ゆきんこ

神崎 黎

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ゆきんこ

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 歩きにくさに思わず立ち止まる。
大きく息をついて空を振り仰ぐとはるか向こうに陽の落ちた西山が見えた。稜線は冷たいオレンジ色に染まり、蒼色に山の形がくっきりと浮かび上がっているのに、英介の足もとはすでに闇に沈んでいる。
 暗いあぜにぼんやり浮かぶ白いスニーカーを規則正しく進めていく。その前を行く泰之の靴はグレーだからもうよく見えない。ぐずぐずと泥を踏む音がするだけだ。
「靴どろどろだよ。また母さんがうるさいな」
「英介の母さんてすぐ怒るもんな」
 日ごろから英介の愚痴を聞いている泰之は笑みを含んだ声音で答えた。そうだよ、とぼやき視線を目の高さに戻すと、鼻先で柳の枝にささった白色や緑、黄色に彩られたまゆ玉がせわしく揺れている。
 今日は、三九郎なのだという。
 県外から信州へと転校してきた英介にとっては未知のこの行事について、丁寧に教えてくれたのは、泰之の祖母だった。
 小正月前日の十四日の晩に、各家庭から集めた門松や注連縄で組み上げたやぐらを焼き、その火で餅や上新粉で作った団子を炙って食べるとその年は息災で過ごせるのだという。
そして残った炭は少しずつ分けられて家々に配られ、火除けのお守りとして神棚に供えるのだそうだ。
「よそじゃ、どんど焼きって言うけど、ここら辺りじゃ三九郎って呼ぶだじ」
「おもしろい、昔の人の名前みたいだ」
砂糖と混ぜてこね、蒸し上げた上新粉を器用に丸めていた泰之の祖母は笑った。とてもほっとする笑顔を見ながら、まだ温かい団子を一つかじってみると、柔らかくて甘かった。
「わしの子どものころは書初めも燃したが。三九郎の火で燃すと字がうまくなるっていってな。今は書初めなんてする子はおらんか」
「三年の時に宿題でやった。学校に持ってなきゃいけないから、燃やしたら大変だよ」
「そうかい。今は宿題になるのかい」
 どことなく寂しそうに笑って、枝に差したまゆ玉を英介にも分けてくれたのだった。
丸い団子の真ん中をくびれさせたまゆ玉形やしずくのような稲穂形の団子は、きれいに整っていてオブジェのようだ。
 揺れる枝の向こうにそれを担ぐ泰之がいるはずなのに、黒っぽい服装のせいではっきりとしない。急に不安になってきた。
「ねえ! やっちゃん。ホントに行くの?」
「いやならついて来なければいい。あっちに行けばまだ点火に間に合う」
 振り返りもせず、泰之はそっけなく言った。
「別に、いやだってんじゃ」
 語尾が頼りなく細る。
 初めて見る三九郎に興味はあったけれど、同級生と顔を合わせるのは気が重くて、行く気がしなかったのだ。
 夏休み明けに転校してきた英介を同級生たちはなかなか受け入れてくれない。男子のリーダー格である浩太がどうにも都会から来た英介が気に入らないらしく、事あるごとにつっかかってきたり、嫌味を言ったりする。彼の機嫌を損ねたくない仲間たちもそれに便乗するものだから、三学期になってもクラスになじんでいるとは言いがたかった。
 そんな男子たちの中で泰之だけが例外なのだ。
 彼は、英介とも普通に話をする。
しかしその態度は仲間外れ気味の転校生を気遣っている訳ではなく、来るものは拒まないだけだと感じていた。英介がついて来ようと離れて行こうと、きっと泰之はあまり気にしないに違いない。
 そうと判っていても泰之にくっついてまわるのは、何故だか居心地がいいからだ。
泰之は町外れの小さな寺の離れに祖母と二人暮らしだ。
