イットーサイ

岡山工場(inpipo)

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イットーサイ

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 大地の先端は砦になっている。
 十年ほど前までは国境の峠越えとして人の行き来もあり、数件の宿と茶屋があった。
 都の戦火が地方にまで広がると侍がやってきてすべてを立ち退かせ、砦と関所を築いた。鐚銭も払わずに、奪い取った。宿の主は奉公人を逃がしてから夫婦で代官に直訴した。
 代官は兵には逆らえず、言われるまま、宿の一家全員の首を刎ねた。父母娘が一面を赤く染めあげた。その場所にある大岩は、今も『血塗れ岩』と呼ばれている。
 それも過去の話だ。今ではこのあたりでの戦はなくなった。停滞は腐敗を生む。砦に詰めている侍も砦もろとも、ゆっくりと朽ち始めている。
 それでもお天道様だけは、戦も兵も関係なしに、今日も遠い山の後ろから姿を現わし、大地を赤く染めている。
「雨が来るな」
 石彦の隣で同じように腹ばいになっている犬丸が呟くと、俺を見た。
「雲が赤いからか」
 聞くと犬丸は大きく頷いた。
「風も湿っている。かなり、降る」
 そう言うと、目を閉じ、大きく息を吸った。それに合わせたように、陽がずいっと昇る。背後に残されていた闇の粒が消えてゆく。
「あとで裏の沢の罠を補強しておこう。水が増す」
 犬丸は小さく首を横に振った。
「全部、外した方がいい」
「そんなに降るのか」
「かなり降る。とは思うが、どうかな」
 風が石彦の髪を湿らせる。ケジラミどもも目を覚ます。
 腹が減った石彦はお天道様に大きく口を開けた。のどの奥まで日の光を含み、一息に飲んだ。
 太陽喰い。犬丸に教わった術だ。これで空腹がまぎれるから不思議だ。その日によってお天道様の味が違う。今日はあまり美味しくない。
 味に違いがあるということは、お天道様はたくさんいて順番に昇るのかもしれない。
 石彦は犬丸に念を押した。
「ここしばらくは戦がない。だから奴らもだれている。いきなり戦が始まったりはしないよな」
「噂が正しければな。西の大きな城で戦があって狸が猿の子供を倒したそうだ。今は狸に逆らうものはいないらしい。狸が目を光らせている間は、もう戦はない」
「狸とか猿とか、どこの山の話だ。狸が天下様になって、人は狸にこき使われるのか」
「狸だろうと狐だろうと、力さえありゃあ誰も逆らわない」
「そんなものか」
「そんなもんさ。わしらも、な」
「俺たちも、力さえ、か」
 光が増す。山の稜線がチリチリと燃える。大地全体が動き出した。
「そろそろだ」
 犬丸の読み通り、砦から間の抜けた法螺貝が鳴り響いて来た。
「やつらの飯だ」
 犬丸が身を起こした。
「行くぞ、石彦、わしらも飯だ」
 砦の飯が出来れば、カスが出る。芋の毛、川魚の目玉、かたい茎。
 ご馳走だ。カスという名のご馳走だ。
 砦の裏に回った。戦がなくなった今、気だるさだけが満ちている。忍び込むのはたやすい。
 石彦は親の記憶がない。老婆が甲斐甲斐しく世話をしてくれた。それも流行り病に村が滅びるまでで、それからはたった一人、泥をすすって生きていた。目的もなく、死という概念もなく、ただ生きていた。
 そこで出ったのが犬丸と葛の兄妹だ。石彦を弟のように迎え入れると、生きることを教えてくれた。一日長く生きれば、嫌なことも嬉しいことも、もう一日分味わえる。二人と暮らしていると、それがとても楽しいことだと気づいた。
 そして気づけば、周囲に似たような幼子が幾人も集まっている。泣きながら、笑いながら、一日一日をみなで生きている。
 ただ、生きるためには喰わなくてはいけない。
 草の生えた石垣の崩れ、傾いたままの木戸。大人たちには狭い隙間でも、石彦たちには十分な通り道だ。
 一気に台所近くまで進んだ。飯の香りが腹を締めつけてくる。涎があふれる。
 カスは台所の裏手に捨てられている。
 目の前のご馳走の山。だが、簡単に取るわけにはいかない。
 カスにも持ち主がいる。
 どんなものにも持ち主はいる。歩いている地面にも、山で拾っている木の実にも、飲んでいる川の水にも、持ち主がいる。
 地面や木の実や川の水を勝手に使っているだけで、持ち主に見つかれば捕まる。
 牢屋で厳しく責められる。最後は人買いに売られる。
 だから、注意深く盗み取る。カスであっても。
 石彦は、カスの山を見つめた。あれの持ち主は、この砦だ。今は。
 午後になると下の村から権蔵が来て買ってゆく。すると権蔵が持ち主になる。金は、物の持ち主を変える力がある。
 石彦たちは盗むとあのカスの持ち主は石彦たちになる。
 だから、金の力と盗む力は同じだ。
 金はないが、盗む力はある。だから持ち主になれる。だから生きていける。
 誰が主人であろうとカスはカスだ。でも、カスはもともと食い物だ。腐らせて畑に撒かれるより、石彦たちに掻っ攫われて食われる方が本望に違いない。食い物としてこの世に生まれたんだから。
 だからきっと、カスは石彦たちに盗まれたがっているに違いない。いつもそう自分に言い聞かせて盗んでいる。
 石彦が腰を浮かせる、と、犬丸が裾を引いた。腰を戻した。
「なんだ」
 犬丸が耳をすませている。
「誰もいない」
 犬丸は首を振った。
「妙だ」
「そうか。人っ子一人見えない」
「嫌な感じだ」
 犬丸は勘が鋭い。
「何がどうなってるかわからんが」
 再び腰を浮かせようとした石彦に犬丸が鋭く言った。
「それでも行くか」
「ああ。みんながひもじがってる」
「どうしてもか」
「行く」
 犬丸は少し考えてから言った。
「なら、わしも行く」
 石彦は困った。犬丸は何年か前、お零れをかすめ取ろうと戦場《いくさば》に近づきすぎ、腿に矢傷を負った。それからは素早く走れなくなった。犬丸がついてくるということは、石彦の動きも鈍くなる。お互いそれくらいのことは承知の上だ。顔を寄せた。
「危険なんだろ。罠か」
「ああ。匂いがする」
「罠なら、お前はここから戻るべきだ。一人の方が身軽だ」
「いや、石彦だけを行かせることはできない」
「お前は逃げ切れない」
「石彦は肝心なところで判断を早まる。罠を抜け出すには知恵が足らない」
「そりゃあ犬丸の知恵があれば罠くらいは」
「そうだ。だから連れていけ。だが、連れて行くからにはわしの面倒を見ろ」
 石彦は笑った。
「お前を背負って行けってことか」
「わしを背負っても、わしより速い。わしには知恵がある」
「そうだな。お前の勘が当たればそうなる。お前の知恵があれば、逃げる道が見える、か」
 石彦は迷った。犬丸の勘と飯の香りが頭の中で揺れる。腹が鳴る。
「権蔵の罠か。俺たちがそれほど邪魔になったか」
「あいつ、峠の連中と手を組もうとしていたからな。こういう手を打ってくるということは、話がまとまったのだろうさ」
 石彦は決めた。
「よし、お前を背負っていく」
 犬丸が笑った。
「それでこそ石彦だ」
「お前を背負ってカスをつかんで、そのまま走って逃げる」
「お前は一度決めたら絶対やる、意地でもやる。わかっている。だからそこに知恵を加える。わしを背負ったら全力で走れ。カスをわしが手を伸ばして拾う。石彦は拾わなくてもいい。わしを振り落とさぬように、前へ前へ走ることだけ考えろ」
「そうする」
「ここから真っ直ぐカスへ突っ込み、そのまま突き抜けて、向こうの棚を飛び越えろ」
「あの向こうは崖だ」
「だからそっちは手薄のはずだ。他の逃げ筋はもう囲まれているとわしは見る」
 石彦はぞっとして周りを見た。人影はないが、そう言われると気味悪さが漂っているようにも見える。
「崖を飛ぶのか」
「そうだ」
「お前を背負ったままで、か」
「あたりまえだ。わしを捨てるな」
「飛べるかな」
「石彦なら飛べる。崖の下は土だ」
「柔らかな草も生えてるな。でも高いな」
「飛びさえすれば竹藪へ逃げ込める。密な竹だ、矢も追えまい」
「わかった。少々足を挫こうが、お前を背負って藪に逃げ込む」
 犬丸に背中を向けた。
「行くぞ」
「よし」
 犬丸が背に乗った。二人は走った。



 犬丸の妹、葛が、石彦の腫れた足首を濡れた布切れで冷やしてくれている。微かに草の煮汁が匂う。
 石彦たちの隠れ家だ。崖は思ったより高かった。それだけのことだ。
「石さん、もうじき煮えるよ」
 葛は鼻水をすすりながら、心配顔で石彦を見ている。丸い顔にあかぎれた頬が赤い。愛嬌がある。
「それにしてもひどい目にあったもんだなあ。兄《あに》さんも引っかき傷だらけだった」
 そこへ丁度、犬丸が入ってきた。顔の傷には血止めのための白っぽい土が塗られている。
「飛び降りた時に持っていた半分くらい落としたが、それでもまだ結構掴んでたぞ。わしらの勝ち戦だ」
 犬丸は手にしていた椀を石彦の前に置いた。香りだけで腹が鳴る。
「おお、味噌もあったのか」
「左手でつかんだ袋に豆味噌の干からびた塊があった。運がいい」
 石彦は痛む足を動かしてみる。捻っただけのようだ。骨が丈夫でよかった。
「こんな目にあって、運がいいもない」
「それもそうだな」
 笑いながら犬丸が座った。
「食え。わしもみなも、食った」
「葛の分は」
「ちゃんと取ってある」
「そうか」
 石彦は椀をがっついた。食えるときに腹いっぱい食う。そうしないと死ぬ。
「葛、石彦はもうええ。お前の分、食って来い」
「そうする」
 葛がいなくなってから、犬丸が腕を組んでうめくように呟いた。
「さて、どうするか、だな」
 石彦は汁をすすりながら心配の種を察した。
「権蔵のことだな」
「ああ」
「潜んでいたのは五人、までは見えた」
「ああ、権蔵はいなかったが、男だけで五人だ」
「あいつらの顔には覚えがある。太一んとこの連中だ。権蔵の手下になったのかな」
「そうだろうな」
 太一は石彦たちのような盗っ人集団だ。行き場のない子供達が集まって、なんとか生きていこうとしているのは違いがない。
 唯一違うのは、そして大きな違いとなるのは、俺や犬丸より太一の方が十近く年嵩だということだ。十も違うと腕力が違う。
「太一は前から、俺たちを手下にしたがってた。断った時の捨て台詞を覚えている。『ならば生かしておかねえ』だった。手に入らないなら壊す、そういう類だ」
「権蔵の手下にまでなってわしらを捕らえたいのよ。わしと石彦が役人に捕まれば、ここのみなは葛も含めて太一のものになる。こき使うのも勝手、売るのも勝手だ」
「それが狙いか」
「少なくとも狙いの一つだ」
 石彦は食い終わっていることも忘れて椀をつかんでいた。考えなくてはいけない。どうやら今までにない大変な危機に直面しているらしい。自分が牢に入るのくらいは何とでもしてみせる。だが仲間が売られたら一生悔やむことになる。何とかしなくてはいけない。それはわかる。そこから先はわからない。
「俺は犬丸ほど頭がよくない。何も思いつかない。どうしたらいい」
「今回の待ち伏せ、権蔵の指示だろう。太一め、わしらを取り逃がして、権蔵に笑い者にされておるじゃろうな。腑が煮えたぎっておるわな」
「怒っているか。ならばここまで攻めてくるかな」
「いずれは来る」
「俺たちは勝てるか」
 犬丸は即座に答える。
「勝てるわけがない。今の太一の後ろには権蔵がいるのだ」
 石彦はため息を吐くしかなかった。
「逃げるしかないのか、尻尾を巻いて」
「それも手だ。だが、お前はそれでいいのか」
 石彦は犬丸が言葉の裏で言いたいことには気づいていた。石彦はこの土地で生まれ、両親はこの土地に埋められている。ここを出ることは石彦にとって自分の全てを置いていくことになる。思い出も、温もりも、悲しみも、すべてを。
「覚悟は、ある」
「そうか。ならば、いつでも逃げられるということだ」
「いつ出る? 太一らに気取られたくはない」
「あわてるな。逃げる覚悟があるのなら、その前にできることをする余裕もあるということだ。それもダメならすぐに逃げればいい」
「できること? 俺らに何ができる?」
「そこは思案のしどころだ」
 そこへ慌てた様子で葛が戻ってきた。
「兄さ、変な雲が湧いておる。すぐ、こっちへ来る」
「雨か。犬丸のお前の読み通りだったな」
「読みが当たってもうれしくないな。面倒なだけだ。変な雲、か。どれ」
 すぐに昼だというのに薄暗くなってきている。昼だというのに夜になりそうだ。
