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3.瘴気の魔女と異邦人

3.3 瘴気の魔女と異邦人

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 死というのはどのような物なのか、そんな事を考えた事はあった。ただひたすら冷たく暗い場所に落ちていき出口のない孤独をぼんやりと見ているのか、温かく光の満ちた場所で微塵の恐怖や不安がない安らぎだけを感じているのか、その両方で前者を地獄と後者を天国と呼ぶのだろうか、もしくは何も無いのか。
 いずれにせよ答えはでなかったし、でないだろう。その時が来ないとわからないし、わかったとしても語ることはない。毒にも薬にもならない無為な答えが結論だったはずだ。
 だから、今得た答えも無意味な物だ。語ることはできない、文字として残すことも叶わない。
 ただ救いだったのが、それが恐れていた形で訪れなかったという事だ、傷みも苦しみもない、温かく柔らかな空間。永遠の微睡みが続くならこれほど幸せで平安なことはない。
 ただ少し薄暗く、オレンジ色の薄暗い空間がただひたすらに続いている。
 ふと奇妙な既知感の後に音が聞こえてきた。
 それは声だった、1つではない幾つかの声。女性の話し声、天使などが存在するのだろうか?
  「奇妙なのは…」
「だからそれは…」
 話に耳を傾けようとした、そう、耳をだ。
 そしてこの薄暗い空間にたいする既知感、それが何か思い当たることはあった、瞼の裏、明るい場所で目を閉じた時だ。
 俺は寝ている、つまりこれは死ではない?
 そう思ったが、からだの感覚はないし、思考は定まらなかった。
 急に平安を食い破り、不安が姿を表す。
 体の感覚を取り戻そうと、思考をはっきりさせようと足掻くと一部だけ自由になった。
 目の前に弧を描く光が表れ、やがて色づき、形作る。
 かすれた世界、確かに俺は見ていた。
 「ちょっと、この人目を開けているよポコちゃん!」
 「ええ?!」
 太い木の枝と板張りの天上、そして青白く周囲を照らすランプ。それを遮るようにして視界の左右から女の子の顔が生えてきた。
 「まだ起きちゃ駄目!」
 金髪の女の子はそう言った。
 何故?という疑問は言葉にならなかった。
 「安心してください、大丈夫ですから。今はゆっくり休んでくださいね?」
 モコモコした黄金色の髪から角を生やした変な女の子はやさしく言った。
 変な言い方かも知れないが俺は自分が死んだと思っていた。思う、という時点で死んではいないのだが、確かに命がなかった状況の事を思い出した。
 俺は救われたのか。
 かすれた視界が歪んで変な女の子達の顔がぼやけてしまった。
 俺はゆっくり休む事ができるんだ。2人への感謝が溢れて、それを言葉にしたかった。
 喉はひきつり、声は掠れたが多大な努力の末に1つの言葉になった。
 「…ありがとう」
 自ら耳にした言葉に安心し、吸い込まれる様な感覚で視界が閉じ、意識が遠退いた。
 だけどそこには恐怖も苦痛もなかった、気がついたときと同じように。

 どれだけ寝ていたのだろうか、2度目の覚醒をした俺に2人はそれぞれ、ポコリナとストレイアと名乗った。仲良しな二人はポコちゃんとレイアと呼び合っているみたいだが。
 ポコちゃんの方は少し陰のある女の子で、腰まである長い髪は途中で薄いブロンドから血のような赤に染めていた。服も黒一色なところを見ると、パンクな性格なのかもしれない。
 レイアちゃんの方も髪に特徴のある子だった、モコモコとウェーブがかった黄金色の髪はドすげぇ量があり、まるで羊のようだった。もしかして本当にそうなのかもと思うのは彼女がその髪の間から巻き角を覗かせていたからだ。
 俺が彼女の頭を眺めていると、レイアは童顔の丸い顔を朱に染めて困った様にはにかんだ。
 「気になりますかこれ」レイアは角の先端に両手を当てて言った。「貰ったんですよ」
 「え?」
 貰った?