やけに大人びた雰囲気で、英介の目からもクラスの中で浮いているように映る。ガキ大将気取りの浩太でさえもあまり関わりたくないような態度が見てとれる。
 自身も家庭のことにはあまり触れてほしくない英介にとっては、いろいろ聞いてきたり、家に遊びに行きたいとも言わない泰之は付き合いやすい同級生だった。
 一年前、新しく父親になった人は優しくていい人だ。その人の突然の転勤で田舎に引っ越すはめになった母親は、新しい学校になかなかなじめない英介のことよりも、自身が友人もできず、遊ぶ場もないことを嘆いてばかりいる。
 二人きりで暮らしている時も、仕事を変えたいとか、保育園が気に入らない、あの子のお母さんはいやな人だとか、そんなことばかり言う人だった。
母親の言うことだから素直に聞いていた英介も、成長するにつれ、その自己中心的な繰言にうんざりしてきた。
両親が離婚したのは英介がまだ三つになる前だ。原因はきっとこの性格のせいではないかと、英介は思っている。
母親は英介の成績や工作を見ても、まず初めに文句をつける。何をしても、どんなに頑張っても、手放しで褒めてくれたことはない。
 だから自然と、家では無口になる。
 腹の底にたまった大人には絶対に言えない学校や家での鬱屈も、泰之は黙って聞いてくれるし、決して他人に言うこともない。
 しかし英介は泰之のことをほとんど知らない。彼の両親はどうしているのか、何故お寺に祖母と二人で住んでいるのか、聞いてみたいことはあるのにうまく聞けないでいる。
そんな得体の知れない泰之を母親が疎んじているのは感じていたが、母親がついていなければ遊べないほど幼くないのをいいことに、気にしないことにしていた。
 三九郎については泰之から誘ってきた。
「おれ、三九郎には行かないけど、その日一緒に来るか? 面白いものが見られるかもしれない」
 断る理由があるはずもなく、英介はこうしてついてきている。
 行く先は三九郎の組まれた田んぼとは正反対にある竜妻池らしい。あぜ道の果てに、池の土手が見えてきていた。辺りはすっかり夜になり、池の向こうの山とそのふもとの土手はさらに黒々とそびえている。ところどころほの明るく見えるのは、残った雪だ。
「やっちゃん、竜妻池になにがあるの?」
「……出るはずなんだ」
「出るって、何が?」
 あっさり言う泰之に、英介は言いようのない不安を覚える。
 もしかしたら、彼はとんでもない所に連れて行こうとしているのではないか。ひょっとしたら英介が知らないだけで、竜妻池には恐ろしい謂われでもあるのかもしれない。 
急にそら恐ろしくなった。
「お化けとか……?」
 おそるおそる聞いてみると、泰之はからからと笑い飛ばした。
「お化けなんかいるはずないだろ。コドモだな、英介は」
「……同い年じゃないか」
「そんなものはいないよ。昔は養殖場だったらしいから、生き残りのコイはいるけどさ。ああ、保育園のころ、あそこのコイは人食いゴイだって聞いたことある」
「……マジかよ」
 確かに、あの池には時々はねる魚がいる。ブラックバスだったらずいぶん大物だとは思っていたけれど。
「そ、そうなの」
 情けないことに声が震えていた。それを感じたのか泰之は立ち止まり、振り返った。
「怖いのか?」
 反射的にかぶりを振る。声を出さなかったのは、奥歯をかみしめていたからだ。そうでもしていないと、がちがちと歯のぶつかる音が聞こえてしまいそうだったから。
「昔の話だけどさ、町内のちょっとボケたおばあさんが散歩に出たまま帰らなくて、大騒ぎになって町中で探して、この池を見に来た青年団の人が、サンダルとおばあさんの着てた服のきれっぱしが浮いてるのを見つけて。それで池をさらったけど、見つかったのは、頭蓋骨の一部だけだったって。骨までここのコイが食い尽くしたんだって、みんなウワサしたんだ」
