般若の足音

Basco

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般若の足音

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 タバコが切れた、買いに行かなければ。
戦後すぐに建てられたこのアパートには、今、強烈な静寂があった。外降る雪のせいなのか、はたまた自身の心の虚しさ故か。
ガマ口を手に取ると、隣の部屋から具合の悪そうな妻が、か細い目でいってらっしゃいと、見つめてきた。
「なにか、いるかい。角のたばこ屋まで行ってくる。すぐ戻るよ」
首をかすかに横に振る妻を横目で見ながら、かつて帝国陸軍から頂戴したブーツを履いて、赤く重たい扉を開いた。鍵を閉めてから、マフラーを忘れたことに気づく、諦めた。
 もう夕暮れだ、今日も久しぶりの休日だというのに、何もせず1日が過ぎ去ってしまった。
小学校の下校時刻だからか、子供達で道は溢れかえっている。あいつらはいったい、あんなに小さな体のどこに元気を蓄えているんだろうか、何なら少し分けてくれたっていいんだぜ。そんなことを考えているうちに、たばこ屋につく。

 たばこ屋の番頭はツネちゃんといって、外語大の二年生だ。腰の悪くなった祖母の代わりにお小遣い稼ぎにやっているとのこと。
「やぁ、今日も賑わってるね」
と皮肉を込めて言う。街角のたばこやが賑わっているはずもない。私とツネちゃんとのごあいさつだ。
「あら、笹木さん。いらっしゃい、今忙しいの、手短にお願いできるかしら」
ツネちゃんは言う。これもお決まり。忙しい訳がない。閉店間近の店の周りには、さっきまでいた子供達の姿すらない。
「相変わらずつれないねぇ。じゃあ、いつものチェリー7mmをカァトンで貰おうかね」
「カァトン...10個でしたっけ、それでいいかしら」
「いい加減覚えたまえよ、君だってインテリなんだから」
「あら、私はあくま外国語にしか興味がないの。タバコの数なんて、大学にいる男達くらいどうでもいいことだわ」
ツネちゃん曰く、ご学友は単位と変わらん価値らしい。下手したらそれにすら劣るかもしれない。
「しかしね、カァトンも英語じゃないのかね。君が今読んでいるのも英語だろうに。」
「私はおフランスですから、一緒にしないでくださいまし。ほら、チェリーを1カァトン。さっさとお帰りなさいな、奥様ご病気なんでしょう?」
という。
他人からその事実を突きつけられるたびに、私は心の深淵まで堕ちてしまう。

確かに、妻は病気だ。しかも、お医者によると、そう長く生きられないそうだ。貧乏な我が家では、とてもではないが治療を受けさせることはできない。日々衰弱していく妻に、少しでもいいものを食わせてやりたいと、昼も夜も働き詰めたが二束三文である。庶民の暮らしなどその程度だ。私にはわかる、もってもあと数ヶ月というところだろう。せめて、思い出だけでも...。こんなことを毎回考えてしまう。

「ねぇ....ねぇ、笹木さんったら。大丈夫?お顔の色が悪くってよ。お医者様をお呼びしましょうか?」
と気遣ってくれた、しかし
「医者だけは呼ぶな、大丈夫、大丈夫だから...」
と、強く制してしまった。ツネちゃんは驚きと哀れみの表情をこちらに向けている。
「失礼かもしれないけれど、奥様、だいぶ具合が悪いのですね。やっぱり、きちんとしたところで診ていただいた方が...」
「そんなことは誰にでもわかってるよ、大丈夫、なんとかする...タバコありがとう。また来るよ」
踵を返し、旅立ちの燕の如く去っていく。見送るツネちゃんの顔を見ることはできなかった。

少し、心が乾いていることに気づく。日々の労働と看病により、心がすり減っているのがわかる。少し飲んでいこう、いっぱいだけと、駅の近くのバーに行く。
バーのマスターは近所でも有名な女ったらしで、今まで抱いた女の数を数えたら、この街の人口を超えそうだなどと揶揄されているような、ふしだらな男だ。
しかしね、不思議と親近感の湧くもので、私の悩みを聞いてくれる、数少ない理解者でもある。あと、あの店はうるさい女達がいなくてイイ。

