夏休みに人魚に出会った。

きさ

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1話

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私はごく普通の女子高生。ごく普通に生きて、なんの才能もなくただ普通に死んでいくものだと思ってた。
明日は夏休み。疲れ果てた私は、ふらふらと帰路についていた。この町は海の近くにある。磯の匂いが鼻につく。
「あ……」
そう、声を上げた。陽の光が反射してキラキラ光る海面に、いつのまにか私は惹かれていた。いつもの曲がり角を素通りして、私は海に向かっていた。なぜか分からない。消えてしまいたいからかもしれない。なにかを変えたかったからかもしれない。
砂浜。足が深く、重く沈む。さっきまで軽やかだった足取りは砂のせいか重くなっていた。
堤防の方へ。ふらりふらりと歩みを進めていく。小さな頃、この堤防に座って海を眺めるのが好きだった。あの頃と同じ行動をすればなにか救われるかもしれないと思っている。馬鹿馬鹿しい。けどその馬鹿馬鹿しい思い出が、私の足を進ませていた。
ついた。堤防の先に腰掛けて、足をぶらりとさせる。潮風が気持ちいい。首元の汗がひいていくように感じる。
そのときだった。ちゃぽんと波が立つ音がした。
「え?」
私の運命が変わったのは、そのとき振り返ったからだった。海面から顔を出した可愛い女の子。首には切れ込みのような模様、下半身は…魚だった。人魚だ。
「あなた…人間?」
美しい声だった。まるで楽器みたいな優しい声。きらきら光る鱗が美しい下半身。透き通るような長い金髪。目の前の光景が信じられなくて、何度も目をこすった。
「そうだよ」
言葉をなんとか絞り出す。目の前の人魚は足ひれをぱたぱたさせて喜んでいるようだ。
「あなた!人間なのね!やっと出会えたわ!」
「そんなに喜ぶことなの?」
「そうよ!私ね、人間と出会って友達になるのが夢だったの」
ピンク色の瞳をキラキラさせてそう語る彼女は、とても可愛らしかった。見た目は私と同い年くらいだけど、言動はなんだか子供っぽい。
「こっちで、もう少し近づいて話そうよ」
人魚は砂浜を指差してそう言った。私はなんの疑いもなく、砂浜へと歩いていった。
人魚の名前はサラ。人魚の国からはるばる、ここまでやってきたらしい。
「私の家族、みんな人間嫌いなのよね。人間が人魚を食べると不老不死になるなんて、都市伝説なのに。私が証明するの!人魚は人間と仲良くできるって」
「そうだといいね」
可も不可もない回答を贈る。私は人(?)と話すのが苦手だと改めて思った。いや人外だけど。
「あなたの名前は?」
「稲葉 夏波。夏波でいいよ」
「そう。夏波!素敵な名前ね。人間っぽくて」
褒めてるのかそうでないのかわからない。とりあえず笑っておいた。そんな私をよそにサラは楽しそうに話している。純粋な子だなぁ。
「夏波、夏波は人魚、好き?」
「え、えぇ?」
突然の質問に困惑する。宝石みたいな瞳がこちらを覗き込む。ずいっと顔を寄せてきたので、思わずそらしてしまった。
「好きでも、嫌いでもないよ。」
「そっか!じゃあ、これから好きになってもらえるんだね!」
なんてポジティブ思考だよ。
「私ね、これからしばらくはこの辺の海にいるから。もし明日も来てくれたら、また会おうね!ここで」
そんな出会いから、私の不思議な夏休みが始まった。

