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🍀本章🍀

第五話『 抑制の反動 』 上

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「なんでだよ……」
 瑞季みずきは、学内に設けられた屋内プールで、一人嘆くようにそう呟いた。
 その時、プールサイドからはすっかり人気が失せていた。
 壁にかけられている時計を見れば、もうそろそろ夜の八時になろうという頃合いだった。
 水に入ったまま時計を確認した瑞季は、今一度水の中に体を沈める。
 泳いでさえいれば、水の中にいさえすれば、余計な事を考えずにいられる。
 だが水から上がってしまえば、その直後からまた焦燥感にも似たあの感覚が戻ってくる。
 腹の底を締め付け、胸の鼓動を焚き付けるような苛立たしい感覚。
 瑞季はそれを、どのように処理すればよいかわからないままに、その日もプールサイドへ上がる事となった。


― 第五話『抑制の反動』 ―


 美鶴みつるは、恋愛感情そのものを恐れている。
 瑞季みずきはとある日をきっかけに、その事と、その理由を知った。
 また、それを知ったのは今から少し前――、中間試験直前の時期の事であった。
 だが瑞季は、不運にもというべきか、己も気付かぬうちに、そんな美鶴に恋をしていたのだった。
 そして、それを自覚したすぐ後に、瑞季は美鶴のその本心を知ったのである。
 だが瑞季はその時、恋情ではなく愛情を優先したのだ。
 瑞季は、美鶴の本心を知ったその日に、その恋を諦める結論を出したのである。
――美鶴を悲しませるような恋心なんて必要ない。だからこんなものは捨ててしまえばいい。
 それはただ、瑞季が何よりも美鶴を大切に想うゆえの決断であった。
 だが、そんな瑞季の想いは、虚しくも己の恋心に敗れた。
 瑞季に芽生えてしまった恋心は、既に彼の心に深く根を張っていたのだった。
 瑞季は動揺した。
 一度諦めを決心したにも関わらず、頭ではどうしても美鶴のことを考えてしまう。
 何度振り払おうとしても駄目だった。
 美鶴の顔を思い浮かべるたびに内臓を握りつぶされるような息苦しさすら感じ、ひたすらに愛おしさを覚える。
 瑞季は連日、そんな感覚に悩まされ続けた。
 忘れようとすればするほどに、恋情が高まってゆく。抗えば抗うほど、美鶴を抱きしめたくなる。
 そうして瑞季は、次第にそれに苛立ちすら覚えるようになったが、それでもその感覚は、瑞季にまとわりついて離れようとしなかったのだった。
 だがそんな時、中間試験が終わったことにより部活が再開したおかげで瑞季は救われた。
 これまで何をしていても美鶴の事を考えてしまっていた瑞季だったが、水に入り泳ぎ始めると頭の中をカラにできた。
 瑞季はこれに安堵した。
 もちろんのこと、プールから上がってしまうとまた美鶴の事が頭に戻ってきてしまうのだが、その時の瑞季に不安はなかった。
 なぜなら、こうしてこのまま水泳にさえ打ち込んでいれば、恋心など捨て去り、美鶴をただの友人として見られるようになるだろうと思ったからだ。
 そしてその安心感からか、瑞季は美鶴に対して以前と同じように接することが出来るようになっていった。
 また、その事に安心したのか、美鶴もまた少し置いていた距離を戻していったのだった。
――これならきっと、こんな変な気持ちもそのうち感じなくなる
 瑞季はそう考え、より一層部活動に励むことにしたのであった。
 だが、そんな瑞季の思惑は大きく外れる事となった。
 瑞季の恋情はついに、彼に安息を与えるはずの水の中にまで浸食をし始めたのである。

