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八、現実世界
(四)
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狐が見つからなくてがっかりしていると、ふと、隣に人の気配を感じて、視線を向けた。そこには二人連れの女性が立っていた。今の今まで、芳野の周囲には誰もいなかったのに、音もなく、いつの間にか、二人も傍に立っていて、芳野を見ている。びっくりして、些か、恐怖も感じた。
二人連れの女性をよく見ると、一人は市女笠を被って枲の垂れ衣をつけた壺装束で、袿を絡げているので、足元には赤い単が見えていた。もう一人は小袖姿で胸に赤子を抱いていた。
市女笠の女は、小柄で、しかも市女笠を目深に被っていて枲の垂れ衣があったので、顔はよく見えなかった。しかし、芳野は、どこかで会ったような既視感を覚えた。
壺装束の女が、市女笠を軽く上げて、枲の垂れ衣の隙間から芳野を恥ずかしそうに見上げた。厚く塗られた白粉に引き眉、鮮やかな紅が塗られた唇、そして口は堅く閉じたまま、微笑を浮かべていた。
芳野は、この女性が誰なのか理解して、どきっとした。あきおぎだった。
「独り寝の 宿を残して 涙川 溢るるばかり 君堰き止めよ。」
あきおぎは歌を詠んで、小袖姿の女が抱く赤子に視線をやった。
隣の女性を見ると、小袖姿の女は、あきおぎよりは年上のようだったが、年の頃、二十前後に見える若い女性だった。あきおぎは意味ありげに視線を赤子に移したのだが、芳野は、それに気づかず、ただ、この赤ん坊は誰の子だろうかと思っていた。
そもそも、小袖姿の女性が誰なのか、あきおぎとはどういう関係にあるのかは、全く知らないので、小袖姿の女性が胸に抱く赤ん坊は、多分、小袖姿の女性の子なんだろうが、ただ、小袖姿の女性が赤ん坊に注ぐ視線に若干の違和感も覚えていたのだ。
「この方はどなたなのですか?」
芳野は、ちょっと不躾とは思ったが、婉曲な聞き方が咄嗟に思い浮かばなかったので、直接的な物言いであきおぎに尋ねてしまった。
「この子の乳母です。」とあきおぎは答えた。
『乳母』という聞きなれない言葉に、芳野は一瞬、首をひねったが、すぐに、母親に替わって乳を与える女性のことであるのを思い出した。しかし、この女性が乳母であるとすると、この赤ん坊は、この女性の子ではないと言うことになり、では誰の子なのだろうと不思議に思って、赤ん坊を見ていた。
赤ん坊を不思議そうに見ていた芳野を、あきおぎはにこにこしながら眺めていた。芳野は、あきおぎの視線には気づかず、赤ん坊を見ていた。
突然、芳野の耳の近くで鈴が鳴らされた。びっくりして、音の鳴る方を見ると、さっきまで神楽殿の舞台上で舞を舞っていた巫女が、芳野のすぐ近くに立っていて、小袖姿の女性が抱く赤ん坊に向かって神楽鈴を振っていた。まるで、赤ん坊に憑りつく邪気を払うように何度も振っていた。
芳野は、ふと、あきおぎを見ると、慈しむような眼でにこやかに、赤ん坊を見つめていた。芳野は、この時のあきおぎの表情を見て、この子はあきおぎの子ではないかと直感した。
そう直感で感じて、それが正しいことを確認するかのように、赤ん坊を改めて見て、次にあきおぎを見た。そして、何気なく神楽殿に視線を向けた。しかし、神楽殿の舞台上には誰もいなかった。釣太鼓も和琴もなく、三方の置かれた八足台もなかった。ただのがらんとした舞台になっていた。
芳野は、いつの間にいなくなったのだろうと頭をひねったが、楽器を片付ける物音も、巫女や神官が舞台から引き上げる気配も感じなかったので、不思議だった。
変だなと思いつつ、あきおぎに視線を戻すと、そこには、誰もいなかった。あきおぎも乳母の姿もなかった。どういうことだろうと周囲を見回したが、どこにも二人の姿はなく、いつ二人がいなくなったのか、全く気付かなかった。
