ネビュラ・ディバイド

ダデ丸

文字の大きさ
29 / 39

断章4 遥か彼方より

しおりを挟む

 綾織あやおりかなたが当時まだ総合病院に勤める研修医だったみなとの所へ初めてやって来たのは、一度は近づいた春の足音がまた遠のいた雪の日だった。
 
 白銀の髪を靡かせ雪の妖精を思わせる姿は、普段同僚たちにその無愛想さを指弾される湊をすら動揺させた。

 少し緊張した面持ちで診察室の椅子に座る彼女の相談とは、自らの記憶喪失についてだった。
 九歳……辺りと思われる年齢までの記憶が無く、出自も不明。当初は日本語を話すこともできなかったという彼女が一体どこから来て、何者なのか。
 綾織かなたという存在そのものの謎を解き明かしたい。それは医師の義務としてではなく、もっと個人的な衝動だった。

「なぜ今、記憶を取り戻したいと思ったんですか?」
「高校への進学が決まったので、少し心に余裕ができたというか……あと、日本語もある程度自身が付いてきたのでちゃんと伝えられるかなと思ったんです」
 そこまでは、あらかじめ回答を用意していたかのように滑らかに答える。その言葉通り流暢な日本語は九歳から身につけたとは思えぬ、訛りすら感じさせない自然なものだった。
「……あと、時々、夢を見るんです。家が燃えて、知っているはずの人たちが捕まって……」
 そこからは記憶を絞り出すように話すが、言葉に詰まると酷い頭痛に耐えるようにこめかみを抑え、顔を顰める。
 苦しそうに言葉を搾り出そうとするかなたを見かね、手を挙げてそっと制した。
「綾織さん、無理して思い出さなくて大丈夫です。焦らずゆっくり、やっていきましょう」
 そう言うと額に汗を浮かべたかなたは、はにかむように笑った。

 考えられる可能性は強いストレスに起因する解離性健忘だろうか。夢の内容が過去の経験を再生しているのであれば、家族や故郷を失くした事がその原因かもしれない。
 しかし、彼女が見つかったという富士山麓周辺でそのような事件があったという報道は見つけられなかった。
 彼女の日本人らしからぬ風貌と、日本語が話せなかったという点を考えれば外国から連れて来られ捨てられたと考えるのが妥当だろうか。

 現実的にあり得そうな可能性を考えてはみるが、どんな可能性を当てはめても”かなた”という存在の輪郭には届き得なかった。
 いつしか湊は医者としては捨てるべき非現実的な思考に手を伸ばしていた。
 かなたはこの世界の理の外から来たのではないか。
 その馬鹿げた考えを奥底に封じようとしても、新たな根拠を得てはまた時折浮上して来るのだった。

「湊先生、こんにちは!」
「綾織さん、苗字で呼びなさいと言ってるでしょう」
「いいじゃないですかぁ」
 制服姿で診察室にはいってきたかなたの明るい声が弾ける。
 重苦しい空気が支配しがちな精神科にかなたが来院すると、この時ばかりは小春のような暖かさが訪れるのを湊は感じていた。
 
 予定通り高校に進学したかなたは、月二回ほどのペースで湊の所に通うようになった。
 彼女はその神秘的な容姿とは裏腹にとても人懐こく看護師たちともすぐに仲良くなっていたが、中でも湊への懐き方は側から見ても異常なほどだった。
 そのせいで同期の研修医たちに影で下世話な噂を立てられていることも知っていたが、断じて医師と患者という距離を誤る事はなかった。

 湊はかなたに、解離性健忘を前提としたカウンセリングや治療を行ってきたが、半年が経過してもかなたの記憶に変化は見られなかった。
 記憶の断片らしき夢を見るが、その場所も、人の名前も浮かんではこない。
 しかし、かなたと過ごす時間の居心地の良さに、治療の不毛さ、成果の無さなど気にならなくなっていった。

「まだ夢は見る?」
 いつものように問診を始める。
 頷くかなたに次の質問をぶつける。
「内容に変化は?」
 かなたは顎に人差し指を当てて天井を見つめ、一昨日の夕食でも思い出すような気軽さで言う。
「男の子が、助けてくれた……ような?」
 
