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🎐本章❖第七話🎐

第七話『 崇高の薫香 』 - 02 / 05

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「――……やっぱ、そっか」
 そして、何かを悟るようにしてから、そっと身を起こそうとした――その時であった。
「ぅん……」
 ふと、力ない声と共に、雪翔ゆきとがうっすらと瞳を開いたのだ。
「あ」
 綺刀あやとは、それに少し驚き、思わず声を発した。
 そして、雪翔からさっと身を離すなり苦笑し、彼に謝罪を述べようとした。
「わりぃ。やっぱ起こし――」
 だが、綺刀はそこで、雪翔の様子がどうにも妙な事に気が付いた。
「……雪翔?」
 そんな綺刀は、思わず雪翔の名を呼ぶ。
「ぅんん」
 すると、雪翔はぐずるように鳴いた。
(酔ってるせいか……? なんか虚ろな感じが……)
 そんな雪翔の瞳は、寝ていたせいもあるのか、少し濡れていた。
 そして、彼が先ほど発した声も、まるで何かの“鳴き声”のような音に聞こえた。
 綺刀は、そんな様子が少し心配になり、ふらふらと半身を起こした雪翔の顔を覗き込むようにして言った。
「雪翔? 寝惚けてるのか?」
 すると雪翔はまた一つ、切なげに、甘えるように鳴いて答えた。
「ウゥン……」
(……やっぱり、なんか変だな)
 綺刀はそんな雪翔にそう思い、また問い掛ける。
「雪翔……雪翔? ――お前今、俺の声は、聞こえてるんだよな……?」
「ンンゥ……」
 すると雪翔は、確かに綺刀の声に反応を示すようにして鳴いた。
 しかしそれは、“綺刀の声に、ただ反応を返しているだけ”のようにみえた。
(――もしかして、――言葉が分かってないのか……?)
「なぁ雪翔、お前まさか――」
 そして、雪翔のそんな様子から綺刀がまた問おうとしたその時。
 雪翔がふいに、綺刀の方に身を寄せるようにし、何かを強請るかのように鳴いた。
「ンン」
「え? おい、雪翔? なんだ?」
 綺刀は、そんな雪翔の行動を不思議に思い、また問うた。
 すると雪翔は今度、甘えるような声で鳴いた。
 だがそれだけだった。
 雪翔は、やはり言葉での応答をしなかった。
 そしてそれだけではない。
 雪翔は、そうして甘えるような声で鳴きだしたかと思うと、今度は綺刀の首筋や首元に額を摺り寄せ、そのあたりをゆったりと嗅ぐような行動を見せ始めたのだ。
「……ゆ、雪翔?」
 綺刀は、そんな彼の行動に更に困惑した。
 しかし、それでも雪翔を突き放すような事はできなかった。
 今の雪翔は、体が重心を上手く取れていないようなのだ。
 その為、綺刀はそちらの方が気になり、彼を引き離すよりも、その体を支えるようにしてやる方を選んだ。
 すると、それを綺刀からの承諾の意とでも取ったのか、雪翔は綺刀に身を預けるかのようにして更に擦り寄った。
(な、なんなんだ……?)