店の扉を開くと、マスターは店の準備をしていた。
「おぅ、笹木じゃねぇか。悪いがまだ支度中なんだが、それでもいいか。」
というので、
「構わないよ、今更私のために店を格好つけてなんになる」
と言ってやった。
店内は相変わらず寂れているし、客が来る気配などないがそれがいい。
マスターは酒を棚から出したり、カクテルシェイカーを片付けたりしている。それにしても散らかっている。
「昨日何か店であったのかい。随分と派手に散らかっているようだが」
「ん、ああ。駅前に警察署あるだろ、あそこのバカ警官どもが昨日飲みにきてね。あいつら酒癖がまぁ悪いのなんのって。酒を出すのに手一杯よ、こちとら一人でやってるのに。」
マスターはぶつぶつ文句を垂れた。売上がでたならいいじゃあないかね。そう思いつつ、勝手に冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、手酌を始める。
「笹木さん、俺にもいっぱいくれよ」
「しょうがねぇな、一杯だけだぞ、このボンクラバーテンめ」
二人でエヘヘと笑って飲み始めた。
1時間ほど飲んでいると、マスターも片付けを終えて、仕事を始めた。
「なぁ笹木さん、あんた今日はいつになくシケた面してるぜ。どうしたんだ、やっぱ奥さんの具合がよくねぇんかい。」
マスターはなんでもお見通しだ。
「あぁ、実はもうそろそろお迎えが来るんじゃねぇかって思っている。朝起きて、隣を見たら死んでるかもなぁってな。その時、俺は何して生きていけばいいんだろうって。」
と呟く。マスター相手だと、何でも喋り過ぎてしまう、気をつけなければ。
「そうかぁ...まぁ人はいずれ死んでしまうからなぁ。それが今か、遥か先なのかってだけで、本質は変わりゃしないと俺は思ってる。だけど、最愛の人を亡くしてしまうかもしれないという恐怖心は、それは、知った気になんかなれないな。せめて、ここで一杯飲んで、少しでも気を晴らしてくれよ。」
マスターはもう1瓶ビールを取り出すと、ほれ奢りだと片目を瞑っている。ありがとうと軽く会釈すると、なみなみ注がれたビールに自分の顔が映る。ひどい顔だ、今日は、もうこの一杯で帰ろう、そう思っているとマスターが
「そういや、笹木さん。ここだけの話なんだけどね。昨日、酔った警察官が奇妙な話をしていたのよ。」
神妙な面持ちだ。
「ほう...新手の事件ってやつか、ちょっと気になるね。」
「だろう、あのな、最近変な窃盗が続いてるんだとよ。」
「変な窃盗?なんだいそりゃ、まさか怪盗でも現れたってのかい」
「いやぁ、そんな愉快な話なんかじゃなくてね。この街の薬屋からちょっとずつ薬品盗みを働いている奴がいるってんで、捜査してると話してたな。」
薬屋で盗む、か....。犯人像は、治療を受けられない貧困層か....まさに俺じゃないか。もしかして、容疑者扱いされていたりして...。マスターに問いかけてみる。
「どんな薬品を盗んでるんだい、やっぱり治療薬かい」
マスターの目はよくぞ聞いてくれたというようだ
「そこがまた面白くてな、実は治療薬じゃないんだ。確かに、飲み過ぎたら死んじゃうかもしれないが、基本どれも無害な薬品ばかりというから、警察も動機が気になってしょうがないみたいだ。警察にも化学に強い奴がいるらしくて、そいつも昨日いたんだがね、盗まれた薬品を組み合わせたって、治療薬にも殺人薬にもならない。ましてや、過去の実験でそれらの薬品を組み合わせたものはないから、何ができるのかもわからないとのことだよ。」
「そいつは妙だね、横流しの線はないのかい?」
まるで刑事のような質問になったと内心笑っていた。マスターが続けて答える
「それはないみたいだよ、あまりに少量だから。」
「そんな少ない量、盗まれて気づくものかね?」
「どうも、薬屋というのは、毎日使用した薬品などを朝と夜で軽量して管理するみたいなのよ。それで発見されたってわけ」
刑事コロンボの如く説明ではあったが、受け売りである。なるほど、変な奴もこの街にいるもんだな。奇怪な話が聞けて、少し悩みを忘れルことができた、ありがとうと伝え、少し多めにお金を払い、バーを出た。あたりは陽も落ちてきて、早く家に帰ってゆうはんを作らねばという気持ちを沸き起こさせた。
 アパートの近くまできたところで、奇妙な感覚を覚えタ。この交差点を右に曲がれば家に着く。だが、なんだか曲がってはいけない気がしたのだ。私は交差点をまっすぐ進んで、ぐるっと一周するこトにした。アパートの前まで来ると、雪を踏ミ分ける音が聞こえる。ざくざく、ざくざく....。あたりは静寂だ、人通りもない。恐ろしくなっテ身をかがめて周囲をよく観察する。
 刹那に思い出す....太平洋戦争真っ只中、シベリアで起きた、あの凄惨な夜を。