 雲を見に行った犬丸が戻ってきた。しかめっ面になっている。
「ただの雨じゃすまない。みなを集めろ。崖の上の石棚の奥まで行く」



 石棚の下には天然の室があった。ここに竹と葦で小さな貯蔵庫を作ってある。石彦たち総勢十人は一番奥の石壁に寄り添っている。
 食べ物や道具の予備などを隠してある室は絶好の避難場所でもある。崖の下から見上げても気づきにくい位置、大きな岩と岩の挟まった石棚の下、しかも奥が高くなっているおかげで風雨からは岩に守られる。巨大な石の塊は上から崩れてくるものもなく下へ崩れて落ちることもない。
 ただ火が焚けない。煙が籠る。持ち込んだものだけで喰いしのぐしかない。頑張っても二日だろう。三日目には小さい者から体調を崩す。今は雨がすぐ止むことを祈るしかない。
 しかし、うとうとと寝ながら一日過ぎても雨は少しも弱まらない。祈りは天に届かない。いつものことだが。
 風雨の隙をついて様子を見に行った犬丸の話では、小川が荒れ狂っているようだ。穏やかだったせせらぎが今は流れの瘤を作り捻じ曲がり、低い土地はすべて濁り水に飲み込まれで渦を巻き泡立っているという。普段暮らしていた藪の中の隠れ家だけでなく、森の罠や川の仕掛けも全て一から作り直しだろう。
 戻ってから犬丸は何事か考え続けている。葛は犬丸にもたれてうとうとしている。
 脚は挫いたが、自分が幸せ者だったことに石彦は気づいている。今朝の汁が腹に入っていなかったらどうなっていただろうか。ここにいるみんなが飢えていたら、自分はどうしただろうか。思いつく醜い姿は、犬丸と掴んできたカスのお陰で幻となって消えた。今は、生きている。
 ふた月ほど前に太一のとこから逃げてきて仲間になった小さな兄弟が、不安げに石彦を見ている。太一と石彦を見比べているのかもしれない。石彦のもとに来て正しかったのか考えているのかもしれない。
 今は太一には権蔵という強い親分格ができた。砦の兵たちみたいに、うまいものを食っているに違いない。
 こちら側には食い物が少ないが、石彦も犬丸も幼いものに暴力は振るわない。
 どちらがいいのか。
 しかし新たな問題を抱えている。雨が止んだらすぐに、太一は邪魔な石彦たちに攻めかかってくるだろう。
 犬丸の考えていることは、その時にどう動いたらいいのか、だろう。まだ考え続けている。結論は出ていないようだ。もちろん石彦は何も思いつかない。何を考えればいいのかすらよくわからない。
 地響きがする。雨で緩んで山崩れがあったのだろう。峠の方か。生木の裂ける音も雨音の奥から聞こえてくる。
 頭の中で、山がそのまま下の村を押し流す様を描く。
 権蔵も太一も全部流されてしまえばいい。そんなことが起こるわけがないとはわかっているが、それしか解決法が浮かばない。
「俺は頭が悪い」



 三日目の朝には小雨になったので、みなで岩の下へ降りた。
 石彦は川へ、犬丸は藪へ、葛たちほかの子供は隠れ家造りに向かった。
 昨日までなかった大きな岩がそこここに転がり、川の流れが全く変わってしまっている。
 今もなお泥だらけの水が凶暴な勢いで流れている。魚は当分捕れそうもない。
 隠れ家は何とか修復できそうだった。笹や木切れを寄せ集めた小屋もどきではあったが、屋根さえあれば雨を気にせずに火が焚ける。
 犬丸たちはウサギ罠を見に行っているが、そっちも初めから作り直さなくてはだめだろうということくらいは頭が悪くても石彦にもわかる。
 魚をあきらめて手ぶらで隠れ家へ向かうと葛が待っていた。石彦を全身で呼んでいる。
「どうしよう。人を拾った」
 小屋もどきに入ると大人の服が壁にかかっていた。生地や刺繍が豪華に見えた。本物の金糸や銀糸を使っているのかもしれない。懐にかなりの余裕がなくては買えない服だ。泥にまみれていなければさらに立派に見えたことだろう。
 それを着ていたらしい老人が床で裸で寝かされている。右横に犬丸が複雑な顔をして座っている。
 老人の胸板を見ると呼吸はしているようだ。死んだら服は売り払う。
 服のそばに大小の二刀が横に並べられている。これは危険だ。起きた侍に刀を抜かれたらこちらはどうしようもないと思い、石彦は老人から離れた場所に立てかけ直した。犬丸が石彦の所作を見て小さく頷いた。
 犬丸の横で四つん這いになると侍に顔を寄せじっくりと観察した。
 髪は真っ白で、ほとんど残っていない。かなりの年寄りのはずだ。「はずだ」と思ったのは、髪とは対照的に、腕や肩から胸にかけての肉付きが老人とは思えなかったからだ。働き盛りの身体に老人の頭がついているといった不思議さがある。
「生きているが、死ぬのかな」
 枕元に座っていた犬丸が首を横に振った。
「頑丈な身体と心の臓だ。そのうちに目を開けるな」
「なんでこんな爺さんが落ちていた」
「血塗れ岩の近くで山崩れがあった。そこに倒れていた」
「岩かも崩れたのか」
「血塗れ岩はそのままだ。それがよかったことなのか残念なことなのかはわからないが」
「どちらでもいい。それより爺さんはどうなんだ」
「大きな怪我はないが、袴は半分脱げて汚れていた。おおかた腰から下くらいを鉄砲水に巻き込まれたんだろう」
「立派な服だが、これを着てこの嵐の中、峠道で何をしていたのかな」
「陣羽織、というのかな。こんな派手な服を着て何をしていたのかはわからん」
「砦の連中の仲間かな」
「そうなら探しに出てくる。砦は動いてない。関係ない旅のものだろう。今でもこの峠は近道だからな」
「で、どうする」
「見捨てるわけにも行くまい。死んだら捨てるが、まだ息はある」
 犬丸に何か考えがあるのだろうと思い、石彦は助けることに同意した。
「とりあえず乾いている布を集めて包もう」
 石彦は犬丸と二人で老人を生乾きの布で包み、筵を被せてみる。葛は湯を沸かしている。
「爺さんの服の方が乾いてきたな」
 干してある服を手に取りながら犬丸がつぶやいた。泥がこびりついているが表面は乾き始めている。織り目の細かい上等な布はそれほど水を吸っていなかったのだろう。石彦は服を手にしてため息交じりに呟いた。
「それにしても金のかかった服だな。金や銀が眩しいくらいだ」
 犬丸も横目で見てうなずく。