しかし、芳野は諦めきれず、しばらく、近くを歩き回って探してみたが、やはり見つからず、結局、諦めるしかなかった。
二人連れの女性をよく見ると、一人は市女笠を被って枲の垂れ衣をつけた壺装束で、袿を絡げているので、足元には赤い単が見えていた。もう一人は小袖姿で胸に赤子を抱いていた。
市女笠の女は、小柄で、しかも市女笠を目深に被っていて枲の垂れ衣があったので、顔はよく見えなかった。しかし、芳野は、どこかで会ったような既視感を覚えた。
壺装束の女が、市女笠を軽く上げて、枲の垂れ衣の隙間から芳野を恥ずかしそうに見上げた。厚く塗られた白粉に引き眉、鮮やかな紅が塗られた唇、そして口は堅く閉じたまま、微笑を浮かべていた。
芳野は、この女性が誰なのか理解して、どきっとした。あきおぎだった。
「独り寝の 宿を残して 涙川 溢るるばかり 君堰き止めよ。」
あきおぎは歌を詠んで、小袖姿の女が抱く赤子に視線をやった。
隣の女性を見ると、小袖姿の女は、あきおぎよりは年上のようだったが、年の頃、二十前後に見える若い女性だった。あきおぎは意味ありげに視線を赤子に移したのだが、芳野は、それに気づかず、ただ、この赤ん坊は誰の子だろうかと思っていた。
そもそも、小袖姿の女性が誰なのか、あきおぎとはどういう関係にあるのかは、全く知らないので、小袖姿の女性が胸に抱く赤ん坊は、多分、小袖姿の女性の子なんだろうが、ただ、小袖姿の女性が赤ん坊に注ぐ視線に若干の違和感も覚えていたのだ。
「この方はどなたなのですか?」
芳野は、ちょっと不躾とは思ったが、婉曲な聞き方が咄嗟に思い浮かばなかったので、直接的な物言いであきおぎに尋ねてしまった。
「この子の乳母です。」とあきおぎは答えた。
『乳母』という聞きなれない言葉に、芳野は一瞬、首をひねったが、すぐに、母親に替わって乳を与える女性のことであるのを思い出した。しかし、この女性が乳母であるとすると、この赤ん坊は、この女性の子ではないと言うことになり、では誰の子なのだろうと不思議に思って、赤ん坊を見ていた。
赤ん坊を不思議そうに見ていた芳野を、あきおぎはにこにこしながら眺めていた。芳野は、あきおぎの視線には気づかず、赤ん坊を見ていた。
突然、芳野の耳の近くで鈴が鳴らされた。びっくりして、音の鳴る方を見ると、さっきまで神楽殿の舞台上で舞を舞っていた巫女が、芳野のすぐ近くに立っていて、小袖姿の女性が抱く赤ん坊に向かって神楽鈴を振っていた。まるで、赤ん坊に憑りつく邪気を払うように何度も振っていた。
芳野は、ふと、あきおぎを見ると、慈しむような眼でにこやかに、赤ん坊を見つめていた。芳野は、この時のあきおぎの表情を見て、この子はあきおぎの子ではないかと直感した。
そう直感で感じて、それが正しいことを確認するかのように、赤ん坊を改めて見て、次にあきおぎを見た。そして、何気なく神楽殿に視線を向けた。しかし、神楽殿の舞台上には誰もいなかった。釣太鼓も和琴もなく、三方の置かれた八足台もなかった。ただのがらんとした舞台になっていた。
芳野は、いつの間にいなくなったのだろうと頭をひねったが、楽器を片付ける物音も、巫女や神官が舞台から引き上げる気配も感じなかったので、不思議だった。
変だなと思いつつ、あきおぎに視線を戻すと、そこには、誰もいなかった。あきおぎも乳母の姿もなかった。どういうことだろうと周囲を見回したが、どこにも二人の姿はなく、いつ二人がいなくなったのか、全く気付かなかった。
しかし、芳野は諦めきれず、しばらく、近くを歩き回って探してみたが、やはり見つからず、結局、諦めるしかなかった。
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