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鉄のデビュー
10月初旬に入り、神楽坂の風も少しずつ冷たさを帯び始めていた。
ひよりが目を覚ましたのは、週末の朝、7時を回った頃だ。
カーテンの隙間から差し込む秋の柔らかな光を浴びながら、ひよりはベッドの中で大きく背伸びをする。
かつては平凡な大学生として過ごしていたが、今ではこの家を「ひより組」の拠点として、どこか規律の取れた空気が漂っている。
昨日、ひよりは大きな決断を下した。
世田谷での苦い犠牲を糧にするため、特に貢献度の高かった影の構成員10名を「幹部構成員」へと昇格させたのだ。
現在の布陣は、ひより、直参5名、幹部構成員10名、そして鉄の抜けた分の1名を追加した一般構成員90名。
総勢105名の部下を束ねるボスとしての責任が、朝の目覚めと共に、心地よい重圧となってひよりの肩にのしかかる。
「……よし、行くか」
一言、自分に気合を入れ、ひよりはリビングへと向かった。
扉を開けると、そこには既に日常となった光景があった。
「あ、ひよりん。おはよう。ちょうど今、テッちゃんが最後の一皿を盛り付けたとこだよ」
ソファでタブレットを操作し、今日の戦略をチェックしていた透が顔を上げる。
その隣では、既に戦闘服を完璧に着こなした涼が、無言で愛刀の手入れを終えたところだった。
「ボス、おはようございます! 最高の朝飯、用意できてますよ!」
キッチンから響いたのは、少し高めで、あどけなさを残した明るい声。
そこには、エプロンをつけた鉄が立っていた。
世田谷の激戦を経て直参に加わったこの優男は、ひよりと同棲を始めてからというもの、意外すぎる才能を開花させていた。
「鉄、おはよ。……すごい、いい匂いだね」
食卓に並べられたのは、香ばしく焼かれた厚切りのベーコン、半熟の目玉焼き、そして地元神楽坂のベーカリーで買ってきたというバゲット。
さらには具沢山のミネストローネまで添えられている。
「師匠に『タンクは身体が資本だ』って叩き込まれましたからね! 深層に潜るなら、まず腹を作らねぇと始まらねぇですよ!」
鉄がニコニコと楽しげに笑いながら、全員分のコーヒーを注ぐ。
ひよりは促されるまま席に着き、まずはスープを一口啜った。
「……美味い。鉄、これ、どこで覚えたの?」
「なんかできたんですよ!才能っすかね?でも、お口に合ってよかったっす!」
その言葉に、涼も黙って頷きながらフォークを動かしている。
レベル61。
この部屋にいる4人は、今や日本の探索者たちが数年かけても到達するかわからない領域に、1年も経たずに辿り着いた。
傍から見れば異常な光景だが、ひよりにとっては、何よりも守るべき「家族」の姿だった。
「……ごちそうさま。最高だったよ、鉄。これなら20層まで一気に行けそうだ」
ひよりが満足げに笑うと、鉄は嬉しそうに目を細めて「よっしゃ!」と小さく拳を握った。
食後のコーヒーを飲み終え、空気は一気に「探索者」のものへと切り替わる。
「ひよりん、今日の神楽坂13層……データは無いけど、構成員たちの配置はどうする? 幹部構成員を10名に増やした分、連携の密度は上がるはずだけど」
透が冷静に問いかける。
ひよりは少し考え、自分の手のひらを見つめた。
若頭になってから、経験値の入りが少し鈍くなったような、身体の芯に重みが居座るような感覚がある。
だが、それは弱さではない。105名の命を背負う重みだと感じた。
「幹部構成員には、各隊の構成員を指揮させる。俺たちがボスの動きを止めている間に、各部隊には周囲のモンスターを掃除させたり、ボスを削って確実に経験値を『獲る』。……鉄、君の盾が頼りだ。構成員を一人も欠けさせない、それが今日の最低条件だよ」
「応! 俺の命に代えても、後ろの連中には指一本触れさせねぇっすよ!」
鉄が立ち上がり、しなやかな身体を真新しいスーツの装備で包む。
涼は静かに立ち上がり、ひよりの背後に控えた。
