104 / 155
七、三条烏丸の御所
(三)
しおりを挟む
八重が戻って来た。
八重は、部屋の外に置かれていた食べ終わった空の碗を見ると、碗の乗った折敷を自分の方に引き寄せて、懐から帖紙を取り出すと、
「姫君からの返しのお歌でございます。昨日の者を呼んで読ませますか?」と芳野に尋ねた。
芳野が仮名で書かれたものを読めないことを思い出して、先回りして尋ねたのだが、芳野は、そもそも代詠された歌の内容も知らされていないし、返しの歌を聞いたところで、どう反応していいかわからなかったので断ることにした。
「いや、いいよ。聞いたところでわからないから。」
「そうでございますか…」
八重は、急に熱が引いたように、冷めた口調で応じると、歌の書かれているであろう帖紙を芳野の部屋の中に差し入れ、碗の乗った折敷を手にして、外に出て行った。八重は、芳野が歌の贈答に全く関心を示さないことに失望したようだった。
外に出て行く際、八重は、芳野のいる部屋に向かって、小声で、
「今宵もきっと姫君のもとにお通いになってください。きっとでございますよ。」と強く念を押すように言葉をかけてきた。芳野は、煩く感じたものの、これだけ、念押しされるということは、あきおぎの心情を傷つけるようなことはするなと言う想いだけでなく、連夜、部屋を訪ねることには、きっと、それ以上の大事な意味が隠されているからなのだろうと感じた。それは、あきおぎと芳野の、これからの関係性に重要な意味を持つことなのかもしれない。だから、とりあえず、今夜もあきおぎの局を訪ねることにしようと心に決めた。それは、駿河守やあさつゆを始めとして、この八重も望んでいることなのであるし、昨晩、あきおぎは、別れ際に芳野の袖をつかんで、何事かを訴えかけるような目で見つめてきたが、あきおぎの、あの行動は、寝所に入ってから寝入るまで、ずっと気になっていて、何となくだが、芳野に、また来てほしいと言いたかったのではないかと思えてならなかったのだ。
八重が出て行った後、芳野は何もすることがないので、部屋でしばらく微睡んでいると、部屋の前に誰かがやって来たような気配がした。その人物は、聞き覚えのある声で、駿河守様からのお召しがあったと伝えてきた。
障子を開けずに言われたので、姿は見えなかったが、声から、昨日、屋敷の中をいろいろと案内してくれていた男であることはすぐにわかった。男は、「支度をして、駿河守様の御前に参上してほしい。」と続けると、伝えるべきことは伝え終えたと思ったのか、部屋の傍に控えて口を噤んだ。しかし、この男は一体何者なのだろうかと今更ながら気になった。芳野が屋敷の中を移動するときは大抵この男が先導し、ここの主の前に呼び出された時は、この男も簀子に控えている。この屋敷に仕える者の中で筆頭の者であろうが、要するに、ここの主の筆頭家臣みたいな者であろうか。気になったが、本人に尋ねる適当なタイミングもなく、失礼のない適切な質問の文句も思い浮かばなかったので聞いてみることはしなかった。
それはさておき、こんな時に急に呼び出しがあって、何事かあったのだろうかと芳野は不安になってきた。しかし、ここにいても特にすることがなく、手持無沙汰で退屈していたところだったので、いい気分転換と思うことにして、急いで支度を始めた。と言っても、既に上着は着込んでいたので、支度と言うほどの支度も必要なかったのだが、リュックは部屋に置いたままにしておくことにして、すぐに立ち上がって部屋の外に出た。案外、早く出てきたので、控えていた男は、一瞬、驚いて、慌てるも、頭の烏帽子の位置を直して一呼吸置くと立ち上がり、芳野を先導して、寝殿に向かった。
芳野の部屋は寝殿の北東にある北の対にあったので、寝殿とつなぐ廊の手前にある妻戸から簀子に出て南に進み、一旦、寝殿の東側を過ぎて、侍所や武者所が設けられている二棟廊と接続する反り橋の前を過ぎて、寝殿正面に回り、南面の簀子から、男に案内されるままに室内に入って、南庇の床に腰を下ろした。午前十時くらいにはなっているのであろうか、外は明るかったが、冬の日差しは弱々しく、地面が柔らかく照らされているのが目についた。厳しい寒気が、冷たく肌を刺して、歩くのはつらかった。
周囲を見回すと、既に駿河守は正面の畳の上に座っており、右隣には簾が下りていた。更に、その手前には几帳がいくつか置かれていたので、他にも何人か来ているようだった。
この光景は、昨日、初めて、この寝殿に参上したときの光景と瓜二つである。とすれば、隣の几帳の向こうにはあさつゆやあきおぎがいるのだろうか。そして、駿河守の隣の簾の向こうには昨日と同じように恐らく年配と思われる女性が控えているのであろう。昨日の、この場にいたときから、ずっと考えていたのだが、この屋敷の主である駿河守と同じ並びで控えているのを見ると、この屋敷内でも主に匹敵する格を持った女性であり、であれば、駿河守の奥方、もし多くの妻妾がいたとしたら、その中でも正室とみなされる女性なのではないかと推測した。