1日目。私は9時に起きた。普段なら間違いなく遅刻だが、夏休みは贅沢に寝坊ができる。自由って最高だ。優雅な朝を過ごし、ヨーグルトを腹に詰め込む。
人魚……えぇと、サラだっけ。サラと約束の時間までまだ時間はありそうだ。
そうだ。いいこと思いついた。
「え!人間の食べ物を持ってきてくれたの?」
サラは聞きたかった台詞を予想通り言ってくれた。
「そう。私料理得意なんだけど、食べる?」
「もちろん!ありがとう」
弁当箱にギチギチに詰めたサンドイッチをサラに見せる。サラの目はまた輝いた。
「ハムサンドにたまごサンド…あとガーデンサラダ」
「素敵な名前!」
ガーデンサラダとはいい呼び方を思いついたな、と我ながら思う。実際は母の家庭菜園からハーブやらレタスやらを拝借して作っただけなのだが。まぁ食べずに腐って肥やしになるよりいいだろう。
サラは膝(?)から下は海に浸かり、砂浜近くの岩に腰掛けてサンドイッチを口にした。こうしている姿を見ているとまさに人魚だと思える。なにかの絵画みたいだ。
「ねえ」
「なぁに?」
「人間に姿見られたらまずいんじゃ?」
「あっほんとだ」
サラは岩から降り、海の中で肩から上だけを出してサンドイッチをほお張っていた。
「美味しい。人間はこんなに美味しいものを食べてるのね」
「そうなのかな?まぁ、喜んでもらえてよかったよ」
それから、サラといろんな話をした。人間の世界の話。そして小さな悩みごとまで。サラにならなんでも話せる気がしてきた。太陽が降り注ぐ砂浜の上、2人で話に熱中していた。
「う、熱中症になりそう」
額が照らされた日光で熱くなっている。熱が出てるみたいだ。サラは不思議そうにこちらを見て、私の頬に手を当てた。柔らかくて、冷たいサラの手が頬に触れた。その感触は……魚みたいな、子どもみたいな、すべすべでちょっとぬるっとした不思議な感じだった。
「熱い」
「そうだね」
顔を見合わせて、くすくす笑った。笑ったのなんて、久しぶりだった。

それから私はサラのところへ通うようになった。午前中に課題をして、お昼ごろ砂浜に向かう。毎日が楽しかった。理解してくれる友達がいてくれたことが、こんなに楽しいことだったなんて。こう思えたのは久々だった。
「夏波。夏波には私以外の友達っているの?」
だからそんな質問も平気なはず。平気だ。
「友達……ねぇ」
顎に手を当てて考える。私は別に孤立はしていない。けど、特に親友と呼べる子はいない。そう言うと、サラは一瞬、ほんの一瞬だけ悲しそうな顔をしていた。でもまた、輝くような笑顔に戻った。
「そっか。じゃあ私が一番の友達かな?」
ふふっと、サラも私も同時に笑った。
「そうかも」
サラと一緒にお昼ご飯のおにぎりをほお張って笑っていた。中身はしゃけと昆布。一応サラに気を遣って、昆布の方をサラに渡しておいた。
「これ、おいしいねぇ。この黒くて細長いのは何?」
「昆布だよ」
「昆布ってあの……海の?」
「そうだよ」
サラはなんでもよく食べる。ここ数日、お昼ご飯を持っていったがサラは好き嫌いもせずなんでも食べた。どうしても本人に聞けなくて、魚料理だけ食べさせたことはないが。
日が暮れる頃には私もそろそろ帰らなければいけない。重い腰を上げたとき、サラが手を引っ張る。
「ね……もう帰るの?」
「え、うん」
「そう……」
しおらしく返事するサラ。でも手は離さない。これがサラができるせめてものワガママだとわかったとき、なんだかサラがとても子供みたいに幼く思えて可愛らしかった。
「サラ」
「ん」
「また明日来るから」
悲しそうな目をしたまま、彼女は微笑んだ。けれど、その笑顔が心のどこかに引っかかって、離れなかった。
次の日。2人で好きなものの話をしていた。
「私ね、人間の世界のものを集めるようにしてるの。ほら、これとか」
サラが持ってきたのはガラス瓶。炭酸飲料が入っていたものだろう。サラの声がややかすれている気がする。ほんの少しなので、わざわざ心配して聞くほどでもないか。
「きらきらして、素敵だと思わない?人間はこんなものも作れるのね」
海に捨てられたただのゴミじゃ……という考えは一旦捨てて彼女の話を聞く。
「私ね、人間に憧れたのはこれがきっかけなの」
サラは手元の瓶に目をやった。
「これが人魚の国に流れ着いてびっくりしたんだ。最初は人間の宝物なのかと思ってた。家族はみんな『人間は恐ろしいから下手に興味をもってはいけない』っていうんだけどね。だんだん人間に会ってみたくなっちゃったの」
「そうだったんだ」
「でも、あなたにあえて良かった!捕まえて私をいきなり食べたりしない人で」
「確かにそうだね。というか人魚なんて食べられないよ」
「そうなの?」
「そうだよ。こうやって話せて、分かり合える人を食べようなんて思わないよ。それに、不老不死だっけ?」
「うん」
サラはこくこくと大げさに首を縦に振る。
「興味ないよ私。私……消えたいからさ」
安堵していたサラの表情がまた曇る。つい、悩みを洩らしてしまったことに気づきハッとした。
「ご、ごめん。重い話して」
「いいよ。話してよ」
「いいの?」
サラはぱったん、ぱったんと尾ひれを揺らしながら話を聞いてくれていた。「なんだか、わからない。けど、消えたい。」という抽象的な話をただただ、頷いて聞いてくれた。
「今もあるの?その気持ち」
「今は……あまり。サラと出会うまで、そんな漠然とした不安というか、悩みでずっともやもやしてたんだ。退屈だったのかもしれない。何かが欠けてたのかもしれない。ただ辛かったんだ」
うんうんと話を聞き続けてくれていたサラが口を開いた。
「私は、人間の生活とか、こうあるべきみたいなのは分からないけど……」
手をもぞもぞさせながら、口をゆっくり開く。
「きっと、良くなるよ。」
「そうだね……」
普段鳴らないスマホがピコンと鳴る。いつもの癖で画面をちらりと見ると、1つの通知が目に止まった。
『夏波!最近元気なさそうだけど大丈夫?』
「どうしたの?」
サラが、また私を覗き込む。私は「あぁ、これ……」とスマホの画面を見せる。
「……ごめん、なんて書いてあるの?」
サラはちょっと申し訳なさそうに、困り顔でこちらを見る。
「あぁそっか。ごめんごめん」
スマホ画面の文を読み上げる。そして、友達から久々に連絡が来たのだと説明する。
「え!良かったじゃん!」
「私、友達から忘れられてると思ったよ」
私はまた、はははと軽く笑った。

今日はサラとの約束は無し。電車に乗り街の方へ行く。かつて友人とよく行ったカフェへ向かう。
「……はぁ」
久々に誘われて嬉しい気持ちと、今更思い出したように呼び出されてもなという疑う気持ちが半々、入り乱れている。昨日サラに謝ると、彼女は尾ひれをばたばたさせて「それくらいいいよ。楽しんできてね!」と満面の笑みで送り出してくれた。だから、それも含めて行かないわけには行かなかった。がやがやとした大通りの近く、待ち合わせ場所の広場に行くと、友人の遠野陽菜が遠くから手を振っていた。ちょうど同時についたようだ。
「夏波!終業式以来だね!」
「久しぶり」
控えめに手を振っておく。陽菜は元気な子で、私とは対象的な太陽みたいな子だ。本当、私と仲良くしてくれているのが不思議なくらい。
「夏波、大丈夫?先生も、みんなも心配してたよ?」
「あはは……もう元気だから」
「確かに!ちょっと顔色が良くなったね!」
私達は軽い足取りでいつものカフェに向かった。
カフェは比較的新しいお店で、パンケーキが有名だった。自分へのご褒美だとか適当に理由をつけてよく通っていたのを思い出す。
「夏波はどうする?パンケーキ食べる?」
「もちろん」
パンケーキが来るまでの間、2人で世間話に花を咲かせる。とはいえ、人魚の友達ができた話はできないから、適当にごまかした。
「よかったよ。終業式の頃には本当に元気なくて心配してたんだよ。かといってむやみに声をかけても辛いだろうし……と思って」
「そんなに心配かけてたんだ。ごめんね」
「よかったよぉ……」
今にも泣き出しそうな勢いで話をする陽菜。私はただ笑って「もう大丈夫だよ」と言い続けた。その後、「ねえねえ今度、プール行こうよ」「図書館で一緒に勉強しよう」「それとも買い物に行く?」と夏休みのプランを乱立されるのには本当に困った。
けど、少し嬉しかった。心配してくれる友達がいることに安堵した。ワクワクする気持ちと安心する気持ちでいっぱいだった。
「とりあえず……予定が整理ついたら連絡するから。」
「わかった!楽しみに待ってるからね?」

