1 / 1
第1話 雨宿り
しおりを挟むいつものように図書館に向かう途中で、空が急に暗くなった。
ぽつ、ぽつ、と頭にあたる冷たい粒が頬に伝い首元に落ちる瞬間、ざあざあと激しく強い粒へと変わった。
肩に落ちる冷たい雨粒を避けるように自然と足が早まり、指先の感覚までひんやりとさせる。
「やっべ」
と小さく呟く。濡れることよりも、体温が下がってしまうことのほうが気になった。服が肌にまとわりつき、髪は束になって額に張り付く。思わず肩をすくめ、目の前を見渡すと、ふと目に入ったのは、小さな喫茶店だった。古い木製の扉、磨りガラス越しに漏れる柔らかな灯り、そして窓際に並ぶ小さなテーブル。雨のせいか、灯りまでもが暖かく感じる。
(ずぶ濡れになるよりマシか)
思わず駆け込むように店の中へと足を踏み入れた。
カラン、とドアベルの乾いた音と扉の重みで軋む鈍い音が、雨をかき消すかのように鳴る。店内に入ると、雨で濡れた服や髪の水滴がすぐに蒸発していくような、温かく懐かしい空気が広がった。コーヒーの香りと、かすかに混じる木の香りが、心を落ち着かせる。外の激しさとは対照に、ここだけは時間が少しゆっくり流れているようだった。
カウンターに近づくと、女性の店員が微笑みながら声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。おひとりさまでしょうか?」
「あ、はい」
「どうぞ、空いている席におかけください。ご注文がお決まりになりましたらお声がけくださいませ。」
軽く会釈してから、店内を見渡す。
服の色が部分的に濃くみえる人が数人居る。どうやら、自分と同じように雨宿りついでに入店した客が多いのだろうか。
席を選びながら奥へ歩く。窓際のテーブルには、外の雨を眺めながら本を広げる青年がいた。艶めいた黒髪を無造作にかき上げ、外を眺める横顔は綺麗で整っている。照明の灯りが、陶器のような白い肌を優しく照らし出し、その滑らかさを際立たせている。妙に落ち着いた雰囲気をまとっているせいか、自然と視線がそちらに吸い寄せられた。
葵は、窓際の青年から少し離れた二人席に腰を下ろした。椅子の背もたれに身体を預けると、ようやく雨の冷たさから解放されるような感覚があった。
けれど、初めて訪れた店の空気に少し緊張も混じる。メニューを手に取って眺めるが、文字を目で追っているだけで内容が頭に入ってこない。
(どうやって頼むんだろう?声をかければいいのかな)
そう考えて視線を泳がせたとき、ちょうど窓際の青年が、手を挙げて店員を呼んだ。
「すみません」
低く澄んだ声。すぐに近くにいた店員が足早にやってくる。葵は思わず、ページをめくるふりをしながらそちらに目を向けた。
「ブレンドをひとつ。砂糖とミルクは控えめでお願いします。あと、シフォンケーキは、まだ残ってますか?」
「はい、ございます」
「じゃあ、それもお願いします」
「かしこまりました」
彼が軽く会釈をしてメニューを閉じる仕草は、何気ないのに絵になる。葵は無意識のうちにその一部始終を目で追っていた。
(なるほど、ああやって注文するのか!)
安堵と同時に、自分が彼のことを、ずっと見ていたことに気づき、頬が少し熱くなる。慌てて目を逸らした瞬間、その場を通った店員とばっちり視線が合ってしまった。
「ご注文はお決まりですか?」
「えっと、、コーヒーをください」
とっさに口をついて出た言葉。メニューのどこを見ていたわけでもない。
「かしこまりました。コーヒーはホットでよろしいですか?」
「え、あ、はい。ホットで」
「ミルクや砂糖は、いかがいたしますか?」
「あ、、えっと、ミルクだけで」
「承知いたしました。ミルクの量はいかがいたしますか?」
「普通でお願いします」
「かしこまりました」
慣れないやり取りに、葵は少し声が上ずった。
注文が出来たと、ほっと息をつきながら、辺りを見渡す。
テーブルや椅子は、色が濃く変化し角が丸く傷付いている。特にカウンター席の足元は多くの客が足をかけてきたせいか、床の塗装が少し剥げている。
「結構、年季の入った店だな」
と小さく呟きながらコーヒーを待つ。
やがて、トレイを手にした店員が席に戻ってきた。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーとシフォンケーキです。ごゆっくりお過ごしくださいませ。」
目の前に置かれた皿とカップに、葵は目を瞬かせた。注文した覚えのないケーキまで並んでいる。
(え、、コーヒーだけしか頼んでないよな)
困惑して顔を上げ
「あ、あの」
と思わず声をかけかけた瞬間、隣のテーブルから「すみません」と別の客の声が重なった。
店員はそちらにすぐ反応し、足早に向かってしまう。伸ばしかけた手を宙で止めたまま、結局呼び止めることはできなかった。
仕方なく視線を移すと、さっきの青年の前には何も置かれていない。すぐに合点がいった。
(あ、これ、きっとあの人の注文だ)
(どうしよう、、? 店員さん、声かけづらいし)
胸の奥で逡巡が渦を巻く。葵は小さく息を吐き、意を決して立ち上がった。カップと皿を両手に持ち、青年のテーブルへと歩み寄る。
「あの、、」
声をかけると、青年が顔を上げる。漆黒の瞳が真っ直ぐにこちらを捉えた。至近距離で見ると、その瞳はどこか深い湖の底を覗くような、夜の海を眺めているような不思議な静けさを湛えていた。葵は一瞬、言葉を失いそうになる。
けれどどうにか笑みを作り、皿を差し出した。
「これ、たのみましたか?」
青年は数秒だけ無言で葵を見つめ、やがて口角をわずかに緩めた。
「ああ、ありがとう。」
低い声が耳に心地よく響く。受け取った青年は軽く会釈をした。その仕草に、葵は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「いいえ、、」
そう答えるのが精一杯だった。自分の席に戻りながら、心臓の鼓動が早くなる。葵は窓越しの雨を眺めた。外はまだ激しく降っている。自分の心拍と同じリズムで雨粒が地面を叩いているように思えた。
10
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
お兄ちゃんができた!!
くものらくえん
BL
ある日お兄ちゃんができた悠は、そのかっこよさに胸を撃ち抜かれた。
お兄ちゃんは律といい、悠を過剰にかわいがる。
「悠くんはえらい子だね。」
「よしよ〜し。悠くん、いい子いい子♡」
「ふふ、かわいいね。」
律のお兄ちゃんな甘さに逃げたり、逃げられなかったりするあまあま義兄弟ラブコメ♡
「お兄ちゃん以外、見ないでね…♡」
ヤンデレ一途兄 律×人見知り純粋弟 悠の純愛ヤンデレラブ。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
『定時後の偶然が多すぎる』
こさ
BL
定時後に残業をするたび、
なぜか必ず同じ上司が、同じフロアに残っている。
仕事ができて、無口で、社内でも一目置かれている存在。
必要以上に踏み込まず、距離を保つ人――
それが、彼の上司だった。
ただの偶然。
そう思っていたはずなのに、
声をかけられる回数が増え、
視線が重なる時間が長くなっていく。
「無理はするな」
それだけの言葉に、胸がざわつく理由を、
彼自身はまだ知らない。
これは、
気づかないふりをする上司と、
勘違いだと思い込もうとする部下が、
少しずつ“偶然”を積み重ねていく話。
静かで、逃げ場のない溺愛が、
定時後から始まる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される
マンスーン
BL
王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。
泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる