亜人

黒飛翼

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亜人

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はるか昔の話である。いつからか人類の中に動物の特徴をもつ個体が現われた。彼らは顔や体の基本的なつくりは人間と同じであるが、不思議なことに耳や手などの一部分が獣のようだった。クマのように丸くふさふさの毛におおわれていたり、爪が猫のようにとがっていたり。個体によってそれぞれ異なる動物の形質を受け継いでいるのだ、また、中には鳥の翼など人には存在しない部位を持つものも存在していた。
彼らは人の身でありながら獣の部位を持つものとして気味悪がられ、軽蔑や畏怖の念をこめて亜人と呼ばれた。
当初、亜人の数は一般人口の中の一割に満たなかった。しかし、彼らの数は年月をかけて増えていった。そのうち人々の中には、いずれ亜人と人の人口比率が逆転するのかもしれないと遠い未来を忌避する者が現れ始めた。無理もない。人類は豊富な知識という唯一無二の武器で安寧を築き上げた。その安寧に自分たちに似て非なる異形が混じり始めたのだから。亜人への忌憚は、人の種としての生存本能の表れだった。
亜人は恐ろしい。
その認識は多くの人々の間の共通認識となり、亜人との溝となった。人々が自らの足に変わって馬に走らせるように、食肉として糧にするために家畜を育てて殺すように、亜人は奴隷とされ差別された。
獣の力をもつぶん個々の力は亜人の方が強くとも、数の暴力にはかなわなかった。亜人は迫害をうけ、その数を減らしはじめた。亜人が絶滅の危機に瀕するまでに時はかからなかった。
そんなあるとき、人類はさる重大な変化に気づく。亜人の中にごくまれに、人々がどうあがいてもかなわないほどの絶大な力を有する者が現れ始めたのだ。
幾度殺しても決して死なない亜人。空間を捻じ曲げる亜人。雷雲を呼び寄せる亜人など。
風のように現れた彼らは激しく対抗し、長い戦いの末についに亜人の存在を認めさせ、その姿を消した。
彼らは畏敬の念を込めて亜人希少種と呼ばれた。以来、彼らは亜人たちの英雄として語り継がれ伝説となった。
人々は伝説の再来を恐れて亜人へ危害を加えることをやめた。人の国の多くが亜人への迫害を法律で禁じた。しかし、人々の根底にある認識を変えるのは難しいことだった。表沙汰にならない裏の世界、水面下では少なくない奴隷売買が続いていた。多くの国はそれを黙認している節があった。


ユヅキもまた、その悪しき風習の被害者であった。
「お許しください!」
敷き詰められた真っ赤な絨毯と見るからに高級な調度品の飾られた広い部屋の中央で、ボロボロのメイド服を着せられた一人の少女が両手を合わせて涙目で泣き叫んでいた。彼女の目の前には割れたティーカップの残骸が散らばっていた。その先には目をたぎらせ、怒りの形相を呈している男がユヅキをにらみつけていた。男はでっぷりと太り肥えており、額に脂ぎった汗を浮かべていた。醜い顔に無駄に伸びたひげが強烈な不潔感を引き立てている。
「うるさい!わしの気分にそぐわぬ茶を出したお前が悪いんだろうが!」
男は立ち上がり、怒鳴りつけるともにユヅキの腹へけりを入れた。肉のついた丸太のような足がみぞおちに突き刺さり、ユヅキは嘔吐したような悲鳴を上げた。患部を抑えてうずくまったユヅキに、男は顔以外のあらゆる箇所にさらなる追撃を加えた。ユヅキはけっして許されないとわかっていながらうわごとのような謝罪を繰り返した。
男はモードウッドという名の、高名な資産家だった。主に建築物の利権に深くかかわっており、商業界には欠かせない重鎮であるが、その性格は現状が示す通り、下種の極みであった。自分の失敗はすべて人のせいにし、理不尽な八つ当たりを繰り返す。今もユヅキが悪い風に言っているが、モードウッドの怒りの理由は、多種に及ぶ紅茶の茶葉の中からモードウッドが飲みたい気分のものを選べなかったからだ。もちろん、モードウッドは要望をユヅキに伝えていない。ただ、「わしの気分にあったものを持ってこい」といっただけである。それが茶であることも告げていない。答えはコーヒーかもしれなかった。否、答えなど初めから存在しなかったのだろう。すべてはユヅキに暴力をふるう口実にすぎなかった。
「はあ……はあ……こいつを地下牢に運べ!今夜、わしが直々にしつける!」
ひとしきりユヅキを痛めつけたモードウッドは、大声で部屋の隅に控えていた二人のメイドに命じた。しつけ。それは凌辱を意味する言葉であったが、ユヅキにはそれを理解する気力さえ残ってなかった。
メイドは無言で首肯し、二人係でユヅキを持ち上げた。二人は無表情であったが、その目は同情するように伏せられていた。
それから間もなくユヅキは地下牢に入れられた。地下牢といってもさびや汚れなどはなく、床もタイル張りで鉄格子の代わりに分厚いガラスが張られている。空気を確保するためか出入りする部分だけ鉄格子になっていた。手洗い場には鏡がついていて、トイレのみは外から見えないように仕切りで囲まれていた。牢といわれて思い浮かべるような汚さはなかった。
ユヅキはしばらく牢の真ん中に寝かされていたが、ようやく動くだけの気力が戻ると体を起こした。そのままボーっと鏡を見つめた。そこには頭に馬の耳をもつ、ひどい顔の少女が写っていた。乱雑になった長い髪の毛が痛々しい。だが、率直に言ってユヅキはそのままでもかわいかった。口は小さく目はぱっちりとしていて、あどけない顔つきに、ぴょこっとした馬耳がよく似合っている。髪や耳を覆う毛は銀にも近い灰色で、前髪にのみ黄色が混じっていた。背は高くなく、体つきはつつましやかではあるが、凹凸がはっきりしていて美しかった。
ユヅキが奴隷としてオークションで売られたとき、その参加者がこぞって買い求めるほどに、ユヅキは美に恵まれていた。とはいえ、その美も宝の持ち腐れである。むしろ、ユヅキとしては醜く生まれた方が幸運だったのかもしれない。なぜなら美しいがゆえに、これから醜い男にけがされるのだから。ユヅキが醜ければ、モードウッドに魅入られることもなかっただろうに。それでも奴隷である以上過酷であることに変わりはないのだろうが。
ユヅキの中で得も言われぬ悲しみがこみ上げ、涙を流した。
ユヅキの幸せが壊れたのは、一か月前のことだった。ユヅキはこことは離れた遠い異国で、両親と共に暮らしていた。母や父との仲はよく、笑顔の絶えない和気あいあいとした家族だった。そんなある日、ユヅキは些細なことで両親と喧嘩してしまった。理由は父親がユヅキが楽しみにしていたケーキを食べてしまったこと。さんざん癇癪を起こした末に衝動的に家を飛び出し、無我夢中で走っている間に人さらいに遭い、船や馬車に乗せられて、ほかにさらわれた亜人たちと共に運ばれてきたのだ。それから奴隷になったのは現在から1週間前のこと。この1週間、ユヅキはひどい虐待を受け続けた。さらわれる以前も、亜人であることから日常で冷ややかな態度を取られたり、些細な嫌がらせを受けたりすることはあったが、苦痛の比はそれらとは比べ物にならなかった。
ユヅキはここがどこなのかも知らない。わかっているのは、父や母とはもう二度と会えないということだけだ。そして自分に幸せなど未来永劫訪れないこと。
自分をあまやかして育ててくれた両親に会えないという事実は苦しみに拍車をかけ、ユヅキは悲しみに暮れて泣き続けた。ユヅキは嘆いた。14年続いた平和がこうも簡単に崩れるとは思っていなかった。せめて、家族に別れを告げたかったと。


数時間後、ユヅキはメイドに連れられて浴場へとやってきていた。ユヅキを連れて行くのは彼女を牢に運んだメイドだ。ユヅキは浴場へ連れてこられた意味を理解した。これから体を清められ、モードウッドに穢されるのだろう。ユヅキは観念して目をつむった。いっそ舌でも噛んでしまおうかと思ったが、恐怖心が勝ってできなかった。
ユヅキは全身を入念に洗われた。耳の裏や脇、股の穴の中まで。これらはすべて初夜を迎える準備なのだろう。
入浴をおえ、薄いネグリジェを着させられ、髪を乾かされる。髪の手入れまで終えるまで、メイドは終始無言であった。思えばユヅキは彼女たちがしゃべっているところを見たことがない。無論、談笑する気分ではないのでユヅキとしてはそちらの方がありがたいのだが。しかし、ある疑問が気づかぬうちに口をついて出ていた。
「この人たちも私と同じなのかな」
口にしてから、ユヅキははっとした。こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。答えなど帰ってくるはずがない。だが、メイドはユヅキの髪をすく手を止めると、ポツリと口を開いた。
「いえ。私たちはあの男に雇われたメイドなので。でも、あなたと同じようなものよ」
まさか答えが返ってくるとは思っておらず、ユヅキはばっと振り返った。そこには悔しそうに唇をかむメイドの姿があった。
「私たちはあの男に弱みを握られている。私たちがここから逃げ出せば、あの男の手によって家族に迷惑がかかるの。だから私たちはみんな、ここで一生を終えないといけない。奴隷と変わらないわ」
二人のメイドが代わる代わるに言った。一貫して無表情を貫いていた二人の顔が、熱く静かな怒りに染まっていた。それをみてユヅキは安心した。自分と似たような境遇にあっている者が他にもいたのだ。だからといって自分の運命が変わるわけではないが、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。
「一緒。ですか……」
さらわれてから初めて、ユヅキは笑った。喉が乾ききったころに見つけた一滴の水のような極微小な微笑だったが、それでもそれは、確かなほほえみだった。
「わたし、パパとママに会いたいです……」
これもまた意図せぬ言葉だった。ずっとずっと思い続けて、しかし誰にも言えなかった弱音が、口をついて漏れていた。同じような目に遭っている人が現われたからだろうか。悲しみを共有したい。慰めが欲しい。押さえつけられていた本能の表れだった。
メイドはたじろいだ。自分たちだって家族と会いたい。モードウッドに仕えているメイドはみな、親の仕事での表になっていない不祥事などを盾に、住み込みの低賃金で働かされている。モードウッドの悪趣味のために男の使用人はいない。当然、奉公の間は家族に会うことなどできない。それどころか休みすらもほとんど与えられないのだ。奴隷はユヅキのみだけだが、その扱いはもはや奴隷と変わらない。しかし、彼女たちとユヅキには決定的な違いがあった。
「ねえ、あなた。これからあなたが何をされるか、わかってる?」
メイドの片方が問いかける。ユヅキは目を伏せて首肯した。
どうしてそんなわかりきったことを聞くんだろう。ユヅキは心の中で不満を抱いた。悪意がないのは理解しているが、ユヅキは嫌がらせを受けている感覚に陥った。
そう思っていたのはもう片方のメイドも同じだった。
しかし、その真意はある決意に踏み切るためのステップだった。
「そう。私たちはね。あなたのような目にあうことはないの。だって、あいつが私たちに手をだせばそれが弱みになるから。でも、あなたは違う。わかるわよね?」
亜人への迫害は法律で禁じられている。しかし、水面下のそれは絶えることがない。国が亜人を保護するのは国籍登録をしている亜人だけだ。遠い国から連れ去られた国籍の存在しない亜人への迫害に国は救済の手を差し伸べない。ユヅキもまたそういう存在なのだ。つまり極端な話だが、モードウッドがユヅキを殺害しようとも、モードウッドは大きな責任を問われない。軽い罰で済んでしまうのだ。もっとも、国籍のないユヅキなのだから秘密裏に処理されてしまえばそれまでだ。
メイドは人間。ユヅキは亜人。それが双方の決定的な違いなのだ。
そんなこと、ユヅキもよくわかっている。わかっているからこそ聞かれたくなかった。怒りの言葉がこみ上げてくる。しかし、それが飛び出るよりも、メイドが口を開く方が早かった。
「そう。あなたは亜人。奴隷なのだから、きっと遠いところから連れてこられたのでしょう?」
見かねたメイドの片方が発言するメイドを止めにかかる。しかし、彼女はその静止を振り払って、つづけた。
メイドの発言が終わったら一言文句を言ってやろう。そう思って身構えていたら。
「だから、あなたは逃げられる。ユヅキさん、でいいのよね?」
ユヅキは耳を疑った。戸惑うあまりユヅキは言葉を失った。ユヅキはコクコクと首を上下に振った。
「ユヅキ。あなたは私たちと違って逃げることができる。行く当てはないんだろうけど、ここにいるよりははるかにいいはずよ。屋敷の構造は理解してるわよね。ここから裏口までならすぐに行けるから、行きなさい」
モードウッドの屋敷は広い。正面入り口まで行くには遠く、監視カメラもある。しかし、メイドの言う通り浴場から裏口までは目と鼻の先だ。監視カメラもなくすぐに出ることができる。たしかに逃げることは可能だ。だが、ユヅキは素直にうなずくことができなかった。
「で、でも!それではあなたたちが……」
ユヅキがここで逃げ出せば、二人はモードウッドに激しく罰せられるだろう。モードウッドの残虐さはユヅキが最もよくわかってる。あの苦しみを他人に押し付けて逃げだすには良心の呵責があった。
「大丈夫。あなたがこのあと迎えるはずの惨劇に比べたら、全然ましだから。ね、ミナもそう思うでしょ?」
ミナと呼ばれたのは、もう片方のメイドだ。彼女は一瞬顔をこわばらせた後、大きくため息を吐いた。
「はあ、まあ、確かにね。私たちは犯されたりしないだろうけどさあ」
そこでちらっとユヅキの顔を見て。
「ま、別にいいか。ヒカリの言う通りでしょ」
ユヅキは目を見開いた。湧き上がってきたのは。感謝と疑念が混ざりあった思いだった。
「どうして、そこまでしてくれるんですか?」
「そりゃまあ。かわいそうだから。胡散臭いかもしれないけど、本当にそれだけ。って、本音を言っちゃうとあんなくそ野郎にいい思いとかさせたくないのよね。ほら、あなたかわいいし」
ヒカリは「ほら」とユヅキの頭を両手で挟みこみ、顔を鏡に向けさせた。そこには、牢にいた時とは見違えたユヅキの姿があった。
「まあ、私もヒカリと同じかな。あんなやつにあんたはもったいないわ」
ミナは吐き捨てるように言った。
ユヅキは理解した。それは彼女たちの優しさなのだと。奴隷となっても、希望はついえていなかったのだ。どれだけ過酷な状況でも手を差し伸べてくれる人がいる。その事実にユヅキは感極まり、瞳を潤した。しかし、涙は流さない。
「ほらほら。泣くのはあと。まだ逃げ切れるとも限らないし。あなたが居なくなったのをしったらモードウッドは血眼になって探すはずよ」
ヒカリはユヅキの頭を軽く小突くと、脱衣所の隅に畳んである衣服を渡した。広げてみると、それはフードのついたローブだった。サイズはユヅキの体躯よりも一回り大きい。
「あなた、目立つんだから。それで全身隠していきなさい。ね?」
ヒカリは柔らかく微笑んだ。ミナが小声でつぶやいた。「ずいぶん用意のいいことで」ヒカリは反応しなかった。
「ま、何はともあれ気を付けてね」
「は、はい。有難うございました」
ユヅキはぎこちなくローブを着こむと、フードをかぶりながら洗面所を後にした。



