裏切りからはじまる、私の逆転劇

広川朔二

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裏切りからはじまる、私の逆転劇

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プロポーズされたのは、去年の春だった。

その日、私は白いワンピースを着て、少し背伸びして買ったヒールを履いていた。待ち合わせのレストランで健吾が差し出した小さな箱。中には、華奢なダイヤの指輪が輝いていた。

「梨花。……俺と、結婚してください」

嬉しくて、泣いてしまった。仕事もそこそこ順調で、年齢的にもそろそろかなと思っていた矢先だった。だから私は迷わず頷いた。彼が選んでくれた、それだけで十分だった。

……あの頃の私は、疑うことを知らなかった。

学生の頃から付き合っていた健吾は大手広告代理店に勤めていて、見た目も中身も申し分ない“理想の彼氏”だった。忙しくてすれ違うこともあったけれど、彼は「結婚したらもっと一緒にいられるから」と優しく笑ってくれた。

それを信じていた。信じるしかなかった。

結婚式場のパンフレットを一緒に選び、ドレスの試着に付き合ってくれた日もあった。母は「いい人を見つけたわね」と微笑み、父は無口に頷いていた。誰もが、順調だと思っていた。

でも、違和感はあった。

彼のスマホには常にロックがかかっていた。トイレに行くときもお風呂に入るときも、必ず持ち歩いていた。メッセージアプリの通知音が鳴ると、一瞬だけ彼の表情が強張るのを私は見逃さなかった。

ある夜、健吾が眠っている間に、私は彼のスマホをそっと手に取った。寝ている彼の指で指紋認証をこっそり解除する自分の手が震えていた。

開いたメッセージアプリには、見覚えのある名前――「みさき」の文字。そのアイコンは友人のものと瓜二つ。

『今日もあの地味女と一緒? かわいそ?』
『でも、もうすぐ解放されるんでしょ?(笑)』

スクロールする手が止まらなかった。愛し合うような言葉。写真。私が信じていた未来が、崩れ落ちていく音がした。

「……これはどういうこと?」

翌朝、彼の前にスマホを差し出したとき、私の声は冷えていた。健吾は一瞬、固まったあと、ふっと鼻で笑った。

「見たのか。お前に見られたら終わりだと思ってたけど、まぁ……いいタイミングかもな」

その口調が、あまりにも軽くて、私は言葉を失った。

「俺、正直なところさ、お前と結婚しても面白くないと思ってた。悪いけど、お前って“普通”すぎるんだよな。美咲といる方が刺激的で楽しいんだ」

刺激? 楽しい?私との五年間は、全部“退屈”だったとでも言うのか。

「……じゃあ、なんでプロポーズしたの?」

「親がうるさかったから。もう年齢的にも落ち着けって言われてさ。でも、美咲を知ってしまったら……無理だわ、お前との結婚なんて」

その日、彼は婚約破棄を一方的に告げた。指輪も、式場の予約も、何もかも——無意味だった。

ただ一言、「悪いな」で終わらせて、手切れ金とばかりに私の口座に振り込まれたお金。そして彼は私の人生から消えた。

それからの数週間、私は抜け殻のようだった。会社も辞めた。食べ物の味もわからなくなった。眠れず、泣けず、時間だけが通り過ぎていった。

実家に戻った私は、毎日、何もせずに過ごしていた。

スマホを見るのも嫌だった。SNSを開けば、誰かの幸せな投稿が目に入る。結婚式のドレス姿、新婚旅行の写真、夫婦の記念日。そのどれもが私が手に入れるはずだった“未来”だった。

「梨花、少し散歩でもしてきたら?」

母が心配そうに声をかけてくれるたび、私は笑顔を作ったふりをした。でも、本当は動く気力なんて一ミリもなかった。婚約破棄から三ヶ月。世間ではもう過去の話でも、私の中では何も終わっていなかった。

そんなある日、昔の職場の先輩・結花さんから連絡があった。

「梨花、大丈夫? あなたのこと聞いたとき、本当にびっくりして……。でも、これを機に、夢だった海外に行ってみない? 私の知人が紹介してくれるって。思い切って環境を変えてみるのもいいと思うの」

夢。

そう、かつて私は語学を活かした仕事をしたいと思っていた。でも、健吾と結婚することを前提に、安定した事務職を選び、夢をしまい込んだのだ。

行くかどうか、一晩悩んだ。でも、もう誰かのために生きるのは、やめようと思った。

それからは本当にあっという間だった。少しばかりの意趣返しをしてから数ヶ月後、私はカナダの語学学校で勉強していた。最初は戸惑うことばかりだった。英語がうまく聞き取れず、伝わらず、何度も悔し涙を流した。

でも、ある日ふと思った。泣いても誰も助けてくれない。だったら、自分で立ち上がるしかない。

それから私は、毎日自習室に通い詰めた。授業が終わった後もノートを何度も見直し、週末には地元の図書館で英字新聞を読むようになった。気づけば、周囲の友人たちから「発音がすごく良くなったね」と言われるようになっていた。

帰国後、私は外資系企業のマーケティング部に採用された。

面接で、自分の過去を正直に語った。婚約破棄に傷ついたこと、その痛みを乗り越えるために海外で勉強したこと。

担当者は少し驚いたような顔をしてから、静かにうなずいてくれた。

「逆境に強い人材、うちには必要です」

初出社の日、オフィスの窓から見える景色は、以前よりずっと広く見えた。

「君が新しく入ったマーケの子か。……高杉だ、よろしく」

そう言って名刺を差し出してきた男性は、どこか無愛想で、厳しそうな雰囲気だった。高杉課長。仕事のスキルは超一流だけど、部下に甘くないことで有名らしい。でも私は思った。媚びたり取り繕ったりしても意味はない。自分の力で結果を出すしかない。