(――こんなんじゃまた怖がられるだけだってのに……)
 瑞季は更衣室で髪を拭いながらため息をついた。
 瑞季が数日前まで抱いていた希望の光は、日に日にその輝きを失ってゆき、今ではすっかり頼りなく揺らいでいるだけだ。
 結局、一度やってきたあの安心感は不安と焦りに変わってしまったのだった。
 瑞季のもとに、水泳という心強い味方が戻ってきてから一週間が経過しようとしていたが、瑞季の頭は未だに美鶴の事で満たされていた。
 ついに瑞季は、美鶴への恋心に別れを告げられなかったのだ。
 そして事態は更に深刻な状態へと至っていた。
 瑞季が抱く恋情の強さが、日に日にその激しさ増してきているのだ。
 今もまた着替えを済ませ、すぐに寮室に戻れる状態であるというのに、その状況でもなお心が美鶴に早く会いたいと瑞季を急かしてくる。
 美鶴とはルームメイトゆえ、毎日のように顔を合わせている。
 そして夜もまた、一晩中そばにいられるのだ。
 そんな毎日を過ごしているというのに、この心はまた早く会いたいなどと思っている。
(こんなの異常だ……)
 瑞季はその感情に酷く動揺していた。
 そして、そんな自分の異常な一面に畏怖すらも覚え始めていた。
 それゆえに、早く会いたいと願う心を抱えながら、寮室に帰るのが怖くなる日もあった。
 ただ、瑞季が自分のその異常さをより痛感したのは、美鶴と顔を合わせてからの事だった。
 美鶴と顔を合わせていない状態ならば、まだこうして早く会いたいという焦燥感に苛まれるだけで済むのだが、美鶴と顔を合わせてしまうと、この状況は悪化するのだ。
 そして、それがどう悪化するかといえば、胸の鼓動が更に高鳴り、先ほどまでの会いたいという焦燥感は、彼を衝動的に抱きしめたいという焦燥感に変わる――という具合だ。
――そんな事をしたら今度こそ美鶴に嫌われる
 考えなくてもそんな事はわかっていた。
 だが、それをわかっていてもなお、瑞季の心はその欲求を訴える事をやめはしなかった。
 そして、そんな瑞季にはもう、その感情を自制する以外に恋情への打つ手はなくなっていたのだった。

「おかえりもんちゃん。お疲れさま」
「あぁ……ただいま」
 そうしてその日もまた、美鶴は笑顔で瑞季を出迎えてくれた。
 そんな美鶴に対し、平静を装いながら瑞季も笑顔で返事をした。
 部屋には食欲をそそるような香りが満ちている。
 そして、先ほど自分を出迎えてくれた美鶴は今、再び調理に戻っている。
 瑞季は、そんな美鶴の後ろ姿を見つめながら、やはり抱きしめたいという衝動に駆られていた。

(なんでこんな風になっちまったんだ……)
 瑞季はそんなどうしようもない自分にまた苛立ちを覚えた。
 なぜ忘れられない。
 美鶴は大切でかけがえのない友人だ。
 そんな友人が恐れ拒んでいる感情を、自分はいつまで持ち続けるつもりなのか。
 誰かを好きだと思う気持ち。
 それが恋心というものなのならば、そんなものは泳いでいる間に捨て去ってしまえるものだったはずだ。
 そんな気持ちは、一度捨てれば自分を追ってくることなどないものだったはずだ。
 これまでだって、まだ好きという感情が残っている相手に別れを告げられようとも、泳いでいればすぐに忘れられたのだ。
 それが、自分の知っている“恋心”というものだ。
 だから今回も、ひたすら泳ぎ続けていれば忘れられるはずだった。
 なのに――、
「なんで全然捨てらんねぇんだよ……」
 瑞季は温かな湯船に身を沈めながら顔を覆い、小さくそう呟いた。
 瑞季が平静を装っていられるのも恐らく今だけだ。
 これからずっとこんな意味のわからない衝動に襲われ続けるのだとすれば、きっといつか衝動に駆られるまま美鶴を抱きしめてしまう。
 そしてきっと、それだけではこの感情は治まらないのだろう。
 だが、そうなってしまった自分がその後、美鶴に何をしてしまうかなど想像したくもない。
 何せ、何かをしてしまったら今度こそ美鶴に心から恐れられ、友達にすら戻れなくなってしまうのは確実だからだ。
(そんなの、絶対に嫌だ。美鶴に嫌われるなんて……)
 だが瑞季はそこで、不意に衝動に駆られ美鶴を抱きしめる事を無意識に想像してしまった。
 すると、その想像の中の美鶴は、瑞季がその身を離すと驚愕と恐怖を混ぜ合わせたような表情を作っていた。
 そんな美鶴の表情は、瑞季への恐れと拒絶を意味している。
 想像の中、瑞季はその美鶴の表情を見て血の気が引いた。
(嫌だ……)
 己の顔を覆う両手が微かに震えているのを感じ、瑞季はまたひとつ弱々しいため息を吐いた。
 
