稲荷詣で

斐川 帙

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六、猪隈殿

(二十二)

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 駿河守を残して、女性たちは寝殿を去って行った。芳野もここから出ていくべきか迷ったが、誰かに案内してもらわないとどこにも行けない状態なので、誰か声をかけてもらうのを待っていた。すると、駿河守は芳野を手招きして、前に来るよう促した。芳野は迷ったが、母屋との境目の駿河守正面の辺りに移動して腰を下ろした。母屋の領域には入らなかった。
 駿河守は声を抑えて言った。
「あきおぎのことは聞いておるか?」
 あきおぎの身上しんしょうのことだと思い、「あさつゆさんから伺いました。」と答えた。
「あきおぎの父親は長く当家に仕えてくれた者だ。もとは民部の史生ししょうであったが、働きぶりがよいとのうわさを聞いて、任国の目代を頼んでみたが、噂に違わず文章に優れわきまえもあり、国務の遂行に多大な貢献をしてくれたと感謝しておる。その娘があきおぎだが、聞いてはいると思うが、先年、父を亡くし、身寄りのない状況となったので、当家で養い子として引き取った。」
 この話は深草であさつゆから聞いた話とほぼ同じだ。ちなみに「民部の史生」とは民部省という役所で文書の作成・修正・書写などを行う下働きの役人である。
 駿河守は、更に続けた。
「まだ若いが、宮仕えをさせるか、いい婿を見つけるか、迷っておる。どう思う?」
 突然、聞かれて芳野は戸惑った。何をどう思うのか、尋ねられた真意が直ちには理解できなかった。
「何がですか?」
「あきおぎのことだ。」
 『あきおぎのことだ。』と言われても、芳野には、他人ひとの娘のことなので、自分がどうこう言う話ではないし、どういう返答が求められているのかもわからないので、困惑して黙っていた。すると、黙っているのを『関心がない』という意味に受け取ったのか、すぐに本音を口にした。
「まあ、要するに、あきおぎの後ろ見を頼みたいのだが、どうだろうか。」
 『後ろ見』という言葉が具体的に何を意味しているのかがわからないので、滅多なことは口にできないと思い、なおも沈黙を続けていると、更に本心を吐露した。
「今夜からでも、通ってもらいたいのだ。」
「通う?…のですか?」
「そうだ。あきおぎのもとに通ってもらいたい。」
 通って会話の相手でもしてくれということか?、だが、そんな単純なことではなさそうなニュアンスを、駿河守の表情から感じ取った。
「『通う』と言うのは、どういう意味でしょう?」
「『通う』とは『通う』と言うことだ。他に意味はあるまい。妻とせよ。」
 思わず芳野は「えっ?」と聞き返してしまった。
 (あきおぎさんを自分の妻にする?)
 芳野は「妻にせよ。」と言う言葉から、よからぬ行為を促されているという印象を受け取ってしまった。つまり、端的に言えば、あきおぎと肉体関係を結んでほしいと言うことだ。
 芳野はまだ十代の女の子であるあきおぎの姿を思い出して困惑した。
「いや、しかし、あきおぎさんは、まだ若く…確か、十五歳と聞きましたが。」
「何を言っている。裳着もぎはとっくに済ませているし、子供ではないぞ。きっと、妻にせよ。のちのち別に屋敷を与えるつもりだ。さきの淡路守の屋敷が空き家になったと聞いたから、それを買い取ろう。八戸主やへぬしの広さだが、十分であろう。」
 芳野は、駿河守の有無を言わせない物言いにただ頷くよりなかった。これ以上、この問答を続けても話は噛み合わないだろう。最初から結論が決まっていて、芳野には選択権はないのだ。芳野は、そう感じて、依頼を了承することにした。
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