「もういいよ!」
 最後まで聞いておいて言うのもおかしいが、英介は悲鳴を上げていた。秋にはあそこで釣りをしたのに。そんな恐ろしいモノがいるなんて知っていたら絶対にしなかった。
 英介をのぞきこむように首を傾げていた泰之は、いきなり弾けるように笑い出した。
「素直に信じるなよ、こんな話。ばかだなあ」
 からかわれたのだと気付いて、英介は赤くなった。かなり暗くなってきているから見えないことが救いだった。
「だって、マジメな顔して話すんだもん」
「ジョーズじゃあるまいし、そんなコイがいるわけないよ。もし本当にいるなら、もっと大騒ぎになるだろ、テレビとかで。それに学校でも注意するだろうし」
 言われてみればその通りだ。
 ブラックバス釣りのシーズン中は、他の小学生や、時には高校生くらいの少年たちが釣りをしているのを見かけたものだ。
「だったら、何が出るっていうんだよ」
 あっさり信じて怖がってしまったことが照れくさくて、わざと乱暴に問い掛ける。すると、今度は空を指差した。
「ほら、もう明るい」
 池の後ろの山がぼんやりと光をにじませている。
「月だよ」
「それくらい、判るって」
「今日は満月なんだ」
 英介の問いかけには答えず泰之は再び歩き出す。訳も判らず、あわてて英介も追った。もう土手は目の前だ。
 片手に枝を持ちながら泰之は器用に斜面を登っていく。英介は雪で濡れた地面に足を取られながらも、どうにかついていくと、登りきった泰之が手を差し伸べてくれた。
「ありがと」
 引っ張ってもらって土手の上に出ると、目の前には白い池が広がっていた。
「すげえ、きれい」
 思わず声をあげ、しばらく英介はみとれた。
 薄く氷の張った水面は雪をかぶり、ケーキに振りかけた粉砂糖みたいで、氷の粒が月光を受けてきらきらしている。初めて見る幻想的な光景だった。
 泰之は転がっていた石を拾いあげ、凍りついた池に放り投げる。英介の手にもすっぽり入ってしまいそうなサイズのその石は何の抵抗もなく氷を割り、沈んでいった。
 石の落ちたところだけ、小さく黒い穴ができた。
 英介は手ごろな石を見つけて座る。二人の間は五、六歩分離れたので、少し声を張り上げるようにして話す。
「ところで、満月だから何なんだよ? ここに来ると何かあるわけ?」
「今何時だ?」
 池に背を向けると、英介の問いは聞こえなかったかのように泰之は時間を尋ねた。相手の姿はかろうじて判るものの、もう顔までは見えない。陽はすっかり落ちて、西山の稜線も藍色の夜空に溶けてもう判らない。
「もうすぐ六時」
 去年の誕生日に義父が買ってくれた、宝物のベビーGで時刻を確かめる。
「じきに点火するぞ」
 泰之は眼下に広がる水田を指した。彼方を走る国道の方の明かりで三九郎のシルエットは見て取れた。
 三角錐形のやぐらは各家庭から集めた門松や注連飾りを派手にちりばめてあるが、中身はほとんどわらである。芯棒のてっぺんに差してあるのは大きなダルマだ。
 ぽっとオレンジ色の光が現れ、見る間に五つ六つと増えると三九郎の周りを囲んだ。
「始まった」
 泰之の言葉が合図だったかのように、火が付けられる。一瞬消えたかと見えた火は、三九郎の内側からあっという間に燃え上がった。
 巨大な火柱は夜空に向けて勢いよく炎を上げ、周りに集う人々もはっきりと照らし出した。それまで何も見えなかったところに、柳の枝を手にした小学生たちがいる。
 ひとしきり燃えて、芯棒が倒れた。火の粉が舞い上がり、近くにいた子どもたちが逃げ惑う。
「もう終わり?」
「あとはあの火でこの団子を焼く。それだけだよ」