 
 
「――お前も大変だねぇ」
「はい……」
 とある日の深夜。
 瑞季みずきは寮棟のエントランスに設けられたソファに座り、自分の斜め前に腰かける青髪の生徒と会話を交わしていた。
 そんな青髪の彼は瑞季らの先輩で、二年生としてこの学園に所属する生徒だった。
 その生徒の名は、まどか晃紀こうきといい、前髪を暖簾のれんのように垂らし、目元を隠すような髪型をしているその容姿は、普段からよく人目を引いている。
 そんな晃紀と瑞季がなぜこうしてエントランスにいるのかというと、それは偶然にも、深夜と言う時間帯に彼らがエントランスまでの廊下で鉢合わせになったから――であった。
 その日、あまりに思い悩んだ瑞季は眠る事すら手につかなくなっていた。
 その為、気分転換にとエントランスの自販機まで行こうとしていたのだが、ちょうどその時、同じような目的で廊下に出てきていた晃紀と鉢合わせたのだ。
 そして、そこから共にエントランスまで歩く中で勘の鋭い晃紀が瑞季の様子を察し、何かあったかと尋ね、今に至るというわけであった。
「まぁ~確かに今の美鶴みつるに好きだって気持ちを悟られるのはまずいだろうけど、イロイロ想像しちまうってのは言い訳きくと思うぜ」
「そうでしょうか」
「おう。だってお前が美鶴のそういうトコ想像しちまう原因は、まさに俺と美鶴が体の関係あるってのを知ったから、なわけだろ? だったら恋心抜きにして、ただそれを知って想像しちまったって言えば言い訳はつくって。――大体俺ら高校生だぜ? エロに敏感になんのは当然。むしろ男子高生のたしなみよ、嗜み」
「な、なるほど……」
 瑞季は、晃紀のその意見に対し素直に納得して良いのか戸惑いはしたが、それにより少しだけ罪悪感を和らげることができた。
 実のところ瑞季は、ここ最近で恋心以外の悩みも抱え始めていた。
 そう。瑞季はここ最近、ベッドに入るとつい美鶴の情事を想像してしまうのだった。
 ただもちろん、晃紀の言う通り、想像してしまう原因は、晃紀と美鶴に体の関係があると知ったからだ。
 だから、先ほど提案された言い訳をすれば、美鶴も問題なく笑って済ませてくれるだろう。
 だが瑞季は、最近の心労もあり、つい悪い結果に転じてしまう事を考えてしまっていたのだ。
 その悪い結果というのが、そういった想像をしている事が美鶴にバレる事で、どんなに言い訳をしても、いずれは恋心を捨てきれていないという事を悟られてしまうかもしれない、――というものだ。
 そして、瑞季としてはそちらの方が可能性があるように思えた。
 だからこそ瑞季は、ここ数日以前より一層思い悩んでいたというわけなのだ。
 因みに、瑞季がそんな想像をするようになってしまう原因――晃紀と美鶴のそういう関係――を知ったのは、その日から少し前の事だった。
 
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