数分後。
「で。本当のこと教えてくれる?」
ユヅキの姿が見えなくなって数秒。ミナが淡々と問いかけた。
「ん?なにが?」
「とぼけないで。善意だけで、あの子を逃がすわけないでしょ。あいつにどんな目にあわされるかもわからないのに」
「あはは。やっぱりミナにはばれちゃうか」
ヒカリはすぐには答えなかったが、一泊おいて、観念したように笑った。ユヅキには大したことのないように言っていたが、彼女を逃がしたとあってはモードウッドからの体罰は避けられないだろう。確かにユヅキに比べればまだ軽く済むかもしれないが、男としての楽しみを奪われたモードウッドが何をしでかすかはわからない。ないとは信じたいが、血迷ったモードウッドにユヅキの代わりを務めさせられるかもしれない。そこまでのリスクをおって見ず知らずの奴隷を逃がすには何か狙いがあるはずだ。ユヅキにとってヒカリやミナはなじみの浅い人物である。だから彼女は二人の意向を善意ととった。しかし、ミナにとってヒカリは年単位の長い付き合いである。ゆえに、ヒカリの性格をよく理解していた。ヒカリは確かに善良な人間だが、関係の薄いものにはそのやさしさを向けることはない。単純にいえば見ず知らずの他人が突然死しても関心を示さないタイプだ。そんな彼女がユヅキにやけに肩入れしていた。その腹の裏にはなにかしらの意図があるのだろう。ミナはそう辺りをつけヒカリの提案に賛成したのだ。そしてそれは的を得ていた。
ヒカリは「仕方ないなあ」と頭の中の思考を口に出していった。
「あの子が逃げていったとしたら、まずどこに行きつくと思う?」
「それは。下の町でしょ」
「そうそう。正解」
ヒカリはパンっと手をたたき、楽しそうに言った。
モードウッドの屋敷はとある町の高台に建っている。屋敷をでて道なりに進んでいけば、必ずその町に行きつくのだ。
「で、町におりたったあの子はどんな行動をとると思う?」
ヒカリはクイズを出すようにユヅキに問いかけた。
「それは、まず町を出ようとするんじゃない?」
「そうね。でも、果たしてユヅキが無事に出口にたどり着けると思う?」
「難しいでしょうね」
ミナは顔をしかめて答えた。下の町は広く入り組んでいる。一度道を間違えればぐるぐると同じ場所を回り続けることになりかねない。土地勘があればともかく、ユヅキは人さらいの手によって連れてこられた身だ。そんなものがあるはずがない。加えて、獰猛な獣の侵入を阻むために町は輪郭をなぞるように石の壁によって囲まれている。各所に設置された入り口には見張りがおり、出入りするには彼らの目をかいくぐらなければならない。検問を受けなければならないのは行商人のみだが、フードで顔を隠した怪しい何者かが外に出ようとすれば、必ず呼び止められるはずだ。よってユヅキがこの町を出るのは不可能に近いことなのだ。
「迷ってるうちにモードウッドに連れ戻されるか、職質されるのがオチかな。って、まさか!」
そこまで言ってミナは息をのんだ。反対にヒカリは自信にみちた笑みを浮かべていた。
「そこであの子が奴隷としてモードウッドに虐げられてたと知れば、それがあいつの弱みになる。幸いというか、あの子の体には証拠がたっぷりと刻まれてるしね」
ミナはヒカリの底知れない計算に畏怖した。ユヅキの体に刻まれた証拠とは虐待によってつけられたあざのことだろう。慰み者のするため顔は避けられていたが、体には痛々しい痕跡が残っていた。
「で、でも!ユヅキの代わりに私たちが侵されたらどうするの?あいつ、頭に血が上ったら何するかわからないし」
声を上ずらせてミナが言うと、ヒカリは盲点だったといわんばかりに目を開き。すぐに口角をあげた。
「あら。それならユヅキに期待する手間が省けるじゃない。あいつの弱みゲットよ。私が一番怖いのはユヅキがモードウッドに連れ戻されるだけ。処女と引き換えにあいつの支配から解き放たれると思えば、安い代償だと思わない?」
ころころと笑いながらヒカリは言い切った。ミナは彼女の存在が末恐ろしく感じた。



