を澄ませた。

静寂。

蝉の声すら、遠のいたように感じた。心臓が早鐘のように打ち始める。

(どうする? 確かめる?……でも)

また怒鳴られるかもしれない。見当違いの非難を浴びるかもしれない。でも——もし、本当に何かが起きていたら?

頭に、ほんの一瞬、あの言葉がよぎった。

——そんな人を“気にかけてください”って言われてもねぇ。

思わず口から出た言葉。でも……私はそんな矮小な人間になりたくはない!

「……もうっ」

そう呟いてジョウロを投げ捨て、急いで隣家の門を叩いた。

「間宮さん! 大丈夫ですか? 間宮さん!」

返事はない。通りに面した玄関には、既に他の住民たちも何人か顔を出し始めていた。

「どうしたの?」「何か大きな音聞こえたけど」

皆、猫の餌やりに苦言を呈していた人たちだった。

「入りましょう」

誰ともなく出た言葉で美智子は鍵の開いた門を押し、玄関に足を踏み入れた。嫌な予感は、的中していた。

廊下の先。台所の床に、間宮が倒れていた。

「間宮さん! 聞こえますか!? 間宮さん!」

近づくと、顔色は真っ赤で、額には汗が噴き出していた。体はぐったりとして動かないが、わずかに息をしているのがわかる。

エアコンは動いておらず、型落ちの扇風機が部屋の隅で動いている。

「熱中症……!」

美智子は慌ててスマホを取り出し、救急車を要請し間宮は無事病院に搬送された。命に別状はなかったが、倒れた際に骨を折っており、しばらく入院を要するとのことだった。

数日後。美智子の家に、娘の里香がやって来た。

「父のこと……助けてくださって、本当にありがとうございました」

目に涙を浮かべ、深く頭を下げる里香。その姿を見て、美智子は少しばかり肩の力が抜けた。

「いえ……たまたま、音を聞いただけですから」

「……実は、入院中にお医者さんから認知症の初期症状もあるって言われて。施設に入ることを決めました」

「あら……そう、でしたか……」

里香は少しだけ苦笑した。

「きっと、近所でも色々ご迷惑をおかけしていたんだと思います。でも……異変に気が付いて皆さん駆けつけてくださって…おかげで最悪の事態は免れました」

安堵の笑みを浮かべる里香。その様子に美智子は胸をなでおろした。

——よかった。あの時、見て見ぬふりをしないで。

それから程なくして、間宮の家は空き家になり、しばらくして取り壊された。家の跡地は更地になり、不動産業者の看板が立てられた。

それと同じく猫たちは姿を消した。花壇の隅に転がっていた糞も、臭いも、すっかりなくなった。

庭はようやく、以前のような穏やかな空気を取り戻しつつあった。

かつて、間宮が庭先で餌を撒いていた場所も、今は砂利に埋もれ、何事もなかったかのように夏の光を反射している。

その更地の前に立ち、美智子はぼんやりと眺めていた。もう、猫の鳴き声は聞こえない。あの塀の上に佇む姿も、鼻を突く臭いも、完全に消えた。

「……本当に、いなくなったのね」

庭のサルビアが、ようやく咲きはじめていた。淡い紅色が風に揺れ、少しだけ香りが戻ってきたような気がする。

夫が言っていた。

「これで、ようやく落ち着いたな」

確かに、問題は解決した。町内会でも「猫騒動が収まった」と安堵の声が出ている。誰もが、「厄介事が終わった」と胸を撫で下ろした。

罵られ、無視され、やるせなさが積もりに積もっていた。娘の里香に厭味を言ってしまった後は胸の奥にモヤモヤした何かが引っかかっていた。間宮が倒れたときに一度は“無視しよう”と思ってしまった。

だが、倒れた間宮を見つけ救急車を呼んだことで、そのモヤモヤも消えていた。

あの時、助けなかったら嫌な自分になっていた。もし、あのまま背を向けていたら、もうこの庭に立つことすら、きっとできなかっただろう。

「人間って、面倒ね……」

そう呟いて、美智子はしゃがみこみ、花壇の縁を整えた。そっと指で土を撫でる。かすかに、湿った匂いがした。

間宮の娘・里香からは、その後も時折連絡が来る。施設での生活にも慣れてきたらしい。餌やりのこと、猫のことも、最近ではもうほとんど覚えていないそうだ。

風鈴が、軒下で涼しげに鳴っている。遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。視線を落とすと、庭の隅に一匹の猫がいた。

いつのまに入ったのか、小柄な三毛猫。だが、以前のように警戒心のない顔ではなかった。じっと、美智子を見上げている。しばらく見つめ合い、猫はふいと踵を返して去っていった。

「……餌はないわよ」

苦笑しながら、そう独りごちる。

猫の糞尿被害も、隣人との軋轢も、完全に忘れることはできない。でも、それはそれ。もう、終わったこと。美智子はスコップを持ち直し、淡々と作業を続けた。太陽は高く、風は少しだけ優しく吹いていた。そして、庭はようやく、本来の静けさを取り戻しつつあった。
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