「だが、かなり擦れている。手入れはされていない。死んだ後で剥いでも思っているほどは高くは売れない」
 石彦は笑いを噛み殺した。犬丸は先の先を冷静に決めている。
「高そうなのは見た目だけか」
 犬丸は老人をちらりと見る。
「それにしてもしぶとい。若い頃からかなり鍛えてきている身体だ。頬に赤みが差し始めている」
「そうか。残念だな。服は高くないらしいが」
「服は、な。代わりにそこの刀はいい物だ」
 俺が立てかけた刀を犬丸が指差す。
「高い刀か」
「名刀の部類だ。拵えも凄い」
「二振りで二十両」
「いや、大だけで二百両を超える」
「まさか」
 石彦は老人の皺の深い顔をもう一度しげしげと見てみた。
「武芸者というやつかな」
「かもな。そいつらは派手な格好をして行脚して、挑んでくる者がいれば斬り倒すそうだ。刀も恐れ入るような名刀を腰に差していると聞く」
 老人は赤子のような無邪気な顔で眠っている。どこにも、人を斬り殺す技を修行しているような悪人には見えない。しかし身体は違う。一度に大勢の人間を斬り殺すことができる身体だ。
「元気になったら、俺たちを斬るかな」
「どうかな。武芸者は人の道を重んじると聞いた。こちらが無体なことをしなければ斬られることはないだろう。だが、ただの人殺しだったら斬られるな」
「みなを石室に隠すか」
「いや。子供が大勢いれば逆に斬り殺さないだろう。自分の世話もしばらくして欲しいだろうし、人質としてとることもできる」
「武芸者であってほしいものだな」
 犬丸が老人を見つめる。何かを思いついた目に見えた。



 その日の夜、老人の意識が戻った。
 葛が木の実の粉を溶いた汁を薄めに作り、老人に飲ませる。
 こぼしながらも飲み干すと、老人は一息つき、かすれた声で誰へともなく尋ねた。
「ここは、江戸か」
 葛が汁を飲ませながら答えた。
「違う」
「江戸へ行きたい」
「まだ無理」
 老人は自分の身体を動かそうとして顔をしかめた。
「そのようだな」
 二人のやり取りを見ていた犬丸が口を挟んだ。
「わしは犬丸。こっちがここの長、石彦。これはわしの妹の葛。あとは小さいのが七人いる。見たところ、爺さんは武芸者か」
「そうだ」
「名は」
「そうか、まだ名乗ってなかったな。失礼した」
 小さく笑ってから、起こした半身がすっと伸びる。突然、全身が大きくなったような気がした。
「イットーサイだ」
「わしらは字が書けん。読めん。わからん。イットーサイというのが人の名前なのか。長いな」
 老人は眉をひそめ、それから笑みを浮かべた。
「そうか、わからないか。イットーサイとは刀が一振りあれば誰にも負けない天下一という意味だ」
「刀一振りで天下一に強い男がイットーサイか。わかった。確かに強そうだ」
「鉄砲水にはかなわなかったがな」
 老人のお道化た自虐に、その場にいた全員が笑う。老人も笑顔だけ見ていればただの好々爺だ。
 それから老人はみんなから「イットーサイ」と呼ばれるようになった。
 いつでもにこやかで、どの子も老人を恐れない。みなとすぐに打ち解けた。
 身体は元が鍛えてあったからか、みるみる回復していく。
 身体が動くようになると落ちていた棒っ切れを手にして振るようになった。風を切る鋭い音が響いた。
 刀は手入れをしているだけで振ることはなかった。
「なあ、犬丸、爺さんは本当に強いのか」
 石彦の言葉に悪戯っぽく笑うと、犬丸はイットーサイに声をかけた。
「どうだろう。そろそろ刀も振れるのではないか。わしらは天下一の腕が見たい」
 不躾な問い方だなと石彦は心配したが、イットーサイはいつもの笑顔で胸を張った。
「そうだな。では、見せてやろう。」
 イットーサイは、修復した隠れ家の前にみなを集めた。
「抜き打ちというのを見せてやる。犬丸、これを持て」
 言われるままに、犬丸は、渡された竹ざおを手にする。
「どうししたらいい」
「それで突いて来い」
 犬丸は、仁王立ちしているイットーサイを見て、それから竹ざおの先を見る。
「どこをついたらいい」
「どこでもいい。わからなければ胸の真ん中でいいぞ」
「そうか」
 犬丸は頷くと同時に、胸ではなく右目に向かって素早く突きを入れた。
 乾いた音が響く。犬丸は引っ込めた竹ざおの先を見ている。
「へえ」
 面白そうにつぶやく。石彦には何が起こったのかわからない。犬丸の竹ざおが、騙し討ちのようにイットーサイの顔面に突き刺さったと見えて、息を呑んでいた。
 イットーサイは平然と立っている。手にはいつ抜いたのか、白刃を下げている。
 それからやっと犬丸の持っている竹ざおが、さっきより短くなっているのに気がつく。
 地面を探すと、イットーサイと犬丸のちょうど中間あたりに、竹ざおの半分から先が落ちている。
「斬り落としたのか。見えなかった」
 素直に驚く石彦を見て、イットーサイは得意げな顔になった。
「見えなかったのもしかたあるまい、天下一だからな」
 突然、石彦の喉を、叫び声が突いて出た。自身でも訳がわからぬままに、石彦は叫ぶ。叫び続ける。
 凄いものを見た。生まれて一番の驚きを見た。だから叫ばずにはいられなかった。
 するとつられるようにしてみなも叫び始めた。理由もわからずに。周りの勢いに飲まれ、ただ叫んでいるやつもいる。イットーサイを囲むようにして、跳ねながら、叫び続ける。イットーサイは円の中心でさらに得意げな顔になった
 ところが次の瞬間。
「すまぬ」
 イットーサイは俺たちを押しのけるように走り出すと、竹薮の奥へ向かった。
「なんだ」
 追いかけようとした石彦を犬丸が止める。犬丸は葛を見ると、藪を顎で指す。
 葛はうなずくと、イットーサイを追う。
「葛。なんだ。どうした」
「これでいい」
「どういうことだ、犬丸」
「なんでもない」
「俺には言えない事か」
 犬丸は、周りを見る。みんなはイットーサイの切り落とした竹の先をおっかなびっくりつついたり、まだ叫び続けていたりしている。
「今は言えない」
「そうか。わかった」
 犬丸が「だめだ」という時にはそれなりの理由がある。石彦の頭の中で思いつくすべての理由より確かなものが。それを信じる。信じるから従う。そうして石彦は生き抜いてきた。