 俺の疑問に答えるように両手が角をつかむと、頭から離れた。
 付け角とでも言うのだろうか、ちょっと俺には理解できないセンスだけど、彼女にはぴったりと言えなくもない。
 「誕生日のお祝いとして友達がくれました」
 そう言うとレイアは顔を綻ばせた、とても嬉しそうなところを見ると気に入っているのだろう。
 ポコちゃんの方を見ると彼女は目を細めていた、俺の視線に気がつくと慌ててかぶりをふる。
 「あたしはあげてないよ、そんなの」
 彼女はそう言って作業を再開した。
 何かをすり鉢とすりこぎ棒で擂り、それを椀に移すとそこに煮込んだ何かを注ぎ、かき混ぜてから、乾燥した何かを放り込む。そうして出来た得体の知れない何かをベッドの上の俺のところへ持ってきた。
 眼前に差し出されたそれは暗い小豆色をした粘っこい液体で、苦く、渋い、目に染みる臭いを放った。
 飲めとか言われたら詳しく中身の説明と効能、飲むメリットを聞かねばならないような代物だった。
 「飲んで」
 「えぇ?」思わず呻いた。「これは?」
 「バゼルの花と霊樹の皮、それにミントを混ぜた薬だよ。あんた体の腐れ病魔を倒して、体を治すための薬だよ」
 「へ、へぇ」
 よくわからないが、薬だという事はわかった。
 良薬は口に苦しとは言う、俺の体の状態を考えればポコリナとストレイアはたいした腕を持つ医者や薬剤師なのかも知れない。
 手の中の器を覗き混みながら、俺は生唾を飲み込んだ。
 「ちょっと苦いかも知れませんけどー、ポコちゃんの薬は凄いですから、頑張って飲んでくださいね」
 意を決して薬に口をつける。
 びりびりとした刺激が口の中で暴れ、鼻を抜けて脳を突き上げた。
 小豆色の椀から視線をあげるとポコが笑っていた。いや微笑んでいると言うべきなのだろうが、どこかほくそ笑んでいるとイメージしてしまうのは彼女の雰囲気のせいか。
 命の恩人に対する失礼な考えを否定するために俺は椀を傾け、息を止めて、その薬を胃へ流し込んだ。
 押しだそうとする圧力と格闘すること十数秒、口のひりつきと喉のえぐみ、胃の重さを残して、椀は空になった。
 吐き気はほんの数秒で収まり、不思議なことに口から連なる違和感も溶けるように消えていった。
 「水いるかい?」
 ポコの問いに椀を渡してから俺はかぶりをふった。
 それに彼女は歯を見せて嬉しそうに笑った。
 「臭いと見てくれは悪いけどさ、飲んじゃえばどうってこと無いんだよ」
 「効き目も凄そうだし」
 俺はベッドに座ったまま2人に頭をさげた。
 「助けてくれて礼の言いようもない、ありがとうございます。お2人が居なきゃ、たぶん死んでいたのだろうと思います」
 ポコは顔を朱に染めて照れ臭そうな苦笑いで、レイアは可愛らしい笑みに慈愛を湛えて俺の言葉を聞いた。
 「ん、まあ泥まみれで瀕死のあんたが倒れていたのは驚いたけどね」
 「わたしはポコちゃんに突然呼ばれて驚いたー」
 「この恩は返したいと思う、けど俺には何かあげられる物も無いんだ。だからそのうち必ず」
 「いいよ恩なんて」
 ポコはそっぽ向いて即答したが、ストレイアは顔を輝かせ、身を乗り出すように俺に顔を近づけた。ふわりと踊る髪の毛から甘い香りが漂う。
 「ならちょうどいい方法があるよ!」
 「俺ができる事ならなんでも」
 「いい返事!」
 そう即答してから俺は聞かなきゃならない事があるのに気がついた。
 「恩返しはさせてもらうけど、その前にちょっと教えてほしいことがあるんですが」
 親切な人たちだ、きっとこの人たちなら俺の力になってくれる、そう信じていた。

 ポコは困惑と哀しみに打ちひしがれて、1人死で覆われた沼を眺めていた。紫色の霧が出ている、今夜は瘴気の濃度が濃いようだ。
 「なんでだろ」
 呟きに対する答えはなく、ただ遠くでスカベンジャーが笑う。
 理不尽な事には理由があって、今まで納得はしなくても理解はしてきた。嫉妬や恐怖、人の心は色々なのだ。
 だけど今回の事にはポコは理解ができなかった、自分の何があの男を激怒させたのか。言った言葉は丁寧でなかったかも知れないが、怒る要素はなかったはずだ。それまでだって雰囲気は悪くなかったし、恩返しをしたいなんて言ってくれていたのに。
 もう一度思い返そうとポコは目を閉じた。
 「えっと、何から聞けば良いか」男は僅かな間悩むと考えがまとまったようだ。「まず、ここは何処ですか?それからニホンという国は知りませんかね?」
 ポコはレイアと顔を見合せ、互いにかぶりをふった。
 「ここはサンセット・レイクという名前の死の沼にある、長老樹の上に立てられたあたしの家。国でいうならガンパルド王国という国だよ」そこまで言ってポコは首を捻る。「ニホン?ていう国は知らないね」
 「ここはカーマイル大陸にある国ですよー、不思議な髪色していますし、たぶん別の大陸の方ですかお兄さんは。何処からいらしたのですか?レンスダイク?マルトゥーロ?スパン・カイラス?ハスス?」
 「いや、何処でもないな…」
 男はつらそうに顔をしかめていた。
 「何処でもないって、じゃあ辺境か魔大陸位しかなけど」