ホスピスの町。高台のモードウッドという高名な商人が屋敷を構えている下に位置することから下の町と呼ばれるその町は、一見して小綺麗な町だった。地面はタイルで隅々まで補強され、いたるところに洋風な建物が並び、メルヘンチックという形容詞がよく似合っている。要所要所に交番が設置され警備体制もしっかりと整っているので、比較的治安もいい。
とはいえ、美しさの裏には必ず裏がある。下の町の隅には貧しいものたちが集まるスラム街があり、そこだけは警備の手も伸びず、完全な無法地帯となっていた。様式も見るに堪えないものである。地面はひび割れで凹凸が目立ち、建物はいつ崩れてもおかしくないほどに老朽化していた。さらにスラム街全体にひどい異臭が立ち込めており、住人たちはボロボロの衣服を体に巻き付けるように纏っていた。道にうずくまる人、寝転がっている人。彼らの目に光はない。それは死んでいる故か絶望にのまれた故か。ぱっと見では生死の区別さえつかない。そこはさながら地獄であった。
日が昇ってから数時間後の朝っぱらから、そんな地獄のある真ん中を闊歩する場違いな二つの人影があった。
「護衛なんざ引き受けてもらっちまって悪いな。シラキ」
「ああ、まったくだ。なんで好きこのんでこんなところに来なきゃいけないんだ」
一人は緑の分厚いジャケットと同様のカーゴパンツといった出で立ちで、ジャケットの裏にベストを着ている。それらはすべて防刃仕様の物だった。表面上は何ら変哲のないかっくだが、明らかに襲われることを前提とした服装である。スラム街に一般人が入れば襲われることはまれではない。腰につけられたポーチ状のホルスターに銃が入っているのも、そのための対策なのだろう。筋肉隆々で背も高く、山のような男だった。彼はジャニという名前の、下の町の警備担当の総括を務める男だった。
一方、シラキと呼ばれた男は誰の目から見ても軽装であった。長袖長ズボンに薄いロングコートを羽織っただけ。まるで気まぐれに散歩に出かけるような格好だった。武器を持ち歩いている気配はない。もう一人の男とは正反対な出で立ちだった。加えてジャニに比べれば背も低く細身で、控えめな体つきだ。だがどう見ても護衛されるのはジャニではなくシラキの方であった。
「久々に帰ってきたと思ったらこんな仕事よこしやがって。そもそも俺はただの旅人だし、暴力が嫌いなのも知ってるだろ」
「まあまあ。こんなこと頼める奴がお前くらいしかいなかったんだよ。それにどうせ、昔よりも強くなってんだろ?」
「別に変わってねえよ。できるだけ荒事は回避のスタンスで行かせてもらうからな」
「構わねえよ。いざという時だけ動いてくれりゃいい」
シラキはため息を吐くと、それとなく周囲に気を配った。シラキは下の町の出身ではあったが、十二のころには町を出ていた。以来、ほとんど帰宅することなく各地を転々としながら、流れの運び屋として十年間も生活していたのだ。町の外は獣がはびこり、激しい生存競争が繰り広げられているため、並の能力ではすぐに命を落としてしまう。そんな中で生き残ってきたというだけで、その強か(したたか)は証明されていた。
早々に故郷を出たとはいえ、家族間に問題があったわけではない。旅をつづけながらもごくまれに両親に顔を見せるために帰ってはいた。そのために帰宅していたところをジャニに見つかり、依頼されたのだ。ジャニはシラキよりも七つ年上である。実家も近く、昔はよく頼りにしていた。
「でも、ここにいったい何の用があるってんだよ」
シラキは周囲への警戒を保ったまま、退屈を紛らわせるための世間話のつもりで問いかけた。ジャニの職から察するに町の治安に関することなのだろうと察してはいたが。
「住民から、スラムで怪しい人影が出入りしてると苦情が入ってな。その調査だ」
案の定、予想通りだった。
「ふーん。よくわからんが、お前って結構偉いんだろ? こういっちゃなんだが、そういうのって、下っ端の役割じゃないのか?」
大して興味もなさそうにシラキは相槌を打った。
「まあ、正直に言うと確かにそうなんだが、スラムに関しては自治体は口を出さないっていう暗黙の了解があってな。俺も仕事で来てるわけじゃないんだ」
「つまり、休日返上か。とんだ物好きがいたもんだな」
「まあな。ただ、今回はちょっと嫌な予感もしててな。どうも、その人影ってのが亜人らしいんだ」
「亜人?」
「ああ。お前とお――」
ジャニが何かを言いかけたところで、それは起こった。
わき道から小さな飛び出してきて、シラキの懐にぶつかったのだ。「ひゃっ!」影はその反動で跳ね返り、しりもちをついた。と、思いきや。「っと」影は地面と触れる前に、電光石火で動いたシラキの手によって寸前で抱きかかえられた。
「シラキ!」
「大丈夫。害はな――い?」
影は身を覆うようなローブをまとっていた。顔を隠すようにフードもかぶっていたが、それはシラキに受け止められた際に外れて素顔があらわになっていた。頭に馬の耳をつけたお世辞抜きでかわいらしい少女だった。小さな顔を恐怖に染めながら、肩で息をしている。
シラキは少女を手の中に抱きかかえたまま固まってしまった。少女の恰好は少し汚れていたがスラム街の住人に比べれば雲泥の差であった。加えて瞳もぱっちりと生気を帯びており、ローブの隙間から覗く中の服は綺麗なネグリジェで、スラムには似つかわしくない雰囲気を持っていた。
どうみても紛れ込んだとしか思えないが、どうしてスラムにわざわざ近付いたのだろうか。朝の散歩中に紛れ込んでしまったというのは苦しい。スラムの境目に人は住んでいない。そして、なぜ疲れ果てているのか。
固まっているシラキを気にしながら、ジャニはあれこれと思考を巡らせた。前半部分はともかく、後半部分に関してはすぐに答えが出た。
少女に続いて、目を血走らせた男が数人現われたのだ。全員、少女よりも激しく息を切らしている。近づかなくても鼻を刺してくる腐臭。布切れをまいただけの裸同然の汚い恰好。ろくに食事もできていないのか、あばらが浮き出るほどやせた体。かれらは少女を追いかけていたようだ。その目的は弄ぶためか金にするためか。双方の疲弊具合から見てずいぶん長いこと走り回っていたのだろう。少女が捕まらなかったのは、栄養失調で男たちの体力が著しく低下していたからだろう。
男たちは一旦足をとめると、ジャニを注意深く見つめた。ジャニの武装を警戒していたのだ。
「シラキ。出番だぞ」
男たちにばれないように腰のホルスターの中の銃に手を触れ、撃鉄を起こしながらジャニはシラキに呼び掛けた。
しかし、シラキはいまだに固まったままだった。
「おいシラキ! どうしたんだ?」
声を荒げて呼び掛けても、シラキは少女の顔を食い入るように見つめたままだった。そんなシラキの様子を好機と見たのか。男たちはいっせいにシラキと少女のもとへ飛びついた。少女は荒い息のまま声にならない悲鳴をあげ、身をよじらせた。
「くそ!」
ジャニが毒づきながら銃を抜き放つが、もう間に合わない。男たちの手がシラキたちに触れ—―たはずの瞬間、パチッと静電気がはじけるかのような音と共に、シラキたちの姿が消えた。
男たちは空を切った手を不思議そうに見つめ、辺りをきょろきょろと見回した。逆にジャニは心底安心しきったような息を吐き、銃をしまった。
「ったく。無駄にハラハラさせるんじゃねえよ!」
ジャニは大声で呼び掛ける。男たちの背後の立つ、亜人の少女を抱えたシラキへ。
「すまん」
男たちはぎょっと目を見ひらき、慌てて背後を振り返った。そのさきにいたシラキを見て、さらに「あえっ?」と呆けた声を漏らす。今、自分たちは確かに目の前の男をとらえたはずなのだ。それなのに、彼は気づかぬうちに自分たちの背後へ回っていた。男たちはまるでシラキが瞬間移動でもしたかのように錯覚したが。すぐにそれはないと首を振る。そして考える前に反射でもう一度飛びつく。しかし、一歩目を踏み出したかと思えばシラキは再び、音を残して消えてしまった。まさかと思って振り返ってみれば、ジャニの目の前にシラキは移動していた。自分たちはまた背後を取られたのだ。一度目はあり得ないとかぶりを振ることができても、二度見せられては信じざるを得ない。男たちは本能でシラキに恐れを抱いた。理性はここで逃げるべきだと叫んでいた。だが、少女をとらえれば何かと発散しづらい欲望のはけ口にできる。理性と得られる利性がせめぎあい、男たちは戸惑った。
「立てるか?」
お姫様抱っこで抱えている少女に、シラキは問いかけた。少女は驚きで言葉が出ないまま何度も首を縦に振った。シラキにゆっくりと下ろされると、よろけながらその場に立った。そして慌ててフードをかぶりなおした。少女はこっそりとジャニの横顔をうかがった。険しい表情だった。
シラキはゆっくりと男たちに振り返る。それが引き金だった。男たちは一目散に逃げだした。得体の知れないシラキへの恐れが欲望を上回ったのだった。
シラキは男たちの背を追わなかった。
ジャニが何かを言いかけて、飲み込む。彼としては追いかけて先ほどの発言について問い詰めたいところだったが、今は明らかに優先するべきことがあった。
「これが、怪しい人影の正体か?」
ジャニは隣の少女をみて疑問を口にした。少女は飛び上がるように背を振るわせ、のけぞった。体勢を崩して倒れかけた背中をシラキがそっと支える。
「ああ、ごめんな。怖がらせるつもりはなかったんだが。とりあえず、俺たちは君に危害を加えるつもりはないから安心してほしい」
普段はガサツな口調に気を使いつつ、ジャニは穏やかな声で言った。
「は、はい」
ユヅキが恐る恐るといった様子で口を開いた。
「お前、運がよかったな」
シラキが抑揚のない声で言った。
「あ、あの! 助けてくれて有難うございました」
「ん。どういたしまして」
ユヅキはジャニと話していた時はこわばっていた顔をやわらかく解きほぐし、笑みを見せた。人相的にも強面なジャニよりシラキの方が安心できるのだろう。少女との会話はシラキに任せ、ジャニは黙り込んだ。
「お前、どうしてこんなとこにいたんだ?」
シラキが問う。
「あ、えっと。わたしは、その……」
少女は顔を青くして、口ごもった。先ほどの恐怖が抜けきっていないのだろうか。だが、シラキはそれとは違った恐怖の予感を感じ取った。なにはともあれ、ひとまず場所を変えるべきだとシラキは考えた。
「ジャニ。スラム街を出よう。いいな?」
提案というより、確認する言い方だったが、もともと確証的な目的があってスラムに来たわけではない。ジャニに異論などあるはずもなかった。
「その子も訳ありみたいだから、詳しいことは俺の家で話そう」
「だ、そうだ。歩けるか?」
瞬く間に話がまとまり、シラキとジャニが動き出す。しかし、少女はうつむいたまま微動だにしなかった。「どうした?」少女は答えない。怪訝に思ったシラキが近づくと、少女はふるふると首を振った。
「も、申し訳ございません! わたし、すぐにこの町をでないといけないんです。ですから—―」
言い終わらぬうちに少女は踵を返して駆け出そうとしたが、「ひゃう!」一歩目を踏み出そうとした瞬間に、短い悲鳴をあげて倒れてしまった。
「大丈夫か?」
「は、はい!すみません。うぅ……」
少女は立ち上がろうと力を入れたが、彼女の足は弱弱しくプルプルと震えるだけだった。長いこと走り回っていたからか、自身も気づかぬうちに、体に限界が来ていたのだ。
「どうみても、大丈夫じゃなさそうだな」
シラキが困り顔でぼやいた。少女は町を出ていきたいというが、シラキは外の世界の厳しさを知っている。仮に少女が万全の状態で外へ出られたとしても、たった一人で生き抜いていけるとは思えなかった。
「なんか、町に戻りたくない理由でもあんのか?」
「それは……」
少女は口をつぐんでしまう。きっと理由を口にしたくはないのだろう。シラキもまた、事情があって町を飛び出したものだから、その気持ちは身にしみてわかる。シラキだって、その理由をやすやすと語りたくはない。
亜人ということで、少女も相応な苦労を経験してきたのだろう。しかし、だからと言って、命を捨てに行く行為を容認することはできない。シラキはどう説得したらいいものか頭を悩ませた。
「まあ、話したくないなら言わなくてもいい」
「なら――」
「だが、お前が外に出たところで、獣のえさになるのがオチだ」
はっきりと断定すると、シラキはゆっくりと少女に近づいた。少女がごくっと息をのんだ。
「悪いが、無理やりにでも連れて行かせてもらうぞ」
有無を言わせぬ物言いで、シラキは少女の手を取る。少女はその手を強く振り払った。
「あの。親切にしてくださるのはとてもうれしいんです。でも、私はどうしてもこの町を出ないといけないんです。わたしは……」
「わたしは。なんだ?」
「わたし、奴隷なんです! このまま町に戻ったら、またつかまってしまうから。もう、あそこには戻りたくないんです! だから、お願いします……」
フードを外した少女は、目に涙をうかべ、唇をかみしめ、絞り出すような声で告白した。少女としては、ここで見放してほしかった。
「奴隷だと?」シラキが眉をひそめた。「なら、ますます見逃せないな」
「こりゃまた。とんでもないヤマが釣れたもんだな」ジャニがやれやれと頭をかいた。
少女は戸惑いをあらわに首を傾げた。二人の反応が想像と、違っていたからだ。二人とも言葉や態度は違えど、どちらも考えていることは同じに思えた。
「見逃せないって。どうしてですか?」
少女はシラキに問いかけた。
「それはこいつに聞いた方が早そうだ」
シラキは質問の答えをジャニへ投げた。
「ホスピス警備隊の総括として、そんなヤマは見逃せねえよ」ジャニはぶっきらぼうに言った。警備隊の総括と聞いて、少女は目を丸くした。さらにジャニはつづけた。
「そんなわけだから、話は聞かせてもらうが、君の身の安全は俺たちが保障する。いいだろ?シラキ」
「守る対象が一つ増えるだけだろ。大して変わらないよ」
守る。その言葉は虐げられ続けた少女にとって、深い安心を与えるには十分すぎる単語だった。逃げ出して以来、張りつめていた緊張がほぐれていくとともに、全身の力が抜けていく。
「本当に。いいんですか?」
「ああ。でも、お前がついてきてくれないと、守るに守れないんだけどな」
シラキはぎこちないほほえみと共に手を差し伸べる。今度は振り払われなかった。
「わたし、ユヅキって言います! あの、えっと。よろしくお願いします!」
さらわれてから、ついぞ浮かべたことのなかった花の咲くような笑顔を浮かべると、ユヅキはがばっと頭を下げた。
「ん。おう」
ユヅキの笑顔が眩しくて、上ずった声を漏らすとシラキは顔を背けた。ぎこちないく不自然な返答だったが、深くこうべを垂れるユヅキには見えていない。傍で二人の様子を見守っていたジャニだけが、興味深げな笑みを浮かべていた。

その後。モードウッドの屋敷を脱出して以来一晩中走り続けた反動から座り込んでしまったユヅキを背負ったシラキたちは、スラム街の出口へ向かっていた。
「あの。重ね重ね、ありがとうございます。わたし、重くないですか?」
「いや、全然大丈夫だ。というか、むしろ軽すぎるぞ」
「あはは。ここ最近、まともな食事もできていなかったので、やせてしまったのかもしれません」
ユヅキは自虐的な言葉を発すると、乾いた声で笑った。それはシラキたちと出会ったことで、いくらか心に余裕のできたユヅキなりの冗談だった。だが、シラキやジャニの顔色は変わらない。わずかな沈黙が生まれた。ブラックジョークにもほどがあったかとユヅキは自分の失言を悔い始めた。
「じゃあ、戻ったらまずは腹いっぱい飯を食わないとな」
気まずい空気を払拭しようとユヅキが話題を模索し始めたところで、ジャニが豪快な笑みを浮かべた。ユヅキの冗談に感化されたわけではなく、泣いている子供に向けるような、ユヅキを元気づけるような笑顔だった。
「有難うございます」
ユヅキは心からの礼を告げると、小さく頭を下げた。シラキの背中でなければ、深々と下げていたところだった。
「ところで、今更かもしれませんが、お二人は平気なんですか?」
「なにがだ」
「その。シラキさんたちは人間ですので、亜人に抵抗はないのでしょうかと……」
本当に今更の話だった。こうしておぶられたり、気さくに話したりできている時点で、シラキやジャニが軽蔑の念など抱いているはずもなかった。あるいは、そんなことはわかりきったうえで言葉が聞きたかったのかもしれない。お前も普通の人間と変わらないといわれたかったのかもしれない。
しかし、シラキたちの返答はまたもユヅキの予想を百八十度覆すものだった。シラキたちは一瞬目を丸くした後に、腹を抱えて高らかに笑った。ユヅキを背負っている以上シラキは実際にそうしたわけではないが、勢いとしてはそのくらいだった。
「ど、どうして笑うんですか!」
ユヅキは口を尖らせ、すねた怒りを含んだ口調で抗議した。すると、ひとしきり笑い終えたシラキが、小さく息を吐いて呼吸を整えてから言った。
「愚問にもほどがあるからな。抵抗のある相手にここまで肩入れすると思うか?」
「お、思いませんけど……」
それならそれで、初めからそう言ってくれればいいのに。ユヅキは心の中で毒づいた。そんな風に思っていたことを悟られたくなかったから、言葉を切った。
シラキはさらにつづけた。
「それに、俺も同じなんだ」
「え?」
「俺も亜人だからな。だから、毛嫌いなんてする理由がないんだ」
ユヅキは耳を疑った。亜人ならば、かならず体の一部分にわかりやすい獣の特徴が出るものだ。ユヅキの耳が馬のものであるように。しかし、シラキにそう言った部分見られない。
「で、でもシラキさんに獣の特徴なんてどこにも……」
ユヅキは遠慮がちに尋ねた。自分の獣部分をコンプレックスとしている亜人は多い。通常ならば、その質問は控えるべきなのだが、尋ねなければ信じることができそうになかった。たしなめられるのも覚悟の上だったが、シラキは気分を害したそぶりは見せなかった。少しからかうように「なんだ。知らなかったのか?」と逆に聞き返され、ユヅキはうなずいた。
「獣の特徴が必ずしも見えるところにあるとは限らないんだぞ」
「と、いうと?」
シラキの言わんとすることがわからず、ユヅキは首を傾げた。
「お前は下に何も履かないのか?」
「あ……」
そこまで言われて、ようやくユヅキは言葉の意味を察した。すると、途端に頬が赤く染まっていく。自分はなんてことを聞いてしまったのだろうと、己の愚問を恥じた。獣の特徴が現われる場所は人それぞれだ。ならば当然、それが股間に現れることもあるのだろう。確かに、そういうことなら大っぴらに見せるはずがない。そんな質問をしてしまったことを謝るべきか、触れずにおくべきか、ユヅキは顔を真っ赤に選択に窮した。
そんな風にユヅキが慌てふためく様子が、シラキには面白おかしくて仕方なかった。「冗談だよ」笑いがこらえきれず、シラキは小さく噴き出した。
「へ? 冗談ですか?」
「ああ。俺の中の獣はもっとわかりにくいところにいるんだ」
「わかりにくいところ?」
「まあ、それはいつかまた教えてやるよ」
それっきり、シラキは口を閉ざしてしまった。どうにも、うずいた好奇心が抑えられなかったユヅキはしつこく問いかけたが、頑としてシラキは口を割らなかった。そのうちにユヅキも問い続けることに疲れてしまい、誰も口を開かなくなってしまった。そのうちに、シラキとジャニの耳に規則正しいリズムの吐息がはいってきた。二人が足を止めてみてみると、ユヅキがあどけない顔で深い寝息を立てていた。
「はは! 疲れがたまってたんだろうな」
「ああ。ろくに食事もとれてないってことは、ろくに睡眠もとれてなかったんだろ」
シラキはユヅキの顔にかかっていた髪の毛をそっと払ってやった。その口元がくすぐったそうにまごつく。小動物のような反応がほほえましく、シラキは頬を緩ませた。
「どうした? 惚れたのか?」からかうような口調でジャニが言った。
「違う。そういうわけじゃないさ」
「だったら、どういうわけだ?」
「別に。幸せが突然壊されるなんて、つらかったんだろうなって思っただけさ」
ユヅキの年は十六か十七くらいだろう。本当なら、これから楽しいことや辛いことをたくさん経験して、大人になるために成長していける時期なのだ。そのはずだったのに、理不尽な運命に弄ばれて奴隷となる道に引きずり込まれ、無理やり普通ではない人生を歩まされている。これはシラキの勝手な憶測なのだが、ユヅキは本当は明るく活発な性格だったのではないか。変にかしこまった口調も、怯えを着込んだような態度も、すべては狂わされた歯車による歪みなのかもしれない。もしそうだとしたなら、ユヅキの心に取り返しのつかないトラウマを植え付けた人間への怒りがわいてくる。
「上に立つ人間はいつだってそうさ。自分の都合だけで亜人を使うんだ」
吐き捨てるようにシラキは言った。
「そんなやつばかりじゃない。とは言えないのが、人間として悔しいばかりだ」
ジャニは謝罪しながら、ぎゅっとこぶしを握り締めた。シラキは何も言わなかった。言葉にはせずとも、ジャニのように誠実な人間がいることはもちろんわかっていた。だがそれ以上に、シラキは亜人を利用したり軽蔑したりする人間を見てきたのだ。旅に出た後も。
そこから会話は続かなかった。