八重は、部屋の外に置かれていた食べ終わった空の碗を見ると、碗の乗った折敷を自分の方に引き寄せて、懐から帖紙を取り出すと、
「姫君からの返しのお歌でございます。昨日の者を呼んで読ませますか?」と芳野に尋ねた。
芳野が仮名で書かれたものを読めないことを思い出して、先回りして尋ねたのだが、芳野は、そもそも代詠された歌の内容も知らされていないし、返しの歌を聞いたところで、どう反応していいかわからなかったので断ることにした。
「いや、いいよ。聞いたところでわからないから。」
「そうでございますか…」
八重は、急に熱が引いたように、冷めた口調で応じると、歌の書かれているであろう帖紙を芳野の部屋の中に差し入れ、碗の乗った折敷を手にして、外に出て行った。八重は、芳野が歌の贈答に全く関心を示さないことに失望したようだった。
外に出て行く際、八重は、芳野のいる部屋に向かって、小声で、
「今宵もきっと姫君のもとにお通いになってください。きっとでございますよ。」と強く念を押すように言葉をかけてきた。芳野は、煩く感じたものの、これだけ、念押しされるということは、あきおぎの心情を傷つけるようなことはするなと言う想いだけでなく、連夜、部屋を訪ねることには、きっと、それ以上の大事な意味が隠されているからなのだろうと感じた。それは、あきおぎと芳野の、これからの関係性に重要な意味を持つことなのかもしれない。だから、とりあえず、今夜もあきおぎの局を訪ねることにしようと心に決めた。それは、駿河守やあさつゆを始めとして、この八重も望んでいることなのであるし、昨晩、あきおぎは、別れ際に芳野の袖をつかんで、何事かを訴えかけるような目で見つめてきたが、あきおぎの、あの行動は、寝所に入ってから寝入るまで、ずっと気になっていて、何となくだが、芳野に、また来てほしいと言いたかったのではないかと思えてならなかったのだ。
八重が出て行った後、芳野は何もすることがないので、部屋でしばらく微睡んでいると、部屋の前に誰かがやって来たような気配がした。その人物は、聞き覚えのある声で、駿河守様からのお召しがあったと伝えてきた。
障子を開けずに言われたので、姿は見えなかったが、声から、昨日、屋敷の中をいろいろと案内してくれていた男であることはすぐにわかった。男は、「支度をして、駿河守様の御前に参上してほしい。」と続けると、伝えるべきことは伝え終えたと思ったのか、部屋の傍に控えて口を噤んだ。しかし、この男は一体何者なのだろうかと今更ながら気になった。芳野が屋敷の中を移動するときは大抵この男が先導し、ここの主の前に呼び出された時は、この男も簀子に控えている。この屋敷に仕える者の中で筆頭の者であろうが、要するに、ここの主の筆頭家臣みたいな者であろうか。気になったが、本人に尋ねる適当なタイミングもなく、失礼のない適切な質問の文句も思い浮かばなかったので聞いてみることはしなかった。
それはさておき、こんな時に急に呼び出しがあって、何事かあったのだろうかと芳野は不安になってきた。しかし、ここにいても特にすることがなく、手持無沙汰で退屈していたところだったので、いい気分転換と思うことにして、急いで支度を始めた。と言っても、既に上着は着込んでいたので、支度と言うほどの支度も必要なかったのだが、リュックは部屋に置いたままにしておくことにして、すぐに立ち上がって部屋の外に出た。案外、早く出てきたので、控えていた男は、一瞬、驚いて、慌てるも、頭の烏帽子の位置を直して一呼吸置くと立ち上がり、芳野を先導して、寝殿に向かった。
芳野の部屋は寝殿の北東にある北の対にあったので、寝殿とつなぐ廊の手前にある妻戸から簀子に出て南に進み、一旦、寝殿の東側を過ぎて、侍所や武者所が設けられている二棟廊と接続する反り橋の前を過ぎて、寝殿正面に回り、南面の簀子から、男に案内されるままに室内に入って、南庇の床に腰を下ろした。午前十時くらいにはなっているのであろうか、外は明るかったが、冬の日差しは弱々しく、地面が柔らかく照らされているのが目についた。厳しい寒気が、冷たく肌を刺して、歩くのはつらかった。
周囲を見回すと、既に駿河守は正面の畳の上に座っており、右隣には簾が下りていた。更に、その手前には几帳がいくつか置かれていたので、他にも何人か来ているようだった。
この光景は、昨日、初めて、この寝殿に参上したときの光景と瓜二つである。とすれば、隣の几帳の向こうにはあさつゆやあきおぎがいるのだろうか。そして、駿河守の隣の簾の向こうには昨日と同じように恐らく年配と思われる女性が控えているのであろう。昨日の、この場にいたときから、ずっと考えていたのだが、この屋敷の主である駿河守と同じ並びで控えているのを見ると、この屋敷内でも主に匹敵する格を持った女性であり、であれば、駿河守の奥方、もし多くの妻妾がいたとしたら、その中でも正室とみなされる女性なのではないかと推測した。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる