いつの間にか結婚していたらしい

茜菫

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 少女の前にひらひらと一枚の花びらが落ちる。淡い紅色のそれがとても懐かしく思えて、少女は僅かに笑んで手を伸ばした。

(……あっ)

 だがその手が花びらに届くことはなく、目を開いた少女の目に映ったのは変わらない暗い部屋が映る。さきほどの男の姿もなくなっており、どれほど時間が経ったのかもわからなかった。

(なーんだ)

 少女は肩を落とし、ため息をつく。息を吐いたつもりでも空気は流れることもなく、ふわふわと浮いた少女は眼の前にある漬けられた自分の体を眺めるしかできなかった。

(あれ? なんだろう……)

 少女がさきほど感じた、懐かしいという感情。それがなぜか、部屋の壁を突き抜けたずっと先にある気がした。

(どうしよう、すっごく気になる……)

 目にも見えないはずなのに、少女にはそこにあると確信があった。少女は躊躇なく壁をすり抜けて外に出ると、まるで引き寄せられるようにそちらへと向かった。



 太陽が何度沈んで昇っただろうか。野を漂い、山を越え、川を下り、谷を跨ぐ。いくつもの町や集落を過ぎ去って、少女がたどり着いたのは大きな城の中庭だった。

(あっ、これだ!)

 少女の目に映るのは、中庭の一角に一本だけ植えられた木だ。淡い紅色の花を咲かせていて、その根元には絨毯のように花びらが敷かれている。

(懐かしい……けど、なんだったっけ?)

 少女は懐古の念を抱いたが、その木の名前を思い出せなかった。花びらの絨毯の上に座り込み、木にもたれかかる。実体がないため、実際には触れていないが、それらしくは見えた。

(なんだか、気持ちいい……)

 少女は心地よさに目を閉じ、しばらくそのまま動かなかった。しかしふと赤子の笑い声が聞こえて、ゆっくりと目を開く。

(……赤ちゃん?)

 いつの間にか、目の前にはゆりかごがあった。美しい女性がゆりかごを揺らし、その中で赤子が楽しげに笑っている。

(かわいい)

 赤子のまん丸な碧い目が少女を真っすぐに捉えているような気がして、少女は小さくほほ笑む。すると赤子はひときわ楽しげに笑った。

 いまのは偶然だろう。そう思いながらも、だれにも気づいてもらえない自分を見つけてもらえたような気がして、少女はうれしかった。

 女性がやさしげな表情で赤子をそっとなでると、赤子は眠くなったのかうとうとしはじめ、そのまま瞼を閉じる。

(ああ、すごく……気持ちいい……)

 それにつられたように、少女もゆっくりとまぶたを閉じた。



 少女は近くでだれかが泣いている事に気づいた。必死に声を押し殺そうとして時折もれる嗚咽がひどくかなしげだ。

 少女が目を開くと、目の前にひらひらと淡い紅色の花びらが舞い降りた。少女は手を伸ばすが、花びらは少女の手をすり抜けて落ちていく。一つため息をついた少女は自分の隣に目を向けた。

 少女の隣には木の根元にすがりつくように腕と顔を押し当てた幼子の姿があった。花びらが幼子のやわらかそうな金色の髪に落ちる。それに気づかず、幼子は必死に涙をこらえようとしていた。

(ぼく、なにがかなしいの?)

 少女は自分の声がだれにも届かないと知っている。だから口を開くことなく心の中で幼子に問いかけた。届くはずがないとわかっていたが、泣いている幼子をなぐさめたかったのだ。

 幼子はなんの反応も返さない、と思いきや。

「……っ!?」

 幼子は息を呑む音と共に、ばっと顔を上げた。そしてその目を真っすぐ少女へと向ける。

(……へ?)

 まるで自分の声が届いたかのような幼子の反応に、少女は目をしばたたかせた。

(……私の後ろになにかあるの?)

 少女は後ろを振り返ってみたが、なにもなかった。不思議に思いながら視線を戻すと、幼子は少女をじっと見つめている、ように見える。

(私のことが見えて……いや、ないない。百年以上だれにも気づかれなかったんだし。そう都合のいいことがあるわけがない!)