 ポコはあそこにまともな人間が住んでいると聞いたことはなかった。
 男はベッドの上で手元をみたまま深刻な様子で考え込み、言葉を発しなかった。
 ポコはこの男が罪人か何かで何処からか逃げてきたのではないかと疑ったが、その可能性は低いと結論付けた。手配書にはのっていれば、こんな特徴のある男ならすぐわかるはずだ。
 「まあ、あんたがどこの誰だか追及はしないよ。で、かえる場所か、行くべき場所はあるのかい?」
 男が力なくかぶりをふるのを見て、ポコの胸に久しくなかった疼きが生まれた。
 期待に対して生まれる焦りと逸りの気持ち、せっかちになりそうな自分を制してあくまで冷静に彼女は接していたつもりだった。
 「な、ならさ、しばらくあたしのところにいないかい?ちょうど助手を探していてさ、ほらあんたは色々問題を抱えているしさ、あたしが解決できる事も多いと思うんだ。手前味噌だけど、これでも技術の方は自信があるんだ」
 男は目を見開きポコを見た。
 「いや、ありがたい話だけどさ、俺はあなたの手助けになりそうなスキルないと思うけど」
 「そんなの少しずつ覚えてくれればいいんだ」
 男が口元を緩めて微笑むとポコは胸が高鳴り、胸が裂けて心臓が飛び出しそうだった。
 「それでいいなら俺は助かるよ、怪我の治療もかかりそうだし」
 「怪我だけじゃなくて、その胸の孔の事もこのあたし、瘴気の鎮守魔術師に任せなよ!」
 「豊穣の女神ことストレイアもお手伝いしまーす!」
 何もなかったはずだ、少なくとも男が怒る要素なんてなく、直前まで希望に満ちていたのに。
 突然の理不尽としか言い様の無い変容、男の顔が不信感と警戒感に満ちた刺々しいものへと変わった。
 「胸の孔?魔術師?」
 その変貌に気がつくだけの洞察力がポコにはあった。
 「ポコちゃんは力のある鎮守魔術師だから、胸にあいたマナの孔を塞ぐ方法も見つけてくれるよ!」
 だがレイアは疑わず、気づかずだった。
 確かにその言葉がトリガーになっていたのはポコにもわかった。理由なんてわからないが。
 突然に舞うポコのベッドの毛布、そして続くガラスが割れ、木が折れる破壊音。
 気がつけば男はベッドにはいなかった、ベッドの向こう、作業台の上にあったものを倒し、落として、そこにもたれ掛かる様に立っていた。
 「魔術師だって!?」男の顔には動かしてはいけない体を動かした苦痛以上の怒りが満ちていた。「俺の体に何をしやがった!」
 ポコもレイアも茫然とその光景を見るしかなかった。
 何を?治療しかしていない。
 「くそっ!」
 何も口にできない2人を前に男は作業台に置いてあったナイフを手に取った。
 それから包帯に血を滲ませながら足を引き摺って入り口に向かう。
 「ちょっと!まだ動いたら駄目だって!」
 ようやくポコは我に返り、叫んだ。
 「黙れ、くそ魔術師め!騙されねえぞ!」
 あろうことか男は巻いてあった包帯を引きちぎり、おぞましい傷口が露出した。紫色に染まった二の腕とふくらはぎは明らかに治療が未完で男が激痛に苛まれている事を物語っていた。
 だがそれを上回る怒りをもって男は立ち、ナイフをもって威嚇して唯一の入り口ににじりよる。
 「そ、そんな体で沼に浸かったら今度こそ体が腐っちまうって!」
 ポコの叫びに男は獣の様な唸りと共に棚を払って応えた、大切な物、レイアからのプレゼントの熊の人形、母親からの手紙が無惨に床に落ちた。
 「やっ、やめてくれよっ!」
 男は止まらず、ドアの取っ手にてを伸ばす。
 「駄目だって、落ち着いてくれよっ!」
 「魔術師の言うことなんて聞くもんかよ!」
 「なんでだよっ!」
 男は手を取っ手に下ろした、がそれは空を切る結果となった。
 扉が開き、騎士が入ってくる。
 狭いからと言って外で待ってくれていたサヴァーンとナイトルイスだ。
 ナイフをもつ男を目にし、サヴァーンは咄嗟にロングソードを抜き放ち、男は飛び退いて距離を取る。油断の無いサヴァーンの鋭い視線と痛みに顔をしかめながらも立ちはだかる相手を睨む男の視線が交差した。
 慌ててナイトルイスが追従してロングソードを抜いた。
 「騒がしいからと思って来てみれば、困惑する状態ですな。まずはストレイア様もポコリナ様も何事もなくて幸いです」
 「おじさま、駄目だよ、傷つけないで!少し興奮してるだけだから!」
 サヴァーンは主の言葉に深い溜め息をついた。
 「少しどころではないですが、努力はしましょう」
 「そこをどけよ!ブリキ缶野郎がぶっ殺されたいか!」
 男の怒声にサヴァーンは顔をしかめる。
 「何を言っているのかはわからないが、少し落ち着いてくれないかね?ストレイア様やポコリナ様が誰かをこんなに怒らせるとは思えない、何か勘違いしてしまったのではないかな?もし良かったら、何にそんなに怒っているのか教えてもらえないか?」
 「黙れよ魔術師の犬が!てめえも俺を奴隷にするクズの手下だろうが!」
 「奴隷?それこそ何か勘違いしているな、我が国には奴隷などいない」
 「嘘をつけ、そこのビッチが言っていたぞ!俺を従者にするってな!」
 指を向けられたポコは気色ばみ声をあらげた。
