ヴァランティーヌ ~革命編~

工藤美月

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序章 1793年10月16日

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 それは、生まれて初めて感じる人の熱と怒号とうねりだった。
 ヴァランティーヌは、そこに連れてきてくれた親がわりの男の手をしっかりと握りしめながら、常に動き続ける人の波に押し流されまいと必死に耐えていた。
 しかしまだわずか7歳の幼女の体はあっという間に揉まれ、彼女よりはるかに背が高い大人たちの体に挟まれ、突き動かされ、蹴飛ばされてろくに立っていることもできなかった。
 彼の手を握っているだけで精一杯の状況で、酸欠になり気絶寸前で気を失う直前、大きく抱き上げられて新鮮な空気を吸わされる。
 「こんなに前に来たのがいけなかったかな。すまないね、ヴァランティーヌ。肩車をしてあげよう。よく見えるだらうからね」
 どこか間延びした彼の声と同時に、がっしりした肩に肩車をされて、ヴァランティーヌは初めて新鮮な空気の中で周りを見渡す余裕を持つことができるようになった。
 そこは、『革命広場』と呼ばれる大きな広場であり、何千何万という民衆が一気に詰めかけて大騒ぎを起こしていた。あんな人数が人一人分にも満たない隙間で騒いで動いていたら、誰か酸欠で死んでしまうのではないかと半分以上本気で思う。
 そもそもどうしてこんなに民衆が集まって騒いでいるのか彼女はわからなかった。
 そんな彼女の心を読んだかのように、肩車をしてくれている彼が言う。
 「今日は記念すべき日なんだよ、ヴァランティーヌ。この国を苦しめていた悪い王妃が処刑されるのさ、ほら、あそこをごらん。断頭台が見えるだろう?」
 言われた通りに広場の中央を見ると、確かにそこには大きな台の上に断頭台が刃を上げた状態でたたずんでいた。民衆たちはその断頭台を取り囲むようにして集まっているのだとヴァランティーヌはようやく理解する。
 罰を受けろ、オーストリア女。
 神に懺悔してみせろ、雌豚め。
 そんな醜い罵声が広場中を満たしているのも、王妃がよほどの悪い人なんだろうと彼女はその断頭台に立つ女性を見る。
 その女性は白いネグリジェのような処刑着で、両手を後ろ手に縛られていた。蝋燭のような白い肌はあちこち荒れてしまっていて、元は血を塗ったように赤く美しかったであろう唇も乾き、かさつき、血が滲んでいるのがはっきりわかる。
 かなり私たちは近くにいるんだな、とヴァランティーヌはさらに首を伸ばした。
 危ないよ、と彼が怒ったような声を出すが聞こえないふりをする。
 民衆たちが集まって見ているものが気になって仕方がないのだ。
 「あれが王妃さま? なぁんだ、もっと美しい人かと思っていたのに」
 想像していた『王妃』の姿とはまったく違ったその姿に、ヴァランティーヌは僅かな失望さえ覚えて言う。
 「あれでも美しい人だったんだよ。革命に巻き込まれて、やつれて弱ってああなってしまったんだろうねぇ。君もこの前みたいに『あれ』を使ったらああいうふうに処刑されてしまうから気をつけなよ」
 この前に使った『あれ』の事を彼はまだ怒っているんだなとヴァランティーヌは自覚する。
 人前で不用意に使えば恐れられるそれ。
 密告されれば異端審問にかけられて、拷問されてやがては殺されるのだと散々聞かされて来た彼女は、処刑されようとしている実際の人を見て初めて怯えていた。
 「わかった、もうしません」
 自分もああなるのかと思うと鳥肌が立ちそうだ。
 たくさんの人に罵られ、憎悪され、助けてくれる人もなく、また助けを求めることも二度とできなくされて殺されるような絶望は、絶対に味わいたくないと思った。
 彼は満足したように頷いた。
 普段は優しい彼だが怒ると変貌するのをヴァランティーヌは身をもって知っている。
 再び断頭台に目を戻すと、かつての王妃は首を固定され、刃が落ちてくるのを待っていた。
 誰よりも偉いはずの王妃がそうなるなんて、とヴァランティーヌはかわいそうになって目をそらす。
 かつてのフランス王妃であった女性は、民衆たちの絶え間ない罵声を浴びて今正に命を終わらせようとしたいるのだ。そんな残酷な瞬間など見たくもなかった。
 と、彼女が密かに怯えていると、不意に声が聞こえた。
 「……神よ、どうか、どうか、お願いです。あの子を、どうか私の末娘を、守ってください」
 それは弱り切った女性の声だった。
 民衆たちの叫び声で普通の声など届かないのに、まるで耳元に囁かれているようにヴァランティーヌには聞こえた。
 咄嗟に王妃に目をやると、再び声が聞こえた。
 「不幸な身の上に生まれてしまったあの子を、どうか。あの子があのようになったのは、私の責任なのです。どうか、ご加護を」
 聞こえるわけがない。
 罵声の中、ささやくようなその声など聞こえるわけがないのに、ヴァランティーヌにははっきり聞こえた。
 そして彼女は王妃の口元が小さく小さく動いているのを見てしまう。
 これ、王妃さまの声なの?
 あそこから、私の耳に届くはずがないのに?
 唖然とするヴァランティーヌの耳は、確かに最後にこう聞いた。