ユヅキの両親も、亜人だ。ユヅキと同じ、フサフサの馬耳を持つ亜人だった。そんな両親の間から生まれたユヅキが、まったく同じ特徴を持つ亜人だったことは必然ではなかった。通常、亜人の形質は遺伝に影響されない。例えば、猫の爪を持つ亜人と犬のしっぽを持つ亜人から、トラの牙を持つ亜人が生まれてくることもある。また、亜人同士の子からいたって普通の人間が生まれることもあれば、その逆もあり得る。しかし、幸か不幸かユヅキは両親と同一の亜人であった。そのおかげで、亜人の家庭にありがちな特徴の不一致によるわだかまりは少なかった。そんなユヅキが、亜人として生まれたことの不満を漏らしたのは、一回だけだった。それは小学校に入ってしばらくしてのことだった。
「パパ。今日学校で、普通の子たちにユヅキは耳が気持ち悪いから結婚できないって言われたの。わたし、亜人になんて生まれたくなかった……」
それをいった普通の子たちが知っていたわけではないが、確かに亜人の結婚率は人間に比べればずいぶんと低かった。それは数の少なさにも影響されているのだが、やはり形質的なものや価値観の違いによるすれ違いが大きかった。人が人を嫌悪するように、亜人もまた亜人を嫌悪する。むしろ、個体の違いが明確な分、亜人同士の方が好き嫌いが激しく、結婚や交際へ至る道は厳しかった。人間と亜人が結ばれるケースもあるが、それはさらにまれなことである。
ユヅキが不安を口にしたところ、父はこう答えたのだった。
「そうだね。確かにその通りだ。だけど、それでもユヅキはユヅキらしく、堂々としてればいいんだよ。そしたらいつの日かきっと、耳も含めてユヅキのことが好きになってくれる素敵な人と出会えるはずだよ」
その言葉通りに生きても、父の言う素敵な人と出会うことはなかった。それどころか、体はモードウッドに奪われかけてしまう事実。父の言葉は本当に正しかったのだろうか。自分は本当に、身をささげたいと思える人に出会えるのだろうか。その真意を問うことはできるのだろうか。
思案にふけるうちに、気づいたら父の姿がモードウッドに変わっていた。脂ぎった顔に醜悪な笑みを貼り付けたモードウッドが、手を伸ばしてくる。「わしが躾けてやる」理不尽な急展開に動揺する間もなく、首をつかまれて引き寄せられる。汚らしい吐息がかかり、ユヅキは顔をしかめた。
「いや! やだあ!」
叫び、身をよじり、ユヅキはもがいた。しかし、いくら亜人といえど男の力にはかなわず、逃げられない。意識が途切れたのは、唇を合わせられる直前だった。


ユヅキは風を切るような悲鳴と共に身を起こした。胸が苦しく、息が激しく乱れていた。その割に頭は妙にすっきりしている。深呼吸をして動機を抑えると、ユヅキは自分がベッドに寝かされていることに気づいた。寝ているときに蹴っ飛ばしてしまったのか、足に絡みついていた毛布を取ると、ユヅキはそれを丁寧にたたみ、シーツのしわも残らないように隅々まで伸ばした。前からそんなことをしていたわけではないが、奴隷として過ごすうちに、ユヅキは几帳面な性格となっていた。
壁には自分が来ていたローブがハンガーでかけられていた。ローブの下はネグリジェ姿だった。ジャニかシラキが寝苦しくないようにと脱がしたくれたのだろう。
ベッドメイクを終えると、ガチャリとドアノブ音を立てて回った。顔を向けると、シラキが水差しとタオルの乗った盆を持って入ってきた。
「お。起きたか」
「シラキさん……」ユヅキはうわごとのようにつぶやき、ベッドから降り立つと、深々と腰を折った。「先ほどは不躾に眠ってしまって、申し訳ございません」
その腰の低さも、奴隷生活の悲しき名残である。シラキはそれを察していた。
「気にするな。寝たいときに寝ればいい」
その言葉の真意は、もう奴隷ではないのだから自由にすればいいということだ。シラキの声はユヅキに届いていた。しかし、それでもすぐに態度を改めることはできない。「すみません。有難うございます……」ユヅキは一度上げた頭をまた下げた。奴隷としての一週間が与えた傷痕が癒えるのは容易ではない。ユヅキが真の意味で奴隷という呪縛から解放されるには、長い時間か相応のきっかけが必要なのだ。
ゆえにシラキは、それ以上のことを言わなかった。盆を小さな丸テーブルに置くと、「これで顔を拭くといい」と乗っていたものを差し出した。
「はい。有難うございます」
ユヅキは恭しくそれらを受け取ると、タオルを湿らせて、遠慮がちに顔を拭いた。水をかけていない部分で顔の水気を取ると、使い終えたタオルをシラキに返した。もちろん、きっちり畳むのは忘れない。
「ジャニが聞きたいことがあるそうだが。リビングに来てくれるか?」
「はい」
リビングは、寝室を出てすぐ隣の部屋だった。「失礼します」シラキに続き、ユヅキは一礼してから入った。椅子に腰をかけて、コーヒーカップ片手にジャニがくつろいでいた。シラキはジャニとは対象の位置の席に腰掛けた。テーブルは四人掛けだった。ジャニの向かいの席は、ユヅキのために空けたものだ。だが、ユヅキは席の前で立ったまま座ろうとしなかった。
「座れよ」
ジャニが怪訝な顔で促した。「失礼します」まるで面接のように、ユヅキは椅子を引いて座った。
「そう硬くならなくていいぞ」ジャニが苦い笑みを浮かべた。「尋問ってわけでもないしな」
「はい。それで、わたしに聞きたいこととは?」
いくらか肩の力が抜けた様子で、ユヅキが訊いた。
「ああ。まず、お前さんは本当に奴隷なのか。本当にそうなら誰に買われたのか、またどんな風にして買われたのか。なるべく詳しく教えてくれ。それだけだ」
ジャニは淡々と答えた。
「おい。少しは気使ってやれよ」シラキが、ジャニをたしなめた。
「いえ。大丈夫です」
ユヅキはゆっくりと首を振り、つづけた。
「わたしは、リオトープの国のシラユキってところに家族と住んでました」
ユヅキはうつむいて、ポツポツと語りだした。声が震えているのは望郷のせいなのか、それとも別の何かなのか。
「随分遠いところに住んでたんだな」
ジャニが相槌を打った。
「でも、家族と喧嘩して家を飛び出してしまって。その時にさらわれてしまったんです。それからはよく覚えてません。運ばれているうちは、基本的に目隠しをされていたので。それで、気づいたらモードウッドっていう人のところで働かされていました」
続けるうちに、ユヅキの顔にはどんどん影が差していった。
「モードウッド、だと?」
ジャニが目を光らせた。
「誰だ?」シラキは尋ねた。
「建築業を生業にしてる大商人だ。丘の上の屋敷に住んでる」
「ふーん」
シラキはまったく関心を持たなかった。
「ユヅキ。お前を奴隷として買ったのは、モードウッドなのか?」
「はい。間違いありません」
「そうか。となると、ずいぶん厄介だな……」
ジャニは顎に手をやり、深く考え込んだ。シラキやユヅキにはジャニが深刻に考えている理由がわからなかった。
「そんなにやばいのか」シラキが訊いた。
「ああ。お前は知らないかもしれんが、モードウッドといえばホスピスが誇る経済界の重鎮だからな。つっても、俺も名前くらいしか知らんがな」
あんな男を誇るなんてどうかしている、とユヅキは思った。
「ちなみに、モードウッドにはどんな扱いを受けてたんだ?」
「はい。少しでも粗相をしてしまったら、罰として鞭でたたかれたりしました」
ユヅキは下唇をかみしめて言った。思い出すだけで、暴行を受けた箇所がずきずきと疼いた。
「本当に奴隷って感じだな」
シラキが憎々しげに言った。亜人が虐げられている様子を見たり聞いたりするのは、同じ亜人として気分が悪い。
「じゃあ、最後に。モードウッドの屋敷からはどうやって逃げ出してきたんだ?」
「それは……」ユヅキはヒカリとミナのことを思い浮かべた。「メイドの、ヒカリさんとミナさんという方が逃がしてくれました。ジャニさんたちとお会いした時に来ていたローブは、モードウッドの手先に見つからないようにとその時にもらったものです。無我夢中で走るうちに、あそこにたどり居ついていました」
ローブは寝室に置いてきてしまったので手元にはないが、ジャニにはしっかりと伝わった。
ユヅキは顔を伏せた。あの二人はどうしているだろうか。自分を逃がしたことがばれて、ひどい目に遭っているのだろうか。ヒカリは亜人ではないから大したことはされないといっていたが、どうにも嫌な予感がして仕方がなかった。
「あの! その方たちがわたしを逃がしてしまったことでひどい罰を受けているかもしれないんです。その。厚かましい願いではありますが、助けていただくことはできませんか?」
いてもたってもいられなくなり、ユヅキは懇願した。ジャニが警備の権力者なら、なんとかできるかもしれないと踏んだのだ。だがジャニはゆっくりと首を振った。
「残念だが、すぐには無理だろうな。モードウッドが罪を犯していたなどという情報は全く入ってきていない。まず、モードウッドが悪行を行っていたという証拠をつかまなけらばならないんだが」
「それは、わたしじゃダメなんですか?」ユヅキは胸に手を当て、問いかけた。
「残念だが、お前がモードウッドの奴隷だったという物的証拠がないからな。仮に今、お前の名前を出したところで知らんふりされて終わりだろう」
「そうですか……」ジャニの言葉に、ユヅキは落胆の吐息を漏らした。
「だが、反対にお前という存在が、モードウッドが悪事を働いていることを証明しているんだ。それがわかっているだけでもずいぶんやりやすい」
ユヅキの不安を払拭するように、ジャニは明るい声を出した。解答がわかっていない問題を順序だてて解明していくよりも、すでに答えの出ている問題の過程を探す方が簡単なのは事実だ。
それを聞いて、ユヅキは顔をほころばせた。
「それじゃ。さっそく俺はこの問題に関してしらべてくる」
ジャニは持っていたコーヒーカップの中身を飲み干すと、それを置き去りにして、勢いよく部屋を出ていこうとした。
「休日じゃないのか?」
スラム街での会話を思い出し、シラキが突っ込んだ。
「自主出勤だ」
短く答えると、ジャニはあわただしく部屋を出て言った。その背中が語っていた。給料なんかいらん。と。
「あいつ、本当に物好きだな」
休日返上でスラムに行ったり職場に行ったり、ワーカホリックという言葉は彼のためにあるのだろう。シラキは感心とあきれの混じったため息をつき、ジャニの残したコーヒーカップを下げようと手を伸ばした。
「あ、あの!わたしがやります!」
そわそわと落ち着かない様子で部屋の内装をうかがっていたユヅキが声を上げた。そのまま片づけを代行しようとしたところで、シラキに制された。「いいよ。俺がやる」
「で、でも――」口を開いたところで、ユヅキのおなかの虫がくぅっとかわいらしい鳴き声を響かせた。呆けた声を漏らして、ユヅキは目線を落とした。
「何か作ろうか」シラキは小さく噴き出すと、優しく微笑みかけた。
「すみません……」蚊の鳴くような声でユヅキはうなずいた。ほっぺたがほんのりと朱に染まっていた。

シラキたちの座っていた席の後ろに、カウンターを挟んでキッチンがある。シラキはガスコンロの前でフライパンをふるっていた。隣にはユヅキが立っている。作業の邪魔にならない程度に、フライパンの中身をのぞき込んで、見守っていた。
「あ。もう火は弱めてもいいと思います」ユヅキが言った。
「わかった」指示を受けて、シラキはつまみをひねって火を弱めた。
ユヅキによって指導されてはいるが、シラキは特別難しいことをしているわけではなかった。ただ、肉と野菜を混ぜて炒めているだけである。シラキは自炊をしたことがないわけではなかった。ただし、それは決まって野営の時であり、焚火を起こして肉や魚を焼くだけで、コンロやフライパンなどの道具はほとんど使ったことがなかった。外を旅するにあたって、極力荷物を減らすのは必定のことだ。そんな理由から、シラキの手つきは非常に覚束ないものであったのだ。油を引き忘れたり、換気扇を回し忘れたりと。それらを見かねたユヅキがアドバイスを口にしたところから、自然と教わる形になっていたのだ。
そうしてできた野菜炒めもどきは、お世辞にも出来がいいとは言えないものだった。火加減にもばらつきがあり、味見したシラキは顔をしかめた。
だがユヅキは笑顔を崩さずに、美味しい美味しいと言いながら食べていた。
「余計な気遣いはいらないぞ」シラキがボソッと呟いた。ユヅキが無理をしていると思ったのだ。
すると、ユヅキはふるふると首を振って箸をおき、胸に手を置いて言った。「誰かにご飯を作ってもらったのは久しぶりなので。この気持ちが美味しいんです」
切なげに微笑むと、再び箸を動かし、一口一口味わうように咀嚼した。シラキはむず痒さを感じながらその様子を眺めていた。
「シラキさん。とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」
パチッと箸をおくと、ユヅキは感謝を込めて手を合わせた。
「片付けようか?」シラキが訊いた。
「いえ。さっきはやっていただいたので、今度はわたしが……」
言って食器に手をかけたところで、ユヅキはピタッとその動きを止めて言った。
「すみません。やっぱり、すこしだけわがままを言ってもいいですか? 聞いてもらいたいことがあるんです」
消極的な態度だったユヅキが初めて見せた頼るようなそぶりだった。シラキは無言でうなずいた。
「わたし、実家にいた時って。こんな風に積極的に片付けを手伝ったりすることとか、なかったんです」
「ああ」余計なことは何も言わず、シラキはうなずいた。シラキには、ユヅキの言わんとしていることが予想出来ていた。
「でも。奴隷として働かされて。いろんなことを一人で抱え込まなくちゃいけなくなって。ようやっと気づいたんです」
ユヅキは深呼吸を挟んだ。
「お父さんとお母さんが、どれだけわたしのことを支えてくれてたのか。どれだけわたしが頼りにしていたのかを」
淡々と、ユヅキは心中にたまった思いを吐露していった。
「わたし。ジャニさんの質問に答えた時、家族と喧嘩したって言いましたよね」
「言ってたな」
「それ、完全に悪いのはわたしだったんです。ただ、お父さんがわたしが大事にしてたケーキを食べてしまっただけで。お父さんは謝ってたのに、子供みたいに情けなく泣きわめいたんです。それで、衝動的に家を飛び出して。それがあんなことになるなんて。思ってなかったんです。もう、二度とお父さんとお母さんに会えなくなるなんて、思わなかったんです」
後半になるにつれ、ユヅキの懺悔の声は強く張りあがっていった。最後の言葉を、灰の中の空気すべてを吐き出すような勢いで言い終えると、沈黙が場を支配した。胸を抑えたユヅキの荒い息だけが静寂を妨げていた。
「二度と会えなくなる?」シラキが尋ねた。
ユヅキは深く首肯した。スラム街から外へ逃げ出そうとしていたユヅキだが、国や町を行き来することの難しさは知っている。獣がはびこる街の外をまともに旅するには、守ってくれる護衛を雇う必要がある。馬車や船などの乗り物も必要になる。それらを利用するためにはお金がかかるのだ。特に、護衛は文字通り命を懸ける職業であり、そのリスクに相応して依頼料は弾む。
ユヅキはこの町と故郷がどれほど離れているかを知らない。しかし、海路や陸路を通じて一か月間もかけてここまで運ばれてきたのだ。仮にジャニがモードウッドを逮捕したところで、学生すら全うしていないユヅキが、そこまでにかかる費用を賄えるとは思えなかった。
「もう。会えないんです」自らに言い聞かせるように、ユヅキは言葉を反芻した。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。心の奥の蓋が安堵と安心によって外され、ぐつぐつと煮詰まっていた感情があふれ出てきた。
「リオトープって、確かここから北の方だったな」シラキが顎に手を当てて言った。
ユヅキは返事を返せなかった。代わりに嗚咽を漏らしていた。
ホスピスからリオトープの国までは、だいたい北に二千キロメートル弱の距離がある。その間に海を挟むが、そんなに広くはないはずだ。脳内に展開したあやふやな地図を使って、思案した。それからかかる手間やリスクを熟考したうえで、「なら。行ってみるか?」シラキはあまりにもあっさりと提案した。
「そんな簡単な話じゃありませんよ……」鼻声で、ユヅキは否定した。
「まあ、俺一人なら簡単だけどな。でも、いけないことはないさ」
「ふぇ?」
赤く泣きはらした目が、いっぱいに開かれた。ユヅキの口から疑問が飛び出る前に、シラキは答えを返した。
「旅人なんだよ。俺は」
「旅人?」
「ああ。この町に来たのも、旅の途中でたまたま寄ったからだ。モードウッドの件が片付いたらすぐにでも出てくつもりだったが。基本的に野宿だし、飯もおいしくない。油断すれば獣に襲われて食われるかもしれない。それでもいいなら、一緒に来るか?」
外の世界をだれよりも知っているシラキだからこそ、その過酷さはよく知っている。だからこそ、しつこく念を押した。しかし、シラキはわかっていた。ユヅキが断るわけないと。
「いいんですか?」泣きはらして赤くなっても、キリッと確固たる意志を込めた瞳で、ユヅキは問いかけた。
「わたし、パパとママに会えるんですか?」
「さあな。でも故郷に送り届けることはできるぞ」
シラキは肩をすくめて笑った。
「それでもかまいません。お願いしたいです」厳かな顔つきで、ユヅキははっきりと告げた。
「そうか。わかった。あとでジャニにも話しておこう」
「本当に有難うございます!」
シラキがうんざりするほどに、ユヅキは何度も頭を下げた。
その後、ユヅキは洗い物を始めた。それもシラキがやろうとしたのだが、ご飯を作ってもらったから、今度は自分にやらせてほしいとユヅキがねだったのだ。
「シラキさん。聞いてもいいですか?」
水の流れる音にかき消されないように、ユヅキは大声で呼び掛けた。わだかまっていたものを吐き出したせいか、態度が少しだけ軽くなっていた。
「何をだ?」
「シラキさんは旅人と言っていたので。どこに行ったのかなって思って」
「なんだ。そんなことか」
シラキは今までに巡った地で起きた出来事や、印象に残ったことをあさっていった。しかし、話題性に富むようなものはなかった。
「別に面白い話はないぞ」
「それでも大丈夫です」
言うと同時に、ユヅキが洗い物を終え、食事をした席に座った。目の前には料理を出した際に、シラキが一緒に出してくれたリンゴジュースの入った大きな瓶と、少し中身の残ったコップが置いてある。両手で瓶をつかむと、水面が荒れないように優しく中身を継ぎ足していった。
「ところで。なんで俺の話なんか聞きたいんだ?」
対面に座ったシラキが尋ねた。
「いえ。別に理由があったわけじゃなくて。ただの興味本位です。その、シラユキに住んでた頃も、外に言ったことがある人ってほとんどいなかったので」
確かに、国外に出ることが困難なこのご時世に国や町を出たことがある者は珍しい。ましてやあてもなく放浪する旅人など、酔狂もいいところだ。
「悪いが。リオトープは通ったことくらいしかないぞ」
ユヅキが一番聞きたがっていたことを、シラキは察していた。たとえ本人が考えていなくとも、自分と縁が深い話に興味が向くのは当然だ。
「シラユキの町は通りましたか?」案の定、頬を上気させ、声を上ずらせて食いついてきた。
「いや、通ってないな。俺が覚えていないだけかもしれないが」
「そうですか……」
しゅん、と効果音が聞こえてきそうなほどにユヅキは落胆をあらわに項垂れた。かと思えば、すぐに面を上げて揚々として言った。
「なら、わたしがシラユキの魅力をお話しします!」
「なんか目的が変わってないか?」
「あ。た、確かにそうですね。ごめんなさい……」
シラキが指摘すると、ユヅキははっとして興奮を収めた。上気して赤くなっていた頬が逆の意味で朱に染まっていた。
「別に話しても構わねえよ。どうせ時間はあるんだから」
とシラキが言えば、今度は上目遣いで「あ、ありがとうございます」はにかんで笑った。
そんな風にころころと変わる表情が見てて面白かった。
「では。シラユキのことを話しますね」
ユヅキは指を折って、話したいことを数えていった。その仕草を見て、シラキは小さな微笑みを浮かべた。
「まず、シラユキはほとんど年中雪が降ってるんですよ。雪が降ってない日は珍しいんです。だから、外を見て雪が降ってないのは新鮮だったりするんですよ。ほら、雪かきしてる人もいないですし」
ユヅキは窓の外に哀愁のこもった眼差しを向けた。ユヅキが見ているのは向かいの民家の屋根上だった。
「こっちは全然雪が積もってないから、屋根から飛び降りたりして遊んだら怪我しちゃいますね」
「ユヅキも、そんな風に遊んでたのか?」
「はい! 小さい頃は毎日のように! 顔から飛び込むのが好きだったので、毎日霜焼け顔で帰ってました」
もにゅもにゅと両手で頬をこねながらユヅキは答えた。
「シラキさんは、雪はお好きですか?」
「いや、そんなに好きじゃないな。確かに雪景色は綺麗だと思うが、寒いし歩きにくいからな」
シラキは以前何度か行ったことのある降雪地帯の銀世界を思い出した。確かに真っ白で余計な不純物のない静謐な光景は美しかった。だが雪が降っていると足もとられるうえに、寒さで体力も奪われるのだ。特に野宿の際は一層気を配らなけらればならない。何も対策せずに寝てしまったら、そのまま凍死することも大いにあり得るのだ。
「確かに、雪の中を歩くのって大変ですよね」
ユヅキは詳しいことを知っていたわけではなかったが、雪の中を旅する苦労は想像できた。見知らぬ土地で一人歩く自分を想像してみる。
迷った末にお腹を空かせるか、凍り付いて死んでしまう未来がたやすく想像できた。
「そういえば、シラキさんはどうして旅に出ようと思ったんですか?」
思いついたようにユヅキが訊いた。
「旅に出た理由か。故郷にいづらくなってな。それだけだ」
シラキが旅に出た時期をユヅキはしらない。彼が年端もいかぬ頃に旅に出ていたことを知れば、やんごとなき事情があることを察せていたはずだが。だが、口調からユヅキは不穏な空気を感じ取っていた。
「そ、それにしても。わたし、シラキさんやジャニさんと出会えてよかったです。お二人に出会えてなかったら、今頃どうなってたのかな……」
ユヅキは強引に話題を変えた。
もしあの場でシラキたちに遭遇していなければ、ユヅキはスラム街の住人に捕まっていたか、よしんば外に出られたとしても自然の驚異にあっさりと飲み込まれていただろう。もしもの世界線を想像して身を震わせた。
「十中八九死んでただろうな。ホスピスの周辺は気候や地形は穏やかだが、凶暴な生物が多いからな。特に群れで襲ってくるような奴らが多い」
「そうなんですか。もしかしてわたしって、すごく危ないことをしようとしてたんですかね……」
「スラム街でも言ったが。自殺行為以外の何物でもないな」
シラキはあきれた様子で首を振った。
「でも。そんなに危険なのに、シラキさんは一人で旅をしてるんですよね。やっぱりシラキさんって、すごくお強いんですか?」
「まあな。おかげで今日まで何とか生きてこられた」
「小さいころから、そういう訓練とか鍛えたりとかしてたんですか?」
「いや、そういうわけじゃない。俺はただ、たまたま普通の人よりはやく生まれてこれただけだ。運がよかったんだ」
シラキは机に置いてあるカップをグイッと呷ると、腰を上げた。
「風呂、入るか?」
「お風呂! 入っていいんですか?」
風呂と聞いてユヅキは顔をほころばせた。
「ああ。ジャニの部屋にさえ入らなきゃ、家の設備は好きに使っていいって言われてるからな。入るならお湯張ってくるぞ」
「それなら是非お言葉に甘えさせていただきたいです」
わかった。とうなずくと、シラキはドアノブに手をかけた。
「準備してくるから、ここで少し待っててくれ」
「わかりました!」
ユヅキは鼻歌を歌いそうなくらいに上機嫌でコップの中のリンゴジュースを含んだ。
モードウッドの屋敷にも風呂はあったが、奴隷であったユヅキがはいらせてもらえたはずもなく、使用人用のこじんまりしたシャワーを五分間のみ使わせてもらえるだけだった。一応、昨夜はミナとヒカリの手で屋敷の浴場で体を洗われはしたが、気が気でなかったうえに湯船には浸かれていない。
風呂好きなユヅキは一か月ぶりのまともな入浴の時間を心待ちにしていた。
そうしているうちに。ユヅキはふと重大なことを思い出した。風呂に入ろうにも着替えがなかったのだ。まさか今身につけている下着や服をもう一度着るわけにもいかない。
そのことを告げようとしてユヅキは部屋を出た。ジャニの家は一人暮らしなら持て余すくらいの広さで、部屋もそんなに多くはない。脱衣所への扉が開きっぱなしになっていたので、風呂場の位置はすぐに分かった。
「シラキさーん」
浴槽へ続く扉はしまっていた。いきなり開けるのも忍びないと思って声をかけてみたものの、返事はなかった。
「シラキさーん!」
今度は口を大きくして、呼び掛けてみる。すると、中から人の動く気配がして、スライド式のドアが開いた。
「どうかしたか?」
怪訝な顔をしたシラキが浴室から出てきた。ズボンのすそが少し折れているのはぬらさないためだろうか。
「あの。わたし着替えを何も持ってないのでお風呂には入れないんです。それを伝えたくて……」
ユヅキは心底落胆した様子で言った。
「ああ。なら買ってこよう」
シラキは性別の違いなど全く考えないままに訊いた。
「い、いえ! それは大丈夫です!」
ユヅキは顔を蒼白にさせて首を振った。ただしそれも、男に下着やら服やらを買ってきてもらうのは恥ずかしいからなどという理由ではなかった。
「五分もあれば買って来れるぞ?」シラキが問うと。
「いえ。できれば今はあまり一人になりたくなくて……」
シラキが外に出て一人になってしまったら、モードウッドの放った追手が飛び込んでくるような気がした。ホラー映画を見た直後に入る風呂でうすら寒くなるように。ユヅキは恐怖していた。
その気持ちはシラキも理解していた。だが、綺麗な銀灰色の髪や服についた汚れを見ると、そのままでいさせるのも忍びなかった。
「なら、一緒に行くか?」
ジャニには不用意にユヅキを外に連れ出すなとは言われていたが。シラキは忠告を無視して提案した。
ユヅキは逡巡した。あのモードウッドの性格なら何が何でも自分を探すような気がした。傍にいたから、あの男の傲慢さは身に染みてわかっている。
だがそれでもユヅキはうなずいた。根拠はないが、シラキがそばにいれば大丈夫な気がしたからだ。
「じゃあ、行こうか。念のためあのローブで顔は隠しておいてくれ」
ユヅキの髪の毛の色は珍しい。顔が割れているなら遠くから一瞥しただけでわかってしまうくらいには。
ゆえに多少怪しい恰好になっても隠した方がいいとシラキは判断した。
ユヅキは言いつけを素直に聞き入れた。
「すみません。その、お手洗いってどちらにありますか?」
寝室に置いてきたローブを取りに行く前に尋ねた。昨晩から一度もしていないところに水分を取ったことで、ひそかに尿意が押し寄せていたのだ。
事前にジャニに聞いていたトイレの場所を教えてやると、ユヅキは恥ずかしそうに一礼して、パタパタと出ていった。
線をひねって蛇口の湯を止めて、シラキも続いた。湯はくるぶし辺りまでたまっていた。

一方。職場についたジャニは上司が休日出勤してきたことに驚く部下を無視して真っ先に資料室へと駆け上がった。
ホスピスの警備隊の基地は二階建てになっている。一回は町民の相談を受ける窓口になっており、二階には過去に犯罪を犯した者の経歴などの様々な資料がある。
資料室は図書館のようになっている。本棚があって、それを読むための机が置かれていた。図書館と違うのは資料の持ち出しが禁止なためカウンターがないことだ。ジャニはモードウッドに関する資料をありったけ探し尽くして読み込んでいた。
「ジャニさん。どうして急にこんな男のことなんて調べ始めたんですか?」
問いかけたのは資料の読了を手伝っていたジャニの部下でもあり秘書でもある女性だ。真っ黒な髪の毛を短く切りそろえたフォーマルな雰囲気を持っている。
彼女との付き合いはそれなりに長い。ジャニは彼女のことを深く信頼していた。
「ああ。それなんだがな。アナ、今から言うことはくれぐれも内密にしてもらえるか?」
「わかりました」
アナは二つ返事で首肯した。彼女は口の堅さには自信があった。言うなといわれたことはどれだけ些細なことでも決して口にしない。そういうところもまたジャニに気に入られている部分だった。
「実はな」ジャニは念のため人の気配がないことを確かめた。「今朝、スラムに行ったんだが。そこでスラムのやつらに襲われかけてた女の子を保護したんだ」
「レイプ、ですか?」
「目的はそうかもな」
「さすが無法地帯ですね。汚らしい」
汚物を見るような目で、アナは吐き捨てるように言った。誠実を地で行く彼女は性犯罪のような外道的な行いを激しく毛嫌いしていた。
「だが、重要なのはそんなことじゃねえ。その子に素性を聞いてみたら、びっくり仰天。モードウッドの奴隷だってことらしいんだ」
「奴隷ですって?」
機密事項への配慮から声は抑えられていたが。その驚愕の度合いは目いっぱいに開かれた瞼に表れていた。基本無表情な彼女がするには珍しい表情だった。
「情報の信憑性はあるんですか?」
狼狽した意識を一呼吸で落ち着かせると、アナは冷静に確認した。ジャニが言うには証拠もなく、少女の発言を鵜呑みにしているように思えた。もしその少女が嘘をついている可能性はある。果たしてそれは事実であり、無論ジャニも失念しているわけではない。あの時のユヅキの真に迫った様子からは出まかせを言っているように思えなかった。
「正直確証は持てないな。とはいえ、嘘なら嘘でも別にいいんだ。あの子に本当のことを問い詰めればいいからな。でも、もし本当だったら一大事だろ?」
ジャニはなんとなく嫌な予感がするんだよ、と含みを残した。
「やっぱり胡散臭い話だと思うか?」
「いえ。思いませんが……」
アナはゆっくりと首を振った。それから何度もうなずいた。
「どうした。何か思い当たる節でもあるのか?」
どこか納得した様子に違和感を感じて、ジャニは訊いた。
「いえ。そういうわけでは。私的な話ですが、高校時代の友人を思いだしただけです」
「お前。友達いたのか」
「はい。数は少なかったですが。彼女は絶対に悪口とか言わず、面白みのない私にも明るく接してくれる子だったのですが。モードウッドのことだけはひどく毛嫌いしていたので。理由はわかりませんが」
「ふーん。今でも連絡取りあったりはしてんのか?」
「いえ。今はもう。一度お茶でもしたいとは思ってるんですけどね。でも、私も彼女忙しいですし」
「そうか。休みが欲しかったら、俺を頼ってくれてもいいぞ。お前は働きすぎだからなぁ……」
「ありがとうございます」
軽い雑談を交わし終えると二人は口を閉ざし、もくもくとモードウッドの情報を集めていった。
しかし、彼に関する記述に犯罪をにおわせるような手掛かりはなかなか見つからなかった。当てが外れたかもしれないとうすうす思い始めたころだった。休憩がてらにふと窓の外に移る丘の上に落ちた閃光をジャニが目にしたのは。



一方、モードウッドの屋敷にて。ユヅキの入れられていた牢に新たな入居者がいた。ミナとヒカリである。
「やっぱり、ひどい目にあわされたわね」
「そうね。でもレイプされてないだけまだマシだと思いましょう。はあ、ユヅキはどうなったのかしら」
「さあ? あれから何の音沙汰もないし、モードウッドに見つかってはいないんじゃない? 案外外でのたれ死んでるかもね」
「んー。そんなはずじゃないんだけどなー」
軽口を交わす二人の顔にはあざが浮かんでいた。昨夜、二人はユヅキを逃がしたことで責任を問われた。ユヅキの身体を好きにできる瞬間を待ち望んでたぎっていたモードウッドの怒りはすさまじいものだった。殴られ鞭でたたかれ。二人は痛みで動く気にもならないほどに痛めつけられたのだ。
「いつつ。あーあ。このまま警備隊のところに駆け込めたら、すぐにあいつを懲らしめてやれるのにな」
部屋の真ん中に転がっている傷薬と包帯を見ながらヒカリが言った。牢に入れられると同時に渡されたそれは、温情などではないことをヒカリは見抜いていた。モードウッドは使用人に暴行をふるっていたぼろが出ないように、自分たちの傷が早く治ってほしいだけだと。要は証拠を残したくないのだ。そんな思惑に乗せられるのもつまらなく感じた二人は、あえて薬も包帯も使っていなかった。
「そもそも。あんたの思惑通りにユヅキが町の警備に捕まったところで、本当にあの男が捕まるの? 事件のもみ消しとか普通にありそうなんだけど」
訝しむようにミナが言った。
「ふっふっふ。そこは大丈夫よ。警備隊には私の友達がいてね。ユヅキが私の名前を出せば彼女が意地でも見つけてくれるわ」
「友達って。本当に大丈夫なの? あんた、一言話しただけでも友達っていうじゃない」
「んー。あの子は少し特別かな。口下手で。曲がったことが嫌いで。でも不器用で。堅物な子だったから。それに愚直なまでに真っすぐ。あたしとは正反対にね」
遠い目をして、ヒカリは言った。昔から名家の娘として、人前で笑顔を絶やさなかった彼女が出会った。無表情な友人を思い浮かべて。もしモードウッドの呪縛から解き放たれたなら、久しぶりに彼女をお茶に誘ってみようか。とも考えた。
「へえ。まあ、何言ったところであたしはあんたを信じるしかないんだけどね」
「ふふ。ありがとう。なら、私は寝るわ。昨日は体が痛くてよく眠れなかったの」
ヒカリは言いながら、壁に預けていた体を横たえた。それから間もなく寝息を立て始めた彼女の神経のずぶとさに、ミナはあきれ交じりのため息を吐いた。
ヒカリとは家も近く、同じ名家の娘ということで、家ぐるみの付き合いも多かった。学校も高校以外はすべて同じで、職場も同じ。もはや姉妹といっても過言ではないほどの時を共に過ごしてきたが。ヒカリの考えてることや胸の内はまるで理解できない。どうしてひどい傷やリスクを負ってまで、確実性の薄い望みにかけることができるのだろうか。自分たちが高校を卒業してからすでに五年余りがたっている。ヒカリの言う特別な友人が本当に警備隊に所属しているという保証もないのだ。ふつうなら期待を持ったりなんてしない。
それでも不思議なことに、彼女の案に従っていけばだいたい最後はいい結果に終わるのだ。そういうところも、ミナにはいまいち理解できなかった。
そんな風にあれこれと考え込んでいるうちに、ふいに瞼が下りてきた。昨夜眠れなかったのはヒカリだけではないのだ。自分もたいがい図太いものだ、と思いながら体を横たえようとした時だった。雷鳴と破壊音が響いたのは。


諸々の準備を終えて、シラキたちはジャニ宅を出た。ユヅキに続いて出たシラキはドアを閉めると、そのまま商店街を目指して歩き始めた。
「あの。鍵は閉めなくていいんですか?」
確認するようにユヅキが訊いた。
「ああ。オートロックらしいからな。風呂場の窓の鍵はあけてあるから、入る時も大丈夫だ」
シラキはドアを空けるためのカギを渡されていない。シラキとユヅキが同時に家を留守にすることを想定していなかったからだ。
ユヅキは納得してうなずいた。風呂場の窓くらいならば鍵が開いていてもあまり問題はないはずだ。
住宅街を抜けて商店街につくまでに三十分弱。だんだんと人の数も多くなっていって、ユヅキはシラキに寄り添うにして歩いていた。
「ひ、人がたくさんですね……」
肉屋や八百屋。その他小物や靴などを売っている店を出入りしている人を見て、ユヅキはさらに距離を近づけた。
「人混みも怖いのか?」
一人でいるのが怖いからとついてきたのに、それでは本末転倒ではないかとシラキは思った。だがどうもそういうわけではなかったらしく、ユヅキはふるふるとかぶりを振った。
「いえ、わたしの故郷は人が少なかったからこんな風に混雑することって珍しくて。それに、ああいうのもなかったですし」
「そうなのか?」
ああいうのとは、人力車のことだった。外を行き来する際は長時間の運航が可能であり強靭な脚力を持つ馬に車を引かせるのだが、比較的安全な街の中では人が引くのが常道だった。荷台は箱のようになっており、カーテンがついていて周りの目かられることができるようになっている。運用方法はバスのようなもので、町中に設置された中継点をめぐる車に乗る。そして運んでもらった距離に応じて料金を払う形だ。
主に商店街から遠い地区に住んでいる人間や歩くのが困難な人間が利用するサービスである。
ユヅキの国では
「はい。シラユキはいつも雪が降ってるので、ああいうのはなくて……」
「確かに雪道を走るのは適さないだろうな」
「本当にわたしの知らないことばかりの世界で、ちょっと面食らっちゃってます」
控えめにはにかむユヅキの顔を横目に、シラキはさっと辺りを見回した。「あそこでいいか?」手近な服屋の中で、入り口にレディース専門とかかれた看板が立っているところを指して、シラキは問いかけた。
ユヅキはどんなところだろうと文句を言うつもりはなかったので即決だった。そうして二人が入店しようとしたところだった。
ユヅキが隣の店のショーウインドウに飾られた小物を見て声を上げた。
「どうした?」シラキが問うと。
「見てくださいこれ! 雪が降ってますよ!」
鼻息を荒くしながらユヅキはショーウインドウに飛びついた。勢いでフードがはがれる。あらわになった顔は満面の笑みに彩られていた。
ユヅキが指さしたものは、中に造られた建物のジオラマの周りに白いパウダーが舞っている手のひらサイズの透明な半球体の置物だった。
「スノードームか」旅の最中に似たようなものをどこかで見たなと思いだしながら、シラキは言った。
「へえ。これ、スノードームっていうんですか? すごいなあ。わたしの故郷にそっくり……」
ユヅキはガラスに手をついて、ケーキ屋に連れてきてもらった子供のようにうっとりとスノードームを眺めていた。その様子を後ろで眺めていたシラキは小さく息を吐くと。
「買ってくか?」
財布の中身を確認してから言った。
するとユヅキは目を輝かせた。と思いきや、すぐに下を向いてしまった。
「で、でも……」
「別に遠慮なんかしなくてもいいぞ? どうせ服も買うんだからな」
財布の中身は三万ほどの紙幣が入っていた。それだけあればお金が足りないなんてことは滅多にないはずだ。とシラキは考えていた。
「いえ。大丈夫です。わたしは服を買っていただけるだけで満足ですので……」
その後。いくら遠慮しなくていいといっても、ユヅキは頑として首を縦に振ろうとはしなかった。結局スノードームを名残惜しそうに眺めたままフードを直すと、ユヅキは服屋に入っていった。
「わあ。かわいい服がたくさんありますね」
ユヅキは嬉々とした声を上げたが、スノードームを見た時に比べて明らかに気持ちが乗っていなかった。もしかしたら尾を引かないように楽しそうにふるまっているのだけなのかもしれない。しかしそれは杞憂のようで、せっかくなら好きに選んでいいと告げると、顔をほころばせて服を選び始めた。顔を覆い隠すようにフードをかぶった姿に店員が怪訝な目を向けていたが、気づいていないようだ。
適当に選んだ場所ではあったが、品ぞろえはそれなりに豊富だった。ユヅキはフリルがついていたり可愛らしい装飾の施されていたりする服を一つ一つを手に取って吟味していた。この様子なら十分はかかるだろう。
周囲の服を見るようにしながらさりげなく距離をとりつつ、隙をみてそっとシラキは店を抜け出した。単なるおせっかいだった。子供の欲しがってるものを内緒で買ってくる親のような気持ちで、アクセサリーショップへと向かった。
しかし子供は時として鋭くなるものだ。シラキが自分の元を離れていったのをユヅキは察していた。慌ててシラキを探すと、ちょうど店の外に出ていくシラキを見つけてしまった。
「シラキさん?」
手に取っていた品を元の棚に戻し、シラキの背中を追いかける。なにか起きたのだろうか。それとももしかしたら。ここに置いて行かれてしまうのではないか。シラキとモードウッドがつながっていて、自分を引き渡すためにここに連れてきたのではないかと。いやに勘ぐってしまう。
外に出たら、そこにシラキの姿はなかった。ぐるっと辺りを見回す。知らない人ばかりでシラキの姿が見えなかった。この時ユヅキはある種の錯乱状態であり、混乱していた。一人にさせられてしまったこと。信頼していた人に裏切られてしまったかもしれないこと。
色々なことが頭の中で目まぐるしく回って、自分の目の前に人力車が止まったことにも気づけなかった。それに合わせて、通行人の一人がちかづいてきたことにも。
忍びよる悪意にユヅキが気づいたのは、何かの布を口に押し当てられたときだった。
「むぐ!?」
わけのわからぬまま、ユヅキは困惑に目を見開いて暗い意識の底へ沈んでいった。
『シラキさん。どうして……』