 泰之の揺らす繭玉がすぐ近くに来た。
 準備にかけた時間のことを思うと、あまりにあっけなくて少しがっかりした。都会から来て初めて経験する行事に、過大な期待を抱いていたのに。
「こんなもんだよ。そんなに期待するほど大したことするわけじゃない」
 英介の落胆を読み取ったかのように泰之は笑った。月が顔をのぞかせたおかげではっきり姿も表情も見える。小さくなった炎を眺め、彼は鼻唄でも歌いだしそうな顔つきだった。
「で、ここでどうするんだよ? あっちは終わったみたいだし」
「こんな月の晩には出てくるんだ。雪ん子が」
「雪ん子?」
 泰之はふざけている様子もなく、手にした枝をぶらぶらと揺らしながら話し続けた。
「昔、母ちゃんやばあちゃんが話してくれた。こういう、人が入れない広い場所は雪ん子が遊ぶ場所だって。雪ん子は見た目は可愛いけど、気まぐれで残酷だから自分たちの居場所に人間がいるのを見つけたら、どこか知らない世界へ連れてって放り出しちゃうんだ」
 そんなおとぎ話、英介は聞いたことがない。けれど三九郎だって横浜にいたときは未知の行事だったのだ。そういう話もあるのかもしれないと思った。
「そんな怖いモノ、わざわざ会いたくないじゃん」
「そりゃ英介は普通の家の子だからさ」
「普通じゃないよ、ウチ再婚だもん。今の父さんはホントの父さんじゃないんだ」
 普通、と言われたのについムキになって思わずそんなことで張り合ってしまった。今まで父親と血のつながりがないことは泰之にも言ってなかったので、彼は意外そうな顔をした。
「そうなのか? でも、仲良いじゃないか。母さんがうるさくていやだっていうのはよく聞くけど」
「うん。どっちかっていうと、ホントの親子じゃないけど父さんの方が好きだ」
「それでも、まだ普通だろ。うちはばあちゃんと二人だし……ばあちゃんて言ってるけど、本当はひいばあちゃんなんだ」
 英介は驚いて目をぱちぱちさせた。自分の祖母と比べるとずいぶん年寄りだとは思っていたけれど。何より、泰之が家のことをこんなに話すのは初めてなので、黙って聞いた。
「俺の父ちゃんは、ケームショにいる。母ちゃんとばあちゃんを殺したんだって。俺、まだ小さかったからよく覚えてないけどな」
「…………」
 どんな言葉をかけていいか、全く見当もつかず、英介は意味もなく足をぶらつかせだした。聞いてはいけないことを聞かされているようで、居心地が悪い。
「気にすんなよ。学校の奴らだって知ってる奴は知ってる。前は浩太もそれでよくいじめてきたけど、相手にしないでいたらそのうちかまってこなくなった……やっぱり気味悪いか?」
 最後の言葉が自分にかけられていると判るまでに、少し時間がかかった。
 気味が悪いとは、思わなかった。
 彼の話が本当のことだとしても、泰之が罪を犯したのではないし、彼の両親は全く知らないし、そんな事件も知らない。だから、『昔、日本でも戦争をしていた』という教科書に書いてある出来事くらいにしか思えないのだ。
 でもそれをうまく言葉にできなくて、ただかぶりを振ってみせるのが精一杯だった。
「無理すんなよ」
 泰之が笑う。大人だったらこれでなんとなく納得してくれるけれど、やはり彼には通用しないらしい。
「それで? 雪ん子がどうつながるんだよ」
 今までより大きく足をぶらつかせて聞く。
こうでもしていないと、居たたまれない気分だった。
「だからさ、俺は雪ん子に見つけてもらいに来たんだ」
「ど、どうして?」
 足を止め、泰之を振り返る。話がすごく飛んだ気がする。
 泰之は呆れたように見つめ返す。
「言っただろ。雪ん子は自分たちを見つけた人間を、どっか見も知らぬ世界へ連れてっちゃうって」
「そんなの、怖いじゃん」