透は笑みを浮かべ、神楽坂ダンジョンのマップを閉じる。
「行こう。今日もしっかり攻略しようね」
ひよりが玄関の扉を力強く開ける。
眩しい10月の朝日が、出陣する「ひより組」の4人を照らし出した。
………
秋の爽やかな風を感じながら、ひよりたちは神楽坂の自宅を出て、ダンジョンへと続く大通りをゆっくりと歩いていた。
拠点がすぐ近所ということもあり、この散歩のような道程も、ひより組にとっては出陣前の大切な時間だ。
「わあ……やっぱり土日は人が多いね、ひよりん」
透がタブレットを片手に、人の波を器用に避ける。
その背後、金髪を後ろで一つに結んだ鉄が、楽しげに周囲を見渡していた。
「透ちゃん、見てよ! あの団子、めちゃくちゃいい匂いするよね! 帰りに絶対買って帰ろうよ!」
「テツ、はしゃぎすぎだ。……集中しろ」
涼が低く冷めた声で釘を刺すと、鉄は「うっ、すいません……」と首をすくめる。
180センチのモデル体型でスタイル抜群の鉄だが、涼に睨まれた途端に子型犬のようになってしまうのが、チンピラとLv.1チンピラの頃からのお決まりだった。
ひよりたちがエントランスの広場に差し掛かると、周囲の探索者たちから次々と明るい声が上がった。
「おはよう、三上くん! 今日も攻略、応援してるよ!」
「三上さん、また戦闘の指南お願いします!」
「……お、隣にいる金髪の兄ちゃん、外で見るなんて初めてだな」
黒スーツを完璧に着こなした金髪の美青年に、周囲の視線が集まる。
ひよりは足を止め、一人一人の声に柔らかい微笑みを返しながら、誇らしげに鉄の肩を軽く叩いた。
「みんな、おはようございます。紹介するね。今日から改めて一緒に潜る、新しい家族の鉄です。……鉄、挨拶して」
「あ、はい! 皆さん初めまして…? 鉄っす! ボスの盾として、精一杯頑張るんで、よろしくっす!」
鉄が人懐っこい笑顔で大きく手を振ると、探索者たちからも「お、いい顔してるな!」「頑張れよ、兄ちゃん!」と温かい声が飛ぶ。
神楽坂の探索者たちにとって、ひより組はもはや自分たちの誇りであり、新しい仲間の加入は、神楽坂ダンジョン全体の慶事のような空気で迎えられていた。
「あ、ひよりさん!」
受付カウンターの奥から、待ちきれないといった様子で身を乗り出したのは、ギルド職員の妃那だった。
「妃那さん、おはよう。今日も朝から大変そうだね」
ひよりが受付の前に立ち、穏やかに語りかける。
妃那は頬を少し染めながらも、ひよりの隣に立つ見慣れない青年――鉄に、不思議そうな視線を向けた。
「妃那さん、紹介するね。改めて家族になった鉄だよ。……鉄、こちらはこのダンジョンの受付をされてる妃那さんだ」
「初めまして、姐さん! 鉄っす。ボスの朝飯担当も兼ねてます! 以後、お見知りおきを!」
「姐さん?……初めまして。ギルド職員の妃那です。ひよりさんの朝食を……?」
妃那が驚いたように目を丸くすると、ひよりは少し照れくさそうに笑った。
「うん。鉄が気合を入れて朝ご飯を作ってくれたから、体調は万全なんだ。負ける気がしないよ」
「へへ、姐さん! 俺の特製メニュー、今度姐さんの分も作って持っていきましょうか?」
「テツ……調子に乗るな。妃那さんの仕事の邪魔」
涼の鋭いツッコミに「冗談だってばぁ!」と鉄が飛び上がる。そんなやり取りを見て、妃那はクスクスと楽しそうに笑った。
「ふふ、楽しみにしていますね。……ひよりさん、13層はデータが無いんです。どうか、気をつけて。……皆さんの無事を、心から祈っています」
妃那の手が、カウンター越しにひよりの手に一瞬だけ重なる。ひよりはそれを優しく握り返し、力強く頷いた。
「ありがとう、妃那さん。行ってくるね」
ひよりの言葉を合図に、一行はダンジョンの入口へと向かう。
転移石の手前で、ひよりは足を止め、背後の仲間たちを振り返った。
「みんな、準備はいい? 今日も一人も欠けずに、美味しい夕飯を食べに帰ろう」
「応! ボス! 俺の新しい武器を楽しみにしててください!」