 「何を言ってるんだよ!従者は奴隷なんかじゃないぞ!」
 「はっ、よく言うぜ!俺の脳ミソ弄くって操るつもりなんだろうが!」
 「そんな恐ろしいこと!」
 詰め寄ろうとするポコを向けられた切っ先が押し留める。
 「寄るな!化け物め!」
 この物言いにポコは目を真っ赤にして、歯噛みした。
 「あんまりじゃないか!」
 男に飛びかかりそうな剣幕のポコをサヴァーンは腕で制す。
 「よくわからんが、君は魔術師に対して相当な恨みを持っているようだな。だがそんな君を救わねばならん、このまま外に出せば答えは見えているからな」
 サヴァーンがロングソードを構えたまま一歩前に出た。男を無力化するつもりなのだろう。
 「待っておじさま」
 そんな彼をストレイアが呼び止め、そして彼女が男に向かっていく。
 「ストレイア様、危険です!」
 「大丈夫だよ、任せておじさま」
 ストレイアは両手を広げて男に近づく、ゆっくりとだが確実に。
 「ナイフを突きつけて良いから、私とお話しましょ、ね?」
 彼女は自ら男の男の切っ先の前に胸を差し出し、それからいつもみたいに微笑んだ。
 男の顔が怒りと困惑でゆがむ、が無抵抗なストレイアを刺すことはなかった。
 「私はあなたがどうしてポコちゃんの事を恐れるのかわかったの、でもそれは本当に勘違い、ちゃんと説明させて?ね?」
 男の切っ先が床を向く。何も答えなかったが、じっとストレイアの微笑みを見つめていた。
 「ねぇポコちゃん、ちょっと私に任せてくれない?」
 「わかったよ、レイアに任せる。邪魔なあたしは外に出とくよ」
 「え、別に出なくても…」
 ポコはストレイアの言葉を聞かずに、男の顔も見ずに部屋から飛び出した。

 正直なところポコは期待していた、諦めていた筈の従者が自分のもとにやって来ることを。
 瘴気への耐性が高い人間なんて滅多にいない、それがいて恩がある、そして彼にはいく場所が無いというのだ、千載一遇のチャンスだった。
 だが、彼はポコの事を受け入れてくれなかった。まるで憎んでいる相手にするような態度へと豹変したのだ。いや彼は確かに憎んでいるようだった、魔術師の事を。
 けしてポコの事を憎んだわけでは無い、魔術師全体への憎しみだ。だがその事実はなんの救いにもならなかった。
 グスリと鼻がなり、頬を一粒の滴が伝う。
 期待していただけに受けた傷みも大きく、胸に穴を穿つ。
 「やっぱりあたしはついてないな」口元が自嘲に歪む。「そんなのここにいる時点でわかる事だな」
 ポーチの手摺にもたれ掛かりながら沼の彼方を見た。
 こんな陰鬱で酷い場所にいる時点で幸運なんてない。
 不意にその陰鬱の中に光が差す。
 光の方を振り返ると、ストレイアが扉からゆっくりとポコの方へ向かってきていた。
 落ち着き、不安消えるような彼女の微笑み。すがり付きたくなるような優しさ。
 結局自分の心に寄り添ってくれるのは彼女だけだ、ポコはそれだけでも幸運な事なのかも知れないとぼんやり思った。
 「とりあえず一番大きな誤解は取り除けたと思うよー」
 ポコのとなりで手摺にもたれ掛かるとストレイアは言った。
 「それって何なのさ」
 「ポコちゃん、これはもちろん私達は悪くないし、あの人も悪くない。仕方なかった事なんだよ」
 ストレイアの悲し気な様子にポコは首を捻る。
 「ポコちゃんは色々言われたからわからなかっただろうけど、どうして魔術師て言った途端に怒ったのか、それはあの人がペルンから来たからだよ」
 ポコは口を開け、ストレイアの顔を見入った。
 あの理不尽な仕打ちに答を得たからだ、それと共に諦めもやって来る。
 「召喚の被害者か、だからあんな風に胸に穴が。気がつけなかったなそれは」ポコはかぶりを振って続けた。「でもそれなら仕方ないか、魔術師なんか不振しかないだろうし」
 「なんとかペルンとガンパルドは違うという事はわかって貰ったと思うよ」
 「流石女神様だね、レイアの笑顔に融かせない心はないね」
 「でも魔術師への不信までは解けなかったよ」
 ストレイアは弱々しくかぶりを振って言った。
 「そりゃあね、あの様子だと相当な目にあったんだろうし。見つけた時にあった傷もそのせいだろうね」ポコは溜め息を1つ吐いた。「それで?あの人はどうするって?」
 ストレイアはポコの問いにじっと彼女の目を覗き混み、奇妙な間を作った。
 「何?」
 「ううん、あの人は私のところへ来たいって言ってた。私だって鎮守魔術師なのに、おかしいね」
 「レイアは魔術師ぽくないし、話を聞いてくれる位に信頼されたんでしょ。まあそれしかないね」
 ポコの返答にストレイアはかぶりをふった。
 「ううん、断ったよ」
 「え、なんで?」
 「私のところの騎士団は一杯だし、少なくとも傷が治るまではここから動かせないって」
 「え…」
 嘘だ、ポコにはハッキリとそれがわかった。
 「ポコちゃん」ストレイアの瞳が真っ直ぐにポコを捉える。「私じゃ魔術師への誤解を解けなかった、だからポコちゃんに解いて欲しいんだ。そうしないと皆が不幸だよ、あの人も含めてね」
 「えっ、なんであたしが!レイアでも無理だったのに、無理だよ!」