 ――そう口にした瞬間、その白くすべらかな頬を涙が伝った。
「あ、あれ?」
「綾織さん……?」
 自らの涙にただ戸惑っているかなたに掛けるべき言葉が出てこず、衝動的に震える肩に伸ばしかけた手を引っ込める。
「ごめん先生、いきなり泣いちゃって。なんでだろ……」
 なんとか笑顔を作り手の甲で顔を拭うが、涙はとめどなく溢れている。
 深層心理に封じられた記憶。
 その中にいる、名も知れぬ”本当の彼女”が泣いている。そんな風に湊には見えた。
「でもその男の子、先生に似てたかな……」
 そう言ってかなたはその在処も、理由も分からない悲しみと寂しさにぐちゃぐちゃになった顔で、親指と人差し指で二センチほどの隙間を作り「ちょっとだけね」と笑った。

 その姿を茫然と眺めていた湊は、まるで心臓に鎖を巻き付けられたかのような苦しさを覚える。
 本当の意味で彼女を救うことなど、自分にできはしないのだと告げられた気がした。

 だが、それでも――


 ――また季節は巡り、かなたにとって十一度目の春が来る。

 いつしか湊は、かなたの正体など気にしなくなっていた。
 いや、考えないようにしていたのかもしれない。
 それがつまびらかになれば、彼女が目の前から消え失せてしまうような、そんな予感があったからだ。
 それよりも今は、彼女が存在するこの時間が一分、一秒でも永く続くことを祈る。
 
 春に雪の華が咲く。

 その華がもたらす幸せの種が、僅かでも彼女の救いとなることを心から願う。
 
 その願いがたとえ、醜いエゴだったとしても。
 
 

 

 
 
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

転生後はゆっくりと

衣更月
ファンタジー
貧しい集落で生まれたリリは、生まれた瞬間から前世の記憶があった。 日本人特有の”配慮”に徹した赤ん坊を演じていたことで、両親から距離を置かれた挙句、村人からも「不気味な子」として敬遠されることに…。 そして、5才の誕生日に遠くの町に捨てられた。 でも、リリは悲観しない。 前世の知識チートは出来ないけど、大人メンタルで堅実に。 目指すは憧れのスローライフが出来るほど、ほどほどの守銭奴としてリリは異世界人として順応していく。 全25話(予定)

この離婚は契約違反です【一話完結】

鏑木 うりこ
恋愛
突然離婚を言い渡されたディーネは静かに消えるのでした。

愚かな側妃と言われたので、我慢することをやめます

天宮有
恋愛
私アリザは平民から側妃となり、国王ルグドに利用されていた。 王妃のシェムを愛しているルグドは、私を酷使する。 影で城の人達から「愚かな側妃」と蔑まれていることを知り、全てがどうでもよくなっていた。 私は我慢することをやめてルグドを助けず、愚かな側妃として生きます。

出戻り娘と乗っ取り娘

瑞多美音
恋愛
望まれて嫁いだはずが……  「お前は誰だっ!とっとと出て行け!」 追い返され、家にUターンすると見知らぬ娘が自分になっていました。どうやら、魔法か何かを使いわたくしはすべてを乗っ取られたようです。  

妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?

木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。 彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。 公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。 しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。 だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。 二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。 彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。 ※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。

王様の恥かきっ娘

青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。 本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。 孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます 物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります これもショートショートで書く予定です。

ミュリエル・ブランシャールはそれでも彼を愛していた

玉菜きゃべつ
恋愛
 確かに愛し合っていた筈なのに、彼は学園を卒業してから私に冷たく当たるようになった。  なんでも、学園で私の悪行が噂されているのだという。勿論心当たりなど無い。 噂などを頭から信じ込むような人では無かったのに、何が彼を変えてしまったのだろう。 私を愛さない人なんか、嫌いになれたら良いのに。何度そう思っても、彼を愛することを辞められなかった。 ある時、遂に彼に婚約解消を迫られた私は、愛する彼に強く抵抗することも出来ずに言われるがまま書類に署名してしまう。私は貴方を愛することを辞められない。でも、もうこの苦しみには耐えられない。 なら、貴方が私の世界からいなくなればいい。◆全6話

【完結短編】ある公爵令嬢の結婚前日

のま
ファンタジー
クラリスはもうすぐ結婚式を控えた公爵令嬢。 ある日から人生が変わっていったことを思い出しながら自宅での最後のお茶会を楽しむ。

処理中です...