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🎐 第四話『 泥 』🎐 新版 (2020年改訂版) ※新版は、公開中までで一時更新停止中です

第四話『 泥 』- 01 / 02

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 しんは、声を潜めながら言った。
「そろそろ……来ると思う……」
 その時。
 時刻は、深夜二時に至ろうとしていた。
 
 
― 第四話『泥』―
 

 慎の部屋の、とある一面の壁を背もたれにしている綺刀あやとは、慎のその一言を受け、姿勢はそのままながら、しっかりと気を引き締めた。 
 そんな綺刀の隣で、慎は頭から布団を被り、顔だけを出すようにし、綺刀にぴったりとくっついていた。
 また、その時。
 そうしてくっついていると、綺刀に暑いと文句を言われると思ってか、室内はクーラーでしっかりと冷やされていた。
 そんな用意周到な慎だが、己の心の準備はやはり難しいのか、先ほどから綺刀の左腕をしっかりと抱え込んでは震えていた。
「情けねぇなぁ」
 そんな慎を少しでも励ます事が出来ればと、綺刀はあえて彼にそう言った。
 すると慎は、そんな綺刀の膝をばしばしと叩いては言った。
「うぅ~……しょうがねぇじゃん~……」
 ただ、そうして少し活発に動いたからか、未だに綺刀の腕を抱え込んではいるものの、慎の震えは少しだけ和らいだように感じられた。
「はは、分かった分かった。好きにしてろよ」
「うぅ~……」
 綺刀も、そんな慎の様子に少しだけ安堵した。
 また、綺刀は綺刀で、しばし思うところもあったのだ。
(……まぁ、どっちかっていえば、俺もこうして慎が近くに居る方が有難いんだけどな)
 彼らの様子を見れば、現状や、この先起こりうる怪奇を恐れているのは、慎のみであるように見えるだろう。
 だが、それは違う。
 むしろ、“緊張”という点でみるならば、“綺刀の方が緊張している”とみるのが正しい。
 何せ、霊感のない慎と違い、綺刀は、霊感があるどころか、超敏感と言っても過言ではない体質をしている。
 それゆえに、もしもこの負の念が、そのけがれの力を大きく振るう時間帯があるのなら、犬神を眠らせてしまった今、それによる綺刀へのダメージは、慎の何十倍にも及ぶ。
 だからこそ今の綺刀には、この慎の陽の気が、大きな救いになるのだった。
 そしてそれだけでなく、こうして生きた人間に触れている事で、その温もりから多少の安心感を得られるという事もある。
 それゆえに、こうして慎がぴったりとくっついている事は、綺刀にとっても有難い事なのであった。
 だが、とはいえ不安は残る。
 そんな慎が傍に居るとはいえ、番犬を眠らせた状態の綺刀は、やはり無防備だからだ。
 だからこそ、やはり緊張は高まり、気を引き締める必要は大いにあるのだった。
 そして、迫る最悪の刻限に備え、そんな綺刀が改めての精神統一を図ろうとした瞬間。
 ついに、その部屋の空気が一変した。
(………………)
 そして綺刀は、そんな空気と共に一変した、眼前の光景に絶句した。
 慎は、――自室の中では、特に変わった事は起きない。天井からの怪音が聞こえ続けるだけ――と言っていた。
 だが、綺刀の霊的視覚からすれば、その変化はまじまじと“見てとれた”。
 では何故、慎は“特に変わった事は起きない”と言ったのか。
 それは、“霊感のない慎の目には、そう見えていた”からだ。
 だが実際は、“特に変わった事は起きない”どころではない。
 この数日の間も、この部屋は、深夜二時に至った瞬間。
 “一瞬にして異常な状態に一変していた”のだ。
(あ~あ~、ご立派なもんだなぁおい……)
 そして、その部屋を異常に染め上げるているのは、天井の淵から壁を伝い、じわりじわりと侵蝕を行なう“泥”だ。
 それは恐らく、この上の部屋に棲む負の思念から漏れ出した、思念の塊だろう。
 ただ、思念というのは、どこかしらに宿ったり、棲み憑いただけでは、例え綺刀であっても、“気配がする”、あるいは、“思念本体であれば視える”程度にとどまるものがほとんどだ。
 そして、その程度である為、その思念から放出される欠片や塊などは、更にその存在の主張が弱いのが常だ。
 だが、この真上の部屋に棲まう負の存在から漏れ出した思念の塊は、綺刀の霊的視覚に、はっきりとその存在を主張している。
 それはつまり、――その本体は、漏れ出した思念の塊ですらはっきりと可視化できるほどに“この世のもの”としての存在を獲得している――という事だ。
 綺刀は、その事実を確信し、心の中で舌打ちした。
(まさか、ここまで育っちまってるとはな……。お上品に息潜めやがって……。誤算も誤算だわ……)
 今更後悔したところで後の祭り。
 綺刀の脳裏には、そんな言葉がよぎった。
 しかし、そうして悔いている間にも、真っ黒な泥達は部屋の侵蝕を更に進めていた。
 そして、これまでは壁伝いに垂れ落ちてきていただけだったものが、次に天井全体から染み出るようにして落ちてくるまでになった。
 また、それらの泥は、温度すらも有していた。
 しかし、この世の物としての摂理に従わぬ存在である為か、その温度の在り方は不安定であった。
 その泥の温度は、異常なほどに生温く、異常なほどに冷たく、異常なほどに熱い。
 一定しないどころか、交互でもなく、それらが全て混ざり合っているような状態だった。
 だが、その不安定な泥であったが、その状態であっても、綺刀にダメージを与えるには十分であった。
 綺刀は、そんな不安定な泥により、様々な感覚を不快に刺激され、眩暈や吐き気を覚えていた。
(クソ……)
 綺刀はまた、その日何度目かの悪態をついた。
 だが、そうしている中で、不意に慎の声が聞こえた。
「あ、綺刀……ほら……」
 その声は震えていた。
 だが、そうであっても、綺刀を護るには十分であった。
 微かにではあったが、彼の発する音が、泥の穢れから綺刀を浄めたのだ。
 そして、そんな慎は恐らく、“現在聞こえているのであろう”怪音の事を言っているはずだ。
 しかし綺刀には、その音がはっきりとは分からなかった。
 確かに、慎が言っていたような、どこかしらの壁板を叩くような音は聞こえる。
 だが、聞こえるが、酷く微かにしか聞き取る事が出来なかった。
(うるせぇ……)
 実は先ほどから、この不快な泥達とは別に、綺刀に不快を与えているものがあった。
 またそれは、綺刀の肌や目ではなく、耳を標的としていた。
(なんだよこれ……)
 綺刀の聴覚は今、慎を悩ませていた怪音以外の音で、無理矢理に満たされている。
 異常なほどに近い位置から聞こえる、見知らぬ女の甘ったるい声。
 それが、舌でもねじ込むかのようにして、今の綺刀の聴覚を強引に満たしているのだ。
 綺刀はその、まるで耳に口を付けたままねっとりと囁かれているような不快感に顔を歪めた。
(うざってぇな……)
 だが、そうして不機嫌になる綺刀をよそに、その声は無遠慮に脳まで入り込み、綺刀の聴覚を満たし続けた。
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