稲荷詣で

斐川 帙

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七、三条烏丸の御所

(三)

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 八重が戻って来た。
 八重は、部屋の外に置かれていた食べ終わった空の碗を見ると、碗の乗った折敷を自分の方に引き寄せて、懐から帖紙たとうおがみを取り出すと、
「姫君からの返しのお歌でございます。昨日の者を呼んで読ませますか?」と芳野に尋ねた。
 芳野が仮名で書かれたものを読めないことを思い出して、先回りして尋ねたのだが、芳野は、そもそも代詠された歌の内容も知らされていないし、返しの歌を聞いたところで、どう反応していいかわからなかったので断ることにした。
「いや、いいよ。聞いたところでわからないから。」
「そうでございますか…」
 八重は、急に熱が引いたように、冷めた口調で応じると、歌の書かれているであろう帖紙を芳野の部屋の中に差し入れ、碗の乗った折敷を手にして、外に出て行った。八重は、芳野が歌の贈答に全く関心を示さないことに失望したようだった。
 外に出て行く際、八重は、芳野のいる部屋に向かって、小声で、
「今宵もきっと姫君のもとにお通いになってください。きっとでございますよ。」と強く念を押すように言葉をかけてきた。芳野は、うるさく感じたものの、これだけ、念押しされるということは、あきおぎの心情を傷つけるようなことはするなと言う想いだけでなく、連夜、部屋を訪ねることには、きっと、それ以上の大事な意味が隠されているからなのだろうと感じた。それは、あきおぎと芳野の、これからの関係性に重要な意味を持つことなのかもしれない。だから、とりあえず、今夜もあきおぎの局を訪ねることにしようと心に決めた。それは、駿河守やあさつゆを始めとして、この八重も望んでいることなのであるし、昨晩、あきおぎは、別れ際に芳野の袖をつかんで、何事かを訴えかけるような目で見つめてきたが、あきおぎの、あの行動は、寝所に入ってから寝入るまで、ずっと気になっていて、何となくだが、芳野に、また来てほしいと言いたかったのではないかと思えてならなかったのだ。

 八重が出て行った後、芳野は何もすることがないので、部屋でしばらく微睡まどろんでいると、部屋の前に誰かがやって来たような気配がした。その人物は、聞き覚えのある声で、駿河守様からのお召しがあったと伝えてきた。
 障子を開けずに言われたので、姿は見えなかったが、声から、昨日、屋敷の中をいろいろと案内してくれていた男であることはすぐにわかった。男は、「支度をして、駿河守様の御前に参上してほしい。」と続けると、伝えるべきことは伝え終えたと思ったのか、部屋の傍に控えて口を噤んだ。しかし、この男は一体何者なのだろうかと今更ながら気になった。芳野が屋敷の中を移動するときは大抵この男が先導し、ここのあるじの前に呼び出された時は、この男も簀子に控えている。この屋敷に仕える者の中で筆頭の者であろうが、要するに、ここの主の筆頭家臣みたいな者であろうか。気になったが、本人に尋ねる適当なタイミングもなく、失礼のない適切な質問の文句も思い浮かばなかったので聞いてみることはしなかった。
 それはさておき、こんな時に急に呼び出しがあって、何事かあったのだろうかと芳野は不安になってきた。しかし、ここにいても特にすることがなく、手持無沙汰で退屈していたところだったので、いい気分転換と思うことにして、急いで支度を始めた。と言っても、既に上着は着込んでいたので、支度と言うほどの支度も必要なかったのだが、リュックは部屋に置いたままにしておくことにして、すぐに立ち上がって部屋の外に出た。案外、早く出てきたので、控えていた男は、一瞬、驚いて、慌てるも、頭の烏帽子の位置を直して一呼吸置くと立ち上がり、芳野を先導して、寝殿に向かった。

 芳野の部屋は寝殿の北東にある北の対にあったので、寝殿とつなぐ廊の手前にある妻戸から簀子に出て南に進み、一旦、寝殿の東側を過ぎて、侍所や武者所が設けられている二棟廊と接続する反り橋の前を過ぎて、寝殿正面に回り、南面の簀子から、男に案内されるままに室内に入って、南庇の床に腰を下ろした。午前十時くらいにはなっているのであろうか、外は明るかったが、冬の日差しは弱々しく、地面が柔らかく照らされているのが目についた。厳しい寒気が、冷たく肌を刺して、歩くのはつらかった。

 周囲を見回すと、既に駿河守は正面の畳の上に座っており、右隣には簾が下りていた。更に、その手前には几帳がいくつか置かれていたので、他にも何人か来ているようだった。
 この光景は、昨日、初めて、この寝殿に参上したときの光景と瓜二つである。とすれば、隣の几帳の向こうにはあさつゆやあきおぎがいるのだろうか。そして、駿河守の隣の簾の向こうには昨日と同じように恐らく年配と思われる女性が控えているのであろう。昨日の、この場にいたときから、ずっと考えていたのだが、この屋敷のあるじである駿河守と同じ並びで控えているのを見ると、この屋敷内でも主に匹敵する格を持った女性であり、であれば、駿河守の奥方、もし多くの妻妾がいたとしたら、その中でも正室とみなされる女性なのではないかと推測した。
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