鉄の明るい声が広場に響き、それに応えるように周囲の探索者たちからも声が上がった。
ひよりが目を覚ましたのは、週末の朝、7時を回った頃だ。
カーテンの隙間から差し込む秋の柔らかな光を浴びながら、ひよりはベッドの中で大きく背伸びをする。
かつては平凡な大学生として過ごしていたが、今ではこの家を「ひより組」の拠点として、どこか規律の取れた空気が漂っている。
昨日、ひよりは大きな決断を下した。
世田谷での苦い犠牲を糧にするため、特に貢献度の高かった影の構成員10名を「幹部構成員」へと昇格させたのだ。
現在の布陣は、ひより、直参5名、幹部構成員10名、そして鉄の抜けた分の1名を追加した一般構成員90名。
総勢105名の部下を束ねるボスとしての責任が、朝の目覚めと共に、心地よい重圧となってひよりの肩にのしかかる。
「……よし、行くか」
一言、自分に気合を入れ、ひよりはリビングへと向かった。
扉を開けると、そこには既に日常となった光景があった。
「あ、ひよりん。おはよう。ちょうど今、テッちゃんが最後の一皿を盛り付けたとこだよ」
ソファでタブレットを操作し、今日の戦略をチェックしていた透が顔を上げる。
その隣では、既に戦闘服を完璧に着こなした涼が、無言で愛刀の手入れを終えたところだった。
「ボス、おはようございます! 最高の朝飯、用意できてますよ!」
キッチンから響いたのは、少し高めで、あどけなさを残した明るい声。
そこには、エプロンをつけた鉄が立っていた。
世田谷の激戦を経て直参に加わったこの優男は、ひよりと同棲を始めてからというもの、意外すぎる才能を開花させていた。
「鉄、おはよ。……すごい、いい匂いだね」
食卓に並べられたのは、香ばしく焼かれた厚切りのベーコン、半熟の目玉焼き、そして地元神楽坂のベーカリーで買ってきたというバゲット。
さらには具沢山のミネストローネまで添えられている。
「師匠に『タンクは身体が資本だ』って叩き込まれましたからね! 深層に潜るなら、まず腹を作らねぇと始まらねぇですよ!」
鉄がニコニコと楽しげに笑いながら、全員分のコーヒーを注ぐ。
ひよりは促されるまま席に着き、まずはスープを一口啜った。
「……美味い。鉄、これ、どこで覚えたの?」
「なんかできたんですよ!才能っすかね?でも、お口に合ってよかったっす!」
その言葉に、涼も黙って頷きながらフォークを動かしている。
レベル61。
この部屋にいる4人は、今や日本の探索者たちが数年かけても到達するかわからない領域に、1年も経たずに辿り着いた。
傍から見れば異常な光景だが、ひよりにとっては、何よりも守るべき「家族」の姿だった。
「……ごちそうさま。最高だったよ、鉄。これなら20層まで一気に行けそうだ」
ひよりが満足げに笑うと、鉄は嬉しそうに目を細めて「よっしゃ!」と小さく拳を握った。
食後のコーヒーを飲み終え、空気は一気に「探索者」のものへと切り替わる。
「ひよりん、今日の神楽坂13層……データは無いけど、構成員たちの配置はどうする? 幹部構成員を10名に増やした分、連携の密度は上がるはずだけど」
透が冷静に問いかける。
ひよりは少し考え、自分の手のひらを見つめた。
若頭になってから、経験値の入りが少し鈍くなったような、身体の芯に重みが居座るような感覚がある。
だが、それは弱さではない。105名の命を背負う重みだと感じた。
「幹部構成員には、各隊の構成員を指揮させる。俺たちがボスの動きを止めている間に、各部隊には周囲のモンスターを掃除させたり、ボスを削って確実に経験値を『獲る』。……鉄、君の盾が頼りだ。構成員を一人も欠けさせない、それが今日の最低条件だよ」
「応! 俺の命に代えても、後ろの連中には指一本触れさせねぇっすよ!」
鉄が立ち上がり、しなやかな身体を真新しいスーツの装備で包む。
涼は静かに立ち上がり、ひよりの背後に控えた。
透は笑みを浮かべ、神楽坂ダンジョンのマップを閉じる。
「行こう。今日もしっかり攻略しようね」