 しばらくすると、藪からイットーサイが出てきた。みながまた周りに集まって口々に褒め称える。その姿を、犬丸は石彦に見せたことがない神妙な表情で見ていた。葛はしばらく戻らなかった。



 雨の後はきまって、キノコが豊作になる。しかも土が軟らかくなったので土掘りも楽になり、山の芋が存分に取れた。
 鍋にした。キノコ鍋でさらに芋鍋だ。砦から黙って頂いてきていた大鍋が働く。岩場の湧き水を沸かした。
 イットーサイは帯から下げていた縄を切ってよこした。犬丸が首をかしげた。
「縄。これをどうにかするのか」
「兵糧丸を練りこんである。これを鍋に加えるが良い。煮込め」
 兵糧丸には様々な種類があることは石彦も知っている。戦いをかける兵が持ち歩いている非常食だ。戦場で死体を漁ればたくさん集まる。
 イットーサイのよこしたのは、甘皮にたっぷりと味噌と滋養効果のある薬草をしみこませたもののようだ。それを縄に撚って持ち歩いているのだろう。
 縄を煮込むと、鍋の味は一変した。腹に直撃する匂いが森へ流れ、みな、受け持った作業も忘れ、鍋の周りに集まってくることとなった。
 イットーサイは兵糧丸や武人の心得などを得意げに説いて聞かせ始める。みなの目が輝いている。
 石彦は頃合いを見て、犬丸に合図し、小屋の裏へ回る。ついてきた犬丸は、わかっているというようにうなずく。
「さっきの話の続きだ」
「ああ」
「藪の中でイットーサイは何をしていたんだ。知っているのだろ」
「ああ」
「言えよ」
 犬丸は、笑い声の漏れる小屋に目をやりながら答えた。
「クソだ」
 予想していなかった返答に、俺は反応出来ずに突っ立っている。犬丸は、そんな俺を見て笑いながら続ける。
「葛が言っていた。見つけた時もクソをもらしていた。というより、クソをしているところを鉄砲水で流されたようだ。名人も、クソをしている最中だと不覚をとるらしいな」
 俺は言葉が見つからない。
「身体が動くようになってからも、力を入れるたびにもらしていた。いつも葛がそれを始末してやっている」
 あの剣術のすごさと、クソたれというこの二つのことを一つに重ねられずに石彦の頭は混乱した。
「そんなに、たらすのか」
「硬くて丸いクソらしい。ウサギのクソだ。だが大きい。かなり臭い。褌から溢れ出す。ぽろぽろとあたり一面に撒き散らす」
 石彦は長い息を吐いた。
「クソたれ武芸者か。みなはがっかりするかな」
 犬丸は俺を見る。
「あいつは使える。わしは、あいつにしばらく、ここにいてもらうよう気を配る」
「クソ撒きでもか」
「あの刀さばきは名人だ」
「でも、その度にクソを撒く」
「そうだ。クソを撒こうが、天下一の名人だ」
「クソ撒きも天下一か」
「だが、あいつがいれば太一はこっちに手を出せない」
「ああ。そういうことか」
 犬丸の考えがわかってくる。石彦が気づいたことを察して、犬丸は頷く。
「命を助けたんだからな。その命の分だけこっちも守ってもらってよいはずだ」
 頷き返す。
「そうだな、事情を話せば力になってくれるだろう。悪い人じゃなさそうだ」
「そう簡単ともいかんかもしれんかな」
「ついでに太一も権蔵も斬ってくれればいいのに」
 犬丸の顔がさっと変わる。足元を見つめ、低い声で言う。
「イットーサイは名人だ。それをやつらにわからせてやるだけでいい。それだけでいい」
 石彦は、犬丸が何を気にしたのかわからなかった。



 腹いっぱいの鍋に、みなはすでに寝ている。
 静かな部屋で、犬丸はイットーサイに話を切り出してみる。イットーサイは目を閉じ、腕を組む。しばらくして、目を開く。
「お主らの話はわかった。その暴れん者どもが来たら、追い払ってやろう」
「そうか。助かる」
 聞いていた石彦が手を叩いて喜ぶのをイットーサイが手を上げて止める。
「命の恩人に礼はしよう。だが、こちらも一つだけ、条件をつけたい」
 犬丸は囲炉裏の灰を棒切れで突付きながら聞き返す。
「条件って何だ」
 灰から火の粉が舞い上がり、イットーサイの顔を照らす。
「近々、江戸へ行く」
「そう言ってたな」
「弟子がおる。会わねばならぬ」
「そうか。連れてってやる」
 話を勝手に進める犬丸を石彦は心配になって止めた。
「安請け合いにするな。誰があんな遠くまでついていくんだ」
「わしだ」
「でも、石丸は足が」
 犬丸が石彦を見る。この目を知っている。
 今まで石彦は、犬丸のこの目を信じ、助けられた。だから、これからも信じる。当たり前の話だ。犬丸の足の具合は犬丸が一番よくわかっているはずだ。
「そうか。わかった」
 石彦が頷いたのを見て、イットーサイは満面の笑みを浮かべる。
「話はまとまったな。よしよし」
 イットーサイは刀にすがって立ち上がると外へ出て行く。また、クソだろうか。
 姿が消えてから、石彦は犬丸に確認した。
「どういうつもりだ。本音を聞かせてほしい」
「すぐに太一がここに攻めて来る」
 犬丸は落ち着いている。
「そうなのか。大変なことじゃないか」
「大変なことだ」
「すぐっていつだ」
「明日には来る。今朝、様子見に出していた弟が帰ってきた」
 太一のところから逃げてきた兄弟の伝手で向こうの情報をいろいろと知らせてくれる者がいる。犬丸は、時折、兄弟に山を下らせ、食い物をちらつかせてそいつから情報を集めている。
「どうやら太一だけじゃない。権蔵のとこの助っ人がついてやってくる。そいつらは侍崩れだ。剣を使う」
「侍が来るのか。俺らを斬る気だな」
「そうだ。少なくてもわしと石彦は斬るつもりだ。太一は助っ人をあてがわれて気が大きくなっているらしい。わしらを舐めきっている。正面から道を真っ直ぐ登ってくるだろう」
「よし。物見を立てる」
「やつらが動いたら、こっちは待ち伏せをする。崖の下の原っぱがいい。この間の雨で岩や木が流れてきたから潜みやすい」
「イットーサイを連れてだな」
「そうだ」
 そこへ本人が戻ってきた。
「名を呼ばれた気がしたぞ」
 クソは撒くが耳はいいようだ。
 犬丸は今の「太一待ち伏せの策」を伝える。イットーサイはじっと聞いていた。
「お主はそ奴らの命を奪うことまではしたくないということだな。では、二度とあばれないようにしてやろう」
「任せる」
「わかった。そうと決まれば、一眠りだ」
 横になるとイットーサイはあっという間に寝てしまう。これも天下一の名人技だ。
 石彦も寝る準備に入ったが、犬丸は何かを考えながら、ずっと灰を突いている。



 物見から連絡が来た。予想より早い。日の出前だ。朝一番に寝込みを襲うつもりだったのだろう。
 石彦は木の棒を手にする。犬丸はイットーサイに肩を貸して待っている。その横に葛がいる。
「お前も行くのか」
 葛が頷く。包みを抱えている。それが何か確かめようとすると、犬丸は間に入ってさえぎって言う。
「さあ、太一のほえ面を見に行こうぜ」
 イットーサイは襷もせず、いつもの姿で犬丸に支えられながら歩いてゆく。犬丸の足が気になる。俺も反対側からイットーサイを支えてやる。
「石彦の足はもうすっかりいいようだな」
「ああ。こっちの心配はいい。自分の心配をしろ」
「別に痛むわけじゃない。思うがままには動かない、というだけだ。大丈夫」
 村から山へ向かう道は下の原っぱの中央を通る。先日の山崩れが運んできた岩や流木が転がっている。そこに陣を敷く。
 先頭が石彦。後ろに犬丸とイットーサイ。その後ろに葛。ほかのみなは遠くから様子を窺っている。
 まだ日は昇らない。だが、東の空はすでに明るく原っぱを照らしはじめている。原っぱの向こうの果て、道の先に、影法師が幾つか現れる。
「一つ、二つ」
 目のきく犬丸が数える。
「七つ、八つ」
 まだいる。人数を見ても、太一は本気で俺たちを殺す気だとわかる。
「十人だ」
 石彦はイットーサイを見る。これから起こることなど感じさせずに、落ち着いてただそこに立っている。立って、近づいてくる影をじっと見下している。その姿を見ると石彦も心が落ち着く。
 向こうもこちらに気づいた。顔が何とか判別つくくらいの間まで進んできて、そこで足を止める。
「石彦か」
 声がかかる。大声で応える。
「そうだ。その声は太一か」
「おうよ」
 先頭の太一らしい人影が手にしたものを頭上に掲げる。微かな明かりを受けて鈍色にきらめく。いつもの木刀ではなく、真剣らしい。
「似合わぬものを持っているな。権蔵からか」
「お前らでは一生持てぬわ。いやいや、持てなかった、という方がいいか」
 太一は、勝負はすでについた、とでも言うように、さらに間を詰めて大股で近づいてくる。手にした刀を見せびらかす。
「ほれ、拝め、本物の刀だ。今日はこれでお前の首を落としてやる」
「慣れんものを振り回しても自分が怪我するのが落ちだ」
「うるせい」
 太一は刀を振りかぶって一歩ずつ近づいてきた。
「この盗人やろうが。おとなしくお縄につくか」
「お前も盗人だろう」
「今は違う。盗人を叩き斬る役だ。犬丸もそこにいるだろうからな。邪魔者二人、まとめて斬ってやる。今日はめでたい日だ」
 わめいている太一の後ろから、声がかかる。
「どけ。お前のダンビラはしまっておけ」
 身体の大きな男が二人、太一を押しのけるようにして現れる。その男どもに俺は声をかける。
「権蔵のとこのもんか」
 細身の方が一歩前に出てきた。
「そうだ。頼まれたのでな」
「金で人斬りか」
「食うためだ。それにお前ら盗人をこれ以上放っておけない」
 後ろの太い男が道端へ唾を吐き捨てた。
「そういうことだ。ガキを斬っても褒められはせんが、盗人は打ち首だ。諦めろ」
 すると、俺の後ろから声が響く。
「お前らの相手はわしがしよう」
 イットーサイが俺の前に出てくる。細身と太いのが目配せをしあう。予想していなかった事態にどう対応しようかと考えているのだろう。
「なんだ、お前は。邪魔だてをするのか」
「恩義があってな。わしの名は」
 イットーサイが名乗る。男たちが一斉に笑う。
「嘘を言うな。こんな山奥にいるわけがないだろ」
 イットーサイは破顔一笑した。
「そうおもうだろうな。では、確かめてみるがよい」
 相手は即座に刀を抜く。白い光が筋となって輝く。イットーサイは目を細めてゆっくりと抜く。
「参るがよい」
 イットーサイの声に弾かれたように、男たちは同時に斬りかかってきた。
 イットーサイはすうっと半身になる。男たちとイットーサイの身体がぶつかる、一瞬前。何かが走った。
 男たちの手から刀が落ちる。二人同時に膝から崩れ落ちると、大声で叫び声をあげた。男たちの手首から先がなくなっていた。
 落ちた刀は二本。
 見ると、まだどちらも手首がつかんでいる。刀を掴んだままの両手首が二組、転がっている。
 太一たちは後退り始める。
「手当が早ければ助かるやもしれぬ。生き恥をさらしたくないのなら介錯をいたそう」
 イットーサイの、静かなのに力がこもった声が、地面に響く。
 太った男が意味不明の言葉を叫びながら立ち上がると、来た方向へ向けて逃げ出した。太一たちもつられて浮き足立つ。
「太一とやら、次はお前か。ここの子供たちに害する輩は、すべて同じ目に合うぞ」
 一喝。
 まず太一の手下たちの心が崩れ去った。奇声を上げながら太った男の背中を追った。
 太一は意地で踏みとどまろうとしたようにも見えたが、泣き顔に変わり、叫びながら仲間の背中を追った。
 坂を駆け下るその後姿が闇に消えてから、石彦は我に返る。細身の男はまだそこにいる。うずくまったまま動かない。
 やがて顔を上げると泣きながらイットーサイに言った。
「剣でしか生きられない身体だ。終わりにして欲しい」
「承知」
 言い終えるや否や、また銀色の筋が煌めいた。男の首がポトリと落ち、血を吹き上げた。首を失った男の身体は静かに前のめりに倒れ、何度か痙攣をしてから動かなくなった。
 石彦は、イットーサイを見る。始まりのときと同じく、そこにただ立っているだけだ。
 全てが夢の中の出来事のようだった。
「これでしばらく来ないだろう」
 背後で犬丸はそう呟くと、軽く石彦の肩を叩いた。
「さあ、戻ろう」
 うなずき、犬丸と並んで、来た道へ戻る。しかし、気が付くとイットーサイはいない。
「どこだ。岩の向こうか」
「葛がいるからあとはいい」
 犬丸に引っ張られて隠れ家へ向かう。ちらりと振り返ると、イットーサイは葛に手を引かれ、倒木の影にしゃがみこんでいる。
 圧倒的に勝ったはずなのに、イットーサイの背中はすすり泣いている。