ユヅキが虐げられていた部屋の隅のソファで。モードウッドはいらいらをあらわに貧乏ゆすりをしていた。
「くっ。えい! いつになったらあの娘は見つかるんだ!」
怒号と共に、モードウッドは飲んでいたコーヒーのカップをたたきつけるように机に置いた。部屋の中を掃除していたメイドがびくっと肩を震わせた。
それからすぐのことだった。
「モードウッド様。伝書が来ました」
竹筒を持ったメイドが新たに部屋に入ってくる。するとモードウッドは眉間に寄せていたしわを戻し、歓喜の声を上げて立ち上がった。
「おお。ようやく来たか!」
乱暴に筒を受け取ると、もどかしそうに中の手紙をとりだした。流すように内容に目を通すと、目に毒のような醜い笑みを浮かべて見せた。
「ふはは。ようやく。ようやくか……」
聞いてるだけで耳鳴りがするような高笑いが響いた。


アクセサリーショップに入ったシラキは店員を呼び止めると、ショーウインドウに入っていたものと同じスノードームはあるかと尋ねた。
服選びに集中しているとはいえ、今はユヅキを一人にしてしまっている。いくらサプライズのためとはいえそこはシラキも気にしていはいた。なるべく早く戻ってやりたいから品を自分で探す時間も惜しいのだ。
「はい。あのスノードームですね。少々お待ちください」
店員に品を探してもらっている間に、シラキは会計の準備をしていた。すぐに戻ってきた店員に会計を済ませてもらうと、ラッピングしてもらった商品をシラキはすぐに戻った。一連の流れに三分もかかっていない。これくらいの短時間なら不信感も抱かれないだろう。
ユヅキの喜ぶ顔を想像しながら。シラキは服屋へと戻った。
静かにユヅキのそばに戻ろうと探してみるも、その姿が見つからない。さらわれたとは万に一つも考えず、トイレにでも行っているのだろうかとシラキは適当に店内を見て回っていた。
そうして十分くらいがたち、少し遅すぎやしないかと勘繰り始めたころだった。
「あの。先ほどのフードをかぶったお客様のお連れの方でしょうか?」
ユヅキに不審な目を向けていた店員がシラキに声をかけてきた。
「そうだ」シラキは憮然として答えた。
何かが起きたのだろうか。得も言われぬ不安を感じて、息をのむ。
「あのお客様なら、先ほど店を出ていかれましたが……」
「本当か?」
「はい」
訊き返しつつも、シラキはその言葉が嘘ではないとわかっていた。あんなに目立つ格好の少女を見間違えるはずもない。
シラキは礼を告げるとすぐに店を後にした。しかし当然ながら、ユヅキの姿が見えるはずもない。ここにきてシラキはようやく理解した。
ユヅキの身に何かよからぬことが起きたのではないかと。そう思った瞬間にシラキはため息を吐いた。
「くそ。油断したか……」
まさかたった一瞬目を話している間にユヅキがさらわれるとは思っていなかった。それに店を出たということはこっそりと抜け出していたこともばれていたのだろう。完全にシラキの落ち度だった。
とはいえ、こんなに都合よくさらわれるものだろうか。人の数も少なくないというのにどうやって連れ去っていったのだろうか。
「まあ、ごちゃごちゃ考える前に。ユヅキを探すか……」
取り返しがつかなくなる前に失態は挽回せねばならない。
「久々に人を傷つけることになりそうだ」
シラキはさらに大きなため息を吐くと、強く踏み込んで飛び上がった。するとその姿は瞬く間に消えてなくなる。ほんの刹那の雷切を残して。



グラグラと揺れる荷馬車の中で、ユヅキはぼんやりと目を覚ました。
「はぁ。にしても本当にタイミングが良かったな。まさか示し合わせたようにホシがでてくるとはな」
「そうだな。まさか堂々とぶらついてるとは思わんかったが。自分のなりが目立つとは思わんかったのかね」
会話が聞こえる。知らない声だ。ここはどこだろうか。何があったのだろうか。起き上がろうとして、ユヅキは自分が後ろ手に縛られていることに気づいた。声も出せない。視界も暗い。どうやら口と目にも布か何かを巻かれているようだ。
「にしても。一応連れの男がいたらしいが、どうしたんだ?」
「ああ。そいつならこいつより先に出て隣の店に入ってたぜ。理由は知らねえけどな。こいつも、そいつを追っかけて出てきたんだろ」
「そうか。ならやはり運がよかったんだな」
「だな。本当なら店に乗り込んで連れ去るつもりだったってのに。これで一人頭五十万なんだから割のいい仕事だぜ」
二人の会話を耳にして、ようやくユヅキは何があったかを思い出した。
『そうだ。わたし、シラキさんに置いてかれたんだ……』
無断で店を出たシラキを追いかけたら、怪しい男に眠らされて荷台に連れ込まれたのだ。くしくもそれは、かつてユヅキをさらった人さらいと同じ手法だった。あの時はうつむいて町をあるいているときに、急に背後から口に何かの布を当てられて眠らされたのだ。そして今と同じように声や視界、身動きを封じられて転がされた。
あの時はただひたすらに恐怖で暴れていた。声にならない声で叫び声をあげていた。しかし今度はユヅキは微動だにしなかった。やはり奴隷としての呪縛から逃れることはできないとあきらめて運命を受け入れたのだろうか。否。ユヅキは静かに涙を流していた。
前に捕まった時はすべて自分のせいだった。自分が両親に啖呵を切って飛び出し、夜道をたった一人で歩いていたから。
だが今回は違う。守るといってくれたはずのシラキに見捨てられたからこうして捕まった。裏切られた。シラキの行いをそうとっていたユヅキはひたすら悲しみに打ちひしがれていたのだ。
『どうして。どうして守ってくれなかったんですか。シラキさん』
心の中でユヅキは問いかけていた。助けてとは言わない。それは一回目に、両親に向けて飽きるほどに言いつくした。そして助けは来なかった。だから期待なんてしてはいけない。そう都合よくヒーローは現れないのだ。
精神が衰弱しきって。戒められてもなお我慢できずに。ユヅキは嗚咽を漏らした。
その瞬間だった。
轟音が鳴った。荷台の屋根の木を突き破る音。男の絶叫。何事だろうか。考える間もなく、自分の身体は何かに抱えあげられて高く浮遊した。頭が真っ白になる。視界も身動きも封じられている今、何一つ周囲の情報を仕入れることはできない。ただ成り行きに身を任せるしかなかった。
『ああ。今度はどんな目に遭うんだろう』
その身に不幸を抱え続けたユヅキは瞬時にそう考えた。だが。すぐにかけられて声で意識を改める。
「怖い思いさせて悪かったな。でももう大丈夫だ」
今度は聞き覚えのある声だった。それから。声の主に目を覆う布を外されたことで飛び込んできた光景に、ユヅキは声にならない声を上げた。悲しみではない。喜びの声を。




シラキは町の上空を飛ぶように闊歩していた。その身には青い雷が音を立ててほとばしっている。常人には一筋の光が走っているようにしか見えないほどの速度だった。文字通りの光速移動である。シラキがその人力車を見つけるのに数秒もかからなかった。カーテンや板で隠された荷台の中で、両腕をしばられた少女が転がされていることと、一人の男が胡坐をついていることはわかっていた。見えているわけではない。その中から生態的な電気反応を感じ取っているだけの話だった。故にわかっているのは体の輪郭のみである。顔などの具体的な情報は何一つ得られていない。しかしそれで十分だった。
シラキは屋根を突き抜け、男のひざに着地できるように狙いを絞ると。重力に体重を乗せて高速で落下した。
シラキの体重に落下速度も乗り、その力はすさまじい威力となった。木でできた屋根板などたやすく突き破り、そのさらに先の者も破壊する。骨を砕く感触が直で伝わってきた。男の身を切るような悲鳴が上がる。シラキは泣き叫ぶ男に目もくれず、ユヅキを抱えあげると。再び飛び上がった。
ユヅキの身体を片手で抱いて浮遊しながら、目をふさぐ布をつまむようにして小さなプラズマを作り出した。熱によって布が焼き切れる。一瞬だけ見えた赤くはれた瞳は怯えに満ちていた。天敵を前にした小動物のようだった。
本当に恐ろしい思いをしたのだろう。守ってやると豪語しておきながらそんな目をさせてしまった自分を恨む。そして誓った。少なくともユヅキを故郷に届けるまでは二度と彼女に危害は加えさせないと。絶対に守り抜くと。
「シラキさん……」
手を縛っているローブ、口の布の順に切ってやると、言葉をのむようにユヅキは呟いた。それからたたきつけるようにしてシラキの胸に顔をうずめた。その両手はシラキの腰に回されている。
「どうして! どうしてわたしを置いていったんですか!」
控えめを貫いていたユヅキが初めて見せた感情だった。
「本当にすまなかった。こいつを買いに行ってたんだ」
心からの謝罪と共に、シラキは懐のスノードームをとりだした。
「これって……」両手で包み込むようにそれを受け取るユヅキ。
「欲しがってたみたいだからな。驚かせようと思ってたんだが」
シラキは苦笑した。基本的に一人旅だったので、こういうやりとりにはあまり慣れていない。しかし、成り行きで出したプレゼントは効果的だったようで。
「そういうことなら。許します」
ユヅキは唇を尖らせてすねたように言って見せた。
シラキはさらに苦笑いを重ねた。
「まあ、詫びってわけじゃないが。もっと面白いもん見せてやるよ」
「面白いものですか?」
「ああ。こんな騒ぎ起こしちゃもうこの町にゃいられないからな」
辺りを見回しながらシラキは言った。ここは商店街から外れた閑散とした場所ではあるが、人が皆無というわけではない。ちらほらと音を聞きつけたやじ馬が集まり始めていた。
馬車の中の男はひざの骨が砕けた感触にいまだ苦悶の声を漏らし、衝撃で吹き飛んだ引手の男は残骸に埋もれてうつぶせに倒れたまま動かない。
理由はともかく加害者はシラキであり、浮遊するシラキに奇異の目を向ける者もいた。この場から離脱しなければ面倒なことになるのは確実だった。
「だいぶ予定が早まっちまったが、すぐに町を出ようと思う。いいか?」
「でも! まだヒカリさんとミナさんがモードウッドの屋敷に……」
「それなら大丈夫。ジャニに置き土産くらいは残していってやるつもりだからな」
ニヤリと悪そうな笑みを浮かべると、シラキはこの町でもっとも目立つ場所。すなわち丘の上の屋敷へ向けて移動し始めた。ユヅキに配慮してさっきのようなハイスピードではないが、徒歩よりは断然早いペースだった。
「な、なにをするつもりなんですか!」
ユヅキが大声で問う。
「なに。ホスピスを出るついでにあの屋敷にでっかい風穴開けていこうと思ってね」
「か、風穴って。屋敷を壊すってことですか? そんなの無理ですよ!」
風でたなびく髪を抑えながらユヅキが言った。
「いいや。できるさ」
だがシラキは自信に満ちた笑みを浮かべたまま首を振った。
「なんでそんなに自信満々なんですか!」
その根拠がユヅキにはわからなかった。否。本心は先ほどのシラキの姿を見ていればあながち荒唐無稽な話でもないとは思っていなかったが、モードウッドのもとに行きたくないという無意識の気持ちがそういわせていた。
「というか、シラキさんっていったい何者なんですか? 空を飛んだり、このバチバチ言ってるのって電気ですよね? なのに触ってもしびれないし」
色々なことがあって後回しになっていた疑問をぶつけた。驚くタイミングを逸してしまったが、今この状況は明らかに普通ではない。
「前にも言ったろ? 亜人だよ。俺は亜人幻獣種。キリンだ」
かたくなに答えようとしなかった質問も。今はあっさりと答えた。
「げ、幻獣種って! あの伝説の亜人ですか!」
その告白はユヅキにとって今日一番の衝撃だった。
亜人幻獣種。かつて人類の激しい迫害によって絶滅一歩手前まで追い込みまれた亜人たちの中に生まれ、その唯一無二の強力な力で種を救った英雄たち。教科書にも出てくるような偉大な存在だ。
「そ、それって冗談とかじゃないですよね?」
「違う。まず亜人としての特徴を完全に消せるのは幻獣種だけだ。この光もキリンとしての特徴の一部だぞ」
「で、でも! シラキさん、この前亜人の特徴はその。下の方にあるって……」
「そっちが冗談だよ」
どこまでもユヅキは信じようとしない。しびれを切らしたシラキは、空いた片手をユヅキに見せつけた。
「これで信じるか?」
いいつつ、その腕を獣。従来の幻獣麒麟の腕へと変えて見せた。手は蹄に変化し、腕は鱗が覆っている。鱗の一つ一つが青白いスパークを放っていた。
その神秘的な様子を見て、ようやくユヅキは納得したように深くうなずいた。
すぐにシラキは腕を人間のものに戻した。
「あれ。シラキさんってひょっとして完全に麒麟になることもできるんですか?」
思いついたようにユヅキが言った。
「できるぞ。完全な獣化は一回しかしたことないけどな」
シラキがそういったとき。ほんの少しだけ表情が暗くなったのをユヅキは見逃さなかった。触れてはいけない話題だったのかもしれない。話題を変えようと頭を考えを巡らせたが、何かを言う前にシラキが先に口を開いた。
「ほら。もう着くぞ」
気づけばすぐ目の前の距離にモードウッドの屋敷が迫っていた。当たり前の話だが、モードウッドの屋敷はジャニの家よりも何倍も巨大だった。
入り口の前に見張りなどはいない。
「ユヅキはちょっとここで待っててくれ」
シラキは周囲を確認して誰もいないことを確認すると、そこにユヅキを下ろした。
「もう、さらわれたりしないですか?」
「心配すんな。ここなら最悪すぐ助けに来れる」
「ふふ。ありがとうございます」
いつしかそんな軽口を叩けるほどにユヅキは心に余裕を持っていた。シラキが規格外の存在であることを知ってしまったからだろうか。あれほど恐ろしく感じていたモードウッドという男が途端にとるに足らない存在に思えてきてしまった。
空中に浮いていくシラキの後ろ姿に。ユヅキはひっそりと深く頭を下げた。