ひよりが玄関の扉を力強く開ける。
眩しい10月の朝日が、出陣する「ひより組」の4人を照らし出した。
………
秋の爽やかな風を感じながら、ひよりたちは神楽坂の自宅を出て、ダンジョンへと続く大通りをゆっくりと歩いていた。
拠点がすぐ近所ということもあり、この散歩のような道程も、ひより組にとっては出陣前の大切な時間だ。
「わあ……やっぱり土日は人が多いね、ひよりん」
透がタブレットを片手に、人の波を器用に避ける。
その背後、金髪を後ろで一つに結んだ鉄が、楽しげに周囲を見渡していた。
「透ちゃん、見てよ! あの団子、めちゃくちゃいい匂いするよね! 帰りに絶対買って帰ろうよ!」
「テツ、はしゃぎすぎだ。……集中しろ」
涼が低く冷めた声で釘を刺すと、鉄は「うっ、すいません……」と首をすくめる。
180センチのモデル体型でスタイル抜群の鉄だが、涼に睨まれた途端に子型犬のようになってしまうのが、チンピラとLv.1チンピラの頃からのお決まりだった。
ひよりたちがエントランスの広場に差し掛かると、周囲の探索者たちから次々と明るい声が上がった。
「おはよう、三上くん! 今日も攻略、応援してるよ!」
「三上さん、また戦闘の指南お願いします!」
「……お、隣にいる金髪の兄ちゃん、外で見るなんて初めてだな」
黒スーツを完璧に着こなした金髪の美青年に、周囲の視線が集まる。
ひよりは足を止め、一人一人の声に柔らかい微笑みを返しながら、誇らしげに鉄の肩を軽く叩いた。
「みんな、おはようございます。紹介するね。今日から改めて一緒に潜る、新しい家族の鉄です。……鉄、挨拶して」
「あ、はい! 皆さん初めまして…? 鉄っす! ボスの盾として、精一杯頑張るんで、よろしくっす!」
鉄が人懐っこい笑顔で大きく手を振ると、探索者たちからも「お、いい顔してるな!」「頑張れよ、兄ちゃん!」と温かい声が飛ぶ。
神楽坂の探索者たちにとって、ひより組はもはや自分たちの誇りであり、新しい仲間の加入は、神楽坂ダンジョン全体の慶事のような空気で迎えられていた。
「あ、ひよりさん!」
受付カウンターの奥から、待ちきれないといった様子で身を乗り出したのは、ギルド職員の妃那だった。
「妃那さん、おはよう。今日も朝から大変そうだね」
ひよりが受付の前に立ち、穏やかに語りかける。
妃那は頬を少し染めながらも、ひよりの隣に立つ見慣れない青年――鉄に、不思議そうな視線を向けた。
「妃那さん、紹介するね。改めて家族になった鉄だよ。……鉄、こちらはこのダンジョンの受付をされてる妃那さんだ」
「初めまして、姐さん! 鉄っす。ボスの朝飯担当も兼ねてます! 以後、お見知りおきを!」
「姐さん?……初めまして。ギルド職員の妃那です。ひよりさんの朝食を……?」
妃那が驚いたように目を丸くすると、ひよりは少し照れくさそうに笑った。
「うん。鉄が気合を入れて朝ご飯を作ってくれたから、体調は万全なんだ。負ける気がしないよ」
「へへ、姐さん! 俺の特製メニュー、今度姐さんの分も作って持っていきましょうか?」
「テツ……調子に乗るな。妃那さんの仕事の邪魔」
涼の鋭いツッコミに「冗談だってばぁ!」と鉄が飛び上がる。そんなやり取りを見て、妃那はクスクスと楽しそうに笑った。
「ふふ、楽しみにしていますね。……ひよりさん、13層はデータが無いんです。どうか、気をつけて。……皆さんの無事を、心から祈っています」
妃那の手が、カウンター越しにひよりの手に一瞬だけ重なる。ひよりはそれを優しく握り返し、力強く頷いた。
「ありがとう、妃那さん。行ってくるね」
ひよりの言葉を合図に、一行はダンジョンの入口へと向かう。
転移石の手前で、ひよりは足を止め、背後の仲間たちを振り返った。
「みんな、準備はいい? 今日も一人も欠けずに、美味しい夕飯を食べに帰ろう」
「応! ボス! 俺の新しい武器を楽しみにしててください!」
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