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王宮・温室にて
しおりを挟む昼下がりの温室は、まるで別世界だった。
ガラス越しの陽光が草花を柔らかく照らし、淡い緑の香りが空気を包む。
アメリアは人払いをして、一人、ふらりと温室を訪れていた。昨日の夜会の余韻が、まだ胸の奥に刺さっていた。
「……王太子妃様?」
背後から、遠慮がちに声がした。
振り返ると、白い作業服に身を包んだ若い女性が、手に籠を持って立っていた。
茶色の髪をゆるく結い、控えめな印象のその女性は、アメリアが見た“あの娘”──エルナだった。
「あら……花の世話を?」
アメリアが微笑むと、エルナはおずおずと頷いた。
「はい、いつもこの時間に……すぐ、下がります」
「いいえ、構わないわ。私も静かに過ごしたかっただけだから」
アメリアはベンチに腰掛けると、目を閉じて深呼吸をした。
その間もエルナは静かに花の手入れを続けている。だが、その所作はとても丁寧で、美しかった。
「花……お好きなのね」
「はい、小さなころから。しゃべらないけれど、感情に寄り添ってくれるような気がして……」
その言葉に、アメリアは少しだけ目を開けた。
「花は、慰めてくれる存在。……わかるわ。
言葉を使わず、すべてを包んでくれるもの」
二人の間に、やわらかな共感が流れた。
そして、不意にアメリアが口を開いた。
「貴女、王都のご出身?」
「……はい。王宮の近くで、花屋を。今は縁あって、ここの温室に」
「そう。──この王宮に来るのは、久しぶり?」
エルナは一瞬だけ手を止めた。
だがすぐ、笑顔で頷いた。
「ええ。……とても、久しぶりです」
その返事に、アメリアは何かを感じ取った。
だが、あえてそれ以上は言わなかった。
代わりに、静かに続ける。
「貴女は……誠実な人ね。花に触れる手を見てわかるわ」
「恐縮です。……私は、ただの町の娘ですから」
「だからこそ、気づけることがある。
王宮に生まれた者には見えない景色も、感じられない痛みも」
エルナは、ほんの一瞬だけアメリアを見た。
その瞳には、言葉にできない想いが宿っていた。
やがて、彼女はかすかに頭を下げる。
「王太子妃様は……優しい方ですね」
「そうかしら? 最近、そうでもない自分に気づいて困っているのよ」
アメリアは自嘲気味に笑った。
その笑みに、エルナもそっと微笑を返す。
ふたりの間には、どこにも“名前”は出なかった。
だが、“互いが気づいていること”は、静かに共有された。
――ひとりの男の影。
そして、それぞれの立場からしか見えない現実。
アメリアは立ち上がり、エルナに向かって微笑んだ。
「また、花を見に来てもいいかしら」
「……もちろんです。いつでも、お待ちしています」
アメリアは背を向けて歩き出した。
その背中に、エルナは何も言わず、ただ頭を下げて見送った。
温室の静寂には、言葉よりも重い“理解”が漂っていた。
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