 少女はもう一度後ろを振り返って確認するが、やはりなにもなくて幼子に視線を戻す。

 幼子と、ばっちりと目があった、気がした。

「……私のこと、見えているの?」

 少女は驚いた表情で口を開き、問いかける。実体がないため、それが音になったかどうかはわからないが、幼子はまるでそれに反応したかのように口を開いた。

「―――、―――――」

 子どもらしい高い声が聞こえるが、なにを言っているのかまったく理解できなかった。

「待って、なにを言っているのかわからないの」

 少女が制止をかけるも、幼子の口は止まらない。少女が幼子の言葉がわからないように幼子も少女の言葉がわからないのか、そもそも声が届いていないのかもしれない。なおも話し続ける幼子にどうしたものかと思い、少女は幼子に届けと思いながら心の中で話しかける。

『ぼく、ちょっと止まってくれるかな』

 すると、幼子はぴたりと話を止めた。どうやら、心の中で伝わるように意図して話しかけると、言葉が届くようだ。

『ぼく、お姉さんに心の中で話しかけてみてくれないかな?』

 幼子は戸惑った様子だったが、小さくうなずく。きゅっと口を引き結び、両手を握りしめて懸命に心で話しかけてきた。

『精霊さん、ぼくの言葉は届いていますか?』

『え、精霊?』

 少女が思ってもみなかった言葉に驚くと、幼子は不思議そうに首をかしげる。

『違うの? ずっとここで眠っていたから、木の精霊なんだと思って』

『ずっと?』

『うん、ずっと。みんな見えないって言っていたから、精霊さんなんだと思っていたの』

 そこで少女は、この木の下で眠る前のことを思い出した。美しい女性にあやされていた、かわいらしい碧い目の赤子と目が合ったこと。よく見れば、幼子はその赤子と同じ目の色をしている。

 だれかに見つけてもらえた気がしたあの赤子の笑い声は、勘違いではなかった。そう思うとたまらなくうれしくて、少女は満面の笑みを浮かべた。

『ぼく、ありがとう。私を見つけてくれて』

 幼子はぽかんと口を開けて硬直し、すぐに顔を真っ赤にする。かわいい反応に少女はくすくすと笑い、手を伸ばして頭を撫でようとした。

(あ……)

 しかしその手は幼子にふれることができずにすり抜けてしまう。少女は幼子に見つけてもらえたが、依然として幽霊のような状態だった。

『精霊さん、泣かないで』

 少女の表情がかなしげだったからか、幼子が慰めの言葉をかける。涙を流すこともできない少女は安心させるようにうなずいた。

『泣いていたのは、ぼくのほうじゃない?』

『な……泣いてなんか、いないもん』

 慌てて涙を拭い、頬をふくらませた幼子はそっぽを向いた。

『そっか。私の勘違いだったね』

 少女が笑うと、幼子は頬をふくらませたまま彼女を見る。

『……精霊さんじゃないなら、お姉さんはなんなの?』

 少女は幼子の問いに困ったように眉尻を下げる。少女自身も、いまの自分の状態を正確に把握しているわけではない。ただ、精霊でないことは確かだ。

『私も、一応人間だよ』

『一応?』

『うーん。幽霊みたいな感じかな。いやでも、たぶん生きているはずだし……』

『どういうこと?』

『えっとね……精神と体が離れちゃったの。私は、精神のほう。ぼく、わかるかな?』

『ぼく、もう五歳だし、それくらいわかるもん!』

 むっとした様子で幼子は首を縦に振った。それがかわいらしく見えて、少女はくすくす笑う。

『じゃあ、体はどこにあるの?』

『うーん、どこだろうね』

『わからないの?』

『私の体、悪い人たちに捕まっているの』

 その言葉に幼子はかなしそうな顔になった。こんな小さな子どもに言うべきことではなかっただろうと反省し、少女は慌てて話をそらす。

『ぼく、名前は?』

『ロマーノだよ』

「ロマーノ」

 少女が口を開いて名を呼ぶと、幼子、ロマーノは頬を赤らめてうれしそうに笑った。それに少女が胸をなでおろしていると、ロマーノが首をかしげて問いかける。

『お姉さんは?』

『私は……忘れちゃった』

 少女がそう答えたところで、だれかの声が聞こえた。少女はそれが何を言っているのか理解できなかったが、ロマーノはその声に反応して後ろを振り返る。ちらりと少女を窺う様子から、だれかに呼ばれたのかもしれない。

『またね、ロマーノ』

 少女が軽く手を振ると、ロマーノは少し躊躇したようだが、すぐに駆けて行った。
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