次の日には、またサラのところへ足を運んだ。サラは声がかすれていて、少し話しにくそうだった。昨日の話をしようと思ったが、それが気になってつい聞いてしまった。
「サラ、声どうしたの?大丈夫?」
「う、うん。平気」
そうとしか答えなかった。つい気になって追求してしまう。
「ほんとに?病気とかじゃない?」
「大丈夫だって」
「そう……」
「で、お友達と遊んできたのはどうだったの?また教えてよ」
「あぁ、そっか」
何をしてきたのかを事細かに話す。サラは嬉しそうに聞いていた。
「そういえば、人魚って人間にはなれないの?」
「うん、なれないよ。あれはおとぎ話」
「そっか、残念。」
漫画だか小説だかで、陸に上がると人間のようになれる人魚をふと思い出した。やはりあれは都合のいいファンタジーだったみたいだ。
「残念?」
「うん。サラにもパンケーキ食べさせたかった」
「えへへ……」
私の言葉を聞いたサラが、満更でもなさそうにまた手をもぞもぞさせた。ふと、サラの下半身に目をやる。尾ひれの先が少し裂けたりボロボロになっている。私はサラの様子がおかしいことに気づいた。疑いが確信に変わった。
「サラ、ほんとに元気なの?体調悪いんじゃないの?」
「え、そう、かなぁ?」
声が上ずる。嘘がつけない人、いや人魚のようだ。
「おかしいよ。サラのひれ、いままでは綺麗な織物みたいで、鱗もキラキラ輝いてたのに。今はなんだか……違う。艶もないし、顔色も悪いよ」
「あはは……人間の女の子の勘って本当に鋭いんだね」
サラはまた、尾ひれをパタンとさせて話し始めた。夏の暑さも、サラへの心配に比べたらなんともなかった。
「人魚はね……人間を食べないと死んじゃうの。」
その電撃みたいな言葉が体を貫いていった。
「え、どういうこと?人魚は人間を食べるの?」
「そう。何年かに1度、人間を海に引きずり込んで食べるの。魂ごと。そうすることで人魚は長い寿命を保ってきたの。でもね、私は……私は」
今にも泣きそうなサラを抱きとめる。私はそうして、話を聞き続けることしかできなかった。サラの体は心なしか、少し軽く感じた。
「私は人間を食べたくないの……こうして、友達にもなれたんだし……人間を食べなくても本当は生きられるって信じたかった。証明できなかった。でも……やっぱりだめだった」
「サラは、どうするの」
恐る恐る質問をする。聞いてはいけないような気がしたけれど、そう思う前に口は開いていた。サラは泣きそうになりながらも、私に笑顔を見せる。
「どうもしないよ。人間は食べないし、夏波とはずっと友達でいるつもり」
「だめ……サラ、私の腕の1本くらい」
「ありがとう夏波。その言葉だけでも元気がでるよ」
やっぱりサラは、嘘が苦手な人魚だって思った。見え透いた嘘しかつけない人魚なんだって。
「大丈夫。今すぐ死んじゃうわけじゃないよ」
「でも……!」
「平気。私、死ぬ前まで夏波の話を聞いていたいな」
何度も見た、美しい笑顔をまた私に向ける。今までとは違って、その笑顔は私を何度も何度も斬りつけるような、そんな儚く残酷で悲しい笑顔だった。
「夏波はさ、私がもし人間になれたら、どうしたい?」
私の頬を、温かい涙がつうっと流れた。
「一緒に学校に行きたい。遊びに行きたい。私の友達を紹介して、みんな一緒に遊びたい。それから、勉強したり、映画を見に行ったり……」
「えへへ。いっぱいあるね」
私はその夜、眠れなかった。サラが人間を食べれば、生きられる。けれどサラは人間を食べたくはないと言う。人を殺して騙してまで食べさせたほうがいい?そんな狂気的な考えが浮かぶほど、私は焦っていた。けれど、そんな真実を知ったらサラはきっと悲しむに違いない。だけど、サラをこのまま死なせるわけにもいかない。
焦燥感にかられながらも、何もできない自分が悔しい。私には……何気ない話をすることしか、やっぱりできない。
私はノートに、ある計画を書き出した。
「サラ!」
いつもの場所。ぐったりとしたサラをゆっくり抱き起こす。ヒレはぼろぼろになり始めていた。
「その声……夏波なの?」
「そうだよ。見える?」
目もどこか虚ろだ。
「うん、ぼんやりだけど……」
「よかった!」
ひしと抱きしめる。弱々しい冷たい手が背中に回る。冷たいけど温かい。
「わぁ、夏波?どうしたの」
くすくすと笑うサラ。その反応が見れて私は胸をなでおろした。昨日からの不安が少しだけ飛んだような気がした。
「今日のお昼はオムライスだよ」
「オムライス?」
今日は早起きして、かわいいオムライスを作ってきた。にんじんを花の形にしたりケチャップで絵を書くのには苦労したが、サラに喜んでもらうためならこんなことぐらい簡単だ。
「わぁ、かわいい」
サラは震える手でスプーンを手にとって黙々と食べていた。食欲はまだあってよかった……。私も自分の分を一口ずつ食べるが、やっぱりなんとなく、味気ない。
「夏波のご飯は元気になるね」
「ほんとぉ?」
「うん。ねえねえ、私、食べたいものがあるの」
「なに?言ってみて」
サラはかすれ声をごまかすためか、私に耳打ちをした。
「……がいいな」
「了解!豪華なお弁当にしてみせるよ!」
「ほんと!?」
あの時みたいに、目を宝石みたいに輝かせている。けど、前のような輝きはもうない。どこか疲れている目をしていた。私は見てみぬふりをしていた。
「今日は涼しいね」
ぽつりとサラはそんなことを言った。
「そうだね……」
2人で遠くをぼうっと眺めた。こんなことをするの初めてだ。なんだか、夏休み初日のようだ。あの頃の私は疲れ果てて、海を眺めるだけだった。今はサラが疲弊して、私は元気になっていた。
なんだか悲しくて、彼女をちらっと見ると。目があった。
「えへへ」
また彼女は力なく笑った。