 そして、すっかり困惑しきってしまった綺刀は、とりあえずと雪翔を制するようにして言った。
「こら雪翔って……遊び盛りのワンコじゃねぇんだから、一旦落ち着け」
 だが、そう言って雪翔をやんわり押し返そうした綺刀に、雪翔はまたぐずるようにして鳴き、更に体重をかけた。
「ウウン」
 そしてその結果、綺刀は後ろ手に肘をつくような形のまま雪翔に跨られてしまった。
「こらこら、もういい加減俺も本気で――って、え?」
 綺刀は、流石にこれ以上は手加減をしていられないと思い、強引に雪翔を引き離そうとしたが、それは叶わなかった。
 彼は、先ほど後ろ手に肘をついた体制のまま、雪翔にその両腕を掴まれ、ソファに押し付けられるようにされていたのだが、その腕がどんなに力を入れても動かないのだ。
「うそぉ……?」
 もちろん金縛りになっているというわけではない。
 だが、そうだというのに、微塵も抵抗できないほどに動かせなかったのだ。
「雪翔……お前そんなに力強かったっけか……?――ちょっと~雪翔く~ん……お願いだから俺の可愛い後輩に戻ってぇ~、目を覚ませ~」
 しかし、ここで諦めてはまずいと思い、綺刀は抵抗を続けた。
(くそ……とにかく、少しでも意識が戻ってくれれば……)
 そして綺刀はそう思い、何度も雪翔に呼びかけを行った。
「雪翔~雪翔~逆から読んだらトキユ~」
 しかし、流石に面倒になってきたらしい綺刀の呼びかけは、次第に大変粗雑なものになっていった。
「雪翔~あぁ雪翔~お前はどうして雪翔なの~」
「ゥンン」
「いや、“ゥンン”じゃなくてさ……――って、あ、こら、――あ~~~、あの~、ちょっと~、雪翔君~、そのそれさぁ~それ~その首のとこやめてもらっていいですか~?」
 だが、そんな綺刀の雑な抵抗も虚しく、雪翔には一向に変化が現われなかった。
 そしてその間、事態は更に悪化した。
 雪翔は次に、己の下腹部を摺り寄せるようにしながら、切なげに鳴き、綺刀の首筋を舐めては食むような甘噛みをし始めたのだ。
 これには流石の綺刀も耐え切れず、己の芯にはっきりと熱がこもり始めるのを感じた。
「わ、わ~い、雪翔く~ん。それはマジ――あぁ~あぁ~もう~マジで早く帰ってこ~い。そのリビドーに負けるな~もう俺の心も折れそう~いや折れるどころか硬くなってるけどでも理性は折れそう~」
 綺刀は鳴き声しか返してくれない雪翔に対し、ひたすらに言葉を投げ続けた。
(いや、別に俺もこのまましちゃってもいいけどさぁ……。――でも、雪翔はこれ、絶対意識ないからなぁ……)
 今の雪翔は寝惚けているのか、それとも何かに身体を操られているのかは分からない。
 だがいずれにしても、この行動が雪翔の意志ではない事は確かだ。
 それだけは、はっきりと分かった。
 だからこそ綺刀は、己の欲望にも抗いながら、雪翔にも抵抗しなければならない気がして、こうして抵抗し続けていたのだ。
 しかし、そんな綺刀の努力を嘲笑うかのように、雪翔はどんどんと綺刀の欲情を駆り立てるような動作を繰り返し続けた。
「いやいや、なんだこれ……何? 雪翔、実は淫魔に取り憑かれてるとか? そんなエロ漫画みたいな――あ~……あ~……それは、ア~~~、ん~~~、それはいけませんね~いけませんよ~流石の俺もそれは耐え切れませんね~~~ンフ~、あ˝~~~ちょっと~~~」
 だが、なんとか気を紛らわせようと意味のないコメントを並べてゆく最中も、事態は更に悪化していった。
 雪翔は、綺刀にのしかかったまま、布越しですらはっきりと分かる己の昂ぶりを、綺刀の昂ぶりへとより強く押し付けるようにして擦りつけ、ゆったりと腰を揺すり始めたのだ。
 そして、既に理性が限界まで来ていた綺刀は、その刺激に心の中で泣きながら再び現状にコメントを添えた。
「発情期~それはニャンコワンコの発情期によくみるあれだから~それじゃあお前は子孫のこせないから~」