 荷車を用意する。捨てられていたものを山の上まで担ぎ上げ、俺たちの手で修理する。難しいが、出来ないことはない。
 輪の軸が左右でずれているが、丈夫なものが出来たと犬丸は満足そうに笑った。
「これに乗せて、江戸へ行く」
「四人で牽くか」
「下まで俺が牽き、そこで人を雇う。爺さんは小金を持っている」
「俺も行く」
「だめだ。ここが留守になる」
 犬丸は、二人のやり取りを心配そうに見ているみなの顔を見渡し、続けた。
「イットーサイが留守とわかれば、太一が来るかもしれん。ここにおらねばならん」
 犬丸の言うことはいつも正しい。兄弟の筋から入る噂では、この間の太一たちが逃げ帰ったあと、権蔵は不気味なほどの沈黙を続けているという。これは怪しい。助っ人をさらに集めているとしか思えない。火に油を注いだのかもしれない。
 石彦はしぶしぶながら頷く。イットーサイがいなければ数にまかせて攻めてきても不思議ではない。
「やつらが来たら、すぐさまみなを連れて逃げる。俺にはそれしか手がない」
 すると、イットーサイが言う。
「江戸へ出る前に、わしは権蔵とか言うやつの屋敷に挨拶に行くつもりだ」
 犬丸が横で小さく笑っている。イットーサイとの間で、石彦の知らない間に、話が出来上がっているようだ。
「でも、逃げる準備はしておく」
 イットーサイは、胸を張る。
「釘を刺しておくだけだ。ここの者に少しでも危害を加えるならば、我が一門数千が討って出て、権蔵と太一を地の果てまで追いかけ、膾に刻むぞ、とな」
「数千か。たいしたものだな」
「わしが声かけすれば、江戸からもっと来るかもしれん」
「すでに戦だな」
「そうだ。権蔵も我が身が大事であろう。いやそれ以上に、この先の宿場の代官とこの地の領主が焦る。権蔵を野放しにすることはなくなる」
 石彦は無い知恵を絞って考えながら訪ねた。
「わしらはこのままここで砦のカスをかすめながら生きていけるのだな」
 イットーサイは首を横に振った。
「そんな汚れ働きもせずによくなるはずだ。お主の身の上は、犬丸から聞いておる」
 犬丸を見る。犬丸は、静かに笑みを含みながら、俺に言う。
「砦は無くなるそうだ」
「カスもなくなるのか。それじゃあ、食うものが」
「石彦よ、お主、もともとはこの峠で宿をしていた家のものと聞いたぞ」
 犬丸を見た。石彦の生まれの手掛かりとなる守り袋に書かれた親の名前、知っているのは犬丸と葛だけだ。
 イットーサイが石彦に膝を詰める。
「よく聞け。猿の一族が狸に滅ぼされた話は聞いておるだろう?」
「犬丸から聞いている」
「わしは狸と懇意にしておる。砦は猿の仲間だったから、取り壊しが決まった。関所は残すようだが、ここには元のように宿屋や茶屋が立つとも聞いた」
「それは、宿屋や茶屋のカスを食えるという話か」
 犬丸が大笑いをした。石彦は訳が分からない。イットーサイがもらい笑いをしながら口を開いた。
「わしが代官に口を利く。岩を赤く染めた猿の仲間の代官はもういない。わしの仲間の狸の代官が来る。わしに任せて、お主はここでみなを守っておれ。なあに、そう日が経つ話ではない」」
「そうだぞ、石彦。お前は安心して待っておればよい」
 石彦は頷いた。このことに関するすべては犬丸の判断に任せることにする。それが一番いい。たとえ、合点がいかなくても、だ。
 準備は進み、荷車に必要なものがくくりつけられる。最後に、イットーサイの座る場所が、干し草を編んで作られる。
「これで完成だな。途中までは俺も送ろう」
 そう言って石彦は荷車の後部を受け持つ。となりに葛。荷車の前は犬丸。坂道をゆっくりと進む。石丸の足取りは石彦の心配したほどではない。イットーサイと仲良くなったみんなが、別れを惜しんで、いつまでも手を振っている。振り返りそれを見ているイットーサイの目も、涙ぐんでいる。
 石彦は、心のどこかでもやもやしたものを抱えながら、イットーサイを横目で見る。次に、目を犬丸に移す。しかし、ただ静かに笑っているだけだ。



 犬丸たちを見送って四回目の日が昇る。
 石彦をはじめとして、みな、犬丸の帰りを待つ。不安な顔は隠せないが、それでも待つしかない。
 朝早いというのに、遠くで蹄の音がした。石彦はみなを石室へ隠し、一人、道に出た。膝が震えている。
 遠くに姿が見える。近づいてくるのは馬が二頭に侍が二人。いや、後ろの侍の影にもう一人。
 侍は石彦に気づくと馬を停めた。
「石彦とはその方のことか」
「そうだ」
 すると侍が下馬した。石彦に対して下馬するなど、考えられないことだ。本来なら、顔を直視することも無礼になる。侍は二人で顔を見合わせると、人相風体について確認し合った。
「この村の長、石彦に相違ないとみた」
 とんでもない言葉を耳にしたと思ったが、イットーサイか犬丸の知恵だろうと察し、神妙に頷いた。さらに膝が震える。
「まずはこの娘御を引き渡す。しかと引き取るよう」
 後ろの侍の横で居心地が悪そうにしていた葛が弾けたように飛んできて石彦にしがみつく。
 侍は道端の流木に馬を繋ぐと、話を続けた。
「かような差配があることをイトーイットーサイ殿に感謝するように」
 悪い石彦の頭ではどういうことになっているのかわからなかった。
 犬丸と葛が連れ帰されたのならわかる。邪魔者として追い返されたのだ。
 犬丸だけが連れ帰されたのならわかる。イットーサイが江戸へ送られ、世話役の葛も付いて行ったということだ。
 誰も来ないならわかる。全員が江戸に行ったということだ。
 なぜ、葛だけなのだろう。
 葛は、呆けた顔で、俺にしがみついたまま動かない。
「差配、とは」
 侍は自分たちが新任代官のもとで働く役人だと名乗ってから、咳払いをしてあらましを話し始めた。
 難しい話はよくわからなかった。ただ、予想していた以上の大事《おおごと》になったことだけはわかった。
 権蔵と太一は、犬丸やイットーサイに復讐を企て、剣では勝てぬと踏むと、大金を使い、あぶれ者を集め、弓矢から種子島まで揃えて待ち構えていたらしい。
 そこへ、犬丸たちが現れたのだから、まさに、飛んで火にいる夏の虫、だったはずだが、そうはならなかった。
 背後にはイットーサイだけではなく、新任代官が配下の取り方を引き連れて現れたからだ。