 「あの人はしばらくここにいるしかない。一緒にいて、怪我の手当とかしてあげればポコちゃんの良さに気がついてくれるよ」
 「いやでもさ」
 いつもならあの男をすんなり受け入れそうなレイアがやけに強引だった。
 「ポコちゃん、諦めたら駄目だよ。どんな方法でもまずは引き留めないと。信頼は時間のなかで育めばいいんだよ」いつになくストレイアの言葉は情熱的だった。「誰よりも優秀な瘴気の鎮守魔術師ポコリナなら絶対にうまくやれるよ」
 彼女の言葉はすべて自分の為だ、それはポコにもわかる。
 「本当に無理だと思ったら言ってくれれば私のところでいいよ。でも、大変でも頑張ってみてよ、だってもう無いかも知れないチャンスなんだよ?」
 確かにその通りだった。あの男がいかに稀有であるかは自分自身が証明だ。
 「わかったよ、どのみち怪我したままじゃ放り出せないし」
 「うん!」
 ストレイアはポコの背中に手を廻してハグをした。
 柔らかくて温かい彼女に抱かれていると全てが上手くいく気がしてくるのだった。

 「宜しかったのですかストレイア様」
 空飛ぶ羊の上でサヴァーンは彼にもたれ掛かるストレイアに尋ねた。
 「何が?おじさま」
 「お分かりでしょう、あの異邦人の魔術師に対する不信は根深いものです、従者などとても、普通の関係さえ築けるとは」
 「きっと大丈夫よ、あの人は悪い人ではないし、それに恩返ししたいって言ってたし」
 「たとえそうでも、もし一時的に従者になったとしても、それが壊れる要素は山ほどあります!希望をもった後の絶望程酷い物はありますまい」
 「何もしないならそこまででしょう?このままじゃポコちゃんは希望の意味すらわからないまま逃げることになっちゃう。もし私達があの人を受け入れたら誰も幸せにならないよ」
 「なぜですか?」
 「ポコちゃんは僅かな平安とひきかえに希望が何なのかそれすらわからないままになっちゃうよ」
 「また機会があるのでは?」
 「あるかもしれない、でもあの人程ポコちゃんの従者に適性のある人はいないよ」
 「そこまでですか?」
 ストレイアは肩越しに彼女の従者に微笑みかけた。
 「おじさまはあの人を見てどう思った?騎士団に加えたい、そう思ったんじゃない?」
 「そうですな、ゾクリとくるものはありました。仰る通り、そう思った事は否定できません」
 「あの人は私達が思っている以上に凄い力を持っていると思うの、ペルンから逃げ出せる位だもの。そしてそんな人を何もせずに諦めたとしたら、次からどう思うかな?ポコちゃんは優秀だし、私なんかよりもよっぽど強い、けどどうしたってあの人との比較をして、それを言い訳にしてしまう」
 サヴァーンは考えすぎではと言う言葉を飲み込んだ。親友にしかわからないこともあるだろう。
 「私にはわかりませんな」
 「それにあの人の期待にだって私は応えられないよ、ポコちゃん程魔術に詳しくないし、私じゃあの人の問題を解決できないこともある。けどもっと大きな問題は私達じゃあの人を守りきれないかもという事」
 「守る?なにから?」
 「ガンパルドにはペルンとの仲を重視する人達もいるよ」
 「なるほど、騎士団は多いからと口を出す者もでますな」 
 ストレイアは頷いた。
 「けどたった1人の従者、それもポコちゃんのだったら口を出しにくいし、ポコちゃんだって、私だって全力で守れるわ」
 サヴァーンは改めて彼の主が持っている見識に心服し誇りに思い、唸った。
 「その時は我等騎士団も全力を尽くしましょう」
 「ありがとうーおじさま」

 ストレイアと言う羊っぽい女の子と渋いおっさんの説明のお陰で自分のおかれている状態がなんとなくわかった。
 俺をこの糞みたいな世界に放り込まれた切欠を作った女のいる国ペルンはこの国、柱の守護者の国ガンパルドの南東にあるらしい。なんとなくその名に覚えがある気がしたが、知るわけ無い、気のせいだろう。
 魔術師が重要な立場にある、その特徴と共通の敵の存在で両国は同盟関係にあるが、その政策については大きな違いがあるのだと言う。
 まずガンパルドではペルンと違い、魔術師が従者を奴隷として取得するようなことはないとストレイアとサヴァーンのおっさんは保証してくれた。
 必ずなにかしらの益が互いにあるかたちで関係を結ぶのだと。
 だから俺の『ポコちゃん』への認識は大きな誤りなのだとストレイアは力説した。
 それが本当なら悪い事をしたと思う。が、それでも奴は魔術師なのだ。どうしたって心底から信用する気にはなれないし、恐怖だって抱く。
 だから俺はストレイアの元に行きたいと申し出たが却下された、これ以上人を入れられないとのことだ。彼女には100人の騎士達が従者としているらしいのだから仕方ないが、俺は怪我が治るまではここにいるはめになる。
 最悪だ。
 2人と入れ替わりに入ってきたポコリナは俺が散らかした後始末を黙ってやっていた。胸がズキリと痛んだ。嫌いだからといって罪悪感から開放される訳ではない。いっそ罵りの言葉でも吐いてくれればましなのだが。