 するとその時、ふいに綺刀の背後から声がかけられた。
「――おや綺刀君。ずいぶん楽しそうだね」
 そしてその後、ぱたりぱたりという呑気な足音が聞こえた。
 綺刀はその音から、その声の主が己の背後まで来ているらしいと悟り、顔を真上に向ける。
 するとそこには、案の定楽しそうに綺刀を見下ろす禰琥壱ねこいちが居た。
 綺刀は、首元と昂ぶりを刺激されながら、そんな禰琥壱に言った。
「あ~禰琥壱さん~どうですか~この状況をどう見られますか~」
 すると禰琥壱は、酷く穏やかに微笑んで答えた。
「ふふ、そうですね。この先も大変な盛り上がりが期待されますね」
 綺刀は言った。
「そうですか、それは楽しみ――じゃねぇよ! 助けてこれ!」
 いや、心からの救いを訴えた。
 すると禰琥壱はまた呑気に笑いながらそれに応じた。
「ははは、はいはい」
 だが綺刀はそんな中、そうして動じていない禰琥壱の様子から、この事態がそこまで深刻でない事を悟り、少しばかり安堵した。
 だが、綺刀は綺刀で別の問題が昂ぶりに昂ぶっており、改めて一刻も早い救援を要請した。
 そして、なんとか無事に雪翔の荒ぶるリビドーが自分の元から去った事で、綺刀は大きく安堵の溜め息を吐いた。
「――はぁ……色々危なかった……」
 すると禰琥壱はまた笑った。
「ははは」
 綺刀は、そんな禰琥壱に一つ文句を述べつつ問うた。
「“ははは”じゃねぇって……。――つか、もしかして雪翔、毎晩こんな感じなの?」
 禰琥壱は答える。
「いや? 彼がこうなったのは、今日が初めてだよ」
「え?」
 綺刀は、そんな禰琥壱の言葉を聞き驚いた。
 だがその後すぐに考えこむようにした。
「ウゥン」
 するとその間、綺刀から離された雪翔がまた切なげに鳴いた。
 そんな雪翔は今、禰琥壱の片膝に跨り、また頬や額を禰琥壱の胸元に擦りつけ甘えるようにしている。
「うんうんよしよし」
 禰琥壱は、そんな雪翔の頭や背を撫でてやりながら、手慣れた様子で宥める。
 そして、改めて綺刀に問うた。
「何か分かったかい?」
「……うん」
 綺刀は、そんな禰琥壱に問われると、ゆっくりと頷き言った。
「多分なんだけど、――今の雪翔の中には、確かに記憶を喰う怪は居ると思う。――でも多分、それだけじゃない。――雪翔の中にはもう一匹、その怪よりも力の強い、怪でも霊でもない、――思念に近い獣が居るんだと思う」
「怪でも霊でもない……獣」
 綺刀は頷く。
「うん。――さっき、試しにちょっと気を強めて雪翔の意識の中に触れてみたんだ。そしたら、――確かに怪の気配もあったんだけど、それよりも、獣っぽい気配の方を強く感じて、――しかもそれが、なんていうか……――両方が混ざってる感じなんだ。――でも、そっちの、獣の気配はうちのも嫌がらなかったから、やっぱりそっちは、本当に普通の動物の思念なんだと思う」
 綺刀が言う“うちの”とは、彼の中に生まれつき宿る犬神の事だ。
 綺刀が属する家系、豪阪こうさかの一族は、古くより、その体に犬神を宿す憑物憑きの一族なのだ。
 そんな綺刀は、雪翔の中に住まう“何か”の気配を、そう解釈した。
「“普通の動物”か。――だとすれば、雪翔君が夢の中で見ていた獣は、恐らくその動物の思念が形を成したものという事だね。――そして、雪翔君は狼と言っていたけど、それはその大きさのせいだろうから、もしかしたらそれは、犬の思念なのかもしれないな……」
 すると、そんな禰琥壱の言葉を受け、綺刀は言った。
「犬、か……。――あ、もしかして、――その犬って、メスだったりすんのかな」
「メス?」
 禰琥壱は、そんな綺刀の憶測を復唱した。
 綺刀は頷く。
「うん」
 そして禰琥壱は、そんな綺刀の言葉から、更なる考察を紡いだ。
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