 「私の最後の娘……、会うことさえ叶わなかったけれど、どうか生きて、マリー・ソフィー」

 その声は、泣きそうに震えていた。
 そしてその瞬間は訪れた。
 断頭台の刃が下され、王妃の首が切り落とされる。
 鮮血と民衆の割れんばかりの歓声。
 共和国万歳、共和国万歳、と。
 「大丈夫かい?」
 下で彼がいつもどおりの平坦な声で言った。
 彼には、王妃の声はまったく聞こえていなかったようだった。まあそれも当然だろうが。
 あんなささやくような声が聞こえているのは、きっとヴァランティーヌだけだっただろうから。
 何でもないよ、と彼女は答えた。
 処刑人が王妃の首を持ち上げて民衆に晒し出したのから目を逸らして、彼女は告げる。
 「帰ろうよ。疲れたよ」
 「…具合が悪くなったかい?まあ、それもそうだろうね。人の処刑なんて本来見るべきものじゃないんだから」
 だったらどうして私をここに連れて来たんだろう、とヴァランティーヌは思う。
 自分はまだ7歳。同年代の子供とは違い中身は十代中盤の精神年齢を持っていると言われるが、それでもまだ子供には変わりはないのだ。人間の処刑など精神に影響するものを近くでみせようとるすのは何だか普通ではない気がする。
 断頭台での処刑は、犠牲者には最も優しく、見る者にとっては最も残酷でショッキングだと言う程、断頭台での光景は残虐なものなのだ。
 まあ、その優秀な断頭台でも、首を切り落とす時に時たまに失敗することがあるらしい。それは犠牲者の首の角度や、首に髪がかかっていたりして起こってしまうものらしいが、刃の錆び具合に処刑人が気がつかずに起こってしまうこともあるというのだから恐ろしい。見ている方は興奮するのだろうが、されている方からすればたまったものではないだろう。首を中途半端に切られたまま放置されるのだ、死ぬまで時間がかかるに違いない。
 「だが、忘れてはならないよ」
 そして、いつもは平坦な彼の声が強気な声になったのを聞いて、ヴァランティーヌは思わず肩車をしている彼の上でびっくりしてしまった。
 彼が怒る時以外にこんな声を出すことは初めてだったからだ。
 「マリー・アントワネットという王妃が、最期まで気高くあれと心に誓って死んだことを。君は、忘れてはいけないんだ」
 強く、そしてわずかに怒ったような、それでいて悲しそうな声だった。
 なぜ彼がそんなことを言うのか、ヴァランティーヌには理解できなかった。
 まるで恋人が殺されたかのような憎しみが、その声には含まれていたからだ。
 「そして、最期の瞬間まで末娘を想って死んだことも、だよ。君にこの処刑現場を見せたのはそのためだよ」
 そしてその言葉にさらに驚いてしまう。
 ひょっとしてさっきの声が彼にも聞こえていたんだろうか?
 仲間を得たような気分になって、ヴァランティーヌは笑って答えた。
 「私、忘れないわ。王妃さまが怯えることなく死んだあのお姿を。きっと、王妃さまが想っていた娘さんは、幸せなのよ。そこまで人に愛されるって素晴らしいことでしょう?」
 するとその言葉に彼はしばらく何も言わなかった。
 怒らせてしまったんだろうかと顔を覗き込むと、彼はいつも通りの声には戻って言った。
 「そうだね。きっと、幸せだろう」
 
 マリー・アントワネットは死んだ。
 それは、ある一つの守護が消えてしまったということでもあった。

 私はまだそれを知らない。

 知ることになるのは、もっとずっと後。

 私が、ヴァランティーヌが自分のことで理解していることは数少ない。

 さっきの王妃の声がか聞こえてしまったという不思議な現象についても、さほど深くは考えずに時間が経つに連れて忘れてしまった。
 普通の人ならば、処刑直前の王妃の声が自分だけに聞こえたとなれば君悪がって怯えるだろうが、ヴァランティーヌはそんなことはなかった。
 自分が、普通の人間ではないことはわかりきっていたから。
 きっと今回も『あれ』の弊害なのだろう、と。
 
 私は、普通の人間ではない。
 
 私は、魔女なのだから、と。
 
 
 
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