「しかし用心棒の中の数人が、イットーサイ殿の名を聞くと、「お手合わせ所望」などと雑言を吐き、斬りかかった。さすがはイトーイットーサイ殿、天下一剣豪、ご指南役の師であらせられるお方」
 イットーサイは穏やかな面持ちで刀を抜くと、数歩歩いて全員を斬り倒したという。
 権蔵、太一を含めてならず者どもは、天下一の鮮やかな剣筋を見ると意気消沈し、て移行する気力を失ったらしい。徒党を組んで天下に仇なす不埒者として捕縛され、今は牢にいる。
「なお、峠の砦は取り壊しがきまっておる。そこには宿屋と茶屋を数軒建てる。そのうちの宿屋一軒は、村の長のお主のものとなる。これはイトーイットーサイ殿の計らいである。謹んでお受けするように」
「宿屋を。もらったって、どうすりゃ」
「その点もイトーイットーサイ殿はご配慮下されておられる。この名に覚えはあるか」
 石彦の知らない名前を告げられた。首を横に振った。
「そうか。過日、砦との騒動で打ち首となり、宿屋を取り壊されたお主の生家で下働きをしておった若夫婦だ。下の宿場で宿屋を営んでおるがわかったのだ」
 血塗れ岩で逃してもらい命拾いした奉公人夫婦が下の村へ逃げのび、宿屋をしている。助けてくれた石彦の父と母の菩提を今でも欠かさず拝んでいる。ほとぼりが冷めたころに石彦を匿ってくれていた老婆から引き取ろうとしたところ、村がまるごと病で滅びたと聞いて絶望した。石彦のことをあきらめていたがイットーサイから仔細を聞いた代官が石彦を知るものの消息について触れを出すと、即日名乗り出た。そういうことがあったと役人から聞かされた。
 石彦は、裏で犬丸がイットーサイに口添えをしたと察した。
 役人は次に、葛を指差す。
「こちらの娘子は、イトーイットーサイ殿の命により、こちらまでお送り申した。ここで引き渡すものである」
「犬丸は」
「犬丸とは」
「イットーサイと一緒にいたはずの俺の仲間だ」
「そのような者のことは、聞いておらぬな」
 犬丸の顔かたちを説明するが、役人は顔を見合わせるばかりで、知らぬの一点張りだった。なおも問い質そうとした石彦の袖を葛が引いた。何かあるらしい。葛に聞けばわかるようだ。
 用を済ませると役人は馬を駆って山を下って行く。一刻も早くここから立ち去りたそうな速さで。石彦は、自分の身体がいささか臭かったからかもしれないと反省した。
 取り残されたように呆けている葛に聞く。
「犬丸はどうしたのだ」
 俺を見ると、葛は答える。
「兄さんは、一緒に江戸へ行くと、言うた」
「イットーサイは承知したのか」
 葛は頷く。
「そうか」
 犬丸がそう言ったのなら、そうなのだ。イットーサイがそれを認めたのだから石彦が深く考えることではない。
 石彦は葛を託されたのだ。葛の手を引く。
「帰ろう」
「兄さんは、偉くなって帰ってくるかな」
「そうだな」
「みなで、良い宿屋にしてくれと言っておった」
「それは無茶だ。宿とかどうしていいものかわからん」
「石さんを知っとる大人が来てくれる」
「俺は知らん。信用できるのか」
「石さんのことを心配しておったよ。今日の午後にもすぐに支度をして石さんに会いに来ると言っておった。血塗れ岩にも線香をあげると」
「急にいろいろ言われても、わからん。俺はどうしたらいい」
「石さんにこう伝えてくれと、兄さんが。石さんは余分なことを考えずに、にこやかに、宿屋のご夫婦の言うとおりにすればよい、と。葛に子ができたら、同じように、にこやかに育ててほしいと」
 石彦の頭は混乱して、今から何をどうしてよいのかわからなかったが、犬丸の言うことを聞いておけば間違いないことだけは分かっている。
「石さんが宿屋を持てば、みなも飢えずにすむ。一緒に働けばいい」
「そうだな」
 石彦は、自分の進む先が見えてきたことと、葛やみなが飢えずにすむこと、犬丸が元気にイットーサイと江戸に向かったことにあらためてほっとした。
 ただ、葛の顔が冴えないことが気がかりだった。
「何を隠している」
 しばらく悩んでから、葛は心配そうに石彦を見た。
「イットーサイ様は言った。江戸でお弟子に斬られるかもしれない」
 石彦の足が止まる。泣きそうになっている葛の顔を覗き込む。
「そう言ったのか」
「言った。お弟子はイットーサイ様のこと、お嫌いらしい。もしお弟子が斬ると言ってきたならその場で斬られてやるつもりだと」
「そうか」
 葛の手を強く握る。葛を励ましたいのか、自分を元気付けたいのか。葛が握り返してくる。
「お弟子が斬らなかったなら、イットーサイも犬丸も、ここに帰ってくるさ。待とう。みなで」
「そ、そうかな。帰ってくるのかな」
「来るさ」
 葛は小さく頷く。石彦の顔を見ると、力強い声で言う。
「イットーサイ様は誰にも負けない。兄さんも強くなる。石さんも、みなを守ってくれる。だから葛の産む子も、きっと強くなる」
 その時、石彦は気づいた。なぜ、イットーサイが葛を返してきたのか。なぜ、犬丸がそれを望んだのか。
 空を見上げる。天中が眩しい。
「昨日はうまそうな芋がたくさん取れた。昼は、芋鍋だ。もう煮えているかもしれない。早くしないとつまみ食いされる」
「ああ、芋、食べたい。早く帰ろう」
 腹が鳴る。空が揺れる。
 青く広がる天高く、二つの哀しい背中がはっきりと浮かび上がる。それはやがて、揺ら揺らと霞み、一瞬、煌くと、消える。
「俺が泣いているのは、悲しいからじゃないんだぞ」
 葛は、すべてをわかった顔で頷き、石彦の手を握り返す。熱い血潮が伝わってくる。



 峠の関所は狸のひ孫の時代になくなり、平凡な峠の宿場となった。その中にあって初代の主人と嫁ごと娘の奇妙な話が残る大きな宿屋と、その近くにある血塗れ岩は、幕末まで名所となっていた。
 だがそれも、明治維新後に宿場ごと撤去され、今は小さな石碑が残るだけである。主要道から外れた峠は訪れる人もなくなり、血塗れ岩もそのおどろおどろしい名前を連想させないありふれた苔むした岩となり、今では森の中に隠れ、よほどの好き者でないと見つけることはできないという。

[了]
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