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わたしについて
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図書室には誰もいない。一応学生が立ち入りすることは考慮されていない時間帯だ。5時限目の授業で図書館探検でもない限り、生徒はおろか教師すらいない。なんとも素敵な時間だが、元々人気のない図書館だ。放課後の図書館と同じ雰囲気のままだ。
わたしとすれ違う人全てがわたしを見たけれど、目をそらしたり、話しかけようとして躊躇したりした。目が赤かったから? 尋常じゃない雰囲気を纏っていたから?
でも、誰一人、引き止めなかった。授業に向かう教師。移動教室へ向かう同級生。ジャージ姿の後輩。いろんな人にすれ違ったけれど、誰も呼び止めなかった。
「close」とガラス戸にマグネットが貼られているのを確認しながら、扉に力を込める。鍵はかかっていなかった。
と言うことは、紫藤さんがいるということ。
それなりに大きな音を立てて入ったけれど、図書室は耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。空気すらも動かなくてカチンと固まっている。わたしの動く音だけが、足音が、鼓動がこの空間の音だ。
「紫藤さぁん」
口からポロリと漏れたけれど、どこからも返事は返ってこない。司書室は防音なのだろうか?
右手には読書スペース、左手にはずらりと並ぶ本棚で構成されたありきたりな図書室は、わたしが歩くたびに少しだけ上下する。わたしを歓迎しているのか、拒んでいるのかはわからない。食道を通る食べ物になった気持ちで、奥へ進む。
紫藤さんに会いたいけれど、会いたくない。話をしたいけれど、何も話したくない。
なんだろうこの矛盾。図書室に来てしまったのに、いまだにわたしの気持ちは煮え切っていなかったみたいだ。でも紫藤さんに実際に会ってわたしは何がしたいんだろう。目も合わせられないのに。
一番奥まで来てしまった。
一番日当たりの良い場所は、ちょっとしたくつろげる場所になっていて、不良たちの溜まり場になっていたりする。今日は誰もいないから、この場所は独り占めだ。
足を投げ出してクッションに身を埋めて読書ができる、リラックススペース。高校でこんな場所があるのはこの学校くらいだ。一体誰の提案なのだろうか。紫藤さん? まさかね。
本棚から適当に一冊抜きとって、そのスペースに腰を下ろす。柔らかいクッションがずぶずぶと私の体を沈み込ませた。文庫の小説だ。
ゆっくりとページを捲り、物語を目で追いかける。だんだん外が眩しくなってきて、太陽が傾いているのがわかった。窓際のこの場所は暖かいけれど、直射日光で汗ばんでしまう。物語は進む。目が勝手に追いかける。「わたし」は一体どこに向かっていくの……。
クッションも日の光を受けてあったまっていく。だんだんねむく、なっていく。
「何してるんですか」
冷たい声で目が覚める。一ヶ月聞かなかった声。聞きたかった、聞きたくなかった、声。
クッションの中で、小説を胸の上に置いたまま眠ってしまっていたみたいだった。ページは開かれたまま。奇跡的にぐしゃぐしゃにならずに、綺麗に開かれた状態を維持していた。見上げると、紫藤さん。いつも通りの無表情。一ヶ月ぶりの再会だというのに、その顔には何の色も浮かんでいなかった。いつも通りの紫藤さんだった。
「閉館の時間なんですが」
何かの鍵を弄り回しながら、見下ろしていた。相変わらず私の顔は見ていない。小説の表紙を見ていた。
口の端を拭って、涎が垂れていないかを確認する。手の甲にうっすら付いた液体を、スカートの裾でゴシゴシ擦った。恥じらいは素通りされて、紫藤さんは言葉を探しているようだった。こっちから話しかけることはあっても、向こうから話しかけられたことはない。初めてのことだった。
「面白いですよね、それ。後味が悪くて」
「あ、え、うん。はい。そう思います」
本の話になると、紫藤さんはちょっとだけ、話すのだ。本当に本が好きらしい。
気がつくと、図書室には明かりが灯っていて、眩しいくらいの太陽はとっぷりと暮れていた。
今は何時? もう夕方ではないだろう。かなりの時間眠りこけてしまっていたようだった。空調はとっくに落とされたのか、少し肌寒い。
「借りるなら手続きしますよ」
先月のことが丸ごと「なかったこと」になっていた。
なんでもない口振りで、わたしのてから文庫本がひょいと取り上げられる。紫藤さんの真っ白な手が、ちょっとだけ私の手に触れた。冷たかった。
「紫藤さん」
本を持った紫藤さんは、そのまま踵を返してカウンターの方に向かっていく。ロボットがゴミを回収したみたいな動きで、私の声は無視される。紫藤さんがロボットと違うのは、いつでも音を拾えると言うところ。
「紫藤さん、好きです」
何の計画性もないただの感情が、紫藤さんの背中にぶつかる。寝ぼけていたことにしてしまおうか。「寿司です」とか、適当な言い間違いだと誤魔化そうか。そわそわと頭の中で考えていると、紫藤さんが振り向いた。カウンターと、紫藤さんと、私の距離は等間隔だった。
「女性の精神年齢は、通常の年齢よりも三歳ほど上だと言われています」
蛍光灯ではなく、間接照明のスタンドライトだけがパソコンを照らしている。だから図書館全体が暗く感じるのか。
オレンジ色の優しい照明に照らされた紫藤さんは、昼間の紫藤さんよりもすこおし、色気がある。青白い顔が上気しているようにも見える。
すらりと高い鼻が、長いまつ毛が、うっすらと顔に影を落としていつもとは違う紫藤さんになった。
「つまり、同い年の異性を見ても、子供っぽいと思ってしまうわけです。思春期の女子生徒は、いわゆるラブロマンスを望む傾向が強い」「だから、女子生徒と教師の禁断の恋に発展するケースは現実世界でも起こりうることなんです」「まぁ私は司書ですので、教師の皆さんとはまた毛色が違うのですけれど」
一体、何の話をしているのだ。紫藤さんは、私の斜め下あたりを見ながら、ぽそぽそと話している。
精神年齢とか、ラブロマンスだとか。私の「好き」と何が関係しているのか。
「結論としては、至極当然な心理的反応だなと、そういうことが言いたかったです」
「でも、紫藤さんが好きです」
「はあ」
呆れたみたいな、面倒臭そうなため息。二回目の一世一代すらも、粉々に砕かれてしまう。でも、私もただ気持ちをぶつけただけだ。
「紫藤さんと付き合いたいとか、思ってないです。ただ好きなんです」
「恐縮です」
「でも、紫藤さんがわたし以外の人にも同じような態度をとっていたら、嫌です」
「恐縮です」
「です」の「で」が全然聞こえなくて、「キョウシュクッス」と聞こえてくる。急に紫藤さんが同級生になったみたいだった。おざなりに斜めに頭をちょっと下げると、紫藤さんは今度こそカウンターに向かった。煌々と光るモニターの前に座って、操作を始める。
そういえば、貸出カードをずっと提出していない。一応各生徒に配布されている貸出カードのバーコードを読み込ませて、データベースで貸出、返却を管理しているはず。
紫藤さんに貸出カードを見せたのは初めて会った時から数えて二、三回くらいだ。どうやって貸出をしているのだろう。ちょっと気になって、カウンターに向かう。
さっきまでの告白、とかそういう雰囲気は全部「なかったこと」にして。
「貸出カード、いります?」
その質問に、紫藤さんは若干スルーしながら、貸出手続きを進めている。
たんっとエンターキーを押し込んで、私に本を突き出す。若干、ぶっきらぼうなその動きに、いつもと違う紫藤さんを見た。あんなに大切に本を扱うあの手つきは、今日ばかりは乱暴だ。
「高校のデータベースは杜撰な箇所がありまして」
ポツリと話し出した。それを私は聞く。こんなにも自分から話し出す紫藤さんは珍しい。私を追い出そうと小言を飛ばすことは日常茶飯事なんだけれど。
「そのバーコードの下に記入されている数字を打ち込むだけで、データ上では手続きできるんです。各自で違う数字になっているので覚えるのは厄介ですが」
早口で説明して、パソコンの電源を落とす紫藤さん。それって、わたしの番号を覚えていたということだろうか? 何度も何度も通っていたから、カードの番号を覚えてしまったというのだろうか。それに、今のパソコンだって。わたしの貸出のためにずっとつけていたのだろうか?
わたしのため。
ちょっと、胸が熱くなる。あれだけ邪険にしていたくせに、こういうところで優しいんだ。それと同時に、やっぱり紫藤さんも人間なんだなと、「変な人」のピースがまた一枚剥がれていった。
まだまだ「普通の人」のピースは埋まりきっていないけれど、でもそれが埋まりきっても多分、私は紫藤さんが好き。優しい、普通な人でも、多分、紫藤さんが好き。
何を考えているのか少しだけでも、知りたい。聞き出したい。
「司書室に何があるのか、気になっていましたよね」
無言の時間がしばらく続いて、紫藤さんは立ち上がった。私はぼうっと紫藤さんの刈り上げられたツーブロックをじっと見つめていた。先月よりも、ちょっと伸びていて芝生みたい。紫藤さんがこんなに話すなんて、珍しい。
でも、もう私は司書室に興味を持っていなかった。ただの好奇心はすぐに萎んで消えてしまうものだ。
紫藤さんが怒鳴ってまで守ろうとしていた秘密の領域に今更入りたいなんてこれっぽっちも思っていなかった。
まぁ、案内してくれるなら、断る理由はないんだけれど。
「見せてくれるんですか」
「ええ」
あれだけ開くのを夢見ていた、司書室は簡単に開かれた。紫藤さんの手によって。あっさりと。
小気味の良い、防火扉が開く音みたいな音を立てながら、司書室が顕になった。
紫藤さんは躊躇なく踏み込んだ。床は何かの書類が散らばっていて、狭いスペースに簡易なテーブルが取り付けられている。
「あなたを信用して、見せていますからね」
「はあ」
「杜撰な高校ですが、さすがに改造したとなると話は変わってきますから」
「はあ」
今度は私がため息を吐く番だった。ため息っていうか、相槌のつもりだったんだけれど。でも、口から漏れ出るのはただのため息だった。
目の前に見える景色に心を奪われた。
2人がやっと入れるくらいの、小さな部屋だった。床から天井まで分厚い本がびっしりと積み重なっていて、テーブルには何個もドリルの穴が空いていた。紫藤さんがやったのだろう。
紫藤さんはちょっと屈んで、テーブルの影から何かを取り出す。ごとり、と思い音が響いて、重そうな瓶が一つカウンターに置かれた。
「ここで読書しながら飲むのが好きなんです」
ラベルは英語。読み取れないが、「wine」というスペルを見つけた。ワイン。ワインだ。
「流石に酒類を持ち込むのは青少年に不健全な影響を与えそうで、隠していたんですけれど」
でもまぁ、あなただったら言っても大丈夫かなと。
その大丈夫には、何が含まれているのだろう。私だから、何が大丈夫なのだろう。
おもむろにコルクを抜いて、瓶の口に、唇をそわせる。紫藤さんの、不健康な唇に、瓶の淵がふに、と当たる。
中身の紫色の液体が揺れて、その数ミリリットルが紫藤さんの胃の中に滑り込んだ。あ、すごい。大人。
「ワイングラスは流石に持ち込めないので、汚いですが」「これが、私の唯一の趣味みたいなものです」
瓶から漂うアルコールの匂いに咽せそうになるけれど、その液体の味が気になって仕方がなかった。紫藤さんはもう一度口をつける。
唇の端にほんの少し、青白さじゃない紫色が残っていた。ごくりと唾を飲み込んだ。紫藤さんの飲んだものが、ほしい。
「飲んでいいですか」
コルクを閉めようとした紫藤さんに、勇気を出してお願いした。同じものを感じたかった。紫藤さんと同じものを飲み、紫藤さんと同じ気持ちになりたかった。
「気にしないなら、どうぞ」
ぶっきらぼうにボトルを差し出す。その表情は幾分か柔らかいものになっていた。無表情じゃない。これはワインのせい?
紫藤さんから受け取った瓶は、結構重い。秘密の重み。
中身は明かりに照らされて深い紫色の海が瓶の口から覗く。とぷん。大人の味。鼻をさすアルコールの匂いを我慢しながら、コーラを飲むみたいに、傾けた。
「ちょっとずつの方が、いいですよ」
もっと早く言って欲しかった。流れ込んできた液体は渋くて、苦くて、到底飲めたものじゃない。逆流しそうな液体を喉の奥に無理やり滑り込ませる。無言で瓶を突き返した。これが、大人。わたしにはまだまだ早い。
「不味いです」
「美味しかったら困ります」
飲み込んだ液体の味すら正確にわからない。迫り上がってきた液体の波をぶちまけたくなくて、生唾を何度も飲みくだす。アルコールと、渋さと、苦味と、よくわからない味。胃液?
紫藤さんはそんな私をお構いなしに、ワインを丁寧にしまい、司書室から出た。わたしもそれに続く。扉を閉めた。
鍵もかかっていない危うい空間に、秘密が隠れている。その秘密は、わたしと紫藤さんだけが知っている。わたしだけ。それがゾワゾワしてとても嫌で、でもむずむずと嬉しくて、どうしようもない。
紫藤さんの人間的な部分をどんどん知っていくのが嫌だ。でも、人間らしくない部分が取り払われていくのも嫌だ。
こんな正反対の気持ちは結局、「嫌だ」と「好きだ」の感情に行き着く。どうしようもなく、紫藤さんが好きなのだ。
動物的に、魂的に、紫藤さんが好きだ。
「紫藤さん、好きです」
わたしは何の捻りもなく、紫藤さんに好意を打ち明ける事しかできない。それをいうことによって紫藤さんに何を期待しているのかわからない。付き合いたいわけじゃない。見返りが欲しい訳でもない。紫藤さんの幸せだけを祈っている訳でもない。
だから、恋じゃない。
だから、愛じゃない。
だから、恋愛じゃない。
ただひたすらに、紫藤さんにどろどろぐちゃぐちゃした、どうしようもない劣情を抱いているのだ。
「返事はまぁ、あなたは素敵な人ですね。って事でいいでしょうか」
紫藤さんの返事は「はい」でも「いいえ」でもなかった。
それでよかった。
わたしとすれ違う人全てがわたしを見たけれど、目をそらしたり、話しかけようとして躊躇したりした。目が赤かったから? 尋常じゃない雰囲気を纏っていたから?
でも、誰一人、引き止めなかった。授業に向かう教師。移動教室へ向かう同級生。ジャージ姿の後輩。いろんな人にすれ違ったけれど、誰も呼び止めなかった。
「close」とガラス戸にマグネットが貼られているのを確認しながら、扉に力を込める。鍵はかかっていなかった。
と言うことは、紫藤さんがいるということ。
それなりに大きな音を立てて入ったけれど、図書室は耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。空気すらも動かなくてカチンと固まっている。わたしの動く音だけが、足音が、鼓動がこの空間の音だ。
「紫藤さぁん」
口からポロリと漏れたけれど、どこからも返事は返ってこない。司書室は防音なのだろうか?
右手には読書スペース、左手にはずらりと並ぶ本棚で構成されたありきたりな図書室は、わたしが歩くたびに少しだけ上下する。わたしを歓迎しているのか、拒んでいるのかはわからない。食道を通る食べ物になった気持ちで、奥へ進む。
紫藤さんに会いたいけれど、会いたくない。話をしたいけれど、何も話したくない。
なんだろうこの矛盾。図書室に来てしまったのに、いまだにわたしの気持ちは煮え切っていなかったみたいだ。でも紫藤さんに実際に会ってわたしは何がしたいんだろう。目も合わせられないのに。
一番奥まで来てしまった。
一番日当たりの良い場所は、ちょっとしたくつろげる場所になっていて、不良たちの溜まり場になっていたりする。今日は誰もいないから、この場所は独り占めだ。
足を投げ出してクッションに身を埋めて読書ができる、リラックススペース。高校でこんな場所があるのはこの学校くらいだ。一体誰の提案なのだろうか。紫藤さん? まさかね。
本棚から適当に一冊抜きとって、そのスペースに腰を下ろす。柔らかいクッションがずぶずぶと私の体を沈み込ませた。文庫の小説だ。
ゆっくりとページを捲り、物語を目で追いかける。だんだん外が眩しくなってきて、太陽が傾いているのがわかった。窓際のこの場所は暖かいけれど、直射日光で汗ばんでしまう。物語は進む。目が勝手に追いかける。「わたし」は一体どこに向かっていくの……。
クッションも日の光を受けてあったまっていく。だんだんねむく、なっていく。
「何してるんですか」
冷たい声で目が覚める。一ヶ月聞かなかった声。聞きたかった、聞きたくなかった、声。
クッションの中で、小説を胸の上に置いたまま眠ってしまっていたみたいだった。ページは開かれたまま。奇跡的にぐしゃぐしゃにならずに、綺麗に開かれた状態を維持していた。見上げると、紫藤さん。いつも通りの無表情。一ヶ月ぶりの再会だというのに、その顔には何の色も浮かんでいなかった。いつも通りの紫藤さんだった。
「閉館の時間なんですが」
何かの鍵を弄り回しながら、見下ろしていた。相変わらず私の顔は見ていない。小説の表紙を見ていた。
口の端を拭って、涎が垂れていないかを確認する。手の甲にうっすら付いた液体を、スカートの裾でゴシゴシ擦った。恥じらいは素通りされて、紫藤さんは言葉を探しているようだった。こっちから話しかけることはあっても、向こうから話しかけられたことはない。初めてのことだった。
「面白いですよね、それ。後味が悪くて」
「あ、え、うん。はい。そう思います」
本の話になると、紫藤さんはちょっとだけ、話すのだ。本当に本が好きらしい。
気がつくと、図書室には明かりが灯っていて、眩しいくらいの太陽はとっぷりと暮れていた。
今は何時? もう夕方ではないだろう。かなりの時間眠りこけてしまっていたようだった。空調はとっくに落とされたのか、少し肌寒い。
「借りるなら手続きしますよ」
先月のことが丸ごと「なかったこと」になっていた。
なんでもない口振りで、わたしのてから文庫本がひょいと取り上げられる。紫藤さんの真っ白な手が、ちょっとだけ私の手に触れた。冷たかった。
「紫藤さん」
本を持った紫藤さんは、そのまま踵を返してカウンターの方に向かっていく。ロボットがゴミを回収したみたいな動きで、私の声は無視される。紫藤さんがロボットと違うのは、いつでも音を拾えると言うところ。
「紫藤さん、好きです」
何の計画性もないただの感情が、紫藤さんの背中にぶつかる。寝ぼけていたことにしてしまおうか。「寿司です」とか、適当な言い間違いだと誤魔化そうか。そわそわと頭の中で考えていると、紫藤さんが振り向いた。カウンターと、紫藤さんと、私の距離は等間隔だった。
「女性の精神年齢は、通常の年齢よりも三歳ほど上だと言われています」
蛍光灯ではなく、間接照明のスタンドライトだけがパソコンを照らしている。だから図書館全体が暗く感じるのか。
オレンジ色の優しい照明に照らされた紫藤さんは、昼間の紫藤さんよりもすこおし、色気がある。青白い顔が上気しているようにも見える。
すらりと高い鼻が、長いまつ毛が、うっすらと顔に影を落としていつもとは違う紫藤さんになった。
「つまり、同い年の異性を見ても、子供っぽいと思ってしまうわけです。思春期の女子生徒は、いわゆるラブロマンスを望む傾向が強い」「だから、女子生徒と教師の禁断の恋に発展するケースは現実世界でも起こりうることなんです」「まぁ私は司書ですので、教師の皆さんとはまた毛色が違うのですけれど」
一体、何の話をしているのだ。紫藤さんは、私の斜め下あたりを見ながら、ぽそぽそと話している。
精神年齢とか、ラブロマンスだとか。私の「好き」と何が関係しているのか。
「結論としては、至極当然な心理的反応だなと、そういうことが言いたかったです」
「でも、紫藤さんが好きです」
「はあ」
呆れたみたいな、面倒臭そうなため息。二回目の一世一代すらも、粉々に砕かれてしまう。でも、私もただ気持ちをぶつけただけだ。
「紫藤さんと付き合いたいとか、思ってないです。ただ好きなんです」
「恐縮です」
「でも、紫藤さんがわたし以外の人にも同じような態度をとっていたら、嫌です」
「恐縮です」
「です」の「で」が全然聞こえなくて、「キョウシュクッス」と聞こえてくる。急に紫藤さんが同級生になったみたいだった。おざなりに斜めに頭をちょっと下げると、紫藤さんは今度こそカウンターに向かった。煌々と光るモニターの前に座って、操作を始める。
そういえば、貸出カードをずっと提出していない。一応各生徒に配布されている貸出カードのバーコードを読み込ませて、データベースで貸出、返却を管理しているはず。
紫藤さんに貸出カードを見せたのは初めて会った時から数えて二、三回くらいだ。どうやって貸出をしているのだろう。ちょっと気になって、カウンターに向かう。
さっきまでの告白、とかそういう雰囲気は全部「なかったこと」にして。
「貸出カード、いります?」
その質問に、紫藤さんは若干スルーしながら、貸出手続きを進めている。
たんっとエンターキーを押し込んで、私に本を突き出す。若干、ぶっきらぼうなその動きに、いつもと違う紫藤さんを見た。あんなに大切に本を扱うあの手つきは、今日ばかりは乱暴だ。
「高校のデータベースは杜撰な箇所がありまして」
ポツリと話し出した。それを私は聞く。こんなにも自分から話し出す紫藤さんは珍しい。私を追い出そうと小言を飛ばすことは日常茶飯事なんだけれど。
「そのバーコードの下に記入されている数字を打ち込むだけで、データ上では手続きできるんです。各自で違う数字になっているので覚えるのは厄介ですが」
早口で説明して、パソコンの電源を落とす紫藤さん。それって、わたしの番号を覚えていたということだろうか? 何度も何度も通っていたから、カードの番号を覚えてしまったというのだろうか。それに、今のパソコンだって。わたしの貸出のためにずっとつけていたのだろうか?
わたしのため。
ちょっと、胸が熱くなる。あれだけ邪険にしていたくせに、こういうところで優しいんだ。それと同時に、やっぱり紫藤さんも人間なんだなと、「変な人」のピースがまた一枚剥がれていった。
まだまだ「普通の人」のピースは埋まりきっていないけれど、でもそれが埋まりきっても多分、私は紫藤さんが好き。優しい、普通な人でも、多分、紫藤さんが好き。
何を考えているのか少しだけでも、知りたい。聞き出したい。
「司書室に何があるのか、気になっていましたよね」
無言の時間がしばらく続いて、紫藤さんは立ち上がった。私はぼうっと紫藤さんの刈り上げられたツーブロックをじっと見つめていた。先月よりも、ちょっと伸びていて芝生みたい。紫藤さんがこんなに話すなんて、珍しい。
でも、もう私は司書室に興味を持っていなかった。ただの好奇心はすぐに萎んで消えてしまうものだ。
紫藤さんが怒鳴ってまで守ろうとしていた秘密の領域に今更入りたいなんてこれっぽっちも思っていなかった。
まぁ、案内してくれるなら、断る理由はないんだけれど。
「見せてくれるんですか」
「ええ」
あれだけ開くのを夢見ていた、司書室は簡単に開かれた。紫藤さんの手によって。あっさりと。
小気味の良い、防火扉が開く音みたいな音を立てながら、司書室が顕になった。
紫藤さんは躊躇なく踏み込んだ。床は何かの書類が散らばっていて、狭いスペースに簡易なテーブルが取り付けられている。
「あなたを信用して、見せていますからね」
「はあ」
「杜撰な高校ですが、さすがに改造したとなると話は変わってきますから」
「はあ」
今度は私がため息を吐く番だった。ため息っていうか、相槌のつもりだったんだけれど。でも、口から漏れ出るのはただのため息だった。
目の前に見える景色に心を奪われた。
2人がやっと入れるくらいの、小さな部屋だった。床から天井まで分厚い本がびっしりと積み重なっていて、テーブルには何個もドリルの穴が空いていた。紫藤さんがやったのだろう。
紫藤さんはちょっと屈んで、テーブルの影から何かを取り出す。ごとり、と思い音が響いて、重そうな瓶が一つカウンターに置かれた。
「ここで読書しながら飲むのが好きなんです」
ラベルは英語。読み取れないが、「wine」というスペルを見つけた。ワイン。ワインだ。
「流石に酒類を持ち込むのは青少年に不健全な影響を与えそうで、隠していたんですけれど」
でもまぁ、あなただったら言っても大丈夫かなと。
その大丈夫には、何が含まれているのだろう。私だから、何が大丈夫なのだろう。
おもむろにコルクを抜いて、瓶の口に、唇をそわせる。紫藤さんの、不健康な唇に、瓶の淵がふに、と当たる。
中身の紫色の液体が揺れて、その数ミリリットルが紫藤さんの胃の中に滑り込んだ。あ、すごい。大人。
「ワイングラスは流石に持ち込めないので、汚いですが」「これが、私の唯一の趣味みたいなものです」
瓶から漂うアルコールの匂いに咽せそうになるけれど、その液体の味が気になって仕方がなかった。紫藤さんはもう一度口をつける。
唇の端にほんの少し、青白さじゃない紫色が残っていた。ごくりと唾を飲み込んだ。紫藤さんの飲んだものが、ほしい。
「飲んでいいですか」
コルクを閉めようとした紫藤さんに、勇気を出してお願いした。同じものを感じたかった。紫藤さんと同じものを飲み、紫藤さんと同じ気持ちになりたかった。
「気にしないなら、どうぞ」
ぶっきらぼうにボトルを差し出す。その表情は幾分か柔らかいものになっていた。無表情じゃない。これはワインのせい?
紫藤さんから受け取った瓶は、結構重い。秘密の重み。
中身は明かりに照らされて深い紫色の海が瓶の口から覗く。とぷん。大人の味。鼻をさすアルコールの匂いを我慢しながら、コーラを飲むみたいに、傾けた。
「ちょっとずつの方が、いいですよ」
もっと早く言って欲しかった。流れ込んできた液体は渋くて、苦くて、到底飲めたものじゃない。逆流しそうな液体を喉の奥に無理やり滑り込ませる。無言で瓶を突き返した。これが、大人。わたしにはまだまだ早い。
「不味いです」
「美味しかったら困ります」
飲み込んだ液体の味すら正確にわからない。迫り上がってきた液体の波をぶちまけたくなくて、生唾を何度も飲みくだす。アルコールと、渋さと、苦味と、よくわからない味。胃液?
紫藤さんはそんな私をお構いなしに、ワインを丁寧にしまい、司書室から出た。わたしもそれに続く。扉を閉めた。
鍵もかかっていない危うい空間に、秘密が隠れている。その秘密は、わたしと紫藤さんだけが知っている。わたしだけ。それがゾワゾワしてとても嫌で、でもむずむずと嬉しくて、どうしようもない。
紫藤さんの人間的な部分をどんどん知っていくのが嫌だ。でも、人間らしくない部分が取り払われていくのも嫌だ。
こんな正反対の気持ちは結局、「嫌だ」と「好きだ」の感情に行き着く。どうしようもなく、紫藤さんが好きなのだ。
動物的に、魂的に、紫藤さんが好きだ。
「紫藤さん、好きです」
わたしは何の捻りもなく、紫藤さんに好意を打ち明ける事しかできない。それをいうことによって紫藤さんに何を期待しているのかわからない。付き合いたいわけじゃない。見返りが欲しい訳でもない。紫藤さんの幸せだけを祈っている訳でもない。
だから、恋じゃない。
だから、愛じゃない。
だから、恋愛じゃない。
ただひたすらに、紫藤さんにどろどろぐちゃぐちゃした、どうしようもない劣情を抱いているのだ。
「返事はまぁ、あなたは素敵な人ですね。って事でいいでしょうか」
紫藤さんの返事は「はい」でも「いいえ」でもなかった。
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