シラキは高度を上げながら生態電波の感知で中にいる人間の所在を確かめた。家のいたるところを徘徊しているメイドの姿を感じる。中の女性比の高さに寒気を覚えた。モードウッドという輩はよほど女好きなのだろう。だがそのおかげですぐにモードウッドが誰なのかは特定できた。明らかに一つだけ、異物というべき醜物が混じっているのだ。
モードウッドがいる部屋には幸いというべきか彼以外の姿はない。これならば他のメイドに配慮することなくやれそうだ。二つ、地下に座り込んでいるメイドの影が気になりはしたが、後で確かめることにした。
荷台に対してやった時と同じように狙いを定めると、シラキは落雷となって屋敷を貫いた。人力車を破砕した時とは比べ物にならない崩壊音が轟く。
シラキが着地したのはモードウッドのすぐ目の前だった。
「んな、何者だ気様!」
腰を抜かしながらもモードウッドは気丈に言い放った。
彼は例の知らせを受け取った後、ユヅキにどんな辱めを強いようかと妄想しながらとその時を待ち望んでいたところだった。それなのにいきなり天井から人が落下してきたのだ。
シラキはモードウッドの醜い姿を目に収めて顔をしかめた。全身のいたるところから卑しさがにじみ出ているといっても過言ではない容姿だった。こんな下卑たやつがユヅキを弄んでいたと想像するだけでも激しい怒りがこみ上げてきた。
殴り飛ばしてやろうと思ったところで、ふと足元に紙が落ちていることに気づく。拾い上げて読んでみると、そこにはこう書かれていた。
『目標対象確保されたし』
直接明言はされていなかったが、その目標対象というのがユヅキであることは容易に察することができた。
「はあ。やっぱりあいつらを差し向けたのはお前だったのか」
シラキは力任せに紙を破り捨てた。それからモードウッドを真っすぐに見据えると。
「一つだけ聞かせてくれ」
「な、なんだ」
「あんたにとって、ユヅキってどういう存在なんだ」
碌な答えが返ってこないことはわかっている。それでも、シラキは訊いた。心置きなく殴り飛ばせるように。
拍子抜けしたような間抜け顔をさらすと、モードウッドは地鳴りのように笑った。
「あいつはわしが買ったペットだ!」
それはシラキにとって最低であり最高な言葉だった。
「そうか」
無感情にシラキは呟く。その間にモードウッドは懐に手を突っ込み、護身用の拳銃をとりだした。
互いの距離は十メートルほど。普通なら一足飛びに詰められる間合いではない。モードウッドは勝利を確信して笑みを浮かべた。
「し――」
モードウッドの言葉はつづかない。モードウッドが発砲するよりもはるかに早く、シラキは拳をその顔にめり込ませていた。
芋虫が踏みつぶされるような音を立てて、モードウッドは吹っ飛んだ。醜く大の字に四肢を投げ出してぴくぴくと震えている。
「殺したらジャニに申し訳ないからな」
シラキは吐き捨てるように言い残した。



それからユヅキを連れて、シラキは気になっていた地下のメイドを確かめに行った。地下は牢屋になっている。その中にいれられていた二人を見て、ユヅキは顔を蒼白にさせた。
「ヒカリさん! ミナさん!」
牢といえども遮蔽物は格子ではなく分厚いガラスだ。ショーウインドウの時とは全く別の意味合いでユヅキは飛びついた。
「あら。ユヅキ。昨日ぶりかしらね」ヒカリがおどけた調子で言った。
「ちょっと! さっきの轟音はなに! 何が起きたの?」ミナが錯乱した様子で言った。
二人とも。顔に多くのあざができていた。ひょっとしなくてもモードウッドにやられたのだろう。ひどく残酷な奴だ。もう二、三発殴ってもよかっただろうか。などとシラキが考えていると。
「シラキさん! このガラス壊せますか?」
はやく二人を開放したくて、鍵を探す時間すら惜しいのだろう。シラキは何も言わずにガラスをけり破った。牢の中に破片が飛び散ったが、牢の奥で壁によりかかっていた二人に届くことはなかった。
「ユヅキ。あなた、見かけによらず強引なのね」ヒカリがコロコロと笑いながら言った。
「まったく。破片がこっちまで飛んで来たらどうするのよ」ミナは苦言を呈した。
「と、とにかく無事でいてくれてよかったです! お二人には本当に親切にしていただいたので」
「無事じゃないけどね」
ミナが傷をさすりながら小さく息を吐いた。
「ご、ごめんなさいわたしのせいで……」ユヅキは目を伏せて謝罪した。
「別にあなたが謝るようなことじゃないわよ。悪いのは全部あの気持ち悪い男だったんだし。それに、私たちだってあなたのこと利用してたようなもんだし」
ミナが罰の悪そうに言った。
「ふふ。私がね、ユヅキが警備隊に補導されたら、モードウッドの悪事がばれて私たちも解放されるかなって思ったの。だからこんな傷を負うリスクを冒してでもあなたを逃がしたのよ。善意じゃなくてごめんね?」
呆けたユヅキに説明すると、ヒカリはうめき声を上げながら立ち上がろうとした。どうやら暴行を受けたのは顔だけではないらしい。
ユヅキは手伝うようにその体を支えた。
「それでも。いいです。理由はどうあれ、ヒカリさんとミナさんは私を助けてくれたんですから」
ユヅキは感謝の言葉を述べると、今度はミナも立ち上がらせた。
それから三人はガラスを踏まないように気をつけつつ牢を出た。
「そういえば、あなたは警備隊の人?」
ヒカリが牢の外で待機していたシラキに問いかけた。
「いや。違う」シラキはきっぱりと首を振った。
「ふーん。さっきの衝撃はあなたの仕業?」
ヒカリは関心薄そうにうなずくと、質問を重ねた。
「モードウッドってやつの顔を拝んどきたくてな。迷惑だったか?」
「ううん。全然。むしろ助けてくれてありがとうね」
「ああ」シラキは短くうなずいた。
それからヒカリはモードウッドの居場所をシラキに聞くと、醜い面を拝んでくると残して行ってしまった。ついでに上でパニックになっているだろうメイドたちにも事情を説明してくるとのことだった。ミナも彼女と共に向かった。
ヒカリはモードウッドが虫の息であることを察しているようだった。そうでなければ暴行を受けた相手のもとに上機嫌で向かおうとはしないだろう。
「お前はどうするんだ? 何もないならすぐに町を出ようと思うが」
シラキが訊いた。
「うーん……」ユヅキは指を顎に当てて唸った。「モードウッドはシラキさんが懲らしめてくれたんですよね?」
ユヅキは確認するように首を傾げた。
「ああ」
シラキが肯定すると。「じゃあいいです! もう行きましょう!」ユヅキは屈託のない笑顔を浮かべた。
散々苦痛を与えられたモードウッドに罵声の一つでも浴びせてやりたい気持ちがまったくないわけではなかった。でもそんなことをしたところで虚しさしか覚えないのはわかりきっていた。
それよりも今はシラキと共に行きたい。閉ざされていたはずの故郷への道を歩みたかった。
「リオトープまでは長い旅になるが。思い残すことはないな?」
屋敷を出ると、シラキは最後の確認とばかりに訊いた。
ユヅキが大丈夫とうなずくと、彼は電撃を纏って彼女の腰を抱いた。二人の体はそのまま高度を上げていく。ホスピスは周囲を壁に囲まれているが、その上を通っていく散弾なのだろう。それなら検問を受けなくても済むからだ。
空中移動も二度目となれば、下さえ見なければ大した驚きはなかった。
「そういえば。シラキさんって雷みたいにすごく早く動けるんですよね」
肌いっぱいに風を感じながら、ユヅキは訊いた。
「そうだな」
「それなら一直線にリオトープを目指せばすぐにつけるんじゃないですか?」
ふと思ったことを告げると、シラキは鼻で笑った。
「何がおかしいんですか?」ユヅキはぷくっと頬を膨らませた。
ユヅキの発想は的を射ていた。確かにシラキが光のように飛べるならいけるだろう。事実それは可能だったが。
「俺一人ならいけるけどな。あまり早く動きすぎるとお前の身体が持たないんだよ」
シラキの言ったとおりだった。普通の人間がシラキの速度に合わせれば、体中の骨が軋みをあげるはずだ。もし今の状態でシラキが本気を出せばユヅキは五体満足では済まない。だから今も、かなり速度を抑えて飛行していた。
「そ、そういうことだったんですか……」
「ああ。だからゆっくり時間をかけて行くしかないんだよ。それじゃ不服か?」
「そ、そんなわけありません!」
ユヅキは激しくかぶりを振った。
感謝こそすれ不満など覚えようはずもない。もう二度と両親に会えないわけではないのだ。希望が見えているなら、どれだけ時間がかかってもいい。
それに長い旅になるということは、多くの町にも訪れることでもあるのだろう。そこではユヅキがまったく見たことのないような素晴らしいものがたくさんあるはずだ。例えばシラキにプレゼントされたこのスノードームのように。
「落とすなよ?」
彼女がローブのポケットからスノードームをとりだしたのを見てシラキは警告した。
「絶対に落としたりなんかしませんよ。だってこれはわたしの大切な宝物なんですから」
大げさな、とシラキは思ったが。彼と出会った証であるそれはユヅキにとって紛れもない宝物なのだ。
「ふふ。不思議です。わたし、少しだけ名残惜しくなってます」
少し前まで悲観に暮れていたというのに、今ではホスピスでの体験も悪いことばかりではなかったと思う自分にユヅキは苦笑した。
「あんなひどい目に遭ったのにか?」
「確かにそうなんですけど。思い返してみれば悪いことばかりでもなかったなって……」
訊かれて。ユヅキはホスピスでの出来事を振り返った。
雪の降らない光景を見て違和感を感じたこと。見慣れないものを不思議に思ったこと。伝説に出会って驚いたこと。悲劇を通して得た感動は確かにあった。
それらに加えてこれから巡り合っていくであろう未知の体験も。すべて土産話として持って帰ろう。そしていつか両親に話してあげよう。風に揺られながらそんなことを思った。
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