 情けなくも語尾が震えた。
「英介はさ、普通に守ってくれる親がいるから、いろいろ文句も言えるし、戻れないのは怖いと思うんだよ」
 泰之の言葉にはっとした。
「ばあちゃんは優しいけど、もうずいぶん年だから。これ以上迷惑かけたくない。俺がもっと早く大人になれればいいんだけど、中学卒業するまでだってあと五年もあるしな」
 池に向かって歩き出す。泰之の踏む泥の音が静かに響いた。
「俺がいなくなりゃ、その分ばあちゃんはもっと楽になる」
「やっちゃん、そんなの」
 間違ってる、と言いかけてやめた。
 何が正しいのかなんて、英介にも判らない。
 突然泰之が振り返り、人差し指を唇にあてた。耳を澄ますと、ひそひそと囁きあうような音がかすかに聞こえる。
 くしゅくしゅ、とも、こしょこしょ、ともつかない複数の話し声のような……。
 なに、これ? 目で尋ねると泰之も黙ったまま水面を指差した。
雪をかぶった薄氷の上で動くものがある。
 まさか、本当に雪ん子? でも、さっきまでは確かに何もなかったはずなのに。
 じっと目を凝らしていると、小さな人の形をした生き物の群れだった。体長は十センチくらい。踊っているような足取りで、次第にこちらへ近づいてくる。
「お前は土手の下にいろよ」
「で、でも」
 英介は立ちすくみ、泰之と池に現れたモノとを見比べていた。本当は逃げ出したいくらい怖かったけれど、身体が強張って動けないのだ。
「早く! お前まで巻き込む気はないんだ」
 突き飛ばされるような勢いで土手へ押しだされる。持っていた枝を放り出して、慌てて堤のふちに手をかけた。
 その騒ぎのせいで気が付いたのか、池の上の一団がいっせいにこちらを向いた。
 冷たい土を握りしめた英介は、全身に鳥肌が広がるのを感じた。
 丸い顔に三角帽子。泰之の言葉を借りれば『雪ん子』は、子どもの落書きみたいな微笑ましい外見をしている。しかしそれまでは点のようだった目が、振り向き泰之を認めたとたん、真っ赤に変わった。
 ごしょごしょごしょ。
 さっきまでとは違う、怒りを含んだうなり声を上げて、そいつらは泰之に向かってきた。
「やっちゃん……」
「見つからないように逃げろよ。お前が転校してきてから、けっこう楽しかったぜ」
 英介は息を呑んだ。
 池のほとりまで来た雪ん子は、明らかに敵意を持った様子で泰之を睨み上げていた。泰之は強張った顔つきでそれらと向き合っている。
雪ん子は絵本に出てきそうなのんびりした外見なのに、赤く輝くまん丸の眼が忌まわしい感じがした。
 ごしょ!
 先頭にいた雪ん子が一声叫ぶと、それを合図に跳びかかっていった。十、いや二十匹くらいはいたのだろうか。
 鳥のように雪ん子たちが泰之に跳びかかっていくのと同時に辺りに青白くまぶしい光が満ちた。英介は思わず目を閉じる。
「うわあっ」
 泰之の短い悲鳴を聞き、英介はぐっと息を呑んだ。
「…………」
 ほんの二、三秒だったのかもしれないが、英介にはとてつもなく長く感じられた。
 しぃんと静まり返ってから、そぉっと目を開ける。そこには誰もいなかった。目の前にいたはずの泰之も、確かに見た雪ん子も、跡形もなく消え去っている。 
泰之の持っていた柳の枝が落ちて、団子も泥にまみれていた。
「……やっちゃん?」
 囁き声で呼んでみても何の応えもない。満月の明かりに照らされた、凍った池が広がるばかりだ。
 押しよせる静寂に恐怖が蘇り、英介は転がるように土手を駆けおりた。
 叫びださないように口をしっかりとつぐんでいるのが精一杯で、あふれてくる涙は止められず、何度も拭わないといけなかった。
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