仕事に打ち込む日々の中、ふとしたタイミングで、健吾と美咲のSNSが目に入った。

「#カツカツ生活」「#節約レシピ研究中」

見栄っ張りだった美咲が、セール品の自撮りを載せている。

……あの二人、うまくいってない。

気がつくと、私は画面を閉じながら、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。





金曜の夜、社内ラウンジで開催された懇親会。新製品プロジェクトの成功を祝う場で、私はプロジェクトリーダーとして壇上に立っていた。

スライドの前でプレゼンを終えると、フロアから拍手が起こる。同僚たちの笑顔、上司の満足そうな頷き。私はもう、“裏切られた女”ではなかった。

「よくやったな」

不意に背後から声をかけられる。高杉課長——最近は“課長”ではなく、“高杉さん”と呼ぶようになった人だ。相変わらず厳しい目をしていたが、口元は少しだけ緩んでいた。

その夜、家で久しぶりにSNSを開いた。フォローを外していたはずの健吾と美咲のアカウントが、なぜか“おすすめ”欄に表示される。

気まぐれに開いたその投稿には、こう書かれていた。

『クレカ止められた。マジで詰んだ』
『転職活動つら……誰か紹介して』

写真に写る健吾の顔はやつれ、美咲はノーメイクでソファに倒れている。背景には、狭くて古いワンルーム。あれほどSNSで見せびらかしていた“理想の同棲生活”は跡形もない。

彼らは今、確実に“落ちている”。

数日後、新規プロジェクトの人員補充としてかけた中途採用募集。リーダーとして会社に届いた履歴書のデータをチェックしていた私は、思わず手を止めた。

そこに書かれていた名前——「中村 健吾」。

まさかと思って写真を見ると、本人だった。以前勤めていた広告代理店を辞めたらしい。退職理由は「業績不振により部署解体」。いや、正確には「不倫騒動と顧客への虚偽報告」で追われた、という噂を耳にしていた。

その履歴書を手に、私は静かに笑った。

数日後、一次面接の場に健吾が現れた。

「……り、梨花?」

会議室に入った彼は、私の顔を見て立ち止まった。だが私は、まるで赤の他人を相手にするように、名刺を差し出した。

「採用担当の佐伯です。どうぞおかけください」

「えっ、な、何でお前が……」

「こちらが本日使用する面接シートです。職務経歴にいくつか不備が見受けられたため、その点を中心にお伺いしますね」

私の口調は終始丁寧だった。笑顔も崩さなかった。

だが、健吾は明らかに狼狽えていた。椅子に座る手が震え、声はどんどん小さくなる。

「……あの、梨花。ほんとに悪かったと思ってる。俺、色々あって……。美咲とも……実はもう……」

何か言い訳を始めたが、私は手元の資料を淡々とめくった。

「こちらからの質問にお答えください。“前職でのチームリーダー経験”とありますが、同僚に対するパワハラ問題で社内処分を受けた件について、説明願えますか?」

健吾の顔が真っ青になった。

私はもう、あの日の私ではない。

泣いてすがるような女ではない。

その夜、彼のアカウントから「面接で元婚約者に会って地獄だった」という投稿が流れてきた。当然ながら即座に晒され、フォロワーたちからの冷たいコメントが並ぶ。

『え、婚約者捨てて浮気したのはお前じゃん(笑)』
『どの口が言ってんの?被害者ヅラすんなよ』
『やっと天罰下ったね』

……ざまぁ。

翌週、美咲の借金トラブルの噂を共通の友人から聞いた。高額な美容整形ローン、ブランド品のリース契約、怪しげな副業、友人への未返済の借金。

「美咲、あんなに勝ち組アピしてたのに、信じられないよね。ホストにも貢いでたって。やばくない?」

彼女が虚勢を張って築いていた“幸せのフリ”は、砂の城のように崩れ始めていた。元婚約者たちの偽りの幸せを、「直接」は壊していない。

ただ、真実を少しだけ、表に出しただけ。

——一方的な婚約破棄に、婚約者がいると知っているのに手を出した女。健吾が武勇伝のように語っていた部下へのパワハラ。

それを彼らの周囲に匿名で流しただけ。全て彼らが自ら招いた結末。私は、それを“静かに見届けている”だけだった。

ある週末、街中で偶然、美咲の姿を見かけた。ハイブランドで身を固めていたかつての彼女とは別人のように、安物のコートにスニーカー、肩にかけたバッグも擦り切れている。

そこに健吾の姿はない。

聞けば、彼女は健吾と別れ、夜職で借金返済をしているという噂もあるらしい。

ある日の夜、高杉さんと一緒に残業を終えた帰り道。オフィスビルの前で、彼が不意に言った。

「……お前、最近顔つきが変わったな」

「え? それって、良い意味で?」

「悪くない。少なくとも、“他人に振り回される顔”じゃなくなったってことだ」

私は笑ってしまった。

「それ、褒めてます?」

「……たぶんな」

彼の笑みはまだぎこちないけれど、どこかあたたかかった。その翌週、社内で私の昇進が発表された。かつて「結婚して寿退社」を夢見ていた自分とは、まるで別人のようだった。

私には今、仕事があり、仲間がいて、自分の足で立っている実感がある。

ふとした帰り道、道端に咲いた冬椿を見て思った。

私は、裏切られて良かったのかもしれない。あのまま誰かに依存し続けていたら、今の私はなかったから。復讐は終わった。でも、これは“仕返しの物語”ではない。

——“自分を取り戻す物語”だったのだ。

もう、振り返らない。

私はまっすぐ前を見て、歩き出した。
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