まず手紙と人形を大切に棚に置き直すと、割れたガラスや木の破片を文字どおり消すと、彼女は視線を此方に向けた。
 「とりあえずあんたがメチャクチャにした治療をやり直さなきゃならないよ。突っ立て無くて良いから大人しくベッドに寝ていてくれ」
 「いや、いい。治療は大丈夫だ」
 俺の返事にポコリナは呆れた様にかぶりを振って溜め息混じりに言った。
 「いつまでも怪我を治せず、ここにいたいならそれでもいいけど」
 「な、なら、船でもなんでも貸してくれ。俺みたいなのがいない方が良いだろ?出ていくよ」
 「船なんてないよ、あったとしてもその体で何十キロも漕いでいくのか?無理だよ、馬鹿じゃないの?」
 「んならおめーはどうやって往き来してんだよ!」
 思わず声を荒げたが彼女は顔色1つ変えなかった。
 「あたしが送ってやってもいいよ?だけどさ何処に行くつもりなのよ、それに恐ろしい魔女の魔術で空を飛んでいくことになるけどいいの?」
 俺は言い返すことができずに唸るだけだった。
 ポコリナはそんな俺を鼻で笑うと顎でベッドに座るように促した。
 「余計な手間をかけてもらっても構わないけどね、売る恩が大きくなるだけだし」
 そんな事を言われ、俺は勢いよく腰をベッドに下ろすと抗議のような軋みを上げてベッドは揺れた。
 彼女は新しい包帯と乳白色のペーストの入ったボウルを手に俺のもとまで来ると手の内の物をベッドに置き、跪く。
 「ほら左足出してよ」
 出した左足に彼女の手がふれ、思わず身震いした。
 「取って喰いやしないよ」
 小馬鹿にするような彼女の言葉にイライラしたが、何も言わなかった。
 べちょりとふくらはぎの辺りに冷たくべとついた何かが塗りたくられる。そしてその上に何かの葉っぱで覆い包帯を巻く。
 「ほら今度は右手だよ、自分の怪我の部位くらいわかるだろう?」
 大人しくそれに従うほかなかった。
 右腕も同じ処置がされる。
 視線は彼女を捉えないように部屋をさ迷う。
 得体の知れない枯れ草が天井からぶら下がり、毒々しい色合いの液体に浸かったおぞましい何かが入った瓶詰めの数々、さっき薬を作っていた器具の他にも用途不明の怪しい道具がところ狭しとならんでいる。まさに魔女のババアの棲み家と言った様相。
 年齢は俺より若くは見えるが実際には魔女のババアなのかもしれない、非人道的な方法で若さを保つ魔女なら知っている、フィクションの中だが。
 そんな魔女もフィクションの中にいる分には話を盛り上げてくれるが、厄介になるのは勘弁してもらいたい。
 とは言えどうすればいいのか、俺の前途は多難だ。どうやって初めの一歩を踏み出せばいいのかさえわからない。まず怪我を治さなければならないのは確実だ、だからこの魔女に体を触らせるのも我慢している。じゃあその後は?
その問いの答えは無く、視線がさ迷うだけだった。
 熊だろうかぬいぐるみ、それに手紙の数々が置かれた棚、飴色の光沢を放つその棚だけが魔女らしくなかった。思えば部屋に入ってきて真っ先にあそこのものの無事を確認していた。大切な物なのだろうか、だとするとやはり悪い事をしたのかもしれない。
 視線を落とすと真っ黒で巨大なとんがり帽子が目にはいるが顔は見えない。血のように赤く染まった髪の毛の端が別の生き物のように動きに合わせて踊る。
 あのストレイアと言う女の子によれば、このポコちゃんは鎮守魔術師という立場にあり非常に優秀で頼れる魔術師らしい。彼女はやさしいポコちゃんなら必ず力になってくれると保証したが、どう見ても邪悪で人を陥れて喜ぶ外見をしている。
 勿論、人を外見や偏見で判断するのは良くないことだ。だが俺にはそれしか判断基準がない。こいつは危ない格好をした魔術師だし、俺が見た魔術師どもは皆が皆クズだった。
 髪の毛の動きが止まると帽子が動いて、ポコリナの顔が見えた。
 金髪の前髪から覗くルビーの様に紅い瞳から逃れるように目をそらす。
 「もうひっぺがさないでくれよ」
 返事はしなかった、それに対して彼女は1つ溜め息をつく。
 「わかったんだか」
 愚痴の様にそうこぼすと箱に器具をしまっていた。
 感じ悪いな、と自分でも思う。じゃあどうする?フレンドリーに接するなんてできるか?いいや、どうしたって警戒感が先にでちまう。さぞや気色の悪い笑顔で出来の悪い演技をするはめになるんだ。
 そもそもこいつは助けた俺をどうするつもりだったんだ?ただ単に人助けの為なのか?確かにこいつは従者がどうとか言っていた。あの忌々しいビッチ王女と同じ様に。
 ポコリナは箱を沢山の器具が並んだ机の下に押し込むと再び俺をみる。目をそらす暇もなく紅い瞳にとらわれた。
 何とも不自然な美しさ、ギラギラと輝く紅い宝石、俺はそれが恐かった。
 「そんな顔するなよ、何もしやしないよ」
 目を細めて困ったように言う彼女を前に俺は大きく息を飲み、ゆっくりと吐いた。
 「なんで俺を助けた?」
 瞬きを数回、それからポコリナは鼻を鳴らした。
 「魔術師は人助けするのに理由を求められなきゃならないのか?あんたはあのまま沼の中で腐りたかったから迷惑だったと?」
 「そんな事言っちゃいない、俺はただ…」
 「あたしを信用できないんだろ?わかってるよ」
