無責任な大人達

Jane

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普通の子 4

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 重野先生との約束通り、お母さんの言う通り、面接後に入院をした。病院の先生が言うには摂食障害の様な状態だったらしくまずは点滴で栄養を入れ、お粥から固形の食事にしていった。勧められたカウンセリングも受けた。入院中は時間がとてもゆっくり過ぎていった。
 両親はお見舞いに毎日来てくれた。2人とも仕事があるのに、必ず僕の顔を見に来た。そして少しずつ体重が戻っていく僕の顔を見て、母は泣いた。不思議な事に体重が増えていくと、思考回路もはっきりとしてくる。霧が晴れていくかのように。
 ベッドに備え付けられたテーブルの上に封筒を置き、母が言った。「お母さん、仕事辞めるかセーブしようかと思っているの」
「どうして?」
 母は従業員が2人だけのエステを経営している。父は税理士で、兄が一人いてアメリカの大学に留学していた。僕の家は裕福な部類には入るが、東京の一等地に豪邸を立てる程でも、億単位のタワーマンションに住む程ではない。兄は留学をしているし、僕の通っている中学校は私立だけど、底なしにお金がある訳ではない事は知っていた。
「あなたと一緒に海が丘高校の側に住もうと思うの」母の指が封筒を叩いた。
「合格したの?普通科?」僕は手を伸ばした。封は開いていなかった。「開いてないよ?」
「開けてみて」
 僕は封を開けた。シンプルに普通科、合格とだけ書いてあった。ホッとした。「良かった」
「そうね、おめでとう」母は困ったような顔で笑った。「でね、お父さんと相談したの。高校の近くにアパートでも借りようかと思って」
「僕は家から通うよ。だから仕事は辞めないで。お母さん、エステの仕事好きでしょ?」
「まだ」母は眉をひそめた。「無理だと思うのよ。後数週間で入学式だし、それまでに退院は出来たとしても、体調はまだ不安定だとお医者さんも言っているし。満員電車にも乗る事になるし、二時間以上掛けて通う事はお勧めできないって」
「でも」これ以上、両親に負担をかけるのは気が引けた。ただでさえ、遠くの私立高校への入学、海が丘高校は今の私立中学校よりも学費が高かった。幾ら今現在金銭的に余裕があっても、兄が留学している事や家のローンを抱えている両親にとって母が仕事を辞めてしまう事はきつい、それくらいなら僕にも分かる。
「心配なのよ、あなたが」母が目に涙を溜めていた。
「ごめんなさい」母が涙を流す姿を見るのはとても苦しい。
「重野先生が自宅を寮みたいにしても良いと言って下さっているの」
「寮って?先生の自宅に住むの?」
 海が丘高校には寮はない。私立高校だがスポーツ推薦はない。学校としてスポーツには力を入れていないらしい。HPには部活動の事は何も書いていない。部活動以外のスポーツや芸術などでも優秀な生徒はいるらしいが、何も書いていない。卒業した生徒がどこの大学に入学したのかさえ書いていない。ホームページには学校側が行っている事だけが書かれていた。
 通っている私立中学校とは真逆の様な学校だ。中学校のホームページには部活で優秀な成績を収めた生徒、部活以外のスポーツや習い事で優秀な成績を収めた生徒、絵や書道で賞を取った生徒、卒業生の活躍が必要以上にアピールされていた。僕の名前や写真も載った事がある。理事長と校長先生と部活の先生と4人で、賞状を持って写真を撮った。
 同級生の誰かが言った、部活は別にしても学校は子どもの努力に乗っかって宣伝にしている、先生達が頑張った訳でもないのに、学校が何かをしてくれた訳じゃないのに、と。
 卒業後に目覚ましい活躍を果たした卒業生は「この中学校は楽しい」と繰り返し話す。それは本心だろうか。あの校長先生は長い事、あの学校で校長をしている。他の先生たちも転勤がないせいか、ベテランの先生ばかり。人は急激に変化するのだろうか。僕以外の生徒は本当にあの中学校が楽しかったのだろうか。
 僕があの学校を選んだ理由は地元の公立の小学校が荒れていたからだ。小学校の同級生はそのまま公立の中学校へと進学する。小学校は高学年の時に学級崩壊を起こしていた。いじめもあった、先生に立てつき暴力まで振るう児童もいた。保護者は自分の子が悪い事をしても学校を責めた、自分の子をちゃんと見ろとクレームを入れていた。あの小学校は安心して勉強が出来る場ではなかった。今思えば先生たちにも多くの問題があったが、通っている生徒や保護者にも多くの問題があった。不安を感じたのは僕だけでなく、両親も一緒だった。
 中学校の説明会は綺麗で美しい言葉が並んでいた。先生と生徒の仲が良い、親身になって先生は相談に乗ってくれる、生徒には思いやりの心を教えている、とても綺麗な言葉だった。何故、あの学校を選んだのだろう。僕はその余りにも綺麗な言葉に縋ったのかもしれない。
「県外の生徒から問い合わせが増えているそうなの。それで寮の事も考えていたところだからって。でも、寮を建設するまでには至っていないから、自宅を使用しても良いって」母はため息の様に息を付いた。「仕事を辞めるにしても明日から辞めます、と言える訳ではないから」
「寮はどのくらい費用が掛かるの?」
「食費くらいで良いって。きちんとした寮ではないし、まだあなた1人だからって」
 母はまだ決めかねている様だった。仕事と僕との間で揺れている、そんな感じがしていた。母と同じ様に僕もまた悩んでいた。母の気持ちは理解しているつもりだった。この一年、迷惑をとてもかけた。心配もさせた。でも、だからこそ母から仕事まで奪いたくはない。母はエステの仕事に情熱と埃を持っていた。生き生きと仕事をしている母が好きだ。
「寮に入りたい。だからお母さんは仕事を辞めないで」
 母は悲しげに笑った。
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