♾ ループ 〜僕はあの温もりを〜

野風

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シンイチと母

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 「カーン・カーン・カーン……」
 朝の空気を切り裂く鐘の音が響き男の子は目を覚ます。まどろむ視界が少しずつ像を結び出すと木目の浮いた天井に吊るされる裸電球が見えた。周囲に視線を振ると部屋には窓が無く、障子に開いた小さな穴からもれる光の筋が、何かを掴もうとして無意識に伸ばしていた自分の手を不思議なくらい白々と浮かびあがらせている。それを見てシンイチは呟く。あーあ、またオオクワガタを捕りそこねちゃった、と。
 そのまま薄く目を閉じていると、部屋の重い空気を揺らすように振り子時計が刻を刻む「コッチン、コッチン」という心音が聞こえてきた。
「そうだ、ばあちゃん家に来ていたんだ。メガネタヌキの時計か!」
 その音を聞いてようやく目がさめてきた。
 この振り子が刻むコチコチという音を聞いた時にシンイチは、音楽の先生がいつも授業のときにピアノの上に置く「メトロノーム」という道具を思い出した。時計から発せられるコチコチという音がプラスティックを折るみたいなメトロノームのあの音に脳内変換され、どうにも気になって『これじゃ眠れない』と思っていたはずなのに、いつのまにか眠っていたようだ。
 シンイチはその音を聞きながらあることを思い出し声を立てずに笑った。それにしてもメガネタヌキと名づけたケンイチ君はスゴイと思う。本当に音楽の千葉先生って怒ったときタヌキがメガネをかけたような顔をするんだから。
「あはははっ」今度は思わず笑い声をもらす。
 あっ、そうだ、お母さんが……。シンイチは慌てて両手で口を押さえる。寝ているお母さんを起こしてはいけない。
 おばあちゃんの家に来てからのお母さんはいつもより少し優しい、とシンイチは思った。それは一昨日の昼、カレーに入っていたニンジンを残しても怒られなかったことや、昨晩、ふざけて障子に穴を開けてしまったのに怒らなかったことが何よりの証だ。シンイチは、ぜったいに叱られると思ったのに何故か優しかった。
 シンイチは不満げに昨日の夜のことを思い出した。
 あれは僕より二つ年上の四年生のコウちゃんが悪いと思う。だって、「指をなめて障子の紙を押してごらん。いいことがあるぜっ」っていうから、その通りにやったら穴があいちゃって、「中を覗いてみろよ。いいもんがみえるぜっ」っていうから覗いてみたら、お母さんが着替えをしていただけだった。別に何にもいいことなんてなかった。コウちゃんもその穴から中を覗こうとしたから、「やめなよっ」っていったら、お母さんにみつかった。だけどお母さんは、コウちゃんに言われてやったといわなくても、怒らなかった。それどころか、少し困った顔をして、ぼくのことをぎゅうっと抱きしめた。だからぼくは寝る前に決めた。明日の朝は、お母さんをゆっくり寝かせてあげるって。
 シンイチはそっとふとんから起き上がり横を向いてみた。しかし、布団はない。隣の布団で寝ているはずの母親はいなかった。
 確かにこのメトロノームじゃ眠れないもんな、ぼくが寝てからどこか違う部屋にいったのかもしれないし、ゆっくり寝かせてあげなくちゃいけないな。シンイチはそう思い障子を開けそっと縁側から庭に出た。あのクヌギの木に行こう。そのまま祖母の敷地から出る。
 しかし、家から少し歩いたときに、虫捕り網を持ってこなかったことに気がつき、走って引き返す。さっき網がなくて悔しい思いをした夢をみたばかりだ。戻ってみると、さっきまでは誰もいなかったはずの庭の古い梅の木の前に祖母が立っている。シンイチは人差し指で鼻の下を左右に二度三度こすり、声を出さずにニッとして見せる。この鼻をこする仕草はこの家に住む親戚のコウスケがいつもする仕草で、シンイチはそれを何故だか格好よく思っていた。そして虫取り網を探すために辺りを見回していると、祖母は何も言わず縁台に立てかけてあった網を取り、こちらに差し出した。
 なぜか寂しそうな顔をしている――
「あそこにいくのかい」
「えっ、あそこって」 
「あの木だよ。あそこに長居しちゃぁいけないよ。魂を吸い取られちゃうんだ」
 祖母はシンイチがこれからどこにいくのかしっているのだろうか。これから行こうとしているあのクヌギの木のことは、誰にも話していない。
「大丈夫だよ、ぼくはクワガタをとりに行くだけだから」
 そういっても祖母はまだ寂しそうな顔をしているので網を奪い取るように受け取り走って庭を出た。
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