 「ああ、信用できねえ」
 ハッキリとそう言うとポコリナは小さく呻いた。
 「俺をこの糞溜めに放り込んだ女は俺を人殺しの見世物にした上で、意思も関係なく従者にするとかほざいた。お前は命を助けたかも知れないが、俺を従者にしたいと言った」
 「ペルンの奴等とは…」
 「違うんだろ?聞いたよ」
 今度は俺がポコリナの言葉を遮った。
 「だけどな、俺がどうしてそんな事を信用できる?考えてみろ、お前が知っている人を喰う生き物が起きたら枕元にいて、自分達はそいつらとは違うから信用してくれ、友人になってくれと言われて信用できるか?」
 「できないかも知れないが、あたしは…」
 ポコリナはいい淀み沈黙した。
 「だいたいおかしいだろ、人徳があり、優秀ならなんで従者とやらがいないんだよ」
 ポコリナがびくりと体を震わせ、目が伏せられる。それからゆっくりと頭が傾き、彼女の巨大なとんがり帽子が目元をかくした。
 まるで落ち込んだ様に見える彼女を前に俺は狼狽え、次の言葉が出てこなかった。
 「何にも知らないあんただから言える事だね、そんな奴がいたらとっくに従者になってもらってるよ」
 感情を抑えた声で彼女が話した理由は俺を更に落ち着かない気分にさせた。

 この家や木の周りを除き、この沼には荒野からやって来る瘴気なるものが満ちているらしい。瘴気は生き物の多くを殺してしまう性質を持っている。毒ガスみたいなものか?と言う俺の問いに彼女はだいぶ違うけど、認識としてはそれであっていると言った。
 その瘴気のせいで彼女には従者ができないのだという。
 それはそうだろうな、自殺志願者でもなけりゃそんなところに行きたくはない。
 「なら別のところにいけばいいじゃねーか」
 俺の言葉に彼女は弱々しく、いちいち俺を狼狽えさせる笑みを浮かべた。
 「あたしは瘴気の鎮守魔術師だよ、ここにいて、ここを守り、瘴気の謎を解き明かすのが仕事なんだ」
 「はん、魔術師てのは意思も通せない集団なのかよ、やだやだ」
 彼女は何も答えず、再び沈黙に苛まれる。
 余計な事を言った、その後悔が不信からくる正当化しようとする自分とぶつかり苛立ちばかりが募った。そしてその苛立ちは目の前の魔術師へと向いていく。
 しかし口から理不尽な呪詛が吐き出される前に意外な音が沈黙を破った。
 腹のそこから響く鳴き声、空腹の音。
 ずっと寝ていて食べてなどいなかったから仕方ないのかもしれない、だが恥ずかしさに自分の顔が熱くなるのがわかった。
 この上、飯の世話まで必要なのか俺は。その逃れようの無い事実は羞恥となって他の感情を追い出していく。
 ポコリナの口元が弧をえがく、俺を嘲笑しているのだとおもった。
 「お腹が減ったなら、いい傾向だね。臓物まで腐れが回っていない証拠だから」
 「臓物ってお前…」
 「それで」彼女はポンと膝を叩いて立ち上がった。「なんか食べるかい?」
 返事をするように腹が間抜けた鳴き声をあげる。
 その欲求に従ってしまえればどんなに楽だったか。俺は答えに窮して沈黙を貫くほかなかった。その沈黙は何処にも繋がらない、そんな事はわかってはいた。自分がどんな結末を望んでいるのか、それすらもわからない。ただ胸の内に残る魔術師への嫌悪感と恐怖が頷く事を許さなかったのだ、意地を張る、そう言ってもいい感情かもしれない。
 出口のない沈黙にポコリナは俯き、帽子が再び顔を隠す。口元が歯を噛み締める様に引き締められ、肩の震えに合わせてとんがり帽子の先が揺れる。
 いい加減にしろ、その自分への警告と彼女への八つ当たりの感情、そして袋小路に追い込まれた思考。
 だがそんな悶々とした感情はポコリナが再び顔をあげたときに崩れ去った。
 何かを決心したような強い意志を紅い瞳の奥に宿し、ハッキリとした口調で話を始めた。
 「あんた、他にいく宛は無いんだよね。」
 否定はできない、この世界にいく宛など1つもない。
 「で、あたし達があんたの命を救ったことには感謝して、恩を返したいと言ってくれた」
 「そりゃあ魔女だとわかってりゃ…」
 「魔女だろうがなかろうが救った事には変わらないだろ?まあそれはいいんだよ、別に恩を返してくれなんて言わないからさ、恩知らずなんてののしりゃしないよ」
 ふうと小馬鹿にしたような溜め息をつくと魔女は話を続けた。
 「あんたは沢山の問題を抱えている、怪我もそうだし胸の孔もそう、それにもっと身近な事、ここでの常識だって知らないみたいだ。そんなのじゃ食べていくことにもできないよ?どうするのさ、何処でどうやってお金を稼ぐの?そんなに魔術師を怖れる奴を雇ってくれるところなんてないよ」
 いちいちもっとも。俺の不安を抉るような彼女の言葉。
 こんなところに放り込まれた時点で俺は詰んでいた。ペルンの糞共を訴えて謝罪と賠償を要求するなんて事はできない、俺の言うことを聞いてくれる裁判所なんてここにはない。他の国ならどうか?俺は確かに憐れな被害者だろうけど、憐れみは貰えたところで生活の保証なんて無いだろう、他の奴等からすれば知ったこっちゃ無いからだ。
 「だからあんたに提案があるんだ」