なんてことはない、あの時代ではよくある話だ。私は旧帝国陸軍に徴兵され、山すら凍る極東シベリアで戦っていた。ちょっとだけ学のあった私は"少し"変わった部隊にいた。俗に731部隊と呼ばれる、生物兵器を研究していたところだった。
そこの第7師団とよばれる、生物兵器の実戦投入および、その経過観察を主任務とするところについた。
歴史の表では、生物兵器の使用は今まで一度だってないことになっているが、実際はどこの国家も秘密裏に実施していた。
1944年11月、満州から出兵し、チュヴァンスコエという戦域で、新型の生物兵器を使用した。まず威嚇射撃をして、相手を後退させ、味方の全部隊が引き上げたところを迫撃砲でウイルスの入った弾薬を撃ち込む。空中で爆散すると、冷寒時に最大活発する殺人ウイルスがばら撒かれる。
暗闇の林の向こう、から呻き声や叫び声が聞こえ、人が倒れていくのがわかった。
 物音が消えたところで、状況を確認すると私を呼ぶかすかな声が聞こえた。
「....笹木...助けてくれ...」
よくみると、同期の宮島が倒れている。急いで駆けつけると、腹から血を流している、撃たれたのだ。防毒マスクも外れている、もしやと思い顔をみると、生物兵器に侵され顔半分が壊死していた。私は宮島が助からないことを悟り、彼を騙した。
「ああ、助けてやる、解毒薬を持ってくる。」
しかし、前線に解毒薬などあるわけもなく、私はポーチの中をみると、いくつかの薬品が入っていたのだ。タウリン、エピトプロファン、エチルノイナール、象牙の粉....。何一つ、使えるものはない。しかし、もう他に打つ手がなかった。私はそれらを注射針に流し込み、宮島に語りかけた。
「ほら、薬だよ、少尉さんから貰ってきたよ。打ってやるから、大人しくしていてくれ。」
というと、宮島はうなずいた。私は、薬を打ってもどうにもならないことを知っていたので、打つだけ打って、苦しむ様なら後ろから銃で楽にしてやろうと考えていた。私は信じきっている彼の腕に注射を打った。
すまない宮島、許してくれ、と目を瞑り腰から拳銃を抜くと、彼の体から力が抜けていることがわかった。
目を開けると、そこにはぐったりとした宮島がいた。
私の調合した薬のせいなのか、生物兵器のせいか、腹部の怪我か、原因はわからなかった、ただ、とても穏やかな死に顔であった。







フト意識が戻った。ヨカッタ、ただの幻覚のヨうだ。もう十年も昔ノことなのに、サイキン起きた事のように思いださレル。あら、いつから空は赤クなったのかしら。
階段ヲ登り、部屋に入ルと、宮島がいた。
「さぁ、ほら、俺の時の様にやってみろよ。」
玄関横の戸棚を開クと、ソコニは....。





「・・・えぇ、容疑者は笹木正蔵43歳、自宅玄関で死亡しています。死因は胸部刺し傷による失血死です。ええ、盗まれた薬品もありました。妻と見られる女性は死後半月はたっているとみられ、一部白骨化しています。それにしてもこの男、酷い顔だ、まるで・・・」
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