私がノートに書き溜めた計画。それを実行するときが来た。サラが食べたいといったもの、それにアイスティーとあのときのガーデンサラダも作っていこう。あとはデザート、爽やかなレモンケーキにしよう。
私は久々に母と話した気がした。あまり最近はしっかり会話したことがなかったから。母には「友人がレモンケーキを食べてみたいと言っている」と言い、手伝ってもらった。母の作るお菓子は小さな頃から大好きだった。最近は忘れていたけれど。
少し大きめのランチバッグに詰めて、プラスチックの水筒には冷たいアイスティー。それに予備の保冷剤を何個かいれて、家を出た。母は笑顔で送り出してくれた。
いつもの場所に、サラはいなかった。サラのいない砂浜はこんなに寂しいものだっただろうか。もう、前の感覚は思い出せない。
いつもの場所に立ってサラを呼ぶと、彼女はほふく前進のように海から上がってきた。
「夏波」
声はガサガサで、あのときの美しい声はもうなかった。私の腕の中にサラは倒れ込んだ。
「サラ。サラ!目を開けて」
「うん。大丈夫よ……」
サラはどこか遠くを見つめているようだった。サラを抱きかかえたまま、私は話していた。
「サラの好物作ってきたよ。あのときのサンドイッチ。中身も同じ。それにね、レモンケーキも作ってきたんだ。前に話してたでしょ。一緒に食べよう」
「そうね……」
力なくぐったりとするサラを支えながら、弁当箱を開ける。サンドイッチを手で食べさせる。
「口開けて……そう、あーん」
「美味しいね」
弱々しい、今にも消えてしまいそうな儚い笑顔。ぼろぼろの尾ひれ、鱗が剥がれつつある下半身。その姿は痛々しくて、目も当てられない。けど、目をそらしちゃいけない。
「夏波。夏波の話、楽しかったよ」
「サラ!まって、そんな急に……」
「言っておかなくちゃって思ったんだ……ありがとうも」
「やだ、そんな……そんな」
サラのまぶたが重く閉じていく。時間なんて止まってしまえばいいのに。私は生まれて初めてそう思った。
「大丈夫。私もついてるよ。それに、私が保証するよ。きっと良くなる……って」
サラは、私の方へ手を伸ばす。私はサラの手を潰れそうなほど強く握りしめる。
「サラ!サラ……!」
「ありがとう、夏波。あなたは私の親友だよ」
サラは、また儚い笑顔を私に向けた。

人魚が人間の魂を抜くという伝説は真実だ。今ならそう信じられる。私は、魂が抜けたかのように呆然としていたから。馬鹿みたいに口を開けて、声が出なくて。サラをただ抱きしめることしかできなくて。
それから私は、海に入った。サラをお姫様抱っこして、1歩ずつ海に入る。冷たくて心地良い。サラはきっとこの海の中で自由に生きてたんだと思うと、ちょっとだけ羨ましく思った。
そして、サラの体から手を離す。サラは海の中に漂い、キラキラと輝く泡になって消えていった。笑顔が美しかったサラは、最期も本当に美しかった。
私はまた泣いていた。真珠みたいな粒の涙が溢れて止まらなかった。
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