 「従者なんてお断りだからな!」
 やはり邪悪な魔女だ、弱味に漬け込むような真似を。
 「まあ話くらい聞いてよ。あたしはあんたの治療を続けるし、当面の寝床と食事を提供することになる。それは命を助けた手前、最後まで面倒を見るよ」
 面倒を見る、その言葉が胸に突き刺さる。
 「問題はそのあと、怪我が治ってからさ。あんたが他にいく場所を見つけられるまで、あたしはあんたに寝床と食事を提供し、外に出ていけるだけの知識を教え、やっていけるだけの蓄えをやるよ」
 「…蓄え?」
 「お金をあげるって事だよ」
 「そんな事…」
 「みっともないって?そういう言葉は持ってる奴が言うもんだよ」
 魔女の言葉に黙らされる。屈辱的だが正論だ。
 「それにただじゃあ無いから恥ずかしがる事はないよ。勿論労働の対価としてそれらを提供するって事さ」
 「労働だと?」
 魔女の元で何をさせると言うのか、おぞましい想像しかわかなかった。
 「瘴気の満ちる沼や荒野を探索するのは本当に大変なんだよ、特に1人だとね。だからあんたにはあたしの助手をして欲しいんだ。あんたみたいに瘴気への耐性がある人間はほとんどいないんだよ、だから手伝ってくれるだけで本当に助かるし、色々な物を支払う価値はあるんだよ」
 「でも俺は従者なんて、とてもじゃないが」
 許容できない、その言葉だけで怖じ気がはしる。
 だがポコリナはかぶりをふった。
 「あんたが魔術師を信用できなくて、従者と言う言葉に拒否感を持っているのはわかっているよ。だから契約は結ばない、ただの金銭的な関係、それでいいよ」
 「…具体的に何をさせるんだ?」
 「簡単に言えば雑用かな、難しくはないよ。あたしに着いてきて、荷物をもったり、危険な相手がいれば一緒に戦ったりしてくれればいい」
 最後の言葉はとても雑用の範疇に入らないと思う。とは言え、俺は大いに彼女の提案に悩んだ。俺にとれる選択肢はほとんど無い、当面この魔女の庇護の下にいなくてはならないことは決定しているのだ。怪我が治ってからもどうしたらいいのかなんて全くわからない。どうやって日本に戻ればいい?検討もつかない。少なくともここの事を知らなければ、イトグチすら見えない。
 「頼むよ、あんたが抱えている問題を解決する努力もするよ?」
 ううむ、と俺は唸った。ポコリナの提案は俺にとってこの上ない提案だと言うことはわかる。唯一の問題は彼女が魔術師だと言う事なのだ。
 「残るも去るもあんたの自由にしてくれていいよ、気にくわなければすぐに辞めたっていい」
 そこまで言ってポコリナはすがるような目で俺を見た。胸をざわつかせる紅い瞳から逃れる為に俺は顔を反らす。
 「でもさ、もし、もしもあたしの事を信頼できたらあたしの仕事をずっと手伝って欲しいんだ」
 できるわけ無い、頭の中のその返答はしまい込んだままにした。
 ポコリナの提案は今俺の手にある選択肢の中で最良だ、精々利用させてもらえばいいんだ。
 「わかった」
 俺の返答に魔女の顔が輝く、見せた事の無い喜びに満ちた微笑みだった。
 「ほ、本当に?!」
 「ただし俺に変な術をかけて操ろうとしたり、従者にしようとしたらただじゃおかないからな!」
 「馬鹿だなーそんな簡単にできるなら、あんたを召喚した魔術師がとっくにやっているよ、あんたがここにいるのが無理だって証拠だよ!」
 信じるかどうかは別として、目の前の魔女には嘘をついている様子はなかった。まるで玩具を前にした犬みたいにはしゃいでいる。
 「とにかく宜しくな、あたしはポコリナ、瘴気の鎮守魔術師ポコリナ、ポコって呼んでもいいぞ!」
 ポコは右手を差し出して言った、何のへんてつもない小さめな女の子の手だった。でも握り返したら何かを奪われるのではないかと疑い、俺は手を出せなかった。
 少々傷つけられた様子で手を引っ込めたポコはそれでも思い直した様に笑みを取り戻した。
 「で、あんた名前は?」
 危うく口を滑らせかけ俺は舌を噛んだ。
 「名前は教えられない、お前の事を信用した訳じゃないからな」
 明らかに不満そうなポコだったが文句は言わなかった。
 「わかった…教えてもらえるくらい信用されるように頑張るよ。ただあたしはあんたをなんて呼べばいいんだ?一応関係を持つんだ、いつまでもあんたなんて不便だろう?」
 「好きに呼べばいい」
 突き放す様に言った。俺だってなんて呼ばれればいいのかなんてわからない。と言うか、お前でもあんたでもいいとおもった。
 が、ポコは腕組みしてしばらく考えるような素振りを見せてから頷いた。
 嫌な予感しかしなかった。
 「わかったよ、とりあえずホリィて呼ぶよ」
 「なんだそりゃ…」」
 想像以上にダサかった。
 「異邦人をもじった名前だよ、嫌なら早く名前を教えてくれよ」
 なんでもいいって言った手前、文句は言わなかった。
 「まあ好きにしろよ」
 「宜しく、ホリィ」
 こうして俺は放り込まれたこの世界で飼い犬みたいな名前をつけられ、魔女ポコリナの下で働くことになった。
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